🎺76:─2─旧日本兵約1,000人は敗戦後も中国共産党軍と4年近く戦っていた。~No.342No.343 ㊻ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本軍部・陸軍、軍国主義者が主敵としたのは、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のロシア、ソ連中国共産党・国際的共産主義勢力であった。
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 中国共産党が、靖国神社を「目の敵」にするには訳があり、「軍国主義者日本人と一般日本人を分けている」はウソである。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 中国共産党は、陰で日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 2023年9月6日6:15 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「敗戦後も中国共産党軍と4年近く戦っていた日本兵たちを知っていますか
 1945年9月2日、戦艦ミズーリで行われた日本の降伏文書調印式
 毎年8月になると戦争関連のニュースや番組が増え、15日以降は急速に減っていく。「終戦の日」が境目になっているのだ。
 【写真を見る】“日本びいき”だった中華民国の軍人「閻錫山」
 その1945年8月15日、日本が敗戦を迎えてからもなお、海外で戦い続けていた日本軍兵士たちのことをご存知だろうか。
 そう聞いて、人によっては、敗戦を知らぬままジャングルで生活をしていた兵士のことを思い出すだろう。
 また、近現代史に詳しい方ならば、占守島の戦いを挙げるかもしれない。祖国のためにソ連軍と命がけで戦った兵士たちの存在を忘れてはならないだろう。
 しかし、戦争が終わったことを知りながら、中国で何年にもわたり、共産党軍と戦っていた数多くの元日本兵たちのことは知らない方が多いのではないだろうか。
 彼らは1949年になってもなお、「戦争」を継続していたのである。それも一人や二人ではなく、1000人を超える人数である。
 一体何のために――(以下、有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』をもとに再構成しました)。
 ***
 1949年「日本軍」はまだ戦っていた
 澄田らい四郎中将
 終戦から4年経とうとしている1949年3月、元独立歩兵第14旅団長・元泉馨(もといずみかおる)と元独立混成第3旅団高級参謀・今村方策(いまむらほうさく)が指揮する「特務団」は、中国の山西省にあって中国共産党軍と絶望的な戦いを続けていた。
 終戦まもなくのころは約1万5000人いたとされる「特務団」は、徐々に数を減らし、この当時は1600人ほどになっていた。
 彼らは日本軍ではなかった。日本がポツダム宣言を受諾し、戦闘をやめ、武装解除し、相手方に降伏した以上、もはや国際法上日本軍ではなくなっていた。
 当人たちは、天皇が戦いを止めるよう命じたことを知りつつも、日本軍として祖国のために戦っているという認識を持っていた。彼らは便宜上「特務団」と呼ばれていた。
 このような不思議な状況が生まれたのにはわけがあった。山西にあった第1軍の司令官は澄田らい四郎(すみたらいしろう)中将だったが、終戦と降伏によって現地司令官の権限はなくなっていた。日本軍の降伏を受け入れ、武装解除する受降司令官として国民党が送ってきたのは、もともとこの地の軍閥だった閻錫山(えんしゃくざん)だった。
 1945年8月山西省にて
 澄田は山西省中原の司令部で8月15日の玉音放送を聴いた。
 しかし、澄田の第1軍は、その日をもって武装解除することはなかった。軍としての統制も保っていたし、戦闘を交える準備さえしていた。ただし、その相手は国民党軍ではなく、中国共産党軍だった。
 一方で、支那派遣軍の総司令官である岡村寧次が8月15日以降中国および台湾各地の司令官に発した命令は、国民党軍に降伏し、武装解除したのち、帰国せよというものだった。
 ところが、日本軍の降伏を受け入れる国民党軍の将軍たちは、現地にはいなかった。というのも、彼らの多くは重慶など中国南部に拠点をおいていた。
 そのため、日本軍のいる現地に到着するまで時間がかかったのだ。岡村は、国民党軍の将軍が現地に到着するまでは、降伏せず、共産党軍やソ連が来て国民党軍への降伏を妨げるならば、これを撃退せよとも命じていた。国際法では降伏するときは現地で戦っている相手に降伏することになっていた。これにしたがえば、現地に共産党軍がいるなら、澄田は彼らに降伏しなければならなかった。だが、そうしなかった。
 降伏するのは天皇の命令であるが、共産党軍に降伏し、武器や資産を渡したのでは、共産党軍を強め、その勢力伸張に手を貸すことになってしまう。同じ敵でも、国民党軍はいいが、共産党軍では困るという考えである。
 岡村など中国戦線で闘った高級将校の多くにとって、共産党軍とは中国を代表する軍隊ではなかった。彼らは共産党軍やそれと関係したゲリラを「匪賊」と呼んできた。
 共産党軍は、軍規が厳しく、敵(日本軍、国民党軍)に対する扱いも悪くはなかったといわれるが、日本軍は彼らを中国人民というよりソ連の手先と見ていた。日本軍人の認識では、国民党が中国であって、共産党ソ連なのだ。日本軍はソ連や欧米の支配からアジアを解き放ち大東亜共栄圏を作るという大義のもとに戦ってきたのだ。
 それにソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻し、略奪、暴行、強姦、殺人など悪逆非道の限りを尽くした。それは、満州にいた日本人居留者たちを守るべき立場にあった日本軍人たちの心をもっとも責め苛(さいな)んだことだった。
 このような認識だから、降伏し、武器や資産を渡す相手は、共産党軍ではなく国民党軍でなければならなかった。また、自分たちの降伏が共産党軍の有利に、国民党軍の不利に働くことがあってはならないと思っていた。
 だから岡村は澄田たち中国戦線の司令官たちに、国民党軍の将軍が現地に到着するまでは、武装解除せず、軍の組織をそのまま維持し、必要とあらば、共産党軍と一戦交えよと命じたのだ。
 閻錫山は日本びいき
「この国を守る」――そう信じて戦い続けた男たちがいた。【発掘資料をもとに描く驚愕の昭和裏面史!】 『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』
 8月下旬になって国民党は降伏を受け入れるために山西省に送る司令官(受降司令官)を決めた。
 岡村や澄田などの予想通りそれは閻錫山だった。予想通りというのは、そもそも閻は袁世凱(えんせいがい)が清朝にとってかわったころから山西省を拠点としていた軍閥だったからだ。袁世凱なきあとは蒋介石(しょうかいせき)の国民党の傘下に入るが、そのあともなお山西独立国の王として振る舞った。
 しかも、閻は日本の陸軍士官学校出身でなおかつ岡村の教え子だった。日本びいきで日本信仰が強いところは、国民党の将軍の中でも飛び抜けていた。
 満州事変のあと、日本軍がこの地にやってきたとき、日本軍は工作を行った。対共産党軍との戦いにおいて日本軍と閻の軍が協力するということだ。
 閻は無傷のまま工業施設を引き渡し、戦わずして自軍を撤退させる。そして、代わりに入ってきた日本軍はもっぱら共産党軍とだけ戦い、閻の軍は攻撃しなかった。これによって閻は山西から退いたが、軍は温存できたのだ。このような過去があるので、閻が受降司令官としてやってくるのは予想がついていたし、また日本軍関係者も望ましいと思っていたのだ。
 閻を饗応した澄田
 閻は9月になってようやく山西にやってきた。他の国民党の将軍と違ってそれほど遠いところにいたわけではないのだが、共産党軍と衝突するのを恐れたのだ。それほど閻の軍は弱体だった。澄田は閻と今後のことを話し合うために、宴の席を設けた。澄田自身、敗軍の将が相手を宴席に招いて会談するということは稀(まれ)なことだといっている。閻はその席で次のように述べたという。
 「日本は、天運に恵まれず、時の勢いで、不幸敗戦国となったが、依然としてアジアの先進国であることには変わりはない。後進国である中国は、今後も、あくまで日本の協力と援助とを必要としている」
 こうして、現地の(元)日本軍と国民党軍の「協力」関係が生れたのである。
 ただ、「協力」といえば穏やかだが、実際には、現地日本軍を武装解除せずそのまま残し、自分とともに共産党軍と戦えという強制だった。
 閻はまず澄田に太原(山西省省都)周辺にいる日本軍に治安維持に当たってもらうことを要請した。澄田は、これは日本の軍民のためにもなると受け入れた。
 すると閻は、日本軍をして閻の軍に編入するよう申し入れてきた。澄田はさすがにこれは「天皇の軍隊を司令官の意思で閻の軍とするわけにはいかない」と拒絶した。
 そこで、閻は一計を案じた。部下の梁えん武(りょうえんぶ)に命じて、閻の軍と日本軍の中の志願兵からなる「合謀社」を設立させ、この中で閻の軍と日本兵が協力することにした。そして、その社長には梁、総顧問には澄田、副総顧問には残留軍全体の指揮官の役目を務めていた山岡道武少将が就いた。
 彼らはこの「合謀社」を作るときに次のことで合意した。
 1.日本軍は、閻錫山軍に参加を志願する兵士を調査し、「現地除隊」の形で除隊させる。そして除隊した個人を閻軍が採用するという方式で日本人の軍隊を作り、閻軍の指揮系統に入れる。
 2.閻軍に参加する日本兵は優遇する。
 3.日本軍の主力が復員帰国する前に、閻軍の訓練を行う。
 澄田はこの「合謀社」の総顧問になり、格別の待遇を受けた。戦犯の容疑者であるにもかかわらず、立派な家や乗用車も提供されて、裕福な生活を保障されたという。
 それにしても、いかに元上官らが命じたとして、せっかく戦争も終わったというのに、日本軍兵士たちはなぜ現地に残り、共産党軍と戦う道を選んだのだろうか。そこには彼らなりの愛国心があったのだ。
 (以下、後編に続く)
 ※有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』より一部抜粋・再構成。
 有馬哲夫(ありまてつお)
 1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『日本人はなぜ自虐的になったのか』など。
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 一部の旧日本軍兵士は、日本に帰還せず現地の残り現地民に味方して独立戦争に参加していた。
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 中国大陸に残った旧日本軍兵士達は、日本や中国などのアジアを共産主義化させない為に中国共産党と戦っていた。
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 日本陸軍は、戦場で敵兵を殺す戦争犯罪をおこなったが、戦場で敵国人を助ける人道貢献もしていた。
 日本軍兵士には、良い日本人もいれば悪い日本人もいた。
 朝鮮人は、日本人にとって友・友人、親友でもなければ戦友でもなかった。
 中国共産党は、反日・敵日として親日派知日派の中国人を大虐殺した。
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 2023年9月6日6:15 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「祖国の真の独立のために」――元日本兵たちが1949年になっても中国と戦っていた理由
 日本軍兵士
 日本軍兵士。1945年9月 (出典:Morris W A〈Sergeant〉, No9 Army Film & Photographic Unit/PD/Wikimedia Commons ※画像と記事本文は直接関係ありません)(他の写真を見る)
 1945年の敗戦後もなお、中国で何年にもわたって戦い続けていた元日本軍兵士たちがいたことは前回の記事でお伝えした通りである。共産党軍との戦いを止めてはならないという彼らの考えと、共産党軍と敵対している中国の国民党軍との思惑が一致したがゆえに「共闘体制」が生まれたのだ。
 速報「裏切ると“報復部隊”が実家に」「金庫番の報酬は500万円」「情報屋は野放し」 ルフィ事件・捜査最前線はここまで進んでいた!
 彼らの戦いは1949年になってもなお続いていた。そこにはこの戦いこそが祖国・日本を救うものだという思いがあったようだ。
 (以下、有馬哲夫著『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』をもとに再構成しました)
 「この国を守る」――そう信じて戦い続けた男たちがいた。【発掘資料をもとに描く驚愕の昭和裏面史!】
 祖国再興のために山西に残留せよ
 国民党側の誘いがなくても、自ら志願して共産党軍から山西を守ろうとする高級将校は複数いた。澄田らい四郎(すみたらいしろう)に次ぐナンバー2の参謀長・山岡道武、情報参謀・岩田清一がその急先鋒だった。山西省の国民党政府の政治顧問補佐官だった城野宏は、『山西独立戦記』の中で、山岡や岩田と次のような議論をしたとしている。
 「中国の支援の下に、日本軍の勢力を保存して、日本再起の機会をまつことは不可能ではあるまい」
 「ドイツ、日本、イタリーが敗れ、しばらくは身動きがつかなくなるが、この戦争で英、仏はかなり弱ってしまうに違いないから、どうしても米ソの対立が中心になる。(中略)そうした体制下に、中国がアジア勢力の結集をはかろうとするなら、日本をアメリカやソ連の属国状態に止めるのには反対であるにちがいない。それなら、米ソ衝突の間を利用して、日本の急速な独立と再起の機会がつかめるはずだ」
 「それまでの間を、うまくもっていくには、戦争で破壊された経済の再建をやらねばならぬ。そのための燃料と原料材を、山西から供給できるようにしようではないか」
 要するに、国民党軍とともに共産党軍を退け、山西省を独立国とし、そこから燃料(石炭)と鉄を供給することで、日本再建の一助としようということだ。そのあと、米ソ対立の間隙をぬって、日本と中国はアジア勢力を結集して、どちらでもない第三極を形成しなければならないというのだ。かなり身勝手な考えだということは否めないが、敗戦のあとにもかかわらず気宇壮大だともいえる。
 河本大作
 1928年南満州鉄道上で軍閥張作霖を爆殺した首謀者とされ、この事件により昭和天皇の逆鱗に触れ、陸軍を追われた河本大作(他の写真を見る)
 彼らがこのように考えたのは、この地に河本大作がいたこととも関係がある。河本は、1928年南満州鉄道上で軍閥張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した首謀者とされる。この事件を起こしたことによって、昭和天皇の逆鱗に触れ、陸軍を追われたあと、この地にやってきて資源総合商社山西産業の社長になっていた。
 これは山西省の豊富な資源およびそれを使った製品を日本に送るための一大国策会社だった。この会社を失いたくない河本も山岡たちと同じ考えを持っていた。
 つまり、日本の敗戦のあとも山西に残留し、国民党軍の閻錫山(えんしゃくざん)将軍とともに共産党軍と戦い、それを守り抜いたのちは親日的な山西独立国を打ち立て、そこから日本に資源を供給して祖国再生を図り、再生がなったときは大陸進出の拠点にしようということだ。
 イデオロギーは大アジア主義
 ここで注意しなければならないことは、これら残留兵士が持っていたイデオロギーだ。彼らは、単に共産主義が嫌いだから、共産党軍と戦うのではない。
 戦前・戦中の日本の軍人、特に中国に派遣された日本陸軍の高級将校たちは、欧米列強とソ連からアジアを解放し、アジア人のためのアジアを作ることを目指していた。つまり、欧米でもなく、ソ連(スラブ)でもない「第三極としてのアジア」だ。日本がアメリカに占領され、中国が共産党に支配され、それぞれアメリカとソ連の衛星国となることは、彼らが目指した欧米でもソ連でもない独立した第三極としてのアジアが消滅することを意味する。
 それでは、明治以来アジアのリーダーとして日本が掲げてきた欧米ロシアの支配から脱して、アジア人のためのアジアを作るという大義の旗を降ろすことになる。このあと、本書に登場する旧日本軍人も、それぞれ異なる主張をするものの、この点、即ち第三極としてのアジアを作るということに関しては、ほぼ同じように考えていた。
 山岡らは敗戦を知ったのち、特に閻の意向を知ってからは、盛んにこの考えを下士官や兵士に説いた。
 「特務団」1万5000人計画
 もちろん、このような構想に賛同する者ばかりではなかった。
 終戦時およそ6万人いたとされる澄田指揮下の将兵は、1945年の秋ころから残留派と帰国派に分かれ、互いに争うようになった。残留派はこの年の末には約1万5000人の「特務団」を作る計画を実行に移した。残留派の高級将校たちは部下に対しておよそこのように説いた。
 「閻の軍は弱体で、日本軍の援助が必要なので、日本人将兵をすべて帰国させるつもりはない。したがって、各部隊で一定の割合で残留者を出さないと、部隊全体が帰国できないことになる。だから、残留を志願してくれ」
 つまり、他のみんなを帰すために犠牲になって欲しいというのだ。この説得に応じて、一定数の志願者が集まり特務団の編成が進んでいった。
 宮崎舜市「特務団」解散を命令
 1946年1月10日、中国国内では国民党と共産党との間の内戦の「停戦協定」が結ばれ、これを実現するために国民党、共産党アメリカの三者の代表からなる「三者委員会」が設けられた。
 この「三者委員会」が2月に軍事衝突危険地域とされた山西に視察にいったところ、そこで元泉馨(もといずみかおる)少将率いる独立歩兵14旅団兵士6000名(この当時)が共産党軍と本格的な戦闘を繰り広げているのをみて目をむいたという。
 「三者委員会」はこれを問題にしたが、南京にいた岡村寧次陸軍大将もこれを大いに問題視した。そしてただちに「特務団」に戦闘を止めるよう命ずることにした。つまり、支那派遣軍全体の元総司令官として、根本博陸軍中将が山岡たちに与えた了承を覆したのだ。そして、岡村は部下の宮崎舜市中佐(元支那派遣軍総司令部作戦主任参謀)を山西に派遣した。1946年3月9日、宮崎は太原に到着し、山岡を叱責して、部下をただちに帰国させるよう迫った。
 しかし、山岡は、降伏後は閻にしたがうことになっているが、閻が元日本兵の残留を望んでいて、日本の将兵を一定数残さないと、他の者も返してもらえないのでどうしようもない、と言い返した。
 閻もまた、日本兵に残って戦ってもらいたかったので、反応は極めて鈍い。
 そのうえ、河本も、撤退には否定的だった。
 「日本が負けたからといって、山西産業を捨てていくわけにはいかない。いろいろな産品を輸出できるのは山西省くらいしかない。自分は日本の復興に山西の豊かな資源を役立てるために残りたい」というのだ。
 宮崎は南京へ戻った後も、元泉や情報参謀の岩田清一を北京に召喚する電報を送ってきた。残留派でも最も戦闘的なこの二人を切り離せば、山西の日本将兵たちも少しは熱がさめると思ったのだろう。だが、彼らは、度重ねて発せられたこの命令に、「閻が許可しない」といったり、自分たち自身行方をくらましたりしてついに応じなかった。
 総崩れとなった「特務団」
 ただ、宮崎の山西視察は、国民党もアメリカも支那派遣軍全体の元総司令官である岡村も、決して山西の「特務団」を是としていないことを現地の日本の将兵や居留民に知らしめることには貢献した。そして、閻も日本の軍民の鉄道輸送を開始せざるを得なくなった。
 これによって大量の帰還希望者がでてきたため「特務団」は総崩れとなった。
 厚生省の引揚援護局が1956年に作成した「山西軍参加者の行動の概況について」では、1946年3月10日の時点で閻軍に参加を表明していた日本軍兵士は5916人いたが、同年秋に鉄道輸送が始まってからは2563名に減ったとされている。やはり、それまで「特務団」に志願を表明していた兵士の過半数の本音も一日も早く帰国したいというものだった。だが、逆にいうと、それでもなお残留して日本再建の礎となりたいと心から願う兵士が4割もいたことになる。
 興味深いのは、現地、中国にいた旧日本軍幹部が元日本兵に残留を呼びかけるだけではなく、同時に、本国に義勇軍を送るよう要請する動きも起こしていたことだ。
 しかし、結局志願者は集まらなかった。そのため残留軍の兵力は低下の一途を辿った。それでも彼らは、援軍がないままこの後も3年にわたって共産党軍と凄惨な戦いをすることになる――。
 ここで紹介したのは、元日本軍兵士、高級将校らが戦後繰り広げた戦いの一部に過ぎない。彼らは帰国後もまた、それぞれの問題意識をもとに国のためにさまざまな戦い、工作に着手するのだが、それについてはまた別の機会に述べることとしたい。
 ※有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』より一部抜粋・再構成。
 有馬哲夫(ありまてつお)
 1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『日本人はなぜ自虐的になったのか』など。
 デイリー新潮編集部
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2019-12-05
💖17)─1─稲塚権次郎の小麦農林10号が、飢餓に苦しむ華北の中国人を救った。1935年。〜No.65No.66No.67・ 
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日中戦争
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・ 
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・ 
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79・ 
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日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・ 
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中国共産党の非人道行為。
2019-05-17
💖20)─1─中国共産党は、日本人戦病餓死者の尊厳を穢し、霊魂を冒涜し、慰霊の場を踏みにじる。〜No.84No.85No.86No.87・ 
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キリスト教の日本に対する宗教侵略。
2019-03-19
💖21)─1─アメリカのCPIとアメリカ・キリスト教会が日本を戦争へと追い詰めた。〜No.88No.89No.90・ 
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