🎺48:─1・D─「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉。令和6年。~No.226No.227No.228 

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 2024年3月29日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉
 当初、日本での公開は難しいと言われていた、映画『オッペンハイマー』がついに29日公開となった。原爆投下後の広島や長崎の惨状が描かれていないことに加え、アメリカ公開後に原爆を揶揄するファンアートの投稿がアメリカのSNSで過熱したことが、日本で大きな物議を醸したからだ。
【写真】多くのアメリカ人が知らない、「カミカゼ特攻隊」の実像
 本作を見て、「オッペンハイマーという人物の壮絶な人生、その背景にあるアメリカ史には引き込まれたものの、描かれる原子爆弾の被害の現実感のなさから、『遠くの日本という重要ではない国に起きたこと』として語られている印象をどうしても受けてしまいました」と語るのは、著書『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)が話題のハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞さん。
 アメリカに住んでいると、原爆に対する意識が日本とは大きく異なると感じる場面が多々あるという。
 実際、2015年の米国世論調査機関「ピュー・リサーチセンター」の調査では、広島と長崎への原爆投下について、18歳から29歳のアメリカの若者の47%が「正当だった」と解答している。
 前編『原爆軽視が根付くアメリカ。『オッペンハイマー』に日本人精神科医が今思うこと』に引き続き、内田さんが同作を見て感じたことを、アメリカの学生たちと対話したエピソードと共に寄稿いただいた。
 アメリカの学生との対話で感じた想い
 アメリカでは、ナチスドイツについては映画作品なども多いことから知識として知っている人が多い。こちらは現在のアウシュビッツ収容所跡。photo/iStock
 10年以上前のことですが、アメリカ人の学生とこんな会話がありました。その学生は日本語を学び、日本を訪れたときに広島の原爆記念館を訪ねたそうです。そこで日本人が「こんなことをしたアメリカ人は絶対に許せない」と言っていたのを聞き、それに反感を覚えたというのです。
 「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない? そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」
 その場にいた日本人は私ひとりだったので、とても孤独な状況でしたが、私は勇気を出してこう発言しました。
 「日本が他国にした酷いことはもっと語られなければならない。戦時中、日本国政府が日本国民に発したメッセージの問題に対しても、もっと学ばなければいけないことはたくさんある。日本国政府が当時、国際政治の中でよくない判断を下したことも間違いない」
 さらに続けてこう言いました。
 「でも、それでも私は、日本から『Never Again(二度と繰り返さない)』というメッセージは発し続けなければならないと思う。
 誰かの責任だということは簡単だけど、それだけが注目されるべき問題ではない。日本に原爆が投下されたのは『冷戦での使用を防ぐための投下』というような、核戦争や核兵器についての議論を『理論的には』と、実体験から隔離した机上の空論のように語るのは良くないことだと思う。実際、原爆投下後のヒロシマナガサキでどれだけの人がどのように亡くなったのか……。 熱波で瞬間的に消えてしまった命、爆風にとばされた人、ガラスのかけらが体中に刺さった人、皮膚がとけ落ちてしまった人、ひどい火傷で川に飛び込んで亡くなった人、白血病で血を吐きながら亡くなった人、親を亡くした子どもたち……。もっともっと様々な生き様がそこにあり、その人々のストーリーなしには核兵器は語られるべきではない。それがNever Againに繋がると思う」
 さらに、同じ会話の中で、アメリカ人の大学生から「9.11とカミカゼ特攻隊を比べるのを嫌がる日本人がいるのもおかしい」という発言もありました。
 私は「航空機で突進する、という点で、9.11のテロリストとカミカゼ特攻隊の類似点はわかる。そして戦争中ではないときに、一般市民を無差別殺人した9.11のテロリストと特攻隊の加害は違う、という人がいるのもわかる。でも、何よりも『カミカゼ』という言葉でしか特攻隊のことを知らずにイメージするものと、実際の人のストーリーを通して抱くイメージは全く違うものだと思うよ」と話しました。
それぞれの立場で感じ方は違う
 私は、両親が以前、鹿児島県にある「特攻の町」知覧を訪れたときに買ってきた本がとても印象的だったので、アメリカにも持って来ていました。私は彼らにその本を見せ、そこに掲載されている、出陣前に親や好きな子宛に書いた特攻隊員の手紙を訳して伝えました。
 「今更だけど読みたい本」の題名を綴った手紙、特攻への恐怖を綴った手紙、好きな子への想いを綴った手紙……。写真を見るとまだあどけない10代の思春期の子どもの特攻隊員もいたことを伝えました。
 私の発言を聞いていたアメリカ人の友人達は、「単なる敵国のクレイジーな戦略だとしか教わってこなかったが、こんなに若い子たちだったなんて知らなかった……。こんな子どもの兵士が、心の中では怖いと思いながら飛んでいたなんて考えたこともなかった」「舞が話してくれなかったら一生知らなかったと思う」とさまざまな感想を伝えてくれました。
 このとき、日本人が私ひとりだったこともあり、日本の人のストーリーをここで語れるのは私しかいないという重圧と、だからこそ湧く使命感を感じ、「わかってもらえるだろうか」と不安を抱えながら、私なりの言葉で伝えたのですが、学生たちの優しい言葉を受けて、なんだかわからないような感情が溢れてきて、皆の前で泣いてしまいました。
 このときの自分の言葉には何も後悔はありませんが、実はこの話には続きがあります。後日、とても仲が良いシリア人とスペイン人のハーフの友人に「学生たちとこんな対話があったんだよ」と話すと、彼は「僕は9.11のテロリストと日本の特攻隊の違いはわかるけど、どちらも不道徳で腐敗した国家や権力の下で犠牲になった若者だったという点は同じなのではないかと思う」と、ちょっと怪訝な顔で言ったのです。
 この言葉を聞いて、私はシリア人である彼にとって、9.11にまつわる話題をアメリカで語ることがいかに居心地の悪いものであるか、そして同時多発テロだけでなく、実際内戦中のシリアで何が起きているのか、それが一般市民にとってはどのような経験なのか、そういった母国を持つ彼にとってこの話題はどんな思いなのか、といったことを考えずに話してしまったなと、ハッとしました。
 私が謝ると、その場にいたもう一人の友だちが「同じことを話しても受け取り方が違うこと、またその背景にハッとすることや、『やっちゃった』という体験を通して、私たちの中で理解や共感が生まれるんじゃないかな」と語ってくれました。確かに、互いの理解を深めるためには、対話を重ね知ることがなければ、理解や共感は生まれません。とても大事な言葉をもらったと感じました。そう話してくれた友人はその後国境なき医師団に入り、シリアから亡命した難民の精神科医として活躍しました。未だに仲の良い、尊敬している友人です。
 体験した人たちの声がいかに大事か
 広島・長崎のひとたちだけでなく、日本人として世界に「Never Again(二度と繰り返さない)」と伝え続けていきたいと、内田医師は語る。photo/iStock
 私は今年『ソーシャル ジャスティス小児精神科医、社会を診る 』という本を書きましたが、その中で第6章に「ベトナム帰還兵との対話 ThemとUsは簡単に分けられない」というタイトルで、私がイエール大学の研修医だったときに受け持った患者さんとの対話を綴りました。
 ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵である患者さんは、ベトナムでのトラウマからアジア人を心から嫌う人種差別主義者になってしまい、そしてPTSDの治療のために来た病院で割り当てられたのが日本人である私だったという実話です。この帰還兵さんと出会ったときは、彼の差別的な言葉に圧倒されて、私も彼に嫌悪感を抱きました。しかし、彼が「おまえは何人だ?」と質問したのに対して、私が「教えてあげるけど、まずはなんでそれを知りたいかを教えてほしい」と返したことで、彼の様々な体験と正直な思いを語ってくれることとなったのです。
 それから2年間、彼は治療のため毎週通院しました。そして、私との対話を重ねることで、次第に彼の心が変化していく姿を目の当たりにしたのです。この体験は私に、戦争やトラウマという体験の複雑さも含め、分断の反対側にいるように見える人とも、心の交流を通して分断を乗り越えられるという希望を抱かせてくれました。また同時にこの体験は、人々の行動や感情の発露に注目して耳を傾け、一面的でなく多面的に向き合うことの大切さを改めて学ばせてくれました。「経験の共有が共感を作る」、そして「その共感が平和を守る」……私はそう信じています。
 しかし、人生の中で出会える人の数は限られています。だからこそ、芸術やメディアを通して知ることのできる他の人のストーリー、経験には価値があるのです。
 『ソーシャルジャスティス』の第5章では、「アメリカ社会の差別から学ぶ アジア人男性とハリウッド」という問題に触れ、メディアに映し出されるものが、いかに人々の考え方に影響を及ぼすものかを語りましたが、その中で「世界中の人々の多様な経験を反映させた物語を想像する」というディズニーの提言についても次のように綴りました。一部抜粋します。

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 以前、第二次世界大戦末期の硫黄島での日米の戦いを、日本兵の視点で描いたクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見たアメリカ人が、「敵国の日本人にも家族や彼女がいたりして、それぞれの思いで戦争を生き抜いたことを初めて知った」と答えている印象的なインタビューを見たことがあります。それまでアメリカで観た戦争映画では、敵国の軍人たちはただ敵として描かれるだけで、それぞれの暮らしぶりや顔が思い浮かぶことがなく、彼らの人生や物語について考えるきっかけがなかったのだと。しかし「世界の様々な人の経験を描く」ことは、自国中心の歴史観の裏に隠れていた、いくつもの生きた声に触れることを可能にしてくれる。そのなかで単純な敵・味方にとどまらない歴史観が育まれるのだと思います。
 アメリカやヨーロッパで核兵器に関して議論される際、私は日本人として、どうしても違和感を感じることが少なくありません。それは、核の抑止力のような核兵器にまつわる理論や核兵器保持の必要性を正当化する政治的な背景ばかりが議論され、実際核兵器が使用された後の人々の苦しみの悲惨さが語られないからです。こう感じるのは、私が日本で受けた教育や、『はだしのゲン』などの漫画や、井伏鱒二の『黒い雨』などの小説、そして広島出身の祖父や親戚の実体験から、実際に核に翻弄された人々の人生を知る機会に恵まれたからでしょう。日本から世界に伝えなければならないストーリーが広く語られることを祈っています。
 『ソーシャル ジャスティス小児精神科医、社会を診る 』より

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 私はこうして海外在住の日本人である私の経験を共有する機会をいただけて、とても光栄です。そして、これからも日本の人間のストーリーを世界の中で語っていくつもりです。
 こうしている今も、ロシアとウクライナイスラエルパレスチナなど、世界では武力での衝突が続いています。核への脅威について、今改めて考えることはとても大事なことだと感じています。ヒロシマナガサキから「Never Again(二度と繰り返さない)」のメッセージを世界に広めていくこと、世界唯一の被爆国の日本だからこそできる、とても重要な平和へのアクションだと思うのです。
 内田 舞(医師)
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 3月29日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「原爆軽視が根付くアメリカ。『オッペンハイマー』に日本人精神科医が今思うこと
二度と繰り返さないために 前編
 内田 舞 医師
 アカデミー賞で、作品賞や監督賞など7部門を受賞した映画『オッペンハイマー』がついに29日に公開となった。
 本作は日本での公開が危ぶまれていた。日本は世界で唯一の被爆国であり、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーが描かれること自体を、そして原爆投下後の広島や長崎の惨状が描かれていないことを問題視する声が当初から上がっていた。さらに昨年7月、アメリカで『バービー』と同日に公開されたことで、SNS上でふたつの映画をモチーフにした原爆を揶揄するようなファンアートが「#Barbenheimer」のハッシュタグと共に多数投稿され、国際的な炎上問題に発展。日本のSNS上では、「これは許せない」「原爆の真実を知らなすぎる」というコメントや、アニメ『はだしのゲン』の動画や原爆被爆者の方の被害写真と共に抗議する声も上がった。
 炎上し話題になった#Barbenheimerのファンアート。他にもさまざまなフェイク作品が現在もSNSにアップされている。出典/Xより
 騒動の最中の昨年8月6日、「広島平和記念日」に、このオッペンハイマーのファンアート問題から、アメリカの原爆に対する意識について寄稿してくれたのが、著書『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)が話題のハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞さんだ。記事は当時、話題を集めた。
 内田さんにとって広島は祖父の出身地であり、現在も親戚が多く住み、幼い頃から広島での原爆体験を聞いて育ってきたという。その内田さんがアメリカで感じた、原爆に対する日米の価値観の違いに対する思いを、映画『オッペンハイマー』の公開に合わせて再構成して前後編でお届けする。
 知らなかったオッペンハイマーの生涯
 映画『オッペンハイマー』の主人公であるJ・ロバート・オッペンハイマーという人物について私が知ったのは、夫と付き合い始めた15年ほど前のことでした。
 チェリストで当時イエール大学音楽院の博士課程にいた夫は、その日受けた授業にとても感動したと、興奮気味に話し始めました。それは、オペラ作家でグラミー賞にも輝いたことがあるジョン・クーリッジ・アダムズ氏の授業で、彼が特別講師として自身の代表作であるオペラ『ドクター・アトミック』を題材にしたものだったというのです。
 原爆の製作に深く関わったJ・ロバート・オッペンハイマーの実際の写真。photo/Getty Images
 オペラ『ドクター・アトミック』は、オッペンハイマーの生涯を描いた作品です。ドイツで教育を受け、ユダヤ人物理学者として第二次世界大戦の終焉を強い目的に掲げ、「ドイツ、ロシアよりも先に作らなければならない」と、物理学の知識を提供した原子爆弾の制作を指揮したオッペンハイマー。このオペラでは、科学的な前進と人類にとってのモラルの葛藤が丁寧に描かれていたそうです。
 この話を夫から聞いた後、とても気になり、すぐにオッペンハイマーについて調べ始めました。第二次世界大戦の米国の原爆開発・製造計画の「マンハッタン計画」に加わった一部の研究者は、原爆の威力を見せつけることが目的であるならば、無実の市民を犠牲にするのではなく無人島に核爆弾を投下し、日本に降伏を迫ろうと当時の大統領のトルーマンに請願を提出しました(シラードの請願書)。これをオッペンハイマーは拒否したこと。しかし原爆投下後には、核兵器開発の研究の打ち切りを強く訴え続けたことで「共産主義のスパイ」という疑いをかけられ米国政府から遮断されたこと。そして自身が関わった兵器が多くの人の人生を崩壊したことに、彼が晩年までうなされ続けたことを知りました。
 その後、夫とオペラ『ドクター・アトミック』を映像で見る機会がありました。高校時代に隣のクラスが文化祭で上演した野田秀樹作の原爆をテーマにした演劇『パンドラの鐘』を見た時の感動を思い出しました。
 映画『オッペンハイマー』にも、同様の感動があることを期待していました。実際に見たら、オッペンハイマーの人生に関わる複数のタイムラインを同時に話に組み込んだ巧みなストーリー展開、主演のキリアン・マーフィーの圧巻の演技と、戦争に対する葛藤などオッペンハイマーという人物の壮絶な人生ドラマに引き込まれ、色々と考えさせられる作品でした。「反核兵器」のメッセージも所々に散りばめられています。でも、心に強く残ったのは、原子爆弾の被害のあまりの現実感のなさでした。
 本作は、天才的な科学者であるオッペンハイマーが政治家のゲームに巻き込まれ、「ロシアのスパイ」だと不当な疑いをかけられる半生を軸に展開します。第二次大戦から冷戦に向かうアメリカでは少しでも共産主義に対してシンパシーを見せると「危険な敵」と見なされる状況を見て、本来は共産主義と資本主義の二択ではなくブレンドも成り立つはずなのに、このような「仲間」と「敵」で二分化する主義の分断が、今現在のアメリカ、そして今の世界の分断につながっているのかもしれないと感じました。
 しかし、オッペンハイマーという人物の壮絶な人生、その背景にあるアメリカ史には引き込まれたものの、描かれる被害の現実感のなさから、「遠くの日本という重要ではない国に起きたこと」として語られている印象をどうしても受けてしまいました。
 これは、「アメリカでは原爆に対する認識が日本と異なる部分はある」という現実があるからです。そして、リアルな原爆の被害について世界では驚くほど知られていないという現実に向き合い、日本人として何とも言えない嫌な気持ちになる居心地の悪さを学生時代から幾度となく経験してきました。
 広島出身の親族たちから聞いた実体験
 日本で生まれながらも、幼い頃から他国で生活することが多く、現在アメリカで暮らす私は、「原爆で起こった出来事を自分が関わる社会にきちんと伝えたい」と思っています。これは、小学生の頃から胸に秘めていた「使命」でもあると思っています。
 私の父方の祖父は広島県出身で、今でもたくさんの親戚が広島で暮らしています。広島を実際に訪れた際には、瀬戸内海の島の美しさや、お好み焼きと魚介のおいしさに魅了されながら、原爆を含めて戦争に関する色々な話を祖父や親戚から聞きました。
 小学1年生のときに読んだ『はだしのゲン』、学校の社会科実習で第五福竜丸被爆者から聞いた話、高校時代に見た『パンドラの鐘』、そして祖父や親戚の実体験の話……。そのひとつひとつが、世界の中で唯一の被爆国である日本に生きる日本人としての私にとって、とても大切な体験でした。
 漫画家の中沢哲治さんが広島の被爆体験をマンガにした名作『はだしのゲン』。日本でも広島市平和教育の教科書から削除したことで、物議を呼んでいる。『はだしのゲン汐文社
 「私は戦争に反対です。私は核兵器使用に反対です」、そう強くはっきり言い切れる姿勢を作ってくれたのは、間違いなく、日本の方々が自らの体験を語ってくれた人間としてのストーリーでした。私自身は戦争を知らない戦後世代ですが、戦時中に起こった出来事は、世代が変わっても語り継いで、それを世界に伝えていかなければならないと感じています。
 そう感じるようになったのは、アメリカで原爆があまりにも語られていないことを知ったのがきっかけでした。そのことに最初に気づき、「これは違う」と感じたのは、小学校高学年か中学生になったばかりの頃。
 アメリカで伝えられる「原爆」に違和感
 アメリカでも第二次世界大戦について語られることはありますが、ヒットラーユダヤ人大虐殺が中心です。そして、映画やドラマといったメディアなどでも題材として多く扱われるのは、その後の冷戦に突入してからのロシアとの駆け引きばかり。原爆投下に関しては、「投下した」という事実以外はほとんど語られることがありません。実際にあのとき、広島や長崎にいた人々が体験した、人間としてのストーリーは語られることがほとんどないのです。
 アメリカでは旧ソ連アメリカの冷戦の駆け引きなどのストーリーが好まれやすい。photo/iStock
 高校時代、ニューヨークの近代美術館(MoMA)に行った際、大きなきのこ雲の写真をモチーフにした作品の展示がありました。それを見たときに私が感じたには、何とも言えな居心地の悪さでした。このときの気持ちを美術の授業の課題で次のように書いたのを覚えています。
 「アメリカでは芸術作品やテレビのジョークできのこ雲を目にすることはあるが、その下にいた人々はそこには映し出されない。きのこ雲の下にいた人間たちは見えない」
また、ハリウッド映画や舞台芸術でも核戦争後の世界を反ユートピア的に描く作品は多いですが、それらを見るたびに、「核戦争後の反ユートピア的世界に行きつくまでの人々の耐えがたい苦しみは描かれていない」と、アメリカと日本の原爆に対する意識の違いについて違和感を覚えるようになりました。
 美術作品や映画、また言葉のフレーズには、社会の中で共有されている考え方が映り、それが消費されることで、その考え方が多くの人たちの中で「固定観念」に変わっていきます。核兵器や核戦争がこのように描かれているアメリカでは、“Go nuclear”(核兵器を使うかのように攻撃的になる)というフレーズが日常会話で使われることも多く、核兵器や核戦争についてとても「軽い」扱いがあることに気付かされることがたびたびあります。
 そういった核兵器や核戦争に対する意識が変わるためには、統計や政治的議論ももちろん重要ですが、何よりも「人の経験への共感」が必要だと思うのです。
 ◇後編『「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉』では、内田舞さんがアメリカ人の学生たちディスカッションしたエピソードを中心に、原爆投下や特攻隊について異なる認識を持っている人たちに何を伝えたか、を寄稿してもらう。
 後編はこちらから
 『「原爆投下は正当だった」アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉』
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