🎷44:─1─戦後民主主義世代の挫折が歪な不寛容論と武士道神話を生みだした。~No.178No.179No.180No.181 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1980年代を境に、現代の日本人と昔の日本人とは別人のような日本人である。
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 日本民族は、寛容の押し売りが嫌いで、寛容の堪忍袋は小さい為に堪忍袋の緒が切れやすい。
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 現代日本人は、昔の日本人と比べて、時代と共に、時間と共に、救い難いほどに醜悪でくだらない人間に転落しつつある。
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 現代の日本人には、民族特有の歴史力・伝統力・文化力そして宗教力さえない。
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 見捨てられて挫折した日本人は、そのルサンチマンを癒やす為に、他者を拒絶する不寛容となり、相手に自分と同じ事をするように同調圧力を加え、他者に承認と許しを求める。
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 2021年5月号 WiLL「事件の現場から  門田隆将 
 『寛容』が消えた日本はどこにいくのか
 東北新社に勤める菅義偉首相の長男・正剛氏との会合の告発から始まった総務省接待問題。『利害関係者』から金銭・物品の贈与や接待を受けることを禁じた『国家公務員倫理規定』に違犯しているとして、次々と総務官僚たちが〝血祭り〟に上げられた。
 ……
 自分たちを対象から外して報じるマスコミの卑劣さは相変わらずだが、この騒動のもう一つの主役はSNSである。たとえば、山田真貴子内閣報道官が辞職に至ったSNSのツイートはあまりに酷かった。
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 〈辞めろ、クズ女!#山田真貴子辞めろ#自民の地方議員をガンガン落とそう#スガの放送利権を許さない〉
 〈#山田真貴子辞めろ わあ───、いやだな─この手のおばさん!腹黒いよ 子供や学生!なつかんだろうな最悪!最低!〉
 ・・・SNSのツイッターには、『#』付きの〈山田真貴子辞めろ〉が溢れ、さすがに嫌になったのだろう。山田氏は3月1日、ついに辞職した。
 私はこんなツイートをみる度に『本当にここは日本なのか』と思う。自分は匿名で、これほどの罵声を他人に浴びせることができる人が『大勢、日本にいる』ことに毎回、衝撃を受ける。そこは日本の美徳でもある『寛容』が消えつつあることを示している。
 寛容が消えるのは、『異論を許さないこと』と同義である。全体主義共産主義に、もとより寛容はない。あるのは破壊と独裁、弾圧である。
 寛容をなくし、信じられないような罵声を浴びせる人々が、一方では中国共産党がおこなっているウイグルジェノサイドや香港弾圧に対しては信じられないほど寛容であることは何を意味しているのか。
 歴史的に左翼革命は、既存の文化を破壊することから始まる。革命とは、従来の価値観を打破することが最重要だからだ。
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 誰がこれらを煽動しているのか、ツイッターを追っていくと、見事までに左翼勢力のアカウントに行きつく。そして、さらにそのツイートを遡(さかのぼ)っていくと、彼らが日本の文化を破壊するために、いかに必死であるか
よくわかる。女系天皇容認論女性宮家創設、夫婦別姓論なども、そのレールの上にあることが浮かぶ上がってくるのである。
 私たちの重要な文化である『寛容』はすでに壊されているかもしれない。しかし、日本独特の文化を守ることが、自由なき『全体主義』の訪れを防ぐ最大の方法であることを、私たちは知るべきなのではないだろうか。」
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 現代の日本人は、存在した事のない綺麗事の武士道神話を信奉し、有もしない武士道精神・士魂に取り憑かれている。
 日本人がくだらない理想主義観念論から目覚め、真っ当な日本人になる為には醜悪な武士道神話を捨てなければならない。
 幕末・明治維新・明治を生きた昔の人が現代人になれても、現代人は昔の人にはなれない。
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 1945年8月 日本国内には200万人以上の友・友人とも言えず、親友とも言えず、戦友とも言えず、良い知人とも言えない朝鮮人が金を稼ぐ為に蠢き、中には選挙で当選した国会議員もいれば、日本人兵士を統率する昭和天皇に拝謁資格を有する陸軍将官の高級将校もいたし、皇族待遇の朝鮮王族は天皇が主宰する皇族会議に出席していた。
 キリスト教に改宗した朝鮮人の中には、キリスト教会を通じて日本の情報をアメリカに流していた。
 横浜、神戸などにはチャイナ・タウンが存在し、日本国内に数万人~十数万の中国人が住み着いて商売し金を稼ぎ、一部の中国人はファシスト中国(中国国民党)・中国共産党アメリカに情報を流していた。
 朝鮮人や中国人に協力する日本人が少なからず存在していた。
 日本人による朝鮮人や中国人への偏見や差別はあっても、集団に対する不法逮捕や弾圧、迫害や個人に対する殺人、傷害、強姦、強奪、放火などの排斥事件はなかった。
 朝鮮人や中国人に偏見を持ち差別を行ったのは、不寛容な人種差別主義者の右翼・右派であった。
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 朝鮮人日本国籍取得していても、国民の義務として徴用工なったが徴兵にはならなかった。
 同じ死でも民族差別があり、朝鮮人徴用工は工事現場・作業場で救出される事故死であったが、日本人徴兵は戦闘死・病死・餓死・溺死などで遺骨の帰還がない戦死であった。
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 日本民族には、いつ裏切るか分からない怪しい朝鮮人に愛情はなかったし、いつ寝首を掻きに来るか判らない恐ろしい中国人に友情もなかった。
 日本軍は、国内に敵に通じた獅子身中の虫を抱えながら絶望的な戦争を続け、そして敗北し滅亡した。
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 2021年4月8日号 週刊新潮「リベラル社会の陥穽(かんせい)
 『寛容』という名の『不寛容』
 『失言』の元総理に浴びせられた激しいバッシング。不適切発言には違いないが、息苦しさも残る。人は心の内まで道徳を強要されねばならぬのか。『寛容』なはずの『リベラル』がなぜ『不寛容』を招くのか。『不寛容論』の著者、森本あんり教授が考察する、現代社会の逆説(パラドックス)。
 森本あんり
 昨年末に『不寛容論』(新潮選書)という本を刊行しました。それで先日、東京五輪組織委員会森喜朗前会長の発言が問題になったとき、産経新聞に『寛容という切り口で考えるとどうなるか』という依頼を受けて、論評を書きました。
 その後、同委員会の有識者懇談会メンバーで英国出身のデービッド・アトキンソン氏が、同じように日本人と寛容について書いているのを朝日新聞で読みました。アトキンソン氏によると、『日本人は多神教だから寛容だ』というのは事実ではなく願望だ、ということです。
 わたしも、拙著では統計の数字を示して似たようなことを書きましたがその先にある結論はちょっと違います。たしかに、日本人は外国人や他宗教に対して警戒心が強いのですが、それは統計が『内心でどう思っているか』を尋ねているからです。でも、いざ実際にそういう人に会うと、とりあえずはその気持ちを脇において、ていねいな応対をする人が多いでしょう。その使い分けができることこそ、『寛容』だと思うのです。いきなりお茶の間へ通すわけではないけれど、門前払いはせず、まずは土間まで入ってもらう。
 どこの文化でも、多少はこういう『本音』と『建前』の使い分けがあるものです。普通に社会生活を営んでいる人なら、本音だけで生きる、などということはできません。そういう使い分けを不誠実と断じて、みんなが本音で話し始めたら、おそらく寛容どころではなくなってしまうでしょう。実は、寛容という概念を歴史的にたどってみると、この内と外のギャップこそが、寛容の成立する必須条件なのです。
 そもそも寛容は、心の中に否定的な感情があるところでしか成立しません。たとえば、『私はアイスクリームに寛容である』と言って威張る人はいないでしょう。自分が好きでないもの、軽蔑や嫌悪をもつものこそが、寛容の対象なのです。
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 『より小さな悪』の選択
 つまり、寛容というのはもともと少し不愉快な話なのです。自分が評価するものや好きなものは、はじめから受け入れているので、寛容の対象にはなりません。寛容であるためには、まずは否定的な感情があって、しかもその上で、それを抑えつつ相手を肯定する必要があります。否定と肯定の両方があってこそ、寛容が成立するのです。
 現代人は、何となく寛容を美徳の一つと考えています。『あなたは寛容な人ね』と言われれば、悪い気はしません。それはつまり、『あなたは内心では嫌っているのに、それうぃ押し隠して、うわべだけいい顔をしているのね』と言われているのと同じなのです。そんなふうに言い直されたら、あまり嬉しくないでしょう。
 寛容には、こうしたパラドックスがいくつも含まれています。これまでの寛容論といえば、何となくつまらないお道徳の話、『よい子はみんなで仲良く遊びましょうね』的なお説教にしか聞こえなかったかもしれません。それは、寛容に本来含まれているはずのこうした『毒』、つまり否定的な要素のことが十分に認識されていないなかったからだと思います。
 過去には、寛容のもつこういう毒を取り除こうといする努力もなされてきました。寛容には、上下関係がつきものです。『寛容に扱ってやる』というのは、いかにも上から目線で恩着せがましい。だから寛容なんてもう時代遅れだ、これからは徹底的な平等を論じようではないか、という意見もありました。ポストモダン的な『差異の祝賀』です。『みんなちがって、みんないい』という金子みすゞの詩のような感じでしょうか。
 けれどもそれは、ある程度は共通の地盤に立った上での話です。日本人はこれまで、他国と比べればおおむね均質な社会に生きてきました。でも、これからはそういうわけにはいきません。好むと好まざるとにかかわず、自分とは根本的に違う価値観や世界観をもった人々と共存してゆかねばならない時代を迎えます。そのとき必ず問い直されるのが、寛容です。
 そこで必要なのは、これまでとは少し違った視点からのアプローチです。私は、一般的に不寛容な暗黒時代と見なされていた中世に注目してみました。中世の寛容は、『是認しないが許容する』(non approbat,sedpermittit)ことと定義されます。たとえば、『ユダヤ人に寛容であれ』ということは、『ユダヤ人を好きになれ』という意味ではありません。ユダヤ人が嫌いなままでいい。だけど、彼らの存在を認めて、彼らの信仰を尊重し共存しなさい、という意味なのです。
 ここに、『本音』と『建前』の区別がはっきりと出てきます。心の中では嫌っている。でも、その気持ちを排除や追放という具体的な行為へと表現しない。これが本来の意味での寛容です。当のユダヤ人にとって、けっして居心地が良いとは言えなかったでしょう。現実には、差別や偏見も少なくなったはずです。しかしそれでも、あからさまな暴力や抑圧に出ることは禁じられていたのです。寛容にできるのは、そこまでです。寛容は、われわれが考えるような善でも悪でもなく、あくまで比較の上で『より小さな悪』を選ぶという、計算ずくの実利的な行動指針でした。
 中世の寛容を現代的に言い直せば、こんなふうになるかと思います。『あなたの心には、ヘイト(憎悪)があるからかもしれない。それをいっさい消して心から相手を愛しなさい、とまでは言わない。でも、その気持ちをヘイトクライムヘイトスピーチへと表現することは慎みなさい。』──さきに説明したように、はじめから好印象をもっている相手なら、そもそも寛容という事態は成立しません。嫌いだからこそ、寛容が求められるのです。
 人間の底知れぬ闇 
 心の中まで寛容を求めないということは、『感情の動員』を求めない、ということです。近年のPC(ポリティカル・コレクトネス)についても言うことができます。もちろん、今日の社会に蔓延している不平等や不正義は、解消してゆかねばなりません。でも、社会常識として何が正しいかというと考え方の中身まで事細かに指示されると、どうしても息苦しさを感じてしまいます。たとえそれが正しい主張でも、納得するより先に反感が生じてしまうのです。
 アメリカでトランプ氏を支持した人々の多くは、いわゆる『リベラル疲れ』を感じていた人でした。……こういう絶望感は、トランプ氏の一人や二人がいなくなっても、そう簡単に消えるものではないでしょう。
 だから、表にあらわれる言葉や行為については慎みと礼節を求めるべきですが、心の中で何を思っているのかまでは問い詰めない方がよいように思います。人の心には、どんな魔物が棲んでいるか分からない。藪をつつけば蛇が出てくるかもしれない。そこは結局のところ、本人と神のみぞ知る倫理空間です。
 近代の合理主義は、こうした人間のもつ底知れぬ闇をうまく理解できません。特にリベラルなヒューマニズムにとり、人間は無限の可能性をもった存在です。だからしっかり教育して、向上させ進歩させなければならない。だらしのない人間にはどうしても不寛容になります。中世では寛容に扱われていた盗人や売春婦や物乞いなどは、厳しく罰して社会に有用な人間に造り変えねばならない、それができなければ放り出せ、ということになります。
 その点で聖書は案外現実主義的です。旧約聖書には、『罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めねばなりません』(創世記4:7)と記されています。罪や悪と無縁に生きることはできない。せいぜいできるのは、『一病息災』と言うように、悪を最小限に抑え、何とかなだめすかして共存することです。その理想と現実のギャップを埋めるのが、寛容なのです。
 こういう人間理解には、どこかもの淋しさが漂います。結局人は、お互いに心の底までわかり合えない、ということになるからです。でも、『隠し事は絶対にしないでね』なんて、新婚時代くらいのものです。人が人格をもつということは、秘密をもつということと同義です。完全に透明な理解を求めるのは、愛というより心配に近い気がします。
 是認でも理解でもなく
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 オリンピックでは、異なる宗教や価値観をもった人々が一堂に会します。なかには、近代西洋が当然の前提として価値を共有しない文化もあります。寛容という価値も、全世界で普遍的に共有されているわけではありません。そのことを自覚していないと、いわゆる『寛容の強制』という不寛容が生じます。これもパラドックスの一つですが、特にリベラルな現代人は、気をつけないと知らぬ間に陥ってしまう危険があります。
 日本人が最近気にしている『男女平等指数』の世界比較も、その一つです。もちろん日本の甚だしいジェンダー・ギャップは、解消されねばなりません。しかし、オリンピックに集まる世界の国々の中には、そんな順位など気にもしない文化を持つ国もあります。そういう国の人に向かって、わたしたちは何と言えばよのでしょう。あなたの考えは時代遅れだから、さっさと改めなさい、と言うのでしょうか。そういう国は、オリンピックにふさわしくない、と排除するものでしょうか。多様性の尊重は、口で言うほど易しいことではありません。
 寛容は、是認でも理解でもありません。相手を善とみとめる必要もないし、相手を好きになる必要もない。それでも、相手を拒絶したり排除したりせず、お互いに礼節を守って考えを聞き合い、共有することはできます。
 考えてみると、アトキンソン氏が日本社会に受け入れられているのは、まさにこのような日本的寛容の実践と言えるかもしれません。私のこの原稿や日頃の言動も多くの方に受け入れられることを願っています。」
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不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書)
寛容論 (中公文庫)
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 現代日本人の心を劣化・堕落させたのは、1980年代以降に生まれた低劣・下劣な「武士道神話」と科学的根拠が破綻した「各種安全神話」であり、1億総評論家・コメンテーターという正義の味方・正義の徒である。
 そうした醜悪な日本人を生みだしたのが、リベラル派(隠れマルクス主義派)戦後民主主義世代である。
 日本が再生する為には、日本を破壊、崩壊、消滅させようとしているリベラル派(隠れマルクス主義派)戦後民主主義世代とその弟子世代をどうにかするしかない。
 リベラル派(隠れマルクス主義派)戦後民主主義世代とその弟子世代とは、高学歴の知的エリートと進歩的インテリである。
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 日本を襲う深刻な問題は、人生100年時代における少子高齢化による人口激減が原因で生じる日本民族の生存危機である。
 人口激減は、日本人の危機ではない。
 日本人とは、日本列島に住み日本語(日本国語ではない)を話す人間の事である。
 日本国民とは、日本列島の日本国家で日本国籍を取得している人間の事である。
 つまり、日本国民も日本人も、縄文人に繋がる日本民族のローカルな神話、歴史、伝統、文化、宗教そして習慣、風習とは直接的関係を持っていない。
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 日本人は惻隠の情や物の哀れがあり心優しく弱っている人に思いやりがあり弱い人に親切である、は、ウソではないが、日本人の本性の全てではなく三分の一か四分の一に過ぎない。
 信仰心篤い日本民族は、先祖(氏神・祖先神)から賜った有り難い霊魂・御魂を、怨霊、荒魂、狂神に変化させる危険性のある、自分の内なる悪き心・邪な心・醜き心を怖れていた。
 日本民族とは、表向きに自分を認め肯定できない駄目人間、つまり自分自身が信用できない疑り深い人間不信の人間、自己嫌悪で自分がトコトン嫌いな人間である。
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 日本の心は、中国や韓国・北朝鮮そして世界で理解されない。
 日本は世界で信用されているも、日本人は世界で愛されているも、すべてウソである。
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 中国や韓国・北朝鮮は、日本とは違って礼節・節度もない不寛容のブラック社会である。
 それは、スポーツ競技における過熱化する対日試合に臨む選手の不遜な態度や観客の下品なヤジ応援を見れば一目瞭然である。
 そこには、偏見と差別を助長するヘイトクライムヘイトスピーチがっても健闘を讃え合うフェアプレイやノーサイドは存在しない。
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 ウインウインの関係とは、相手が寛容になれば自分も寛容になる事で、相手が不寛容を止めないのなら自分も寛容になる必要はなく、相手が寛容になるのであれば自分は不寛容を放棄するという事である。
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 中国や韓国・北朝鮮が日本に寛容になる事は絶対にない、それは歴史が証明している。
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 リベラル派戦後民主主義世代の理想主義観念論による人間性無視の分別なき「寛容論」が、日本人の心を壊し堕落させダメ人間にした。
 リベラル派戦後民主主義世代は、日本文化の美意識を表した岡倉天心の『茶の本』より日本人の道徳観を表した新渡戸稲造の『武士道』を好む。
 彼らは武士道神話信奉者であが、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもない。
 彼らにとって武士道は、豚に真珠、猫に小判で、如何様に努力しても理解できない。
 武士とは、主君の命令とあれば「昨日、親兄弟を殺した仇であっても許して付き合わねばならない」、武士道とは理不尽で過酷なものである。
 親の仇として討ち果たす為には、事前に主君の許可が必要であった。
 武士道はブラックで寛容と潔さではなく、そんなブラックが嫌であれば切腹して死ぬか武士を止めて生きるかの二者択一しかない。
 「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」、それが武士の生き方である。
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 暴力的マルクス主義人民革命は、共産主義者が全人口の5%いれば成功するといわれてる。
 共産主義は、血・虐殺と破壊・戦火を好む。
 天皇制度民族国家日本は、2000年以上守ってきた国體・国柄と縄文時代に繋がる人柄・民族性を共産主義勢力やキリスト教勢力と一人孤独に死闘を繰り返してきた。
 日本天皇日本民族の最大の武器は、「やまとごころ」(大和心)による「まこと(誠)・まごころ(真心)」の発露としての「寛容」であった。
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 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、天皇制度を廃絶し民族国家日本を破壊させる為に、昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
 そして、国民世論が黙認した「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の自由」である。
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 昭和天皇は、国際法を遵守し、日本の憲法に従い、修身・道徳・人倫で身を正し、人権を尊重し、人命を大切にし、戦争を嫌う平和主義者で、人種・民族、宗教・信仰、家の出自・国の出身、地位・身分・階級などによる偏見や差別に反対する親ユダヤ派であった。
 昭和天皇は、日本民族心神話を源とする直系の血筋(血の神話・Y遺伝子神話)を唯一の正統とする男系父系天皇制度=国體を命を賭(と)しても守ろうとした。
 国體の象徴が、祖先神である最高神の女性神天照大神から日本統治の証しとして授かった「三種の神器」である。
 女系母系天皇にあるは、神聖不可侵の血の正統性はなく変更可能な法の正当性だけでる。
 国民世論の70%以上が、血の正統性男系父系天皇制度から法の正当性女系母系天皇制度への変更を望んでいる。
 日本統治の証しである「三種の神器」を受け継ぐのは、血を根拠とする正統性男系父系天皇であって法を根拠とする正当性女系母系天皇(何処の馬の骨とも知れない)ではない。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、異教徒非白人の日本人をアフリカ人同様に獣のように扱い奴隷貿易をして大金を稼いでいた。
 日本人を人間以下の奴隷として売って金儲けをしたのは、同じ日本人であった。
 つまり、売ったのは日本人であり、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は買ったに過ぎない。
 徳川幕府時代までの日本は人倫に悖(もと)る恐ろしい山椒大夫の世界であった。
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 昔の日本人は、戦争犯罪を行ったが人道貢献や平和貢献を行っていた。
 現代の日本人は、戦争犯罪は起こさないが同時に人道貢献も平和貢献もしない。
 それは、メディア・報道機関、保守派はもちろんリベラル派・革新派でもそうだし、左翼・左派・ネットサハも右翼・右派・ネットウヨクも同じである。
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