🎵25:─1─極東の島国と大国ロシアはなぜ開戦に至ってしまったのか?〜No.59No.60 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【日露戦争から120年】極東の島国と大国ロシアはなぜ開戦に至ってしまったのか?
 旅順港では、ロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦が行われた。
 2024年は、日露戦争開戦から120年という節目にあたる。極東の島国が大国ロシアを撃破したというニュースは世界を駆け巡ったが、長引く戦(いくさ)は両国に甚大な被害をもたらした。では、なぜ日本とロシアは刃を交える事態に陥ったのだろうか。その理由を詳説する。
日露戦争開戦の理由を3つのキーワードで解説
 日露戦争開戦理由のキーワードは「寒さ」「植民地」「飢え」の3つの単語に集約される。まず「寒さ」だが、ロシア帝国は2200万平方キロと、日本の60倍近い国土で、鉄、石炭をはじめとする豊かな地下資源、「世界の穀倉」といわれ小麦生産量は世界一だったウクライナの大平原などを含んでいた。しかし、年間5カ月以上にもなる港湾凍結により、大量輸出ができなかった
 18世紀当時、英、仏、オーストリアに並ぶ世界の4大強国だったロシア帝国にとって、不凍港領有は、国家最大の願望であったのだ。これを実現しようとしたのが「南下政策」で、欧州方面では、まず黒海では、セヴァストポリオデッサをトルコから奪い、北極海ではムルマンスク、バルト海ではバルチック艦隊の母港ともなったリバウを開港した。
 極東方面では、ロシア帝国は国力の落ちた清に圧力をかけて、1860年に中国北部の沿海州とよばれる日本海沿岸地域を奪い、太平洋方面におけるロシア最大の不凍港ウラジオストックを開港した。ウラジオストックがロシア太平洋艦隊海軍基地となると、軍機密を守るため、近くにナホトカを開港し、貿易港として急速に拡大した。
 これら不凍港を取得したロシア帝国は、強大なウラジオ艦隊を編成、中国北部から朝鮮半島インドシナ半島まで勢力を伸ばそうとする。同時に、東進して樺太から千島列島の植民地化に成功した。英仏を中心とする欧州大国がアフリカからユーラシア大陸南部を植民地とした政策に、乗り遅れまいとしたからである。
 当然、その目は、日本にも注がれていた。まず、朝鮮半島北西部、黄海に突き出した中国本土再重要戦略拠点である遼東半島に対して、フランス、ドイツとともに、露骨なプレッシャーをかけてきた。日清戦争に勝ち、日本が清から割譲し遼東半島返却を求めたのである。
 「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」
 これを「三国干渉」というが、はね返すだけの国力は日本になかった。清に返却後の遼東半島には、ロシアが重要拠点を植民地化する。まず、真冬でも凍結しない半島先端の大連港に、巨額の資金を投入して東清鉄道を建設してシベリア鉄道と連絡させ、港の整備を開始した。またフランスのパリをモデルにした大連市都市計画を作成し、郊外の旅順には巨大な要塞と軍港を建設した。
 1896年の露清密約により満洲における権益を増大させたロシア帝国により、1898年、満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、ハルビンは交通の要衝として、極東ロシア植民地政策の中心都市となる。人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。ロシア風の建造物が次々と建設され、ハルビンの市街地が形成される。
 ロシアの進出は郊外の原野にも及んだ。1900年には人口1000人だった小さな漁村が1903年には30万人の都市になっていた。日露戦争開戦時、ハルビンはシベリア駐屯軍、ロシア本国からの増援軍基地として、兵力28個師団36万4000人を集結させていた。
 一方、海軍は、日露戦争開戦直前に、極東太平洋艦隊へと再編された。この時点で、太平洋戦隊の艦船(戦艦7、巡洋艦10、水雷艇15、砲艦7)は旅順に拠点を置き(通称:旅順艦隊)、残りの巡洋艦戦隊(巡洋艦4、水雷艇10)はウラジオストクに残った(ウラジオストク巡洋艦隊)。
 19世紀後半から20世紀にかけて、ロシア帝国は、国力の大半を軍事力増強にあて、不凍港取得や植民地拡大に投入してきた。その結果、1880年から1900年にかけて、陸海軍兵力は、倍増することになったが、同時に国民は軍事力増強のための重税に苦しむようになる。
 その結果、ロシア各地で小規模なデモ、ストライキが起き始めた。増強された軍隊は、国外遠征に向けられず、国内治安維持に使われた。広大なロシア帝国内各地で、軍隊と農民、工場労働者たちとのあいだに、デモ、ストライキから暴力的衝突にかわっていく。
 国内不安を対外戦争でガス抜きするという、古今東西の権力者鉄則にのっとり、皇帝ニコライ2世は、小規模な軍事行動に出ようとした。対象国は、トルコ、清、そして日本である。まず、トルコが外された。英国、オーストリア・ハンガリー帝国などが軍事協定を結んでいたからである。次いで清もはずされた。当時の清は列強の草刈り場となっていて、清との軍事衝突は、獲物を横取りされたくないとする列強との大規模な戦争へとつながりかねないからである。
 最後に残ったのが日本だった。日本は英国と軍事協定を結んでいるが、フランス、ドイツ、アメリカとは中立関係にある。当時の露日軍事力比較は、陸軍が8対1、海軍が6対1、そして総力戦の指針ともなるGNP比は14対1と、圧倒的にロシア有利だった。さらに、日本との戦争に勝てば、北海道を占領できる。中国東北部から日本海を隔てて北海道まで南進すれば、極東北方海域の制海権が握れ、朝鮮半島までがロシア帝国領となる。
 国内の不安を一掃し、極東方面の植民地化を進めるとの一石二鳥の思惑があり、ニコライ2世中国東北部侵略をきっかけとする対日開戦へと踏み切ったのだ。
 日露戦争に関して、まだ語られることがほとんどないエピソードを2つつけくわえたい。ひとつは、日露開戦時、貧しかった日本は戦費不足にあえいでいた。このとき、日本に現在の価格で1兆5000億円の戦時国債を調達したのがロスチャイルド家を中心とするユダヤ資本だった。当時、ロシア絶対有利とする欧米列強に対し、ユダヤ資本は、ロマノフ朝の弱体化を鋭く見抜いて、日本へ莫大な投資をおこなったのだ。この戦時国債を日本が債務履行を終えたのは、第1次、第2次大戦をまたぎ、なんと1986年までかかった。元利あわせての返済総額は88倍になる132兆円となっていた。
 もう1つは、日本海海戦の新事実である。日露戦争のあらゆるデータを残すロシア陸軍幕僚大学戦史室には、日本海海戦での日露両海軍砲弾命中数比較が残されている。これによると、命中数はほとんど変わりない。変わりがあるのは、被害範囲だった。戦史室はこれに関して、ロシア海軍の砲弾火薬の劣化を最大の原因としている。乾燥した北海を基地としたバルチック艦隊には、防湿の概念が不十分で、アフリカ周りの熱帯航路での多湿による火薬類劣化まで注意されなかったのだろう。
 副田護
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 日露戦争の勝利は、官民一体として政府、軍部、大学・研究機関、企業が戦争の為に協力したからである。
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 明治日本にとって、ロシア、清国(中国)、朝鮮の3カ国は戦争をする定めの敵であった。
 国力のある裕福な大国は、戦争と平和は自由に選択でいる。
 国力の乏しい貧しい小国は、選択できるのは絶望的戦争か無条件降伏の何れしかなかった。
 その意味で、日本にとってロシアとの日露戦争は避けられない戦争であった。
 戦争は、相手がいて起きる。
 大陸世界では、現代日本人が信じている「大国の良心」や「大陸の矜持」など存在しなかった。
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 専守防衛には、国内で自国民を犠牲にする消極的自衛戦争と国外で他国民を犠牲にする積極的自衛戦争の2つがあった。
 戦後の現代日本は、消極的自衛戦略で国内に閉じ籠もり、敵が国土内に侵攻し攻撃してきてから反撃するという「後手の戦術」を採用している。
 明治から昭和初期までの日本は、積極的自衛戦略で大陸の敵軍・侵略軍が進軍する前に先制攻撃・奇襲攻撃・騙し討ちをするという「先手の戦術」を採用していた。
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 日本にとって、ロシアによる日本侵略は江戸時代後期(老中・松平定信)から始まっていた。
 小国日本は、侵略してくる世界的軍事大国ロシアとの戦争に備えて開国、近代化そして軍国主義国家へと暴走した。
 日本における大陸戦争は、全て積極的自衛戦争であった。
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