☂39:─1─日本の死刑に反対する人権派。~No.130No.131No.132 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 リベラル左派やエセ保守の死刑反対派は、オウム真理教事件で反対しきれないとして凶悪犯達の死刑を黙認したが、数多くの犠牲者を出した企業爆破テロを行った元赤軍メンバーを英雄として祭り上げている。
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 世界の国際人権団体も、日本の死刑制度は非人道的犯罪行為と猛反対してる。
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 「命を大事する」日本のメディアや教育は、子供達に歪んだ真実を教えても現実に起きた事実を見せようとはしない。
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 2023年9月24日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「《東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件》幼女4人を殺害後、遺骨を家族のもとに送付…独房での唯一の楽しみがアニメ鑑賞だった宮崎勤(享年45)の最期
 『死刑囚238人 最期の言葉』 #1
 鉄人ノンフィクション編集部4時間前
 1988~1989年、日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。4人の幼女を殺めた宮崎勤が最期に語った言葉とは……。
 戦争責任者、テロリスト、大量殺人鬼など、大罪を犯し死刑判決を下された古今東西238人が死を前に残した台詞、辞世の句、遺書などから印象的な文言を集めた1冊『死刑囚238人 最期の言葉』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
 平成最悪の凶悪犯・宮崎勤の最期に残した言葉とは……。写真はイメージ ©getty
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 宮崎勤の最期
 【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤
 「あのビデオ、まだ途中だったのに。」
 死刑確定:2006年2月1日
 執行:2008年6月17日(享年45)
 処刑地:東京拘置所
 1988年から1989年にかけ東京都や埼玉県で4歳から7歳までの幼女4人を殺害、その遺骨を遺族のもとに送り付けるなど残虐非道の行為を犯したにもかかわらず、宮﨑は自分に下された死刑に怯えていた。
 刑確定後の2006年、雑誌『創』の編集長に宛てた手紙には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判。
 2007年の書簡には「私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる」とも記していた。
 宮崎勤の自室 
 ©共同通信社
 そんな身勝手な精神状態のなか、宮﨑の唯一の楽しみが独房でのアニメビデオの鑑賞で、スタジオジブリの作品がお気に入りだったという。
 上記の言葉は、執行当日、迎えにきた刑務官に連れられ刑場へと向かう廊下で言ったとされるもの。死刑の現実から逃れるため、宮﨑はアニメビデオに逃避し、全ては空想の出来事と思い込もうとしていたのかもしれない。 
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 9月24日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「《ドラム缶女性焼殺事件》「死刑はやむを得ない」姉妹にガソリンをかけて焼殺、遺体をチェーンソーで切断した「2人の凶悪犯」の末路
 世紀末に現れた凶悪犯が最期に残した言葉とは……。写真はイメージ
 ©getty
 〈《東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件》幼女4人を殺害後、遺骨を家族のもとに送付…独房での唯一の楽しみがアニメ鑑賞だった宮崎勤(享年45)の最期〉 から続く
 【画像あり】幼女4人を殺害…“黒いビデオテープ”が山積みされた、宮崎勤の自宅
 人間を生きたまま燃やし、チェーンソーで切断した凶悪犯が最期に残した言葉とは……。戦争責任者、テロリスト、大量殺人鬼など、大罪を犯し死刑判決を下された古今東西238人が死を前に残した台詞、辞世の句、遺書などから印象的な文言を集めた1冊『 死刑囚238人 最期の言葉 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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 命乞いをした犯人
 【ドラム缶女性焼殺事件 川村幸也】
 「人になんと言われても、もう少し生きたいのです。」
 死刑確定:2006年6月9日
 執行:2009年1月29日(享年44)
 処刑地:名古屋拘置所
 2000年4月4日、愛知県名古屋市の中古車販売業・川村幸也(当時36歳)と同従業員・佐藤哲也(後述)は仲間4人と、約束手形金の支払いに応じなかった喫茶店経営の男性(同56歳)を角材で襲い、約2週間のけがを負わせた。
 経営者は逃げのびたものの、男性の妻(同64歳)と、妻の妹(同59歳)を乗用車ごと拉致し現金2万4千円を強奪。その後、犯人グループは愛知県瀬戸市の山林で2人をドラム缶に押し込み、生きたままガソリンをかけて焼殺し、遺体をチェーンソーなどで切断、山中に放棄した。
 強盗殺人、死体損壊・死体遺棄などで逮捕・起訴された彼らのうち主犯格の川村と佐藤に死刑が確定(他4人は有期刑から無期懲役)。
 上の文言は2008年に実施された死刑囚へのアンケートへの川村の回答(2009年1月12日付け)で、「死刑を受け入れても、生きたいと思うことは別」と、この期に及んで命乞いした。刑執行は、それから17日後のことである。
 もう1人の主犯が残した言葉
 【ドラム缶女性焼殺事件 佐藤哲也
 「今は執行を待つ時間に何かできることがあればと考えつつ生活しております。」
 死刑確定:2006年6月9日
 執行:2009年1月29日(享年39)
 処刑地:名古屋拘置所
 川村とともに主犯格として残虐な事件を起こした佐藤は、暴力団組員の父親を極端に恐れていた。事件のきっかけとなった約束手形の一件も、父親が経営するヤミ金から喫茶店経営の男性に振り出されたもので、この回収を任されていた佐藤は成功しなければ、自分に身の危険が及ぶとさえ考えていたらしい。
 公判で「殺害は計画的ではない」と主張したものの、最高裁はこれを一蹴、「計画的犯行で動機に酌量の余地はない。何の落度もない2人を生きたままドラム缶に押し込み、焼き殺したと殺害方法は冷酷非情で残虐。積極的にかかわった責任は際立って重く、遺族らの被害感情などに照らすと、死刑はやむを得ない」と極刑を宣告した。
 上の文言は、もう一人の主犯である川村と同じ2008年実施のアンケートに対する回答で、「私のような犯罪者に声をかけてくださりありがとうございます」と、近く執行されるであろう死刑を受け止める覚悟を綴っていた。
 鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載)
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 政治家の最重要決断とは、開戦宣言と死刑執行であり、国民を犠牲にする覚悟のない者は政治家になる資格はない。
 A級戦犯達は、その責任を取って、馬泥棒並みのリンチ的縛り首で処刑された。
 政治家や軍人にとって、名誉ある処刑は銃殺刑であり、縛り首は不名誉な処刑方法であった。
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