🎺07:─2─農耕民族日本人はインテリジェンスを重視していた。~No.39 

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 日本民族にとって海の外の外国とは、何時、侵略してくるか分からない油断できない敵であった。
 徳川幕府は、日本の平和の為に仮想敵国の情報を積極的に集めていた。
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 2023年5月21日 Wedge ONLINE「農耕民族の日本人にインテリジェンスは不向きなのか
 小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
 現在の日本政府のインテリジェンスは、諸外国と比較するとそれほど本格的なものとは映らない。そのためインテリジェンスの機能強化が叫ばれて久しいが、これに対する反対意見として必ず挙げられるのは「日本人は農耕民族なので、インテリジェンスのような世界は不向きだ」というものだ。
 開成学校で外国語を学び、西南戦争の時には山県有朋の伝令役を務めた福島安正(EVERETT COLLECTION/AFLO)
 しかし近代における日本のインテリジェンス史を紐解けば、これが必ずしも的を射た意見とはいえない。日本人は古くから海外に関する情報を収集し、それを基に対外政策を検討してきたのである。
 広範な情報網を有した
 江戸幕府
 江戸時代の対外政策といえば鎖国がよく知られているが、これは主にキリスト教の布教禁止と日本人の海外渡航を禁止する目的であり、外国とのつながりを完全に断つような政策ではなかった。むしろ幕府は積極的に海外情勢に関する情報を収集していたともいえる。
 幕末維新史が専門の岩下哲典・東洋大学教授の研究によると、江戸幕府は長崎からはオランダ、蝦夷からはロシア、琉球対馬からは朝鮮、中国につながる情報ネットワークを有しており、それは当時としては相当広範なものであったという。
 例えば19世紀初頭にナポレオンが欧州を席巻した情報については、1811年に幕府が捕らえたロシアの軍人、ゴロヴニンらから伝えられたとされる。幕府は情報の裏を取るべく、長崎のオランダ商館に確認を取っているが、本国がナポレオンに併合されたオランダ商館長は黙秘したという。しかしその後、思想家の頼山陽はナポレオンのことを知ると感銘を受け、「仏郎王歌」という詩まで詠んでおり、当時の日本でもナポレオンのことが広まったという。
 さらにその後、幕府は長崎のオランダ商館を通じて、アヘン戦争で清国が英国に敗北した情報を得ることになるが、これは日本の安全保障に関わる問題でもあり、幕府は英国に対する警戒感を高めた。その後の53年のペリー来訪についても、幕府にとっては寝耳に水の出来事ではなく、約1年前からペリーが蒸気船を率いて、通商交渉のために日本にやってくることを察知していたのである。この情報源も長崎のオランダ商館からであった。
 実際にペリーらが日本に上陸すると、その随員たちは完璧なオランダ語を操る幕府の通訳や、日本人が当時計画中であったパナマ運河の建設について質問してきたことに驚いたという。他方、ペリーの来訪に脅威を感じた幕府は、東京湾に6基の台場(砲台)を築き、江戸の防備を固めたのである。
 幕府からすれば、ナポレオンの欧州制覇については「遠い世界の出来事」であり、それは知識として知っておけばよいことであった。しかし、西欧列強の勢力が徐々に東アジアに伸張してくるにつれ、諸外国の情報は日本の安全保障と直結するようになり、何らかの対応策が迫られるようになっていく。
 特に問題となったのは、61年のロシア軍艦「ポサドニック」号による対馬進出であった。当時の対馬は北から南進してくるロシア勢力と、南から北進してくる英国勢力とのちょうど中間点であり、事は幕府だけの問題ではなかった。幕府は外交奉行であった小栗忠順による外交交渉を試みたが、頓挫してしまい、最終的には英国の介入によってロシアを退去させることになる。既に英露は、クリミア半島アフガニスタンで激突しており、極東においても対馬をめぐって対立したことになる。
 こうして日本は西欧列強間の対立に巻き込まれていくことになり、安全保障の面からも海外情報の重要性が認識されたのである。
 中国大陸における
 情報収集の嚆矢
 明治時代の元勲たちは、このような西欧列強の対外脅威や、国内における戊辰戦争といった動乱の経験から、情報の重要性をよく認識していた。そのため明治政府は対外情報の収集に余念がなかった。
 71年に日本陸海軍が設置されると、日本陸軍は英国帰りの福原和勝・陸軍大佐を在清公使館付陸軍武官に任命して、中国大陸における情報収集活動に着手した。その後、83年には開成学校(後の東京大学)出身の福島安正・陸軍大尉が清国に派遣されている。
 福島は英・仏・独・中国語に堪能であったため、その後、ベルリンにも派遣されており、ベルリンからウラジオストクまで、1万4000㌔メートルを488日かけて単騎横断し、シベリア鉄道の建設状況について調べ上げたことでもよく知られている。
 さらに86年には荒尾精・陸軍大尉が中国に赴任する。この時、荒尾を援助したのが、上海で薬を扱う楽善堂を運営していた実業家の岸田吟香であった。情報収集の必要性を感じていた岸田は、楽善堂の漢口支店を荒尾に任せ、そこを情報収集の拠点として、活動が始まった。支店は北京、重慶、長沙に拡大し、それぞれの支店では日本人が現地中国人に扮して情報活動を進めたのである。
 こうして荒尾は帰国すると、2万6000字もの現地報告書を参謀本部に提出している。福島や荒尾の活動は、中国大陸における日本陸軍の情報活動の嚆矢となり、その後も荒尾は上海に日清貿易研究所(後の東亜同文書院)を設置して、情報活動を継続した。
 外交史に詳しい関誠・帝塚山大学准教授の研究によると、日本陸軍は90年頃までに清国内に6~7カ所の公館を設置し、常時15~16人の情報将校を配置して、清国の軍事力に関する膨大な情報を収集していた。海軍も4~6人の情報将校を張り付けることで、清国の海軍力について調査を行っていたという。
 84年以降、清国は海軍力の増強に努めており、日本海軍との総トン数は数倍以上もの開きがあった。清国から見れば日本はまだ小国であったこともあり、清国側は情報保全については脇も甘かった。清の北洋艦隊は日本を訪問すると艦の内部を公開するほどで、日本側はこのような機会を見逃さず、情報収集に努めたのである。そして日本海軍は、清国に追いつき追い越すべく軍拡に注力し、日清戦争開戦時にはほぼ互角の海軍力を整備することになった。
 そうなると大国と見られていた清国も、倒せない相手ではなくなるため、清国との戦争に躊躇していた伊藤博文山県有朋ら政府の有力者も日清開戦を受け入れることになるのである。
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