🎷30:─1─何故、現代日本で対日占領方針である憲法の改正ができないのか。~No.122No.123No.124No.125 ㉙ 

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 日本と欧米と中華(中国・朝鮮)は、三者三様で全く別物である。
 哲学や思想は三者に存在するが、欧米にはイデオロギーユートピアがあるが、日本にはユートピアはあってもイデオロギーはなく、中華にはイデオロギーユートピアもない。
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 2020年12月号 Voice「戦後日本の宿題シリーズ⑧
 〔憲法改正〕日本は本当に『法治国家』なのか
 宮家邦彦
 過去七回にわたり戦後日本の宿題について書いてきた。最終回となる今回は、ご推察のとおり、憲法改正問題である。そうはいっても、筆者の関心は特定の憲法条文の具体的改正内容ではない。1955年の保守合同以来、これほど多くの学者や政治家が議論し、提案し、必要議席まで確保しながら、75年間日本では一度も憲法改正が行われなかった。今回筆者が論じたいのは、まさにその理由なのだ。
 憲法改正は世界各国で頻繁に行われている。国立国会図書館の調査によれば、第2次大戦終了後から2016年12月までの七十余年間で、米国は六回、カナダが19回、フランスは27回、ドイツが60回、イタリアは15回、豪州が5回、中国と韓国は9回、それぞれ憲法改正を行っている。主要国のなかで同期間に一度も改正されなかったのは恐らく日本の『平和』憲法だけだろう。これって、ちょっと異常ではないだろうか。
 なぜ主要国は憲法改正を繰り返すのか。理由は簡単。内外諸情勢の変化に伴い、国民の価値判断は変化する。変化に即して法制度を変えなければ、国民は法を遵守せず、法律に基づく社会は維持できなくなる。これが民主的『法治国家』の基本的発想である。されば、75年間も憲法改正を躊躇し続けた日本人には、欧米はもちろん、中韓とも異なる、別の『発想』があるとしか筆者には思えないのだ。
【『法治主義』と『法の支配』は異なる概念】
 一般に『法治主義』とは、統治者個人の善性や徳治主義など『人治』を排除し、あくまで法律の強制力により国民を統治しようとする政治思想だ。この法治主義に基づき、すべての判断・決定を、国家が定めた法律に基づいて行うのが狭儀(きょうぎ)の『法治国家』である。その意味では、中華人民共和国も一種の『法治国家』かもしれない。すべては中国共産党の指導の下でつくられる法律に基づく統治なのだから。
 他方、中国には『法の支配』など存在しない。『法の支配』とは、被統治者だけでなく、統治する側であっても、人智を超える高次の法規範により拘束されると考える制度だからだ。この点については、13世紀イングランドのローマ法学者ヘンリー・ブラクトンの『国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王をつくるのである』と延べた法諺(ほうげん)があまりにも有名だろう。
 先に述べた『人智を超える高次の法規範』とは英米法的な『自然法』を指す。その意味で『法の支配』は、欧州大陸的な『法治国家』の概念と厳格に区別されるべきだろう。ちなみに、最近中国では特定の統治者に政治権力が過度に集中しており、『法治国家』どころか、『人治国家』に成り下がっているといえそうだ。
【『神との契約』の有無】
 話が難解になってしまった。日本人の法に関する発想を説明するためなので、いましばらくお付き合い願いたい。さて、以上のとおり、世の中に大きく分けて、英米法的な『自然法』に基づく『法の支配』的発想と、中国的な『人治主義』『法治主義』的発想があるとしよう。そもそも、こうした違いが生まれた理由は何だろうか。最大の理由は『一神教的世界観』の有無だと筆者は考える。どういう意味か。
 一神教の世界では『全知全能の絶対神』と『不完全な被造物である人間』が契約を交わす。つまり、その契約内容は人間にとって人智を超えた絶対的な『神の法』である。これに対し、中国のような『神との契約が存在しない』世界では、『法が王をつくる』のではなく、『王が法をつくる』のだ。されば、すべての法は、人間と人間の政治的力関係に依存する相対的可変的『ルール』にすぎなくなる。
【日本に真の『法の支配』はあるのか】
 そろそろ結論を急ごう。日本における法の発想は、欧米とも中国とも異なるようだ。欧米の如き『一神教的世界観』はないが、中国の如く『何でもあり』でもない。成文法規範がなくても、多数の国民はその時々に必要なルールを、誰に強制されるのでもなく、粛々と遵守する。もちろん、例外はあろう。しかし、東日本大震災や新型コロナ禍における日本人の団体行動はこうした仮説を証明するように思える。
 日本には『法の支配』でも『人治主義』でもない、不思議な世界がある。強(し)いて言えば、『建前法と本音解釈』の世界とでも呼ぶべき、絶妙なバランスが保たれる場所。そこでは『建前』を『現実』に合わせる必要はない。両者は違って良い、それどころか、違って当たり前。建前の公式世界が変わらなくとも、本音の現実世界での変化に応じ、人びとは黙々と全体の利益を最大化できるからだ。逆に言えば、こんな芸当が苦もなくできるのなら、『清く正しく美しい』憲法をあえて改正する必要はない。憲法の条文はそのままでも、多くの人びとは『いま守るべきルール』が変わることを知っているからだ。これが『法治国家』『法の支配』だろうか。もちろん答えは否だが、多くの日本人にとってこれで十分バランスがとれている。これこそ筆者が憲法改正は悲観的と言わざるをえない理由なのである。
 ……」
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 現代の日本人は、昔の日本人とは違う日本人であり、歴史力がない。
 現代の日本に、昔ながらの下級武士・貧しい庶民(百姓や町人)・芸能の民・異能の民・異形の民・賤民(非人・穢多)・部落民(山の民・海の民・川の民)などの下層民が生きていれば心配はいらない。
 右系・右翼・右派・ネットウハは彼らではないし、左系・左翼・左派・ネットサハも彼らとは違う。
 吉田松陰が叫び続けた「草莽崛起」の草莽の臣(天皇の赤心)である。
 草莽とは低学歴出身の日本人の事で、高学歴出身知的エリートのリベラル派・革新派そして一部の保守派とは全然違う人間である。
 日本に草莽の人々がいたのは、1980年代頃までで、中産階級中流階級・中間階級と言われていた。
 「自分こそは草莽の志士」と自称する1980年代以降の日本人の大半はくだらない偽物で、本当の純真な草莽ではない。
 幕末から明治維新・明治時代まで活躍した、島津斉彬阿部正弘井伊直弼坂本龍馬高杉晋作大久保利通西郷隆盛小栗上野介勝海舟渋沢栄一岩崎弥太郎東郷平八郎乃木希典福沢諭吉や津田梅子など志し高く行動した偉人達を尊敬すると口にする現代日本人、政治家、官僚、経営者・企業家、学者、メディア関係者などは、所詮、上辺だけの理解者にすぎない。
 反天皇反日的日本人は、彼ら全てを極悪非道な犯罪者として切り捨てている。
 日本から草莽の志士を消滅させているのが、現代の捏造・改竄・歪曲された偽の歴史教育である。
 その証拠が、昭和天皇や皇族を惨殺しようとした日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストの犯行と中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷売買が、歴史から掻き消されている。
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