🎷44:─2─安保闘争・学生運動に敗北し挫折したリベラル派戦後民主主義世代のその後。~No.182No.183No.184 ㊷ 

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 昔のリベラル派・革新派そして一部の保守派の中に反天皇反日本及び反宗教無神論マルクス主義者がいた。
 反米派・反安保派・反米軍基地、反自衛隊派、護憲派人権派反戦平和団体
 親中国派・媚中派、親ソ連派、親北朝鮮派。
 共産主義者社会主義者、左翼・左派。
 ソ連中国共産党・国際共産主義勢力は、日米同盟を分断するべく彼らに接近していた。
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 2021年4月12日17:00 MicrosoftNews AERA dot.「高揚、憤懣、挫折、信念…当事者が語る「学生運動」の真実
 © AERA dot. 提供 「きみが死んだあとで」で使われた当時の映像から(c)きみが死んだあとで製作委員会。4月、東京・渋谷のユーロスペースほかで公開
 いまから半世紀前、「ベトナム戦争反対」を掲げ行動した若者たちがいた。あの日々を、そしてその後を彼らはどう生きたのかを描いた映画「きみが死んだあとで」公開を機に、代島治彦監督と映画にも登場する作家の三田誠広さんが「学生運動」について語り合った。
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──タイトルの「きみ」とは1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を阻止しようと学生たちが羽田空港に通じる橋の上で機動隊と衝突、亡くなった京大生の山崎博昭さんをさします。全共闘運動を描いた『僕って何』(77年)で芥川賞を受賞した三田誠広さんは、山崎さんと大阪の大手前高校の同学年でした。
 代島:『僕って何』は「僕」を主語にしていましたが、当時の学生運動の映像を見返すと等しく「我々はー」なんですね。そのほうが勇ましいというのもあったのでしょうけど、皆が主語を「我々」としたのはなぜでしょう。
 三田:それは学生運動もまた全体主義なんですよ。「私」を捨てて組織に埋没するという意味では。まずセクトごとに色分けされたヘルメットを被る。防御のためではあるんですが、あれを被ることで兵隊さんみたいな感覚になるんですね。右だといわれたら右に行く。同時に「不安な自我」を癒やしてくれるものでもあって、「俺は○○だ」と党派名を口にすることで将来に対する悩みが一瞬消えてしまう。
 代島:この映画の中で、ヘルメット姿の山本義隆さん=当時・東大全学共闘会議全共闘)代表=が演説されている場面が映ります。「我々、東大全共闘は」と言う。その山本さんが1年半留置場に捕らわれ外に出てみたら世の中は変わっていて「僕」に戻れたと話されていましたが、この50年の間にこの映画に登場する皆さんも色んな思いをしてきているんですよね。
 それでまずお聞きしたいのは1967年10月8日の山崎博昭さんの死を、三田さんは当時どういうふうに受け止めたのでしょうか?
 三田:私は登校拒否をやって1年高校を落第しましたので、あのときは高校3年生だったんですね。1年後に早大に入ってから全共闘運動に参加しましたが、あの場にいなかった悔しさのようなものを感じていたとは思います。
 代島:それで後に早大での体験をもとに『僕って何』を書かれることになるわけですよね。
 三田:ええ。ただ全共闘は大衆運動で、お祭りみたいなところがあって、大学に機動隊が導入されると居場所がなくなる。そこからセクトに入ったり、連合赤軍のような過激な闘争に走ったりする人たちも出てくるわけですが、まだセクトの対立がそれほどはなかった67年の頃は若者たちの思いが一つに凝縮していた。そうした高揚した場面で、ひとりの象徴的な死者が出てしまった。その人がたまたま知り合いだったということが、この映画の登場人物たちにとっては50年経っても忘れることのできない傷でありバネとなりその後を生きさせてきたんだと思います。
 代島さんはなぜ山崎さんの同級生たちを撮ろうと思ったのですか?
 代島:もともとは博昭さんのお兄さんや山本義隆さんたちが中心となった「10・8山崎博昭プロジェクト」に映像記録係として呼ばれたんです。しかし僕は一世代下ということもあり、当事者の輪に加われずにいた。山崎さんの碑の建碑式を弁天橋近くのお寺で行ったとき、モニュメントに手を合わせている皆さんを見て「この人たちは誰にも言えずにきたことがあるのではないか」と思ったのが2017年。あの日は三田さんも数珠を手にされていました。
 三田:そうでしたね。
 代島:そのあと山本さんたちと羽田闘争のことを伝えるためにベトナムに行ったりするうち、ひとりの死によって人生が変わった人たちの言葉を紡ぐことで、ひとつの時代が見えてくるのではないかと考えたんです。
 あの時代のことはこれまでにも本にされたものはありますが、いわば「個人的な記憶」で。山崎博昭という時間を止められた人間をとおして時代の「集合的記憶」として紡ぐことができるのではないか。そこに僕も入りたいと思ったんです。
 三田:私は小説家だから、資料があれば小説は書けるんだけども、ドキュメント映画はカメラマンを連れて何時間もインタビューしないといけない。それを重ねていく。ものすごい情熱だなぁと驚かされました。
 代島:山崎さんのお兄さんだけでも10時間以上しゃべってもらいました。
 三田:お兄さんが訥々と語られる映像には打たれるものがあります。じつは僕にはトラウマがあって、「自分はずっと取り残されてきた」という思いで小説を書いてきたんだけれども、映画を見ると高校時代から運動をやっていた人たちが早くに組織から抜けていったというのを知り、ちょっとホッとしました。
 代島:セクトをやめたということを聞かれてはこなかったんですか。
 三田:あんなに詳細に決断の経過までは。若い頃に理念をもち志をもって生きた人が違う生き方に転身していく、濃いドラマを感じました。
 代島:僕は、できることならあの時代を知らない若い人にこそこの映画を見てほしいんですね。どこか滑稽に見えるかもしれないし、「なんで命を賭けてまで」って思うかも知れないけれど。
 三田:いま考えると、あの頃は高度経済成長の最中だったんですね。セクトにいた人は「次はどこへ行け」と上から指示され転戦するんだけど、ノンセクトの学生は大学が閉鎖されると居場所がなくてアルバイトを始める。そうすると旋盤工のバイト料が熟練旋盤工の賃金とあまり変わらない。それくらい働き手が必要な好景気で、「反体制」と言いながらもお金が手に入る時代でもあったわけです。それに比べ、今の若者たちの貧困状況を見ると、今こそ革命が起こってもおかしくない。
 代島:そうですね。今の若者は「勝手なことやって暴れていたヘンな時代」と思うのかなあ。
 三田:ヘンな時代というのはそうだけど、我々は「団塊の世代」と言われ、小学校はプレハブ校舎に詰め込まれ不満がたまっていた。進学も就職も容易ではない。そういうフラストレーションはあったと思います。とくに68年の「新宿騒乱」は立川の米軍基地に石油を送る貨車を止めるというので新宿駅が燃え上がったんですね。ニュースを見て東京近県から工場で働く若者たちまで駆けつけ一緒になって暴れた。今からすると想像できないでしょうけど、憤懣(ふんまん)というのが巷にあふれていたんですね。
 代島:今だとネットのツイッターを使ったりするんでしょうけど。
 三田:当時の学生は「ブル(ジョワ)新聞」と朝日や毎日のことを呼び、新聞も「学生の暴動」と書くんですが、紙面では学生が闘う姿を写真に載せ、若者をあおり立てることになっていたと思いますね。それも72年の「あさま山荘事件」でガラッと変わってしまう。
 樺美智子さんが亡くなった60年安保の国会前デモを私は小学6年生のときテレビニュースで見ているんですが、「学生のほうが正しい」という思いを抱いていました。報道もそういうニュアンスでしたよね。しかし、連合赤軍事件のあと内ゲバや爆弾事件が続き、マスコミも「反体制運動」を評価しなくなる。
 代島:確かに72年を境にして「社会を変えよう」とする若者たちの運動が終わるんですね。
 三田:だけども意外というか、映画に登場する人たちは10代の頃とまったく変わっていない。そのまま老人になっているんですよね。組織を抜けるということはあっても、個人の信念、志は変わらずに生きてきたんだなぁ。「人間、そう簡単には変わらないぞ」ということに励まされたというかね。
 代島:ところで三田さんは村上春樹さんとは同時代に早大に在籍されていたんですよね。映画を撮る際、村上さんの『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』など初期作品を読み直しました。
 三田:私は『風の歌を聴け』などを読むと、当時の痛みが伝わってくるんですね。村上さんとは学生時代面識はないんだけれども同じ場所にいたということもあって。
 代島:初期作品には必ず自殺者が描かれていますが、80年代に読んだときは三田さんがおっしゃる「痛み」はわからなかった。けれども今回読み直してみて、びんびん伝わってくるんです。
 三田:結局、闘争で挫折した人の物語なんですね。それがわからないと「何でこの人たちは絶望しているんだろう」となる。根底には学生運動があったと思います。
 代島:この映画をつくっていて思ったのは、かつてある理念を取り込んだ若者たちが一度抜け出し、あらためて理念を探していく物語でもあるような気がしているんです。
──三田さんにお聞きしたいのですが、これまで当事者たちの肉声をつなげたこのような映画はどうしてつくられてこなかったのでしょうか?
 三田:これは代島さんだから撮れたんだと思いますね。代島さんは人を「枠組み」で捉えず、映画の冒頭で自分の顔のところに遺影をかざすように非常に個人的なアプローチで、被写体と交流し交感しながら撮っている。だから生身の肉声が伝わってくる。そういう意味で最初の映画ではないかと思います。
 代島:映画は人が話す場面だけでつないでいるんですが、編集していて不思議と顔だけ見ていても飽きなかったんですね。
 三田:通常なら短く切るものを、切らない。長くしゃべってもらっているからこそ伝わる「語り手の存在感」。小説では描けない、肉声ならではのドキュメントの重さを体感しました。
 (構成/朝山実)
 ※週刊朝日  2021年4月16日号」
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 安保闘争学生運動で国家権力に敗北した高学歴左派反天皇反日本学生活動家は概ね4つに分かれ、
 1つ目のグループは大多数の学生で敗北した事で無力感に打ちひしがれ絶望し転向して一般市民となって平凡な日常生活の中に埋没した、
 2つ目のグループは転向を装い就職し社会に紛れ込み各種市民団体(NPO・非営利の民間組織)を組織して平和手段での反天皇反日本闘争を続け中には高学歴出身を利用して政治、官公庁・自治体、経済、教育、労働組合そしてメディア・報道機関などに知的エリートや進歩的インテリとして活動を続けた、
 3つ目のグループは過激派となって国内に潜伏して無差別殺傷爆弾やロケット弾などのテロ犯罪を続けた、
 4つ目のグループは日本を脱出し欧米諸国に移住し1990年頃から国連小委員会や国際機関などで反天皇反日本活動を展開し世界で従軍慰安婦、徴用工、靖国神社、第2回南京事件などを捏造し悪用して日本は犯罪者であると窮地に追い込んだ。
 リベラル派戦後民主主義世代は、大正時代の3・1独立暴動に敗北した反天皇反日本人派朝鮮人のその後に酷使している。
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 1970年代頃のリベラル派戦後民主主義世代は、2000年代のシルバー民主主義世代である。
 両者に地下水脈的に流れているのは、日本国憎し、日本民族嫌い、そして暗くおぞましい挫折・敗北派・絶望であって明るく晴れやかな夢・希望ではない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは日本人共産主義テロリストと同様に、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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