🎵09:─1─旧幕臣は海軍士官として日清・日露戦争で日本の勝利に貢献した。~No.18No.19 

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 小国日本は、江戸時代後期から続くロシアの日本軍事侵略に対す積極的自衛戦争に勝利する為に軍国主義に暴走した。
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 2023年10月22日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「短命ながら後世の日本に絶大な影響を与えた幕府海軍、誕生と内戦投入、解体を丹念に―金澤 裕之『幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで』磯田 道史による書評
 『幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで』(中央公論新社
 ◆誕生と転換、内戦、解体を丹念に
 幕府海軍は短命だった。存在したのは十三年ほど。旧幕府艦隊として箱館方面に脱走した期間を入れても十五年ほどだ。ところが、この短命組織が、その後の日本に与えた影響は絶大だ。一例をあげれば、坂本龍馬坂本龍馬になったのも、幕府海軍の「伝習」教育のせいである。明治海軍といえば薩摩だが、実態は違う。明治五(一八七二)年の『官員全書』で海軍省欄の記載者をみると、旧幕臣が約30%、薩摩が約15%、長州と佐賀が約6%ずつ。教育部門(海軍兵学寮)では半分が旧幕臣だった。日清・日露戦争の海軍士官は旧幕臣から海軍を教わってのち、実戦投入されたのが実際だ。明治は明治が作ったものではない。江戸が作った。
 著者は現役海上自衛官でもある。海軍の定義や機能から入り、古代~十八世紀の列島の「海上軍事」をまず論じる。幕府海軍前史で太平の世に幕府船手が「水上警察化」し能力が落ちたとする。本書は紹介しないが、『通航一覧』付録という史料がある。江戸後期の学者は幕府軍艦史をこうみていた。「東照宮(家康)が三河国の時、甲斐信濃の外は領国はみな海岸の地だったので、軍艦等の御備えがあったのは確実だ。関東に移り…江戸深川の御船蔵は御入国の初めより置かれただろう」。しかし、幕府は軍縮をした。「綱吉様の御代、安宅丸(将軍の巨大御座船)を解体されてから自余の船も年につれ朽ち損じ、大坂にある船もそうだった。新井白石が建言してはじめて船を修繕されたよし」
 本書は幕府海軍の誕生と転換、内戦への投入と解体を丹念に追う。ペリー来航以後、海軍保有論が高まった。海軍を平時は商船に使う商船艦隊論が勝海舟伊勢商人・竹川竹斎から生まれたという。そして、オランダが幕府に、海軍創設をすすめ「海軍伝習所」での教育を援助。この伝習所の教えから海舟、龍馬など人材が出た。最初は教育機関だったが、幕府海軍は次第に実働組織化する。咸臨丸で米国に派遣されたが、この時の海舟は不満が激しい。船中、下痢もした。当時の日記(「掌記二」)は東京都大田区勝海舟記念館に現存するが、「率直な心情が綴られているがゆえに、これまで公開されることなく……」と、著者は書く。
 勝は軍艦奉行になると、中古の商船を11隻も買って海軍を大きくした。一八六六年の長州戦争で実戦投入され、軍艦を使った上陸作戦があったが、この近代初の陸海の統合作戦に指揮の統合はなかった。また当時は艦と艦の間の通信が未発達でバラバラ。「艦隊」ではなく、独立的な「軍艦の集団」と、著者はみる。
 事後なら何でも言える、と歴史的検証を戒める人がいるが、それは間違いだ。事後に検証できないなら、法廷も裁判官もいらない。中曽根康弘のように「歴史家は歴史法廷の裁判官。政治家は被告」とまでは言わぬが、神に近い視点と当事者視点の二つの検証が要る。本書でも純軍事的に動けない榎本武揚の苦しい姿が描かれている。人間は情報・能力・思想・制度に制約される。政治家や軍人の意思決定は特にそうだ。何が、なぜ、できなかったのか。それを検証すると次の失敗が防げる。
 [書き手] 磯田 道史
 歴史学者
 1970(昭和45)年岡山市生れ。国際日本文化研究センター准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。
 [書籍情報]『幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで』
著者:金澤 裕之 / 出版社:中央公論新社 / 発売日:2023年04月20日 / ISBN:4121027507
 毎日新聞 2023年6月17日掲載
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