🎺67:─1─日本人の大人達は満蒙開拓団の娘・少女達をソ連兵への人身御供にした。「乙女の碑」。〜No.311No.312No.313 ㊷ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本には男尊女卑で女性差別が存在し、日本人の男性は女性を犠牲にしてきた。
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 2023年8月1日14:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「ソ連兵への「いけにえ」にされた女性は蔑視された…満蒙開拓団の少女が証言する「性接待」のやるせない記憶
 第2次世界大戦中、国策として満州に送り込まれた「満蒙開拓団」はソ連軍の進撃に遭った。特に女性たちは、ソ連兵の「女狩り」という性暴力の危険にさらされたという。女性史研究者・平井和子さんの『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)より、長野県から家族で開拓団に参加した女性のエピソードを紹介する――。
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満蒙開拓団の歴史に特化した唯一の博物館
 わたしが北村(旧姓・澤)栄美さん(1934年生)と出会ったのは、2021年7月、満蒙開拓団を全国で最も多く送り出した長野県の下伊那に開設された満蒙開拓平和記念館を訪れたときだ。同記念館は、民間の寄付をもとに県や自治体が補助し2013年にオープンした、全国でも唯一の満蒙開拓に特化した民営の博物館である。
 訪れた土曜日は開拓団関係者(「語り部」)による証言の日で、この日は、栄美さんが同記念館で初めて「語り部」をする日に当たった。長男の彰夫さん(1960年生)が質問をし、栄美さんが答えるという形で話が進み、会場の参加者が北村家にお邪魔して親子で交わされる語りに耳を傾けるかのようなほのぼのとしたムードとなった。
■「2人のよその団のひとがいけにえになってくれた」
 途中、突然、彰夫さんが、「黒川開拓団のようなこと(岐阜県送出、ソ連側へ女性を提供するという苦渋の選択をし、近年沈黙を破ってサバイバー女性の2人が語り始めた)は無かったの?」という質問をされ、わたしは予想していなかった質問に身を乗り出した。栄美さんは、「うーん、黒川のようなことは……」と、ちょっと間を置き、「2人のよその団のひとがいけにえになってくれたの」と答えられた。「犠牲者」でもなく、「身代わり」でもなく、「いけにえ」という印象的な言葉を使われた。
 講話終了後、一緒に訪問した友人とともに栄美さんを囲んで話をうかがった。女性を求めてやってくるソ連兵の姿が見えたら旗で合図をするのが子どもの役割だったこと、その様子を茶化す替え歌を子どもたちがつくっていたことを聞いた。栄美さんがその場で歌う「ロモーズの歌」を聞いたとき、鳥肌が立った。
■「女を出せ!」と家に入り込んできたソ連
 2022年2月24日、ロシア軍がウクライナへ軍事侵攻して始まったロシア・ウクライナ戦争。栄美(以下、敬称略)は軍事侵攻を受け破壊された町の映像や、夫や父親と別れて国外へ避難する女・子どもの姿を見て、泣けて泣けて何日間か、食事も喉を通らなかった。そして、記憶の底に沈んでいた、ソ連兵の姿がまざまざと蘇ってきた。
 それは初めてソ連兵を見たときだった。妹の千裕が百日咳で寝ている部屋へ、二人のソ連兵が編上靴のままダダッと入ってきた。「マダム、ダワイ!」(女を出せ! )と、布団をバッとめくったときに、妹が咳きこんで洗面器に血がまじったものを吐いたのを見て去った。
 「あの時のやつだ!」と、テレビのロシア軍を見た瞬間に思い出した。「カッと見上げたら、こんな高いところにベルトがあって、鼻がこんなに長くて、ビー玉が2つあったのよ。緑色のビー玉」、「あの時のあいつと一緒だ」、と。忘れていたことも、何かの瞬間に思い出すことがある。栄美は戦火の下にある人々へ、「生きてくれー!」と心の中で叫んでいる。
■顔に墨塗りして男装しても、すぐに見破られた
 8月22日、ソ連軍の使者が来団し、日本の敗戦を告げた。武器を取り上げ、本部付近の住民を集めて腕時計や紙幣などを掠奪して去った。翌日から、連日ソ連兵の掠奪や強姦が始まる。女性たちが顔に墨を塗って男装しても、彼らは服を脱がせて検分するのですぐに見破られた。
 団で相談して、女性たちは日中、草原に潜伏することにした。栄美たち開拓団員は、ソ連兵のことを「ロモーズ」と呼んだ。彼らは、駐屯する清河鎮から大和坂を登って、日中に軍服姿で鉄砲を担ぎ馬を蹴立ててやってくるため、団ではその姿が見えると屋根の上に昇り旗をあげ、帰って行ったら旗を降ろすという合図を送ることにした。
 ソ連兵の来襲の合図を受け、栄養失調で弱っていた赤ん坊を負ぶって草原に身を隠した母親が帰ってきて見てみたら背中の子は死んでいた、ということもあった。
■命がけで女性を守った子どもたちのたくましさ
 合図を送るのは子どもたちの役割で、我先にと屋根に上って旗の上げ下げを行った。命がけの日々にもかかわらず、「匪賊」やロモーズが帰ってしまえば、不思議なほどに、みな開き直って明るく、子どもたちは「軍隊小唄」(1939年)をもじって次のような替え歌さえつくった。

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 「ロモーズの歌」
今日も来る来る、ロモーズが/大和坂を馬で来る
女探しに来るのでしょ/おばさん、逃げる、その姿
ホントにホントにごくろうさん

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 子守や家畜の世話でほとんど学校へ通えなかった栄美にとって、敗戦は大きな転機となった。1944年、山で大けがをした父と父に付き添った母、さらに肋膜を病んだ兄が診療所へ入り、家を留守にしていた間、国民学校4年生だった栄美は、妹弟たちの食事の用意と、豚や馬、鶏の餌を炊くことで精いっぱいの日々だった。友達が学校へ行く間、栄美は1人でオオカミの出没する山へ「焚きもの」(薪)を採りに行かねばならない。学校へ行くどころではなかった。
■学校へ行かないと、両親が監獄へ入れられる? 
 そのようなある日、校長先生が狩りで栄美の家の近くを通ると知って嬉しくなり、庭を掃き、髪をとかして待ち、その姿を見つけて大声で挨拶し、丁寧なお辞儀をした。校長先生は、「おー、あまり学校を休んでばかりおると、お父さんとお母さんが監獄へ入れられるぞ」と言って通り過ぎた。「校長先生が言われることだから本当だ!」と思った栄美は、それ以来、恐怖の日々を過ごした。
 敗戦の報が届いたと同時に、学校は閉鎖となった。「学校がなくなる。みんなも学校へ行けなくなる。私ばっかりじゃない」。誰にも言えずずっと胸に秘匿していた、父母が監獄へ連れて行かれるという恐怖から解放されて、やっと安心した。それ以降、みんなと気楽に遊べるようになった。「匪賊」が襲来しても、団のエライ人から「死ね」と言われても、みんなと同じでいられることは、栄美にとって嬉しいことであった。
■子どもたちは「生きるために平等」で団結し、協力し合う

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 敗戦になってから、それまで学校におった時には、できる子、できない子とか、いろいろ区別、差別があったじゃない。でもこの時になったら、いっさい、それがなかった。子どもたちが、ものすごくあっけらかんとして、たくましかったと思う。みんな、できることを何でもやる、ほいで、助ける。本当にあの時の子どもの団結力というのは、あれが本当の人間の姿なんじゃないかって。勉強は関係ないの。学校ないんだから、何もできない子も、いばっとった子もいざとなったら一緒になって遊べる。それから歌もつくった。
〔鍋墨を塗って〕黒い顔をしとっても、ボロを着とっても何もはずかしくない。今から思うとすがすがしい。
 歌も歌うし、もう死ぬだけなんだし、日本へ帰りたいと思う暇もない。ただ、そこにある物を分け合って食べればいいんだ。ただ「ひたすら最後の一人まで戦って死ぬ」〔という団長たちの決定〕がなくなっとった(笑)。それは団のおじいさんたちが考えてくれたんだけど、女と子どもがやっぱり強かったと思う。あれが男がやっとったらおさまらん。
 ――ああ、すごい言葉ですね。
 うん。ね。生きるっていうの。物を生み出すこともすべて女がやった。

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 学校へ行ける/行けない、勉強のできる/できないに関係なく、子どもたちは「生きるために平等」で、団結し、協力し合い、そのさまを栄美は、「今から思うと、すがすがしい」と言い切る。そして子どもたちは「最後の一人まで戦う」という団の男性たちが敗戦直後に下した悲壮な決断とは無縁の「生き延びる力」に満ちていた。
■「いけにえ」の2人が5日後に帰ってくると…
 ソ連兵への女性の「提供」に関して、栄美は一般団員と同じく、「他の開拓団から2人の女性が、自らいけにえになってみんなを守ると申し出てくれた」と語る。
 11月25日に本部にいた栄美は、校庭前に団員が集合し、団員号泣のなか二人をソ連側へ送り出した場には参加していない。しかし、『殉難の記』では5日後(栄美の記憶では約2週間後、「他の開拓団開拓団の西田」の妹・Rさんの記憶では3カ月後)に団へ帰されてきた2人を、こともあろうに団の内部から心無い言葉で迎える人たちがあったことはよく覚えている。
■開拓団の女性たち発した「卑劣」な言葉

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 これは、あの、いわゆる人間の性の恐ろしさだと私は思っとるの、なんていうの、中には、あの衆、いいことしてきたで、どやったね?  大きかったね?  という人たちがいたの。そういう人も男の人には飢えとるの。わたしは子どもで意味がわからんのに、ものすっごく卑劣だ〔と思った〕。だってそんなところへ二人行くなんていいことじゃないじゃない。許せんなーと、その時は思った。
 ――それは女性が言うのですね? 
 女性が言うの。それは今、考えるんだけど、その人も、人間的に飢えとる、若い身体の女性が子どもだけ押し付けられて、ね。そいう言葉が出ても不思議ではないな。
 ――けど、今の時点では……
 この人たちも悲しかったんだな。大人になって考えると、戦争のなかで出てきた問題なんだなと。

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■「性接待」した女性は「汚れた女」と差別された
 ソ連兵への「性接待」として提供された女性たちが、出されるときこそ感謝されたが、帰ってきた後は「汚れた女」として貶められ、差別的視線にさらされたという例はよく見られる。
 性暴力の犠牲者へ差別的なまなざしを向けた者は男性に限らず、女性にもあったことが、この栄美の証言からもわかる。子どもの栄美はそれに対し「卑劣だ!」と怒りを覚えたが、年を重ねた現時点で振り返ってみると、そのような言葉を発した女性たちも、夫不在のなか独りで子どもの命を守らねばならない緊張した日々を生きていた。そのような辛い状況が言わせた言葉だと、年を重ねた現在の栄美は思っている。

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 平井 和子(ひらい・かずこ)
 女性史・ジェンダー史研究者
 1955年広島市生まれ。立命館大学文学部卒業後、中学校、高等学校の教員を経て、1997年静岡大学教育学部社会科教育修士課程修了。2014年一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。現在、一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員。専門分野は、近現代日本女性史・ジェンダー史、ジェンダー論。著書に『日本占領とジェンダー 米軍・売買春と日本女性たち』(有志舎)『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)がある。

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 女性史・ジェンダー史研究者 平井 和子
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 PRESIDENT Online「662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行に耐えた未婚女性15人の苦しみ
 しかも帰国後は中傷と差別が横行
 これからも語り継ぐべき戦争の記憶がある。作家の五木寛之氏は「戦争はどう始まり、展開したかという『大局』ばかりが話題になる。しかし、一人の兵士や、戦地で生きた個人の体験こそ戦争の真実であり、彼、彼女らの記憶こそ後世に『相続』されるべきだ」という——。
 ※本稿は、五木寛之『こころの相続』(SB新書)の一部を再編集したものです。
 中国黒龍江省北部の雪景色を走る列車写真=iStock.com/BeyondImages※写真はイメージです
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 敗戦の混乱時、日本人女性が味わった性暴力の悲劇
 現実社会に「表」と「裏」があるように、過去の時代にも「表」と「裏」があります。私たちが生きた同時代についての記述すらそうだから、100年前、500年前ともなればなおさらでしょう。その当時に生きた人が、歴史の教科書を読めば、仰天するかもしれない。「これは一体どこの国の話だ」と。
 「一級史料があるから確実だ」などと言っても、その史料が時代の全体を語るわけではありません。最近になって、少しずつ敗戦時の旧満州北朝鮮での「性接待」の話が語られるようになってきました。
 平成25年4月、昼神温泉などで知られる長野県阿智村に全国で初めての「満蒙開拓平和記念館」ができました。戦前からの国策として満州内蒙古に送り込まれた満蒙開拓団の史実を、風化させることなく後世に伝える拠点として、作られたものです。
 開館以来、かつての開拓団の実像を伝える数々の資料を展示するほか、「語り部講話」として、当時の生き証人の体験談を聞く会が催されています。
 とくにその中で、開館直後、2013年7月と11月にお話をされた岐阜県旧黒川村満蒙開拓団の2人の女性の悲痛な体験談が、大きな波紋を呼びました。
 ソ連軍の要求は「若い女性」の接待役だった
 この話をきっかけに、いくつかの雑誌や新聞も特集を組み、2017年には「告白~満蒙開拓団の女たち」(NHK・ETV)や、「記憶の澱」(山口放送)などのドキュメンタリー番組も放映されました。体験談と報道の数々から浮かび上がってくるのは、次のような事実です。
 旧満州では、敗戦後、自分たちを守ってくれるはずの関東軍は撤退してしまい、多くの開拓団が孤立してしまいました。日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍のほか、いままで支配されていた現地人も一気に暴徒化し、敗戦国の弱体化した開拓団に襲いかかります。
 そこには略奪・暴行・虐殺・強姦など、あらゆる無法がまかりとおりました。彼女たちの隣の村の開拓団は、この無法に耐えかね、集団自決で全滅しました。黒川開拓団の中でも集団自決の声が高まりましたが、リーダーの一人が、「人の命はそんなに簡単なものじゃない」と主張して、思いとどまります。
 そしてリーダーたちは、たまたま団の中にいたロシア語のできる人間を通じて、近くに進駐してきていたソ連軍に、保護を求める交渉をしました。するとソ連軍は、兵の暴行や現地人の襲撃から団を守り食糧や塩を提供する代わりに、若い女性を将校の「接待」役として差し出せという条件を付けてきたのです。
 「このままでは集団自決しかない」
 つまり挺身隊のような形で、決まった女性たちを交代で慰安婦として差し出せということです。それはソ連軍側から一方的に強制されての行為ではなかった。開拓団としての取引きでした。
 夫や子どものいる女性には頼めないということで、結局、数えで18歳から21歳までの未婚の女性が15人選ばれました。「このままでは集団自決しかない。何とか全員が助かって帰国するために、団に身を預けてくれないか」と、必死の説得が行われます。「あなたたちには団を救う力がある。将来には責任をもつ」とも言われたといいます。
 女性たちが「絶対いやです」と拒否するのは当然です。そんなことをするくらいなら、死んだほうがましと、拳銃をもって飛び出した女性もいたそうです。
 結局、何百人もの命を守るためには断りきれず、当時21歳だったリーダー格の女性は、「日本に帰ってお嫁に行けなかったら、お人形の店でもやって一緒に暮らそう」そう言って、全員をなだめたと言います。
 べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち
 連れて行かれたべニア板張りの「接待場」では、女性たちは布団の上に並んで横たえりました。彼女たちの言葉を借りれば、「辱めを受ける」あいだお互いに手をしっかりと握りあい、泣きながら暴行に耐えたそうです。覚悟していたとはいえ、「助けて、お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ女性もいました。
 暴行の事後処理として、彼女たちは医務室に行き、性病や妊娠を防ぐために薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。彼女たちより年下の女性が、泣きながらその冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。
 こうして、何カ月もの過酷な試練に耐えた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。ただ15人の中の4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国できないまま命を落としました。集団自決をする開拓団が相次ぐ中で、総員662人の開拓団のうち451人が生きて帰れたのは、まさに彼女たちの犠牲のおかげだったと言っていいでしょう。
 90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきた辛い記憶を、よくぞ語り継ぐ気持ちになってくれたと思います。
 帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉
 それにしても、彼女たちは、その辛い記憶をなぜ封印してきたのでしょうか。
 それは思い出したくもない辛い記憶だったからでしょう。しかし、思い出したくもないその「辛さ」が、じつはあの忌まわしい凌辱の「辛さ」だけではなかったからなのです。
 本来なら土下座してでも感謝しなくてはならないはずの彼女たちの行為に対して、心ない中傷や差別的な言葉が仲間内でそこここでささやかれ、それが彼女たちにも感じられたからでした。そうした言葉は、じつは辛い「接待」が行われている当時から、すでに囁かれていたといいます。
 国に帰ってからも、ほかの女性の身代わりで「接待」の回数が多くなった女性が、仲間の男たちから「○○さんは好きだなー」とからかわれたり、「(体を提供しても)減るもんじゃなし」などと言われたりしたといいます。これらの言葉は、凌辱の体験以上にどれほど彼女たちの心と体を傷つけたでしょう。
 そして、「露助ソ連兵)のおもちゃになった人」「汚れた女」といった秘かなレッテル貼りが、人びとの間に根強く残っていたのです。この「接待」の事実は、女性たちの将来のためにも良くない、団の恥でもあるとして、開拓団もひた隠しにしてきました。
 昭和58年には、「接待」のことが実名を伏せて雑誌「宝石」に書かれましたが、地元の書店では人目に触れないよう、開拓団関係者によって買い占められたといいます。
 ようやく語られ始めた忌まわしい戦争の記憶
 このように、彼女たちが「辛い記憶」を封印してきたのは、あの忌まわしい体験を忘れたかっただけでなく、それ以上に、いわれなき中傷や差別という「辛い体験」を思い出したくなかったからでしょう。
 そこに開拓団としての意向も働き、事実は封印されてきたのでした。しかし、そこで声を上げた女性がいます。女性たちも高齢になって次々と世を去り、このままでは自分たちの身を挺した体験が埋もれてしまうと、考えたのでしょうか。
 リーダー的な存在だった女性が、「このままあの事実をなかったことにはできない」と立ち上がり、昭和56年に、現地で亡くなった4人の女性を慰霊する「乙女の碑」が建てられました。
 碑は高さ1.3メートルの観音石像で、左手に願いをかなえる宝珠、右手に音を出して道の害を払う錫杖をもち、優しい眼差しで前方を見ています。そして2018年11月、4000字を超える詳細な碑文がパネルに記され、「乙女の碑」の脇に建てられました。
 無名の「乙女の碑」、記憶を未来に語り継げるのか
 「乙女の碑」を建てたリーダー格の女性は、碑文の完成を見ないまま、91歳で亡くなりました。しかし、彼女の願いの一部はやっとかなえられたと言ってもいいでしょう。
 五木寛之『こころの相続』(SB新書)五木寛之『こころの相続』(SB新書)
彼女たちの語り継ぎの決意は、ようやく実りはじめているようですが、遺族たちにとっては依然として、釈然としない思いが残ります。経緯を示す碑文は立派なものができましたが、そこには15人の乙女の名は1人も記されていません。「ひめゆりの塔」や「原爆の碑」には犠牲者の名が記されて、一人ひとりその尊い犠牲に敬意が払われています。
 遺族の中には、開拓団の命を救うために尊い犠牲を払った彼女たちの名は、もっと誇りをもって語られていい、という人もいるようです。しかし、「誇り」というにはあまりに悲惨な体験です。私の願う語り継ぎによる「こころの相続」は、どのように語り伝えられるのでしょうか。
 五木 寛之(いつき・ひろゆき) 作家
 1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』、『うらやましいボケかた』(新潮新書)など。
 <この著者の他の記事> これは捨てがたい効用だ…五木寛之さんが「日本人はこれからもマスクを外さない」と考える理由
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 日本人は、「善人で、惻隠の情やもののあわれを持ち、病人や女性や子供などの弱い者を助ける優しい愛すべき人である」はウソで、本性は悪人で薄情・冷血・冷酷である。
 日本人の悪人としてのおぞましい本性を看破したのが、親鸞聖人である。
 日本人には善人もいれば悪人もいて、日本人は悪人であった祖先の悪行を因果として持つ事を生きる事を運命付けられているが、日本人はキリスト教が説く原罪を持った「罪人」ではない。
 つまり、日本の民族宗教の悪人と世界の普遍宗教における罪人とは根本的に違う。
   ・   ・   ・   エセ保守やリベラル左派は、沖縄戦で犠牲者になった沖縄県民の悲劇を歴史教育に取り上げても、ロシア人共産主義者が行った満蒙開拓団の少女への犯罪行為を歴史から消し去っている。
 左傾化した歴史教科書は、嘘偽りが多い。
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 戦争末期、日本人共産主義者はロシア人共産主義者・中国人暴徒・不逞朝鮮人が行った日本人に対する犯罪行為を黙殺した。
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 日本には、江戸時代後期からロシアの日本侵略の恐怖が存在していた。
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