🎺48:─1・C─原爆を巡る映画『オッペンハイマー』と『バービー』。令和5年。~No.226No.227No.228 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 連合軍は、人種差別から「日本人は人ではなく『けだもの』と認定していた」が故に、女子供・老人が大半の日本本土の都市に対して原爆投下実験や無差別絨毯爆撃など非人道的攻撃は実行していた。
 台湾人は日本国籍を持つ日本国民として、日本人の戦友・友人であるとの認識・覚悟で日本軍兵士に志願して日本人と共に戦った。
 同じ日本国籍所有者である朝鮮人は?
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 8月15日18:32 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「広島と長崎に原爆投下後、「原爆の父」オッペンハイマートルーマン大統領に言ったこと
 「原爆の父」と呼ばれる物理学者ロバート・オッペンハイマー Photo by ullstein bild/ullstein bild via Getty Images
 マンハッタン計画を主導し、「原爆の父」と呼ばれたJ・ロバート・オッペンハイマーは、広島と長崎への原爆投下を見届けた後、ホワイトハウストルーマン大統領と会談していた。だがトルーマンはこの時のオッペンハイマーのある言葉に激怒して、それ以降、二度と面会を許さなかったという。
 【画像】広島と長崎に原爆投下後、「原爆の父」オッペンハイマー米大統領に言ったこと
 あいつは「泣き虫科学者」だ
 広島に投下された原子爆弾が、生命を破壊し、世界を変えたとき、J・ロバート・オッペンハイマーは、ニューメキシコ州ロスアラモスの聴衆からの盛大な拍手を浴びながら、ボクサーのように手を握りしめ、祝った。
 1945年8月のその日、興奮を覚えたオッペンハイマーは、原爆が設計・製造されたこの場所で、唯一の心残りについて聴衆に語った。それは、計り知れないほど多くの人々が犠牲になったことではなく、第二次世界大戦初期に「ナチス・ドイツ相手に原爆を使用するのに開発が間に合わなかった」ことだった。
 しかし、オッペンハイマーの勝利の感情は、広島の3日後にもうひとつの原爆によって長崎が破壊された後には消え失せていた。彼は長崎への原爆投下は不必要で、正当化されるものではないと考えていたのだ。
 同年10月、ハリー・トルーマン大統領とホワイトハウスで初対面した際、オッペンハイマーの表情にあからさまな反感が見えたため、大統領はどうしたのかと彼に尋ねた。
 カイ・バードとマーティン・シャーウィンによる2005年の伝記『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』によれば、オッペンハイマートルーマンにこう言った。
 「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」
 それを聞いたトルーマンオッペンハイマーに原爆の重荷を背負うべきではないと伝えたと、レイ・モンクが執筆した2012年の別の伝記『Robert Oppenheimer: A Life Inside the Center』(未邦訳)には書かれている。
 「私は彼に、血塗られているのは私の手なのだから、私に任せるように言った」
 だがトルーマンは内心では、オッペンハイマーが原爆に対して後悔の念を抱いていたことに激怒し、側近の前では彼を「泣き虫科学者」と呼んだという。
 「あいつの手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん」
 トルーマンはのちに、国務長官ディーン・アチソンにこう語っている。
 「あのクソ野郎をこの大統領執務室で二度と見たくない」
 オッペンハイマートルーマンが対面したのはこの時が最初で最後で、オッペンハイマーは、何億人もの人々の命を奪いかねない核軍拡競争を回避する唯一の機会を逃したと考えた。
 「彼は大統領を説得できず、残念ながら大統領は彼を気に入りませんでした」と、オッペンハイマーの孫のチャールズ・オッペンハイマー(48)は言う。
 「祖父は正しい助言をしたのに、大統領はそれを受け入れませんでした。祖父が『私の手は血塗られている』と言ったことが、明らかにトルーマンを不快にさせたのです」
 「彼は私たちに自滅の力を与えた」
 核爆弾が日本に投下されてから78年目の2023年夏、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』公開を受けて、「原爆の父」として知られるオッペンハイマーの人生とレガシーにあらためて注目が集まっている。
 ピューリッツァー賞を受賞したバードとシャーウィンの伝記を基にしたこの映画は、「超大作」として早くから高い評価を得ているが、ノーランによれば、作品を見終えた観客のなかには「すっかり打ちのめされた」人もいるという。
 「オッペンハイマーは史上最も重要な人物だと私は考えています」と、ノーランは米CBSの番組「サンデー・モーニング」で語った。
 「オッペンハイマーのストーリーは、想像しうる最も重大な物語のひとつです。原子力を解き放ったことで、彼は私たちにかつてない自滅の力を与えたのです」
 1967年に死去したオッペンハイマーへの関心は、映画の公開を機に異様な盛り上がりを見せている。ウクライナに侵攻したロシアが核兵器の使用をちらつかせていることから、オッペンハイマー核兵器に対する見解は今日でも有意義だと指摘する歴史家もいる。
 「この映画が大きな関心を呼び起こしているのは、オッペンハイマーはいま、ある意味で現代を代表する人物だからです」と、伝記作家でサウサンプトン大学の哲学名誉教授でもあるモンクは言う。
 「原爆の開発における彼の中心的な役割と、第二次世界大戦後の原爆をめぐる論争を背景に、いまだ私たちを悩ませるこの問題を象徴する人物として彼に対する関心が復活したのです」
Timothy Bella
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 原爆開発に関係した、昭和天皇はもちろんフランクリン・ルーズヴェルトチャーチルなどの国家元首東条英機やグローブスなどの軍人達、アインシュタインオッペンハイマーら科学者達、その他多くの者達は、原爆1発で大都市を破壊し数十万人の人を一瞬で生きたまま焼き殺し、重度の火傷や放射能被爆で深刻な健康被害をもたらす事を知っていた。
 それ故に、昭和天皇は、非人道的な大量破壊兵器・無差別殺傷兵器であるとして東条英機らに原爆開発中止を厳命した。
 東条英機昭和天皇の命令を受け入れて中止を決断したが、原爆開発推進派は弱腰とみなして首相兼陸将の地位から追放した。
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 日本民族は皇民・臣民として、愛国主義民族主義軍国主義から命を捨てても昭和天皇と皇族を守っていた。
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 8月4日 YAHOO!JAPANニュース ブックマーク「朝日新聞はなぜ原爆投下の日を「平和到来の日」と書いたのか
 「原爆ドーム」の名で知られる「広島平和記念碑」(他の写真を見る)
 毎年8月には原爆関連の報道が増える。被害の凄まじさを伝えるものもあれば、核廃絶へのメッセージを込めたものもある。スタンスはさまざまだが、あのような悲劇が二度と起きないことを願うという点は一致しているかもしれない。8月6日、9日は広島と長崎で数多くの市民が犠牲になった日である。
 ところが、かつて原爆投下の日を「平和到来の日」と表現していた新聞がある。
 朝日新聞1947年8月7日の1面トップ記事の見出しは、
「『広島の教訓』生かせ マ元帥・平和祭にメッセージ」。
 前日の8月6日、原爆投下の日に行われた「平和祭」にGHQマッカーサー元帥がメッセージを寄せたことを伝える記事だ。
 マッカーサーは、原爆を「未だかつてなかった強力な武器」としたうえで、8月6日は「苦悩の運命の日」だと言い、こういう武器が人類を絶滅させかねないことを「全世界人類へ警告する助けとなった」として、「これが広島の教訓である」と述べたという。
 投下した側の言い分としては不自然ではないだろう。彼らは投下から今日に至るまで、原爆投下は戦争を終わらせるために仕方がなかった、という主張をしてきた。
 この記事で注目すべきは、そのあとに続く、記者が書いたと思しき締めくくりの文章だ。
 「『平和祭』は八月六日が平和到来の日として記憶されなければならない日であること、そして広島市民が世界平和に貢献するため覚悟を新たにすることができる日であるという考えのもとに催されるものである」
 繰り返すまでもないが、「8月6日」は平和到来の日ではない。アメリカ軍が投下した原爆によって35万人の市民のうち14万人前後が1945年末までに亡くなったとされている。その後亡くなった方、後遺症で苦しんだ方も数多くいる。
 最初から多くの市民が犠牲になることがわかっての爆撃は、当時であっても戦争犯罪である。そもそもこの日に平和が到来したというのならば、8月9日は何だったのか。
 もちろん、この経験をどのように捉えるか、生かすかは個人の自由かもしれない。しかしながら、少なくとも投下した側に「教訓」を説教されるいわれはないだろう。日本人であれば、「平和到来の日」ではなく「数多くの同胞が殺された日」と考えるのが自然ではないだろうか。
 この記事の下には「追悼と平和への祈り 昨朝広島市で『平和祭』」というレポート記事もある。ここでも原爆投下を「平和へのスタート」だと述べ、平和祭でマッカーサーらのメッセージが読み上げられた、と上の記事と同様のことが書かれている。まるで原爆が落ちたことをお祝いしているかのようなトーンにも読める内容なのだ。
 おそらく同様の報道を現在行ったら、猛烈な批判を浴びるだろうが、投下からわずか2年、今以上に被害が生々しかったはずの当時、なぜこのような無神経な表現が新聞に載っていたのか。
 戦争は8月15日で終わったわけではない。占領後もアメリカは日本に対する心理戦を継続していた。彼らはメディアを支配し、法や制度を思うままに変え、時に天皇までも利用して目的を達成していったのだ――
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 GHQが日本人に対して行っていた「心理戦プログラム」
 これこそが占領後、GHQが日本人に対して行っていた心理戦プログラム、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムWGIP)」の成果だ、と解説するのは有馬哲夫・早稲田大学教授である。有馬氏は新著『日本人はなぜ自虐的になったのか』で、米英などの公文書をもとに、このWGIPの全貌を明らかにしている。どのようなことが行われていたのか、有馬氏に解説してもらった。
 「残されているWGIP文書には、その目的として“一部の日本人およびアメリカ人が、原爆の使用は『残虐行為』であると考える傾向をなくすこと”と“日本人が極東国際軍事法廷の判決を受け入れる心の準備をさせること”とあります。
 より広い目的としては、日本人に戦争の責任は日本側(の軍人)にある、ということを周知させるというものもありました。
 そのために新聞、雑誌、書籍、ラジオ、映画を使ったことも記録されています。彼らの論理では、原爆投下は、悪い日本の軍閥がやった戦争への当然の報いであり、戦争を終わらせるためには仕方がなかった、ということになります。だから『平和へのスタート』ということになるわけです。そして、そうした主張を新聞などにまるで日本人が自発的に書いたものであるかのように載せさせていたのです。
 朝日新聞は、ある時期以降は反米的な論調も目立つようになりますが、占領下においてはきわめてGHQにとって使いやすいメディアでした。別の文書でも、極東国際軍事法廷での検察側の最終論告の全文を掲載するよう促す先として、わざわざ朝日新聞の名を挙げています。実際、その記事は掲載されています」
 44代目アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ
 2016年5月27日に広島を訪問した第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(他の写真を見る)
 なぜ「原爆」を「平和」と言い換えたのか
 有馬氏はこう続ける。「広島や長崎に現在もある施設などには『平和』という言葉が目立ちます。広島の資料館は『平和記念資料館』、原爆投下地にあるのは『平和の鐘』。長崎は『原爆資料館』ですが、作られた像は『平和祈念像』で、『平和公園』の中にあります。
 原爆という言葉によって、占領軍への憤激や恨みの気持ちを再びかきたてられるのをおそれて、こういう言い換えを強いたのです。
 しかも、この種の記念館の説明パネルの多くは、アメリカの言い分をそのまま紹介しています」
 ここで公平を期しておけば、当時、GHQの意向に従っていたのは朝日新聞だけではない。すべての言論機関、メディアは検閲され、アメリカにとって都合の悪い情報を発信することができなかったのだ。問題は、WGIP開始から70年以上経った今もなお、その影響が日本人に見られることだ、と有馬氏は言う。
 「2015年にアメリカの世論調査会社(ピュー・リサーチ)が示したところによれば、日本人の14%は原爆投下を正当であると答えた、とあります。原爆に関しては完全に被害国であるのは明らかなのですが、こんなにいるのはいまだに心理戦の呪縛があると考えていいのではないでしょうか。
 近年でもアメリカ政府の公式見解は、『原爆投下は正当である』です。しかしアメリカのメディアでも、『原爆投下が終戦を早めたというのは本当なのか』という懐疑的な視点での番組も制作され、評価されています。
 ところが不思議なことに、日本人にも『正当である』という人が一定数存在し、NHKなども、アメリカの見解に沿ったような番組作りを未だにやっています。
 これに限らず、戦時中のことであれば、反射的に『日本が悪かった』と考える『自虐バイアス』を持つ人がいます。そのような姿勢こそが良心的だとでも言いたげです。これはWGIPによって植え付けられたものだと私は考えています」
 デイリー新潮編集部
 2020年8月4日掲載
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 8月6日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「『バービー』を巡る原爆軽視は氷山の一角。日本人精神科医アメリカで感じてきたこと 二度と繰り返さないために 前編
 内田 舞
 1945年8月6日広島に、そして8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。5月には広島でG7が開始され、参加国の首相たちが、平和記念公園で献花し、平和記念資料館を訪れた。しかし、78年という経過とともに、原爆の記憶を語る人たちも少なくなっている。また、ロシアのウクライナ侵攻でも兵器として核兵器使用をちらつかせるなど、核への恐怖を身近に感じることも増えている。
 そんな中、SNS上でふたつの映画をモチーフにした原爆を揶揄するようなファンアートが多数配信され、炎上問題に発展した。
 「長くアメリカに住んでいますが、日本とアメリカでは一般の人々の原爆に対する意識は大きく異なり、衝撃を受けることも少なくありません」と語るのは、著書『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)が話題のハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞さんだ。内田さんにとって、広島は祖父の出身地であり、現在も親戚が多く住み、幼い頃から広島での原爆体験を聞いて育ってきたという。その内田さんがアメリカで感じた原爆に対する価値観の違いについて、前後編で寄稿いただいた。
 #Barbenheimerからわかる日本との認識の違い
 6月からアメリカのSNSに登場していた「#Barbenheimer」というハシュタグ。世界的にヒットした着せ替え人形バービーの実写映画化の『バービー』と、原爆の父と称される学者の人生を描いた『オッペンハイマー』という全く異なるトーンこの2つの映画のタイトルを組わせた俗語です。
 このまったくタイプが異なる2つの映画が米国で同日公開されることから、6月に入ってからSNSではファンによるさまざまな動画やコラージュなどファンアートが展開されていました。TiKTokでは、黒いスーツを着て『オッペンハイマー』を見てから、スーツを脱ぐと下には『バービー』のイメージカラーのピンクのキラキラ服を着ていて、「次は『バービー』!」という動画。他にも、本当は『バービー』を観たくて映画館に来た二人の男性が、互いに『バービー』を観に来たと本音を打ち明けるのが恥ずかしく、「もちろん『オッペンハイマー』を観に来たよ」と嘘を付き合うが最終的には「男性が『バービー』を楽しんで何が悪い!」と『バービー』の上映室に一緒に行く、という動画などがアップされていました。こういったファンアートに#Barbenheimerのタグがつくようになり、最初は、配給会社の垣根を越えた今までにないマーケティング作戦を行っているのかな、と楽しんで見ていました。
 ところがこの#Barbenheimerは、ネットミーム(インターネット上で言葉や画像、動画などの情報が、人から人へ真似されて広がること)によって、次第に過激な盛り上がりを見せ始めたのです。原爆を象徴するきのこ雲をピンクに染め、そこに仁王立ちする『バービー』主演のマーゴット・ロビーの姿や、まるで花火を眺めるように原爆の爆発で盛り上がる『バービー』出演者たちをモチーフにした動画。『オッペンハイマー』主演のキリアン・マーフィーに似せた男の肩に乗ったバービーが原爆爆破の炎を背に満面の笑みを浮かべているというフェイクの画像や動画がネットに溢れたのです。
 そして、そのフェイク画に、7月21日に、『バービー』の公式X(旧Twitter)アカウントは「It’s going to be a summer to remember(忘れられない夏になる)」と投げキスをするアイコンとともにコメントをし、これに対し、「これは許せない」「原爆の真実を知らなすぎる」というコメントや、アニメ『はだしのゲン』の動画や原爆被爆者の方の被害写真で、日本国内をはじめ世界から批判や抗議をする声が広がっていきました。
 ワーナー ブラザース ジャパンは、公式X上で、「#Barbenheimerのムーブメントや活動は公式なものではありません」と説明し、アメリカ本社に対して「きわめて遺憾であり、然るべき対応を求めていく」と述べ、8月1日、本社のワーナー・ブラザース・フィルム・グループは、公式Xアカウントで好意的なコメントをしたことについて謝罪を表明しました。
 本来、映画が伝えたかったこととは
 公式アカウントの対応には問題があったと思いますが、純粋に作品という視点でみれば、私は2作品ともに観たいと思っています。前評判では『バービー』はポップなフェミニズムをテーマにした楽しい映画だと言われています。
 ポップなフェミニズム作品と言えば、私は日本の女性観に問題を感じていた大学時代、リース・ウィザースプーン主演の『キューティ・ブロンド』という映画に救われました。私は当時、古き良き日本文化の中で求められる男性の3歩後ろに下がった女性像も、その真逆に描かれたストイックなキャリアウーマンの女性像も自分には合わないとストレスを感じていました。そんなとき観た『キューティ・ブロンド』は、単純なストーリーでありながらも、社会に提示された型にはまらず、私は私のままでいいのだ、という力を貰えた映画でした。リースが演じる主人公エルは、綺麗な服が好きでキャッキャと女友達と楽しい会話をしながら、ファッションの知識やポジティブな視点を武器に、ハーバード大学の法学院生として殺人事件を解決し被告を守る姿は、爽快で勇気を与えてくれました。『バービー』にも同じような、エンパワメントするエネルギーをもらえたらいいなと願っています。
 もうひとつの映画『オッペンハイマー』の主人公であるJ・ロバート・オッペンハイマーという人物について私が知ったのは、夫と付き合い始めた15年ほど前のことでした。チェリストで当時イエール大学音楽院の博士課程にいた夫は、オペラ作家でグラミー賞にも輝いたことがあるジョン・クーリッジ・アダムズが特別講師として彼の代表作であるオペラ『ドクター・アトミック』を題材にした授業をしたのです。夫はその授業を受けた後、とても感動して帰ってきました。
 オペラ『ドクター・アトミック』は、オッペンハイマーの生涯を描いた作品です。ドイツで教育を受け、ユダヤ人物理学者として第二次世界大戦の終焉を強い目的に掲げ、「ロシアよりも先に作らなければならない」と、物理学の知識を提供した原子爆弾を制作を指揮したオッペンハイマー。このオペラでは、科学的な前進と人類にとってのモラルの葛藤が丁寧に描かれていたそうです。この話を夫から聞いて気になり、オッペンハイマーについて調べると、原爆開発に関わった科学者27名連名でヒロシマナガサキへの原爆投下に反対する訴えをアメリカ政府にしていたこと、原爆投下後には核兵器開発の研究を打ち切りを強く訴え続けたことで「共産主義のスパイ」という疑いをかけられ米国政府から遮断されたこと、そして自身が関わった兵器が多くの人の人生を崩壊してしまったことに晩年までうなされ続けたことを知りました。
 当時感銘を受けた夫とオペラ『ドクター・アトミック』のシーンを映像で見ながら、高校時代に隣のクラスが文化祭で上演した野田秀樹作の原爆をテーマにした演劇『パンドラの鐘』を見た時の感動を思い出したのです。今回の映画『オッペンハイマー』が反核兵器、反戦争のメッセージを伝えてくれるような作品であってほしい、でも、アメリカ映画にそれができるだろうか、と少し不安に思う部分もあります。これは後編で詳しくお話しますが、アメリカでは原爆に対する認識が日本とは異なる部分があるからです。学生時代から、そのことを幾度となく経験してきました。
 MoMAで見たキノコ雲アートに感じた心地悪さ
 日本で生まれながらも、幼い頃から他国で生活することが多く、現在アメリカで暮らす私は、「原爆で起こった出来事を自分が関わる社会にきちんと伝えたい」と思っています。これは、小学生の頃から胸に秘めていた「使命」でもあると思っています。
 私の父方の祖父は広島県出身で、今でもたくさんの親戚が広島で暮らしています。広島を実際に訪れた際には、瀬戸内海の島の美しさや、お好み焼きと魚介のおいしさに魅了されながら、原爆を含めて戦争に関する色々な話を祖父や親戚から聞きました。小学1年生のときに読んだ『はだしのゲン』、学校の社会科実習で第五福竜丸被爆者との会話、高校時代に見た『パンドラの鐘』、そして祖父や親戚の実体験の話……。そのひとつひとつが、世界の中で唯一の被爆国である日本、日本人としての私にとても大切な体験でした。
 漫画家の中沢哲治さんが広島の被爆体験をマンガにした名作『はだしのゲン』。日本でも広島市平和教育の教科書から削除したことで、物議を呼んでいる。『はだしのゲン汐文社
 漫画家の中沢哲治さんが広島の被爆体験をマンガにした名作『はだしのゲン』。日本でも広島市平和教育の教科書から削除したことで、物議を呼んでいる。『はだしのゲン汐文社
 © 現代ビジネス
 私は戦争に反対です。私は核兵器使用に反対です。そう強くはっきり言い切れる姿勢を作ってくれたのは、間違いなく、日本の方々が自らの体験を語ってくれた人間としてのストーリーでした。私自身は戦争を知らない戦後世代ですが、戦時中に起こった出来事は、世代が変わっても語り継いで、そしてそれを世界に伝えていかなければならないと感じています。
 そう感じるようになったのは、アメリカで原爆があまりに語られていないことを知ったことでした。そのことに最初に気づき、「これは違う」と感じたのは小学校高学年か中学生になったばかりの頃でした。アメリカでも第二次世界大戦について語られることはありますが、ヒットラーユダヤ人大虐殺について多く語られます。そして、映画やドラマといったメディアなどでも題材として多く扱われるのは、その後の冷戦に突入してからのロシアとの駆け引きなどが中心です。原爆投下に関しては、「投下した」という事実以外はほとんど語られることがありません。実際、人間が体験したストーリーとして語られることがほとんどないのです。
 高校時代、ニューヨークの近代美術館(MoMA)に行った際、大きなきのこ雲の写真をモチーフにした作品の展示があり、それを見たときに私が感じた何とも言えな居心地の悪さについて、「アメリカでは芸術作品やテレビのジョークできのこ雲を目にすることはあるが、その下にいた人々はそこには映し出されない。きのこ雲の下にいた人間たちは見えない」と、美術の授業の課題で書いたことがありました。
 また、ハリウッド映画や舞台芸術でも核戦争後の世界を反ユートピア的に描かれる作品は多いですが、それらを見るたびに、「核戦争後の反ユートピア的世界に行きつくまでの人々の耐えがたい苦しみは描かれていない」と、アメリカと日本の原爆に対する意識の違いについて違和感を覚えるようになりました。
 美術作品や映画、また言葉のフレーズには、社会の中で共有されている考え方が映り、それが消費されることで、その考え方が「固定観念」に変わっていきます。核兵器や核戦争がこのように描かれているアメリカでは、“Go nuclear”(核兵器を使うかのように攻撃的になる)というフレーズが日常会話で使われることも多く、核兵器や核戦争についてとても「軽い」扱いがあることに気付かされることがたびたびあります。
 そういった核兵器や核戦争に対する意識が変わるためには、統計や政治的議論ももちろん重要ですが、何よりも「人の経験への共感」が必要だと思うのです。
 ◇後編『「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉』では、内田舞さんがアメリカ人の学生たちディスカッションしたエピソードを中心に、原爆投下や特攻隊について異なる認識を持っている人たちに何を伝えたか、を寄稿してもらう。
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 8月6日 後編「「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉
 二度と繰り返さないために 
 著者 内田 舞 プロフィール 医師
 原爆の爆風を背に万感の笑顔で原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーの肩に乗るバービー……。これは、SNSで#Barbenheimerのハッシュタグで、物議を呼んでいる。アメリカで『バービー』と『オッペンハイマー』という異なる作品が同日公開だったことによるネットミーム(インターネット上で言葉や画像、動画などの情報が、人から人へ真似されて広がること、また、広げる人たちのこと)が仕掛けた悪ふざけだったのだが、内容が内容だけに悪ふざけでは済まない自体に発展している。
 非公式の#Barbenheimerだが、映画を越え、アメリカではTシャツなどを販売する人たちも……。出典/ebay
 実際に、2015年の米国世論調査機関「ピュー・リサーチセンター」の調査では、広島と長崎への原爆投下について、18歳から29歳のアメリカの若者の47%が「正当だった」と解答している。
 「アメリカに住んでいると日本では原爆に対する意識が大きく異なると感じる場面は多々あります」というのは、著書『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)が話題のハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞さんだ。前編に引き続き、内田さんが実際にアメリカの学生たちと対話したエピソードなどを中心に、原爆への思いを寄稿いただいた。
 前編はこちらから
 『『バービー』を巡る原爆軽視は氷山の一角。日本人精神科医アメリカで感じてきたこと』
 アメリカの学生との対話で感じた想い
 10年以上前のことですが、アメリカ人の学生とこんな会話がありました。その学生は日本語を学び、日本を訪れたときに広島の原爆記念館を訪ねたそうです。そこで日本人が「こんなことをしたアメリカ人は絶対に許せない」と言っていたのを聞き、それに反感を覚えたと話しました。
 「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない? そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」
 アメリカでは、ナチスドイツについては映画作品なども多いことから知識として知っている人が多い。こちらは現在のアウシュビッツ収容所跡。photo/iStock
その場にいた日本人は私ひとりだったので、とても孤独な状況でしたが、私は勇気を出してこう発言しました。
 「日本が他国にした酷いことはもっと語られなければならない。戦時中、日本国政府が日本国民に発したメッセージの問題に対しても、もっと学ばなければいけないことはたくさんある。日本国政府が当時、国際政治の中でのよくない判断があったことも間違いない」
 さらに続けてこう言いました。
 「でも、それでも私は、日本から『Never Again(二度と繰り返さない)』というメッセージは発し続けなければならないと思う。
 誰かの責任だということは簡単だけど、それだけが注目されるべき問題ではない。核戦争や核兵器についての議論が『冷戦での使用を防ぐための投下』というような、『理論的には』と、実体験から隔離された机上の空論のように語られることは良くないことだと思う。実際、原爆投下後のヒロシマナガサキでどれだけの人がどのように亡くなったのか……。 投下とともに熱波で瞬間的に消えてしまった命、爆風にとばされた人、ガラスのかけらが体中に刺さった人、皮膚がとけ落ちてしまった人、ひどい火傷で川に飛び込んで亡くなった人、白血病で血を吐きながら亡くなった人、親を亡くした子どもたち……。もっともっと様々な生き様がそこにあり、その人々のストーリーなしには核兵器は語られるべきではない。それがNever Againに繋がると思う」
 さらに、同じ会話の中で、アメリカ人の大学生から「9.11とカミカゼ特攻隊を比べるのを嫌がる日本人がいるのもおかしい」という発言がありました。
 私は「航空機で突進する、という点で、9.11のテロリストとカミカゼ特攻隊の類似点はわかる。そして戦争中ではないときに、一般市民を無差別殺人した9.11のテロリストと特攻隊の加害は違う、という人がいるのもわかる。でも、何よりも『カミカゼ』という言葉でしか特攻隊のことを知らずにイメージするものと、実際の人のストーリーを通して抱くイメージは全く違うものと思うよ」と話ました。
 それぞれの立場で感じ方は違う
 私は、両親が以前「特攻の町」知覧を訪れたときに買ってきた本がとても印象的だったので、アメリカにも持って来ていました。私はその本を見せて、本の中に掲載された出陣の前に親や好きな子宛に書いた特攻隊員の手紙を訳しました。
 「今更だけど読みたい本」の題名を綴った手紙、特攻への恐怖を綴った手紙、好きな子への想いを綴った手紙。写真を見るとまだあどけない10代の思春期の子どもの特攻隊員もいたことを伝えました。
 私の発言を聞いていたアメリカ人の友人達は「単なる敵国のクレイジーな戦略だとしか教わってこなかったが、こんなに若い子たちだったなんて知らなかった……。こんな子どもの兵士が、心の中では怖いと思いながら飛んでいたなんて考えたこともなかった」「舞が話してくれなかったら一生知らなかったと思う」とさまざまな感想を伝えてくれました。
 特攻隊は10代、20代前半の学生などの若者が多かった。そういった事実を知っているアメリカ人は少ない。photo/Getty Images
 このときは、この場で日本人が私ひとりだったこともあり、日本の人のストーリーをここで語れるのは私しかいないという重圧と、だからこそ湧く使命感を感じ、「わかってもらえるだろうか」と不安を抱えながら、私なりの言葉で伝えたのですが、学生たちの優しい言葉を受けて、なんだかわからないような感情が溢れてきて、皆の前で泣いてしまいました。
 このときの出来事には何も後悔はありませんが、実はこの話には続きがありました。後日、とても仲が良いシリア人とスペイン人のハーフの友人に「学生たちとこんな対話があったんだよ」と話すと、彼は「僕は9.11のテロリストと日本の特攻隊の違いもわかるけど、どちらも不道徳で腐敗した国家や権力の下で犠牲になった若者だったという点は同じなのではないかと思う」とちょっと怪訝な顔で言ったのです。
 この言葉を聞いて、私はシリア人である彼にとって9.11にまつわる話題をアメリカで語ることがいかに居心地の悪いものであるか、そして当時多発テロだけでなく、実際内戦中のシリアで何が起きているのか、それが一般市民にとってはどのような経験なのか、そういった母国を持つ彼にとってこの話題はどんな思いなのか、といったことを考えずに話してしまったなと、ハッとしました。
 私が謝ると、その場にいたもう一人の友だちが「同じことを話しても受け取り方が違うことの背景にハッとすることや、『やっちゃった』という体験を通して、私たちの中で理解や共感が生まれるんじゃないかな」と語ってくれました。確かに、互いの理解を深めるためには、対話を重ね知ることがなければ、理解や共感は生まれません。とても大事な言葉をもらったと感じました。そう話してくれた友人はその後国境なき医師団に入り、シリアから亡命した難民の精神科医として活躍しました。未だに仲の良い、尊敬している友人です。
 体験した人たちの声がいかに大事か
 私は今年『ソーシャル ジャスティス小児精神科医、社会を診る 』という本を書きましたが、その中で第6章に「ベトナム帰還兵との対話 ThemとUsは簡単に分けられない」というタイトルで、私がイエール大学の研修医だったときに受け持った患者さんとの対話を綴りました。
 ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵である患者さんは、ベトナムでのトラウマからアジア人を心から嫌う人種差別家となってしまい、そしてPTSDの治療のために来た病院で割り当てられたのが日本人である私だったという実話です。この帰還兵さんと出会ったときには、彼の差別的な言葉に圧倒されて、私も彼に嫌悪感を抱きました。しかし、彼が「おまえは何人だ?」と質問したのに対して、私が「教えてあげるけど、まずはなんでそれを知りたいかを教えてほしい」と返したことで、彼の様々な体験と正直な思いを語ってくれることとなったのです。
 帰還兵の中には、PTSDになる人も多かったベトナム戦争。内田医師は、実際に治療に関わっている。photo/iStock
 それから2年間、彼は治療のため毎週通院しました。そして、私との対話を重ねることで、次第に彼の心が変化していく姿を目の当たりにしたのです。この体験は私にとって、戦争やトラウマという体験の複雑さも含め、分断の反対側にいるように見える人とも、心の交流を通して分断を乗り越えられるという希望を抱かせてもらったと同時に、人々の行動や感情の発露に注目して耳を傾け、一面的でなく多面的に向き合うことの大事さを改めて学ばせてもらった体験でした。「経験の共有が共感を作る」、そして「その共感が平和を守る」……私はそう信じています。
 しかし、人生の中で出会える人の数は限られています。だからこそ、芸術やメディアを通して知ることのできる他の人のストーリー、経験には価値があるのです。
 『ソーシャルジャスティス』の第5章では、「アメリカ社会の差別から学ぶ アジア人男性とハリウッド」という問題に触れ、メディアに映し出されるかが、いかに人々の考え方に影響を及ぼすものかを語りましたが、その中で「世界中の人々の多様な経験を反映させた物語を想像する」というディズニーの提言についても次のように綴りました。一部抜粋します。
 以前、第二次世界大戦末期の硫黄島での日米の戦いを、日本兵の視点で描いたクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見たアメリカ人が、「敵国の日本人にも家族や彼女がいたりして、それぞれの思いで戦争を生き抜いたことを初めて知った」と答えている印象的なインタビューを見たことがあります。それまでアメリカで観た戦争映画では、敵国の軍人たちはただ敵として描かれるだけで、それぞれの暮らしぶりや顔が思い浮かぶことがなく、彼らの人生や物語について考えるきっかけがなかったのだと。しかし「世界の様々な人の経験を描く」ことは、自国中心の歴史観の裏に隠れていた、いくつもの生きた声に触れることを可能にしてくれる。そのなかで単純な敵・味方にとどまらない歴史観が育まれるのだと思います。
 アメリカやヨーロッパで核兵器に関して議論される際、私は日本人として、どうしても違和感を感じることが少なくありません。それは、核の抑止力のような核兵器にまつわる理論や核兵器保持の必要性を正当化する政治的な背景ばかりが議論され、実際核兵器が使用された後の人々の苦しみの悲惨さが語られないからです。こう感じるのは、私が日本で受けた教育や、『はだしのゲン』などの漫画や、井伏鱒二の『黒い雨』などの小説、そして広島出身の祖父や親戚の実体験から、実際に核に翻弄された人々の人生を知る機会に恵まれたからでしょう。日本から世界に伝えなければならないストーリーが広く語られることを祈っています。
 『ソーシャル ジャスティス小児精神科医、社会を診る 』より
 私はこうして海外在住の日本人である私の経験を共有する機会をいただけて、とても光栄です。そして、これからも日本の人間のストーリーを世界の中で語っていくつもりです。
 ヒロシマナガサキから「Never Again(二度と繰り返さない)」のメッセージを世界に広めていくこと、世界唯一の被爆国の日本だからこそできる、とても重要な平和へのアクションだと思うのです。
 広島・長崎のひとたちだけでなく、日本人として世界に「Never Again(二度と繰り返さない)」と伝え続けていきたいと、内田医師は語る。photo/iStock
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 8月6日 MicrosoftStartニュース ハフポスト日本版「「キノコ雲は非人道的」とならないアメリカの原爆観。識者に聞く、映画『バービー』と原爆ミームの背景
 「キノコ雲は非人道的」とならないアメリカの原爆観。識者に聞く、映画『バービー』と原爆ミームの背景
 © ハフポスト日本版
 アメリカの大学で「原爆論説」などを教える宮本ゆきさんと、著書
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 「#バーベンハイマー(Barbenheimer ※)」がアメリカで盛り上がりを見せ、原爆を想起させるキノコ雲をポップに表現するネットミーム(ネタ画像)が次々に生まれた。
 映画『バービー』のアメリカ公式X(Twitter)アカウントの度を超えた「ノリ」や、日米のネットミーム文化の違いも背景にある。
 だが今回の件で改めて突きつけられたのは、原爆や核兵器がもたらす被害の悲惨さや非人道性を軽視し、ポップなキノコ雲がアイコンとして好まれ、受け入れられる土壌がアメリカに依然としてある、という現実だ。
 原爆は「必要悪」であり、核保有を正当化する社会規範がアメリカ国内の市民レベルで今も浸透している。その根底には何があるのか。
 アメリカの大学で20年以上にわたり「原爆論説」「核の時代」の講義を受け持ち、著書に『なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識』(岩波書店)がある宮本ゆきさん(デュポール大学教授)と考えた。
 ※『バービー』と原爆開発者の半生を描いた『オッペンハイマー』という、アメリカで同じ日に公開された2つの映画のタイトルをもじって生まれた。
 「原爆は50万人のアメリカ人の命を救った」という神話
 宮本さんは例年、講義で学生たちに「原爆をどのように習ったか」を問う。
 すると、学生の大多数は「原爆によって戦争終結が早まった」「結果的にアメリカ兵の命を救った」と答えるという。「日本人の命を救うことにもなったのでは」と付け加える学生もいる。
 「学生たちは大学までの教育の中で、原爆で破壊された広島や長崎の街を写真で見ることはあっても、人的被害を見る機会はまずありません。原爆の被害が語られないまま、『50万人ものアメリカ人の命を救った』という神話が70年以上も継承されています。
 『核があるから守られる』という核抑止論も、大学でいまだに王道の理論として教えられています」(宮本さん)
 それでも、宮本さんがアメリカで教壇に立ち始めた20年ほど前は、ジャーナリストのジョン・ハーシーが広島の原爆被害や被ばく者のインタビューをまとめた『ヒロシマ』を読んだことのある学生が約40人のクラスのうち3分の1ほどはいた。今はその数がほんの数人にまで減っている。
 2歳の頃に広島で被ばくし、白血病のため10年後に亡くなった佐々木禎子さんの話を知る学生も今はほとんどいないという。
 「広島や長崎の原爆被害をめぐる物語が軽視され、急速に忘れられている」。宮本さんのその印象を裏付けるかのように、2019年には、シカゴ市内の公立高校の図書館で上述ハーシーの『ヒロシマ』が大量に破棄されたことが地元メディアで報じられ、波紋を広げた。
 「あくまで個人的な感覚」と前置きした上で、この20年の変化を宮本さんは次のように考えている。
 「20年ほど前は、JETプログラムなどに参加して来日し、語学指導に携わった人たちが、帰国後に教職に就くことが多かった。日本で異なる歴史観や文化に触れた先生が、アメリカで学生たちに原爆の話を伝えることがありましたが、今はそうしたケースが減ってきているように思います。また、2001年の9.11事件で関心が一気にそっちに向いた、ということもあります」
 原爆投下から70年以上たち、「心理的な遠さ」も加速している。
 「20年前だと、『祖父が戦争に行った』という学生がとても多かったです。『おじいさんがフィリピンで日本軍の捕虜になって、日本に連れて行かれ壮絶な体験をした。アメリカに帰ってくることができたのは、原爆があったから』という家族内のストーリーで育った学生もいました。
 ですが、今は身内に第二次世界大戦を経験している人がほとんどいないので、原爆は全くの昔話なんです。逆に心理的距離が遠い上に習う場もないため、客観的に原爆を見ることができる半面、その原爆観は浅薄なものになりがちです」
 原子力核兵器に出合うのは「エンタメ」だけ
 「#バーベンハイマー」の社会現象化と共に生まれたミームの中には、原爆や核実験を連想させるキノコ雲の描写が使われたものも多くあった。宮本さんは、キノコ雲が表象するものに日米で違いがあると言う。
 「日本では、キノコ雲は非人道的な核兵器の被害と結びつくので、その雲の下にいる人たちの惨状や犠牲に気持ちを向ける人が多いと思います。でもアメリカにその発想はありません。
 アメリカの多くの人にとって、キノコ雲は遠くから、あるいは上から俯瞰してみるものであり、『他国を凌駕する軍事力』や『科学の進歩』の象徴なのです。ナチス・ドイツハーケンクロイツのように悪いシンボルだという共通認識がないことも、今回のネットミームで無邪気に使われた理由の一つでしょう」
 「キノコ雲は非人道的」とならないアメリカの原爆観。識者に聞く、映画『バービー』と原爆ミームの背景
 © ハフポスト日本版
 映画『バービー』の主演俳優の髪が、キノコ雲のような画像に加工されている
 教育現場で原爆や核兵器を知る機会がほとんどない中で、触れる場として唯一と言っていいのが「エンタメ」だと宮本さんは言う。「若い世代で核や原子力が話題に上るのは、ほとんどの場合でビデオゲームや映画などのエンタメ表現だけです」
 『キャプテン・アトム』『スパイダーマン』『ハルク』『アイアンマン』━━。アメリカのスーパーヒーロー作品では、「放射能を取り込む=超人的な力を得る」という物語が再生産されてきた。
 「放射能でパワーアップした男性主人公たちは、『正義の味方』として描かれます。アメリカの正義のために戦い、その力を悪を倒すために使う、という筋書きまでがセットになっています。そして、原爆や核実験による人の健康被害についてほぼ触れられないという点も共通しています」
 原子力核兵器アメリカのエンタメで、その非人道性に目を向けられることはなく、むしろ「力」や「正義」の象徴として表現されてきた。
 アメリカで製作された映像作品の中に、放射能の人的被害について触れた作品が全くないわけではなく、例えばチェルノブイリ原発事故を描いたHBOのドラマ『チェルノブイリ』でも放射能被害が描写された。一方で、宮本さんは「(他国の)旧ソ連の話だから描くことができたのでは」と考える。
 さらに、アメリカのエンタメ作品における核兵器原子力の描かれ方は、同国の1950年代のジェンダー問題とも関連していると宮本さんは指摘する。
 「1950年代当時、アメリカは『ソ連が持っている核は怖いけれども、私たちが持っている核はコントロールできる』と国民に思わせる必要がありました。その宣伝のために、女性が使われました。
 例えば、両手を高く挙げたブロンドヘアーの女性が、コットンでできたキノコ雲型の水着を着て笑う『ミス・アトミック・ボム』コンテストの写真は象徴的です。女性性が過度に付与され、女性と同様に原子力も『使いこなせる』対象として表現されていました」
 軍隊が進学や生活のセーフティネット
 原爆や核兵器アメリカで「正義」とされる大きな要因として、宮本さんはエンタメに加え、「軍隊がアメリカ市民の心情に及ぼす影響」も挙げる。
 「従軍経験のある人を対象にした大学進学の援助制度や、軍属保険の加入など、経済的に困窮するアメリカ市民にとって、軍隊は進学や生活を保障するセーフティーネットとして機能しています。
 このほか、戦没将兵追悼記念日(メモリアル・デー)や退役軍人を称えるベテランズ・デーのような、軍関係者に思いを馳せる祝日もあります。軍隊や軍人は『私たち市民を守ってくれる』存在として、恩義を刷り込む仕組みがあるのです」
 多くのアメリカ市民にとって身近で、「敬意の対象」である軍隊。その軍が所有する武器である核兵器を批判することは「心情的に難しい」(宮本さん)。そして、それが「自衛の武器」として核兵器を正当化する文脈にもつながっているという。
 被害を語り継ぐ「受け皿」をつくるために
 原爆投下から70年となる2015年、アメリカで実施された世論調査で、「原爆投下は正当」と答えた人の割合は56%だった。
 世代別で見ると65歳以上は70%、18〜29歳では47%と幅があるものの、若い世代でも半数近くは正当だと認識していた。
 教育、エンタメ表現、軍隊と市民の関係...。アメリカで原爆の非人道性が認識されにくく、核兵器を正当化する言説が今も根強いのは、そのストーリーを強固にする構造が社会のあらゆる面にあるからだ。
 こうしたアメリカ社会における文脈を解体し、原爆の被害を正しく認識した上で、核廃絶の機運を高めるにはどうするべきなのか。
 宮本さんは、「人的被害を語り継ぐ『受け皿』が必要だ」と強調する。
 「学生たちに対して、被ばく者からその体験を証言してもらっても、どうしても一過性のものになってしまいます。また、学生たちは被ばく者の『困難を乗り越える』エピソードに感動しても、被ばく者が呼びかける核廃絶のメッセージには必ずしも辿り着かないのです。
 『科学の力』を全面に出して核兵器を推進する博物館やツアーがある一方、核兵器の被害を展示する施設はまず見られません。
 広島や長崎の原爆被害を伝える常設の博物館やメディア、教育システムといった、被害の記憶を将来につなげる社会的装置を作っていくことが大切です」
 アメリカ社会にとって、70年以上前にアジアの国であった戦争被害と被害者の苦悩を、自分ごととして受け取るのは簡単ではない。まして、アメリカにとって原爆は「加害」の歴史だ。
 日本でも、教育現場で第二次世界大戦を教える時には原爆や空襲など「被害」の視点が強調されがちだ。戦争被害に比べ、アジア諸国で日本軍が行った「加害」を教わることは明らかに少なく軽視されている。
 原爆を投下した側の国の人々が、核兵器のもたらす被害や非人道性を正しく、身近なものとして認識できるようにするためには、「アメリカにある被ばく者の物語」を可視化することが重要だと宮本さんは説く。
 「核実験が1000回を超えるアメリカでは、多数の地域が実験場となり、多くの被ばく者を生み出してきました。ですが、例えば原爆開発のマンハッタン計画で三大拠点の一つとなったワシントン州ハンフォードでは、1944年から放射能の被害が始まっていますが、核施設の近隣住民たちの健康被害を知っている人はほとんどいません。
 放射能被害を訴えて『非愛国的』と批判されることを恐れたり、自らを被ばく者と認めることの心理的ハードルが高かったりして声を上げにくく、それによって『人的被害はない』ことにされてきたのです。軍施設で経済が潤ってきた街であれば、訴え出るのはなおさら困難です」
 変化の兆しはある。宮本さんによると2000年代に入り、『黙殺された被曝者の声』(トリシャ・T・プリティキン著、明石書店)といった、特にアメリカの女性著者たちによって国内の放射能被害の語りを記録し、伝える動きがあるという。
 「今後鍵になるのは、核施設で働いてきた人や科学者たちが、放射能による自らへの健康被害を認められるかということだと考えています。自分の被害を認めることができれば、加害にも気づけるはずです」
 2019年には、ワシントン州リッチランドの学校に留学した福岡の高校生が、キノコ雲をシンボルマークとして校章やグッズ、校舎の壁などに使っていることに異議を唱えた。現地メディアや日本の全国紙でも報じられ、注目を集めた。
 留学などで国外に出た時、原爆や核兵器に対する認識の違いに直面する体験は今も起きている。こうした場面に遭遇した時、唯一の戦争被爆国に生きる私たちに何ができるのか。
 「原爆の被害が歪められてきたアメリカの社会通念を解体する行動として、広島や長崎の被害を伝えることにはもちろん意味があります。
 それに加えて、核製造工場の放射能汚染に脅かされた住民や核施設で働く人、科学者などアメリカの被ばく者の健康被害について日本で学んだらそのことを教える、という方法もあると知ってもらいたいです」
 【宮本ゆき氏】
 広島県出身。シカゴ大学大学院で修士・博士号を取得。被ばく被害と倫理に関する研究を行い、デュポール大学(シカゴ市)で20年以上にわたり倫理学の講義を受け持ち、「原爆論説」や「核の時代」などの授業を担当している。2005年以降、学生たちと広島・長崎を訪れる短期の研修プログラムも行っている。
 「キノコ雲は非人道的」とならないアメリカの原爆観。識者に聞く、映画『バービー』と原爆ミームの背景
 © ハフポスト日本版
 長崎への研修旅行で意見交換をする日米の学生たち
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 8月6日6:19 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「日本人を「けだもの」と呼んだ大統領が原爆を投下した 原爆を「お笑いネタ」化して炎上 映画「バービー」を機に知っておくべき「歴史の真実」
 長崎への原子爆弾投下に伴い発生したキノコ雲  (画像出典:Charles Levy, Public domain, via Wikimedia Commons)
 「とっくに白旗をあげてよかった状況だったのに、日本軍が抵抗しつづけたから、アメリカが開発した原爆を投下したのだ。戦争終結のためには仕方が無い。そもそも日本が間違った戦争をしかけたのが原因だ」
 【この記事の写真を見る】日本人を「けだもの」と呼んだアメリカ大統領
 日本人の多く、あるいは新聞やテレビに顕著に見られるこうした歴史観が、まったく事実に基づかないものであることは、前編でご指摘した通りだ。しかし、こうした歴史観がいまだにはびこっているために、原爆投下を正当化する向きは存在し続けている。映画「バービー」がPRに際して原爆投下をお笑いのネタのように扱ったことはそのことを明るみにしたともいえるだろう。
 残念なことに、日本人でも原爆投下のプロセスを正確に知る人は多くない。特に日本人が知らない重要なポイントとして、以下の4つを挙げたうえで、前編では(1)、(2)について詳しくご説明した。
 原爆によって破壊された広島の街。広島・平和祈念展示資料館の展示より
(1)原爆はアメリカの単独開発ではなく、イギリス、カナダとの共同開発である。
(2)原爆の投下はアメリカだけで決められるものではなく、イギリス、カナダも同意していた。
(3)原爆を大量殺戮兵器として使う必要はなかった。
(4)科学者たちは投下前から核拡散を憂慮して手を打とうとしたが、アメリカやイギリスの政治家たちがそれを無視した。
 後編でも、『原爆 私たちは何も知らなかった』(有馬哲夫・著)をもとに、(3)、(4)について見ていこう(以下、引用はすべて同書より)。
 現代人、特に広島と長崎を経験した日本人にとって原爆は大量殺戮兵器そのものだ。しかし、実のところ原爆を開発し、使用しようとしていたアメリカには様々な選択肢があった。有馬氏は以下のように論点を整理している。
 「『原爆を日本に使用すると決定した』イコール実際に広島や長崎に投下されたように、 『女性も子供も沢山いる人口が密集した都市に無警告で使うことを決定した』のだと捉えられがちです。
 事実は、そうではありませんでした。日本に使用するといっても、大きく分けて三つの選択肢が存在しました。
(1)原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。
(2)原爆を軍事目標(軍港とか基地とか)に落として、大量破壊する。
(3)原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。
 また、使用するにしても、二つの方法がありました。
(A)事前警告してから使用する。
(B)事前警告なしで使用する。
(1)の使い方ならば、絶大な威力を持ってはいるが、ただの爆弾だということになります。実際、ビキニ環礁などで実験した水爆がそうです。
(2)ならば大量破壊兵器になります。
(3)ならば大量殺戮兵器になります。しかも、戦争に勝つことより大量に殺戮することを優先しているので当時の国際法にも違反していますし、人道に対する大罪です。
 ただし、(3)と(A)の組み合わせならば、警告がきちんと受け止められて退避行動がとれるなら死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量破壊兵器として使ったとはいえても大量殺戮兵器として使ったとはいえなくなるかもしれません。国際法もぎりぎりクリアしていたといえるでしょう。
(3)と(B)の組み合わせならば、まごうかたなく無差別大量殺戮であり、しかも無差別大量殺戮の意図がより明確なので、それだけ罪が重くなるといえます」
 この選択肢、そして最悪の(3)(B)の問題点については、当時の意思決定に関係した暫定委員会のメンバーやアメリカのバーンズ国務長官、そしてトルーマン大統領も十分理解していた。さらに、「事前警告なしの使用には同意しない」と米海軍次官は文書で政府に伝えている。
 「特に軍人は、(3)と(B)の組み合わせをできるだけ回避しようとしました。戦争といえども一線を越えていることは明らかなので、たとえ戦争に勝ったとしても、他の国の軍人たちから後ろ指を指されることになります。こんな不名誉なことをしなくとも彼らは圧倒的に優位に立っていて、日本の敗戦は時間の問題だったのです。自らの軍事的栄光を不名誉な行為で汚したくはないというのは当然でしょう」
 アメリカと共に原爆を開発し、投下に同意を与えたイギリスのチャーチル首相は(2)(A)の使用法を考えていたという。開発に関わった科学者たちも、決して大量殺戮を実行したかったわけではない。
 それではなぜ、結局、アメリカは、当時のトルーマン大統領は(3)(B)の形で原爆を使用することにしたのか。
 日本人は「けだもの」
 私たち日本人は、「アメリカが原爆を作り、日本を降伏に追い込むためやむを得ず使った」と聞かされてきた。しかし、これは完全な虚構である。原爆は、アメリカ、イギリス、カナダの共同開発だ。しかも使う必要がなかったにもかかわらず、戦後の国際政治を牛耳ろうとする大統領らの野望のために使われた。その後の核拡散も彼らの無知と愚行が原因なのだ――公文書研究の第一人者が膨大な資料をもとに示す、驚愕の真実 『原爆 私たちは何も知らなかった』
 『原爆 私たちは何も知らなかった』ではその理由や経緯について詳述しており、ここではとてもすべては紹介できないので、もっともわかりやすい理由を一つだけ挙げておこう。それはトルーマン大統領の人種偏見だ。
 「戦争に勝つためなら、大量破壊兵器として使うので十分なのに、わざわざ大量殺戮兵器としての使い方を選んだ理由は、トルーマンとバーンズ(国務長官)が日本人に対して持っていた人種的偏見と、原爆で戦後の世界政治を牛耳ろうという野望以外に見当たりません。
 トルーマンは、ポツダム会談でチャーチルと原爆のことを議論したときも、原爆投下のあとの声明でも、サミュエル・カヴァートというアメリキリスト教協会の幹部に宛てた手紙でも、繰り返し真珠湾攻撃のことに言及しています。この点は見逃せません。
 つまり、真珠湾攻撃をした日本に懲罰を下したかったのです。真珠湾攻撃が彼の復讐心を掻き立てるのは、被害が大きかったというよりも、自分たちより劣っているはずの日本人がそれに成功したからです。これは根拠のない推論ではありません。
 トルーマンは若いころ(正確には1911年6月22日)、のちに妻になるベスに送った手紙のなかでこのようにいっています。
 『おじのウィルは、神は土くれで白人を作り、泥で黒人を作り、残ったものを投げたら、それが黄色人種になったといいます。おじさんは中国人とジャップ(原文のママ。日本人の蔑称)が嫌いです。私も嫌いです。多分、人種的偏見なんでしょう。でも、私は、ニガー(黒人のこと)はアフリカに、黄色人種はアジアに、白人はヨーロッパとアメリカに暮らすべきだという意見を強く持っています』
 大統領になってもこの人種的偏見から抜け出せていなかったことは、彼が前述のカヴァート宛の手紙で『けだものと接するときはけだものとして扱うしかありません』と記していることからもわかります。彼が『けだもの』と呼んでいるのは『ジャップ』のことです。人種差別が厳然としてあった当時としても、大統領の言葉として著しく穏当を欠いた言葉です」
 日本人を「けだもの」と考えていたアメリカ大統領にとっては、いくら日本人が死のうが知ったことではなかったし、新兵器の威力を世界に誇示するにはむしろ好都合だったということである。
 もっとも、こうした選択をしたことで、アメリカは自らの首を絞めることになる。その後の果ての無い核拡散、核開発競争は、結果的に世界を危機に追い込んだだけだとも言えるだろう。
 予言の書
 実は、原爆投下が決定される前に、科学者たちからアメリカ陸軍長官あてに1通のレポートが提出されていた。「フランク・レポート」と呼ばれるこのレポートの中には、日本への原爆投下を思いとどまるべきだ、といった進言が書かれているが、その先見性には目を見張るものがある。
 ここで科学者たちは、原爆の情報をアメリカが独占するのではなく、オープンにして国際管理を進めるべきだ、とも主張している。
 科学技術の独占は極めて困難なので、結局のところ、いつか敵国にも共有されることになる。それならば先手を打ってソ連などが開発できていない現時点で、仲間に引き込んでしまって、世界でこの兵器を管理してしまうほうが現実的だ、という論理である。
 さらに、レポートにはこんな一節もある。
 「デモンストレーションであれ実戦使用であれ、原爆をいったん使用したらその時から原爆開発・軍拡競争が始まる。世界の各国はあらゆる資源と技術をためしてより威力のある原爆をより効率的に安価に数多く作ることに取り組む。さもなければ、自国を守れないからだ」
 このレポートは「予言の書」と言ってもよいほど現在の世界状況を言い当てている。しかし、こうした訴えも、「ジャップを懲らしめる」というトルーマンの考えを変えるには至らなかった。科学者も軍人も、理性を働かせて説得に動いたが、結局、原爆は広島、長崎に投下されたのだ。
 有馬氏は、同書の中でこう訴えている。
 「現在核保有国のトップになっている大統領、元首、首相の顔を思い浮かべてみましょう。
 彼らはトルーマンより、ましでしょうか。
 このような過ちを犯しそうになく、人間的欠陥もなさそうでしょうか。彼らの周囲には優秀な閣僚、側近、官僚、科学者はいるでしょうか。そうだとして、国家のトップたちは、彼らの英知に素直に耳を傾け、常に理性的な判断ができるでしょうか。
 だとすれば、私たちは、自ら戦争をしかけず、平和を祈っていれば、二度と原爆の災禍に遭うことはないでしょう。原爆死没者も安らかに眠ることができると思います。
 そうではないと思うのなら、今まで疑ったことがないものを疑い、考えたことがないものを考え、したことがないことをしてみなくてはなりません。
 同じことを繰り返していては、いつヒロシマナガサキの過ちが繰り返されるかわかりません」
 この警鐘は、ロシアが核の使用をほのめかしている今、一層重く響くのではないか。
 ※有馬哲夫『原爆 私たちは何も知らなかった』(新潮新書)から一部を再編集。
 #戦争の記憶
デイリー新潮編集部
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