🎺32:─3─ナチス・ドイツは日本海軍に仏領マダガスカル攻撃を要請した。~No.154 ⑳ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 欧州戦線のターニングポイントは、日本海軍による仏領マダガスカル占領作戦中止であった。
 太平洋戦争のターニングポイントは、日本海軍のミッドウェー海戦の敗北であった。
 故に、日本海軍は第二次世界大戦の勝敗の鍵を握っていた。
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 日本軍が仏領マダガスカルを占領し、日本海軍が潜水艦基地を設置してアフリカ東沿岸とインド洋の海上輸送路を破壊すれば、アフリカ戦線でロンメルは勝利してエジプトのカイロを攻略してスエズ運河を占領し、東部戦線でソ連軍の大攻勢は起きず第二次世界大戦ナチス・ドイツが勝利して、ヒトラーによるヨーロッパ支配は続き、ホロコーストによるユダヤ人虐殺も続いた。 
 インド洋は、太平洋と大西洋をつなぐ重要な海であった。
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 2022年11月22日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「遥か異郷の地・マダガスカル島でも日本海軍潜水艦部隊は死闘を演じた
 海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
 日本海軍の快進撃により、インド洋の制海権の大半を取られたイギリス軍は、活路を求めヴィシー・フランスが支配するマダガスカル島に軍を派遣した。ドイツと結ぶヴィシー・フランスはドイツに助けを求め、ドイツは日本海軍に派兵を依頼したのであった。
 マダガスカル島に上陸するイギリス軍。このアイアンクラッド作戦には、空母や戦艦を含む多数の艦艇、歩兵4旅団、5つの奇襲部隊など圧倒的な兵力を投入。対するヴィシー・フランス軍の陸上兵力は約8000人であった。
 アフリカ大陸の南東、インド洋西部に浮かぶマダガスカル島は、世界第4位の面積を誇る島だ。現在は全島がマダガスカル共和国となっているが、1940年代はフランスの植民地であった。第2次世界大戦が始まると、ナチスドイツに降伏したフランスには、親ドイツのヴィシー政府が誕生。当時のマダガスカル総督はヴィシー政府支持を表明する。
 ドイツ・イタリア両軍を中心とした枢軸国側は、地中海から北アフリカまでを勢力下に置いていた。そのためインドやオーストラリアに向かう連合国側の船団は、地中海からスエズ運河を通る航路は使えず、喜望峰を越えインド洋に迂回する航路を利用。マダガスカル島はこの迂回航路の途上に位置する、重要な軍事拠点であったのだ。
 1941年12月、日本軍は対英米蘭と戦端を開くと、1942年3月末までに東南アジア全域を勢力下に収めてしまう。さらにイギリスの植民地であったビルマ南部まで攻略し、インド方面にも進撃しそうな勢いであった。
 実際、1942年初頭のインド洋では、日本海軍の潜水艦は敵の制約を受けずに行動することができた。連合国側からすると、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス海軍基地を、日本海軍が使用する事態も予想できた。それを危惧したイギリス陸海軍を中心とした連合軍は、マダガスカル島への上陸作戦を決定する。
 この作戦にはイギリス海軍の空母イラストリアスとインドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦を援護。さらに南アフリカ空軍も参加し、1942年5月5日にマダガスカル島北端のディエゴ・スアレス(現アンツィラナナ)西のクーリエ湾とアンバララタ湾に上陸。わずか2日でディエゴ・スアレスのヴィシー・フランス軍は降伏し、主力は南部に逃れてしまった。
 連合軍の動きを事前に察知したフランスは、ドイツ軍に増援を要請。そしてドイツは、日本にマダガスカルの英軍攻撃を依頼してきたのである。それを受け日本海軍は上陸作戦が始まる前の4月22日には伊30、さらに4月30日には伊10と特殊潜航艇甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20がペナンを出撃。
 事前に伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察飛行した際、クイーン・エリザベス級戦艦1隻(実際ラミリーズはリヴェンジ級であった)、巡洋艦1隻が在泊しているのが確認・報告されている。伊30と伊10はさらにアデン、ダーバンなどを偵察するも、有力な敵を発見できなかったため、甲標的を搭載した3潜水艦でディエゴ・スアレス港を攻撃することとなった。
 5月31日の日没後、ディエゴ・スアレス沖に達した伊16と伊20から、甲標的が発進した。もう1隻の伊18は、左舷エンジンが故障して復旧の見込みが立たなかったことから、攻撃参加を断念している。
 2隻の甲標的はイギリス側に発見されることなく港内に侵入し、日本海軍自慢の酸素魚雷を発射した。この魚雷は航跡をほとんど描かないため、相手に気づかれることなく1本がラミリーズの左舷A砲塔前部に、もう1本は6993トンの大型油槽船ブリティッシュ・ロイヤルに命中する。
 ブリティッシュ・ロイヤルは轟沈し、ラミリーズは弾薬庫に浸水するという大破であった。ラミリーズが戦列に復帰するのは、1年後の1943年5月まで待たなければならなかったのである。この攻撃により、イギリス軍は大パニックに陥る。彼らは手当たり次第の爆雷攻撃を夜通し繰り返しつつ、防潜網の敷設に奔走する始末であった。
 ディエゴ・スアレス湾に停泊する戦艦ラミリーズ。魚雷を受け大破した後、応急修理を受けダーバンに向かう。そこで修理するも完璧とはならず、イギリスに戻っている。結果、戦列復帰に1年を要したのであった。
 十分過ぎる戦果を挙げた甲標的は帰路、2隻のうちの1隻がノシ・アレス島に座礁してしまう。艇長の秋枝三郎(あきえださぶろう)大尉と艇付の竹本正巳一等兵曹は艇を放棄。マダガスカル島に上陸し、陸路で会合予定地点を目指した。
 2人は6月2日に、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという集落に達する。だがここで食料を調達したときに村人に怪しまれ、探索中のイギリス軍に通報されてしまう。
 駆けつけたイギリス軍部隊15人は、日本兵に向かって降伏勧告をする。しかし両名はこれを拒否。軍刀と拳銃で果敢に戦いを挑んで戦死する。イギリス軍側も1名が戦死、5人が重軽傷を負っている。その後、2人の遺体はイギリス側によって埋葬されている。会合地点で両名の帰りを待っていた母艦・伊20は、探索を諦めその日のうちに引き揚げた。
 結果、マダガスカルの戦いにおける戦果は戦艦1隻大破、大型油槽船1隻撃沈。地上戦では数で勝るイギリス兵に損害を与えるというものであった。
 甲標的マダガスカルシドニーに出撃した将兵。前列の真ん中が秋枝三郎大尉、秋枝の後ろに立つのが竹本正巳一等兵曹。マダガスカル島での陸戦で戦死後、秋枝は中佐、竹本は特務少尉に特進している。」
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 11月22日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
 日本海軍の快進撃により、インド洋の制海権の大半を取られたイギリス軍は、活路を求めヴィシー・フランスが支配するマダガスカル島に軍を派遣した。ドイツと結ぶヴィシー・フランスはドイツに助けを求め、ドイツは日本海軍に派兵を依頼したのであった。
 マダガスカル島に上陸するイギリス軍。このアイアンクラッド作戦には、空母や戦艦を含む多数の艦艇、歩兵4旅団、5つの奇襲部隊など圧倒的な兵力を投入。対するヴィシー・フランス軍の陸上兵力は約8000人であった。
 アフリカ大陸の南東、インド洋西部に浮かぶマダガスカル島は、世界第4位の面積を誇る島だ。現在は全島がマダガスカル共和国となっているが、1940年代はフランスの植民地であった。第2次世界大戦が始まると、ナチスドイツに降伏したフランスには、親ドイツのヴィシー政府が誕生。当時のマダガスカル総督はヴィシー政府支持を表明する。
 ドイツ・イタリア両軍を中心とした枢軸国側は、地中海から北アフリカまでを勢力下に置いていた。そのためインドやオーストラリアに向かう連合国側の船団は、地中海からスエズ運河を通る航路は使えず、喜望峰を越えインド洋に迂回する航路を利用。マダガスカル島はこの迂回航路の途上に位置する、重要な軍事拠点であったのだ。
 1941年12月、日本軍は対英米蘭と戦端を開くと、1942年3月末までに東南アジア全域を勢力下に収めてしまう。さらにイギリスの植民地であったビルマ南部まで攻略し、インド方面にも進撃しそうな勢いであった。
 実際、1942年初頭のインド洋では、日本海軍の潜水艦は敵の制約を受けずに行動することができた。連合国側からすると、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス海軍基地を、日本海軍が使用する事態も予想できた。それを危惧したイギリス陸海軍を中心とした連合軍は、マダガスカル島への上陸作戦を決定する。
 この作戦にはイギリス海軍の空母イラストリアスとインドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦を援護。さらに南アフリカ空軍も参加し、1942年5月5日にマダガスカル島北端のディエゴ・スアレス(現アンツィラナナ)西のクーリエ湾とアンバララタ湾に上陸。わずか2日でディエゴ・スアレスのヴィシー・フランス軍は降伏し、主力は南部に逃れてしまった。
 連合軍の動きを事前に察知したフランスは、ドイツ軍に増援を要請。そしてドイツは、日本にマダガスカルの英軍攻撃を依頼してきたのである。それを受け日本海軍は上陸作戦が始まる前の4月22日には伊30、さらに4月30日には伊10と特殊潜航艇甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20がペナンを出撃。
 事前に伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察飛行した際、クイーン・エリザベス級戦艦1隻(実際ラミリーズはリヴェンジ級であった)、巡洋艦1隻が在泊しているのが確認・報告されている。伊30と伊10はさらにアデン、ダーバンなどを偵察するも、有力な敵を発見できなかったため、甲標的を搭載した3潜水艦でディエゴ・スアレス港を攻撃することとなった。
 5月31日の日没後、ディエゴ・スアレス沖に達した伊16と伊20から、甲標的が発進した。もう1隻の伊18は、左舷エンジンが故障して復旧の見込みが立たなかったことから、攻撃参加を断念している。
 2隻の甲標的はイギリス側に発見されることなく港内に侵入し、日本海軍自慢の酸素魚雷を発射した。この魚雷は航跡をほとんど描かないため、相手に気づかれることなく1本がラミリーズの左舷A砲塔前部に、もう1本は6993トンの大型油槽船ブリティッシュ・ロイヤルに命中する。
 ブリティッシュ・ロイヤルは轟沈し、ラミリーズは弾薬庫に浸水するという大破であった。ラミリーズが戦列に復帰するのは、1年後の1943年5月まで待たなければならなかったのである。この攻撃により、イギリス軍は大パニックに陥る。彼らは手当たり次第の爆雷攻撃を夜通し繰り返しつつ、防潜網の敷設に奔走する始末であった。
 ディエゴ・スアレス湾に停泊する戦艦ラミリーズ。魚雷を受け大破した後、応急修理を受けダーバンに向かう。そこで修理するも完璧とはならず、イギリスに戻っている。結果、戦列復帰に1年を要したのであった。
 十分過ぎる戦果を挙げた甲標的は帰路、2隻のうちの1隻がノシ・アレス島に座礁してしまう。艇長の秋枝三郎(あきえださぶろう)大尉と艇付の竹本正巳一等兵曹は艇を放棄。マダガスカル島に上陸し、陸路で会合予定地点を目指した。
 2人は6月2日に、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという集落に達する。だがここで食料を調達したときに村人に怪しまれ、探索中のイギリス軍に通報されてしまう。
 駆けつけたイギリス軍部隊15人は、日本兵に向かって降伏勧告をする。しかし両名はこれを拒否。軍刀と拳銃で果敢に戦いを挑んで戦死する。イギリス軍側も1名が戦死、5人が重軽傷を負っている。その後、2人の遺体はイギリス側によって埋葬されている。会合地点で両名の帰りを待っていた母艦・伊20は、探索を諦めその日のうちに引き揚げた。
 結果、マダガスカルの戦いにおける戦果は戦艦1隻大破、大型油槽船1隻撃沈。地上戦では数で勝るイギリス兵に損害を与えるというものであった。
 甲標的マダガスカルシドニーに出撃した将兵。前列の真ん中が秋枝三郎大尉、秋枝の後ろに立つのが竹本正巳一等兵曹。マダガスカル島での陸戦で戦死後、秋枝は中佐、竹本は特務少尉に特進している。」
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 10月25日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「輝かしい通商破壊戦における戦果!インド洋の暴れん坊「伊号第27潜水艦」
 戦後「日本軍は兵器本来の用途を逸脱し、ために戦果を挙げることができなかった」というのが常識とされた。その最たるものが潜水艦だ。狭い艦内に物資を満載し、輸送業務に携わってばかりいたように伝えられる。しかしインド洋を自在に駆け巡り、通商破壊戦で輝かしい戦果を挙げた艦も存在したのだ。
 巡潜乙型である伊号第15潜水艦(写真)の8番艦として1942年2月24日に就役したのが伊号第27潜水艦であった。魚雷発射管は艦首に6門装備され、九五式魚雷(酸素魚雷)を17本搭載。航続距離は水上16ノットで1万4000浬、水中3ノットで96浬であった。
 昭和17年(1943)2月19日、マレー半島の西方、マラッカ海峡に浮かぶペナン島に置かれた日本海軍の基地に、伊号第27潜水艦(以下・伊27)が入港した。そして2月23日になると、伊27に新しい艦長が赴任。その立ち居振る舞いはあくまで物静かで、柔和な表情からは軍人とは思えない風格がにじみ出ている。闘志などとは無縁の、どこか徳の高い僧侶を思わせるような佇まいであった。それが伊27の乗組員一同が感じた、新艦長・福村利明(ふくむらとしあき)少佐の第一印象であった。
 伊27は昭和17年(1942)8月以来、半年に渡りインド洋の通商破壊作戦に従事。しかしながら戦果は撃沈1隻という、不満足なものであった。福村は航海術を専攻し、開戦当時は第6艦隊の航海参謀を勤めていた。それだけに、乗組員の間に不安視する雰囲気が漂っていた。それは福村も認識していたようだが、出港が近づいてもまるで自分に課された期待や不安など、意に介していない様子であった。
 2月26日、伊27はペナンを出港。ベンガル湾チャゴス諸島の間の海域を哨戒。3月808時15分、セイロン島コロンボの南西沖で1万トン級の輸送船を発見。3本の魚雷を発射したが、残念ながら命中しなかった。それでも福村艦長の顔に、焦りは浮かばない。
 3月20日21時02分、セイロン島の北西500浬付近で、イギリス貨物船フォート・マムフォード(7132トン)を発見。今度は魚雷1本を発射し見事撃沈。それでも福村艦長の表情は変わることはなかった。さらに3月24日にはチャゴス諸島北西沖でタンカーを発見し魚雷1本を発射するも、命中はしなかった。結局、4月9日にペナンに帰着するまでの間、撃沈は1隻という不満足な結果に終わってしまったのだ。
 福村艦長2回目の出撃は、5月1日であった。この日、伊27はペナンを出港、作戦海域はインド洋からアラビア海の北部、ペルシャ湾入口近くまで及ぶ広大なものである。期間は今度も2カ月半ほどだ。
 すると早くも7日05時56分、コロンボからダーバンに向かうオランダの貨客船ベラキットを発見。魚雷を命中させた後、冷静な福村艦長は浮上を命じ大砲でとどめを刺した。この時、船員1名を捕虜としている。
 そして10日と26日には輸送船を攻撃したが、戦果は確認できなかった。6月3日07時35分、マシーラ島南方150浬で、アメリカの貨物船モンタナンを雷撃し、これを撃沈。さらに24日は灯油と経由を積んでいたイギリスのタンカー、ブリティッシュベンチャーを撃沈。
 特筆すべきは28日08時05分、オマーン港湾都市マスカットに入港し、荷揚げ中だったノルウェー貨物船ダー・フーを雷撃、撃沈したことだ。敵に発見されやすい港での攻撃など、闘志に溢れた指揮官でも躊躇してしまうものだ。だが福村艦長は、普段と変わらぬ穏やかな様子で攻撃を命じている。7月5日にはアメリカの輸送船団を発見、雷撃で1隻を大破させた。7月14日にペナンに帰投。戦果は撃沈4隻1万8176トン、撃破1隻6797トンであった。
 3回目は8月29日にペナンを出撃し。9月24日に帰投。この時は撃沈、撃破ともに1隻にとどまっている。伊27が最も輝かしい戦果を挙げたのは、10月19日にペナンを出撃、12月27日に帰投した4回目の出撃時である。
 ペナン出港後、アデン湾およびアラビア海に向かった伊27はイエメンの港を偵察後、11月10日にイギリスの貨物船サムボを発見、雷撃でこれを撃沈。18日にはマドラスからアデンに向かっていた、イギリス貨物船サムリッジを発見。これを雷撃により沈めている。
 27日に紅海への南入口に浮かぶペリム島を潜望鏡で偵察。29日16時30分には、ギリシャ貨物船アティナ・リヴァノスを発見し、これを撃沈した。そして12月2日21時45分、アデンの南方沖でギリシャ貨物船ニッツァを発見し、雷撃により沈めている。その翌日の20時03分には、ソマリア沖でイギリス貨物船フォート・カモスンを攻撃。撃沈には至らなかったが、任務から離脱させている。
 結果、4隻2万3994トンを撃沈、1隻7126トンを撃破し、一躍「インド洋の暴れん坊」という地位に躍り上がる。この出撃中であった1943年11月、福村艦長は中佐に昇進。それでも本人は、淡々と任務をこなしていた。
 伊27はその後、昭和19年(1944)5月15日にインド洋で複数のイギリス駆逐艦と交戦し、壮絶な最期を遂げている。福村が艦長となり1年あまりであったが、その間に11隻6万1966トンを撃沈、3隻2万1099トンを撃破。その殊勲が認められ、福村は二階級特進を果たしている。通商破壊任務だけで二階級特進したのは、じつに福村少将だけであった。
 福村利明は1905年10月2日に熊本県で生まれた。1926年に海軍兵学校54期卒業。当初は第一遣外艦隊司令部付となり、水上艦艇に勤務。その後、潜水艦の乗組員となった。太平洋戦争開戦時は第6艦隊(潜水艦のみで構成された艦隊)参謀であった。最終階級は海軍少将。」
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