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 2023年7月22日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「大久保利通「冷酷なリアリスト像」を覆す
 『大久保利通「知」を結ぶ指導者』(瀧井一博、新潮選書)
 大久保利通は、西郷隆盛木戸孝允桂小五郎)と並び、明治維新に多大な功績のあった「維新の三傑」の一人である。
 ただし、リアリズムに徹した冷酷な独裁者と目され、一般的評価はいま一つだった。
 『大久保利通「知」を結ぶ指導者』(瀧井一博、新潮選書)は、大久保の足跡の詳細な検証から、そのような定説を覆し、帯文によれば「大久保論の決定版」と高い評価を受けた注目の一冊だ(第76回毎日出版文化賞受賞)。
 「執筆の直接の契機というのは何でしょう?」
 「この前に、立憲制度や議会制を樹立した“知の政治家”として伊藤博文の本を書きましてね。その時、伊藤が誰の影響を受けたか調べたら、同じ長州の木戸は当然ですが、それ以上に薩摩の大久保だろう、と。伊藤が薫陶を受け、思想的・政策的に最大の影響を受けたのは大久保利通。伊藤は大久保イズムを継承した。そう確信したので、次は大久保に焦点を当ててみようと考えました」
 大久保は1830(文政13)年、薩摩の下級藩士の家に生まれた。3歳年上の西郷とは近所同士で育ち、竹馬の友であった。
 弾力的に運用された身分制度
 そんな大久保が、藩主後見役・島津久光の大抜擢で藩政の表舞台に登場したのは1861(文久元)年、31歳の時だった。
 「薩摩藩には誠忠組なる政治結社があり、そこでは会読(共同読書会)というかたちで談論風発の議論がなされていました。その中核が西郷と大久保ですね。久光ら藩の上層部に何度も建言していたので彼らは抜擢された?」
 「徳川時代は、血縁よりも家の存続。そのため養子縁組や御家人株の売買などあり、身分制はかなり弾力的に運用されました。薩摩藩ではそうした才能重視の流れが高まり、幕末に閾値を超えたのです。もちろん、大久保本人が、特別に才気煥発だったのですが」
 もっとも大久保自身は、当初は急進的な尊皇攘夷派だった。血気にはやる大久保たち若者をなだめたのが、行動の前提として「名分」と「理(道理)」を説く久光だった。瀧井さんは、「久光が“理の種”を蒔いた」と記す。
 その後の大久保は久光の手足となり、京都や江戸における藩の政治工作に東奔西走する。第2次長州征討などを巡り最後の将軍になった徳川慶喜と鋭く対立しながら、幕末の王政復古クーデターにも深く関わった。
 東京遷都の狙い
 1868(慶応4、明治元)年の区切りの年には、明治改元に先立って東京遷都に大きな役割を果たす。
 「東京遷都は、狭い京都より広い東京の方が新国家の首都に相応しいから、と単純に思っていましたが、本書によると、大久保は東京遷都によって旧式の朝廷から天皇を切り離し、新しい天皇像を創出しようとした?」
 「そうです。狙いはそちらの方が大きい可能性もある。多くの公家や女官らに囲まれた京都の朝廷は祭祀中心の天皇制で因循姑息。そのしがらみを一掃し、新しい天皇像への脱皮の道を拓くには首都移転が一番でした」
 幕末に諸藩に宣布された王政復古の大号令では、(今後)「神武創業の始まりに基づき」公議に則って政治を行う、と謳われた。
 瀧井さんによれば、神武創業云々は古代への復古ではなく、創造的破壊に基づく新しい国家、新しい天皇、新しい国民をそれぞれゼロから創り出す決意表明だったという。
 「一国万民の新しい国の天皇は、玉簾(たますだれ)の奥に隠れるのではなく、西洋の君主と同様、表に出て国民と共に歩んでもらう必要があったのです」
 明治維新は「共和制」革命
 瀧井さんは、明治維新を「共和制」革命と見る。独立国家、立憲国家、国民国家を生んだ革命であり、その土台を築いたのが大久保だ、と。確かに1871(明治4)年の廃藩置県封建制国家と訣別する一大改革であり、同年の岩倉具視、大久後、木戸ら新政府首脳がこぞって長期の欧米視察に加わった岩倉使節団は、世界にも例を見ない実験的試みだった。
 「大久保は新政府発足早々の対外戦争も防止していますね。征韓論政争では対朝鮮の戦争、台湾出兵では対清国との戦争を防止した?」
 1873(明治6)年、使節団不在の時、西郷ら留守政府は朝鮮の排日的鎖国主義を理由に征韓論を主張。だが、大久保や岩倉ら帰国した使節団派は対策を講じて挫折させた。
 翌年、台湾漂着の琉球人らを現地人が殺害し日本軍が出兵・討伐する事件が発生。事後処理のため大久保は全権大使として清国へ。粘りの交渉で開戦を防ぎ、しかも日本軍の行為を「義挙」と認めさせ報償金まで得たのだ。
 「大久保は岩倉使節団でイギリス文明に打ちのめされ、プロシアビスマルクとの会談で息を吹き返し武断派のドイツ主義者になった、とよく言われますが、それは違いますね。むしろ、国際社会で生きて行くには武力よりも宥和力、敵とも妥協し可能なら味方にすべきだ、と学んだと思います。台湾出兵での北京談判は、そんな国際協調外交の具体例と言えます」
 しかし、大久保の冷酷・独裁の評判を決定付けたのは恩義ある人々への仮借ない処断だった。急激な開明路線に反対し続けた鹿児島の久光を切り捨て、かつての盟友江藤新平や西郷が決起した時には、容赦なく鎮圧した。
 「佐賀の乱の江藤が処刑された時は”醜体“と嘲笑し、西郷が西南戦争で絶命した時は、”西郷の首のみ見当たらず。探索中なり“ときわめて事務的に記述をしていますが?」
 「江藤に従った10代の少年らは潔く散った。それに比べ指導者の江藤は一人で逃げ、捕縛後も弁明にこれ務めた。それを“醜体”、見苦しいと言っています。大久保は“理”によって政治を行う指導者の論理やモラルには、自他を問わず厳しく、それが彼の真骨頂でした」
 幕末に大久保が倒幕を決意したのも、攘夷で決起した天狗党の乱の参加者への幕府側の余りに非人間的な処遇と厳罰だった。「理」を重んじない幕府を「もはや為政者として不適格」と断定したのだ。
 「西郷には、最後まで信頼を失わなかったと思います。でも不平士族に突き上げられ、担ぎ出されて、あの西郷でさえ抑えきれずに暴発した。感情を交えず西郷のことを記述したのは、おそらくその無念さのせいでしょう」
 ネルソン・マンデラ“羊飼いとしての指導者”
 そして大久保は、自身の殖産興業政策の集大成とも言える内国勧業博覧会を上野公園で開催した次の年、1878(明治11)年5月に不平士族らによって暗殺された。享年47。
 「大久保は志半ばで没した?」
 「暗殺当日の朝、明治の最初の10年は創業期、重要なのは次の10年、と大久保は語っています」
 大日本帝国憲法の発布は、没後11年の1889(明治22)年2月のことだ。
 「彼のリーダーシップを瀧井さんは、南ア共和国のネルソン・マンデラの“羊飼いとしての指導者”になぞらえてますね。羊飼いは羊の群れの後ろにいるけど、全体の動きを制御する?」
 「で、必要とあれば先頭に立つ。内務省の創設がそうですが、独裁でも丸投げでもない。日本全国から優れた人材を集め、多様な意見を出させ、それを大久保というフィルターにかけて抽出し、勧業や内治の政策に反映させた。大久保はそういうタイプのリーダーでした」
 本書を読むと、大久保だけでなく、明治維新に対する見方自体も以前とは大きく変わってくる。
 足立倫行
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