🎹28:─9─フランクリン・ルーズベルト大統領の隔離演説に激昂した軍国日本。昭和12(1937)年10月5日~No.172No.173 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 隔離演説(1937年10月5日)
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 日中戦争の勃発により、アメリカが国家の意思として初めて日本を批判した演説。ルーズヴェルト大統領は世界に不法状態を生み出している国家を国際社会から隔離すべしと演説
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 日中戦争は、第二次上海事変昭和12年8月13日)から始まった。
 ファシスト中国(中国国民党)軍約5万人はドイツ軍事顧問団の軍事支援を得て、上海在住の日本人数万人を守っている日本海軍上海陸戦隊約4,000人を攻撃した。
 中国軍陣地を築いたのはドイツ軍人であり、中国軍の装備はドイツ軍需産業が開発した最新式兵器であった。
 昭和11年年4月1日 ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した。中将は、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた。中将は、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出し、英米を日本との戦争に引きずり込んで軍国日本を敗北させるべきだと進言した。
 第二次上海事変がドイツ軍の作戦計画で始まった事から、上海から南京までの戦闘は第二次日独戦争とも言えた。
 ヒトラーは、親中国反日派で、ファシスト中国軍が日本軍を撃退する事を確信していた。
 ユダヤ系国際金融資本は、ファシスト中国の勝利の為に資金提供をしていた。
 アメリカの国際的軍需産業は、ファシスト中国に大量の軍事物資を売却していた。
 日本から見れば、第二次上海事変は避けられない戦闘で、敵軍を見れば日中戦争は第1.5次世界大戦とも言えた。
 日本の失敗は、地域事変を国家間の戦争に拡大させない為に戦争の大義名分=理由を宣言する「宣戦布告」を避けた事である。
 世界はこの事実を知っていた、何故なら、現地の日本軍やファシスト中国軍も国際世論を味方に付ける為に報道戦・宣伝戦も戦っていたからである。
 蒋介石ら政府高官や党幹部の多くは、キリスト教に改宗してアメリカ・キリスト教会の全面支持を取り付けていた、その意味で、日中戦争は西洋キリスト教と日本異教(神道・仏教・その他)とによる宗教戦争でもあった。
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 国際的共産主義勢力と32年テーゼ。
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 フランクリン・ルーズベルトは、親ソ連共産主義、反ヒトラーナチス・ドイツ、そして親中国反日強硬派であった。
 世界は、優生学と宗教による人種差別に支配されていた。
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 世界史の窓
 アメリカ合衆国第32代大統領、1933年より、世界恐慌脱却を目指し、ニューディール政策を掲げる。また第二次世界大戦で連合国を主導、4期勤め、1945年4月、戦争終結前に死去した。

F=ローズヴェルト
Franklin Delano Roosevelt 1882-1945
 フランクリン=デラノ=ローズヴェルト アメリカ合衆国大統領 民主党 在任1933~1945年。日本ではルーズヴェルトと表記されることも多いが、原音に近いのはローズヴェルトである。1882年ニューヨークの生まれ、元大統領セオドア=ローズヴェルト共和党)は遠い従兄にあたる。若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学コロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺(ポリオ)にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、28年からニューヨーク州知事に選出された。1932年、世界恐慌の最中の1932年の大統領選挙に民主党から立候補し、「ニューディール」(新規まき直し)を掲げて大量得票し、共和党のフーヴァーを破って当選し、1933年3月4日、大統領に就任、20年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。

外交政策
 1933年、市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、ソヴィエト連邦を承認した。このころ、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる再軍備、イタリアのムッソリーニ政権によるエチオピア侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。
 中立法 しかしアメリカの世論はこの段階でも孤立主義の伝統が根強く、アメリカ議会は1935年に中立法を制定して参戦を否定し、F=ローズヴェルトもこの段階ではその規定に従って中立を守り、直接介入は慎重に回避した。
 善隣外交 その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
 隔離演説 ファシズム国家の侵略行動は続き、1936年にはドイツのラインラント進駐、イタリアはエチオピア併合、さらにスペイン戦争、1937年には日本軍が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まるという世界戦争の危機が高まった。その事態を受けて、F=ローズヴェルトは1937年10月にシカゴで演説し、暗にドイツ・イタリア・日本を危険な感染症にかかった患者にたとえて隔離すべきであるいう「隔離演説」(または防疫演説)を行い、世界の注目を浴びたが、この段階でもアメリカ国内の世論は戦争への参加に批判的であった。 → アメリカの外交政策
 大統領三選と世界大戦への参戦
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 2022年11月23日 Wedg online「日本人なら知っておきたい近現代史の焦点
 なぜ日系人だけが強制収容されたのか 「人種戦争」としての太平洋戦争
 100年続く米国の病「黄禍論」(4)
 廣部 泉( 明治大学政治経済学部 教授)
 「圧倒的な人口を誇る日本人や中国人などアジア人が、やがて欧米を攻撃し世界の覇権を握るのではないか」――欧州で生まれた「黄禍論」は、やがて米国に定着し、時に米外交にすら影響を与えた。そうした人種差別はオバマ元大統領の就任に象徴されるように薄れつつあるものの、決して消えてはいない。日米外交の重要度が増す今こそ、黄禍論の100年の歩みを振り返ろう。
 真珠湾攻撃を機に、米国内の対日世論は一気に人種主義的な様相を帯びることになった( MPI/GETTYIMAGES)
 1931年の満州事変以降、日本をターゲットにした黄禍論が米国社会で説得力を増す中、1941年、真珠湾攻撃が起きた。それは、これまで黄禍論者が予見してきた人種戦争の始まりとなったのだろうか。
 瞬く間に米国社会を埋め尽くす黄禍論
 それまで黄禍論を唱えていた米国人は真珠湾攻撃の報に接し、ついに来るべきものが来たと感じた。満州を攻略し、日中戦争を引き起こしていた日本がついに米国への侵略に着手したと思ったのである。
 一方、黄禍論を信じていなかった親日的米国人はショックを受け、中には考え方を180度変える者もあった。排日移民法にも反対していたJPモルガンの銀行家で後に同行の会長となるトーマス・ラモントは、日本が対米戦争に踏み切ることはないと信じていたが、真珠湾攻撃を境に日本人は殺されるべき生き物と考えるようになった。
 日本人に対する偏見も、真珠湾攻撃に対する米国人の驚きを助長した。例えば多くの米国人は、日本人のパイロットは目が細すぎてよく見えないので、欧米人のパイロットに比べ操縦技術が著しく劣ると信じていた。フィリピンで日本軍機の攻撃を受けたマッカーサー将軍は、その鮮やかな攻撃に、操縦しているのはドイツ人パイロットだと信じていたほどである。
 真珠湾攻撃当時、米太平洋艦隊の指揮を執っていたキンメル司令長は、警告があったにも関わらずなぜ艦艇を真珠湾に停泊させ続けたかを後に聞かれて、「あの黄色い畜生どもが、あんな攻撃をうまくやってのけるとは思いもしなかった」からだと答えている。
 真珠湾攻撃の後、ドイツが米国に宣戦布告した。米国政府は日本と戦う太平洋戦線ではなく、ナチスドイツと戦う欧州戦線を重視し、第一戦場と定めた。にもかかわらず米国の世論は、ドイツ人よりも日本人を主たる敵と考えた。
 開戦直前に当時の枢密院議長である原嘉道は、日独と米国が開戦した場合、人種のせいで米国はドイツよりも日本を強く敵視する、と懸念していたが、それが現実のものとなったのである。開戦直後に発行された1941年12月22日号の米誌『タイム』の表紙は、全面が「黄色」く彩られ中心に山本五十六の顔が描かれていた。
 開戦から2カ月後、ルーズベルト大統領は敵性外国人やその子孫の強制隔離を可能とする大統領令に署名した。ただ、大規模な強制隔離は、同じ敵性外国人であるドイツ系やイタリア系に対しては実施されず、主に日系に対してのみ行われた。日系の2世や3世の多くは、米国生まれで米国籍を持っていたのにも関わらずである。
 実際に強制隔離を指揮したジョン・デウィット西部地区防衛司令官は、米国生まれで米国市民権をもつ2世や3世でも日系の「血は薄まらない」と考えており、日系人による破壊活動がこれまで行われていなかったことを、これから行われる「確かな兆候」とみなすほどであった。今にして考えれば、このような荒唐無稽なロジックは、9・11同時多発テロの直後、イスラム系市民に対して用いられた論法と極めて似通っている。
 人種主義の観点から日本人差別を憂慮する
 しかし、中には日系人の強制隔離を憂えた米国人もいた。日本生まれで後に駐日米国大使となるエドウィン・ライシャワーもその一人である。強制隔離は、米国人がアジア人を差別し続けているという日本人のプロパガンダに正当性を与えてしまい、それによって白人の傲慢さにうんざりした中国が日本側に付くのではないか、とライシャワーは心配したのであった。
 中国が日本側に寝返るのではないかという懸念は、国務省高官にも共有されていた。1942年の戦没将校記念日の演説でウェルズ国務次官は、人種、信条、肌の色による諸国民間の差別は廃止されるべきと演説した。1919年のパリ講和会議で日本が提案した人種差別撤廃案をウィルソン大統領は葬り去ったが、もはやそのような姿勢は許されなかった。
 同じころハミルトン極東部長は、もし中国が組織的対日抵抗を止めてしまった場合、日本の指導の下で有色人種連合が成立し、少なくとも日本はアジア人種の指導者となるかもしれず、そうなった場合、日本に対する連合国の勝利が確実でなくなるかもしれないとの懸念を覚書に記した。
 ホーンベック国務長官顧問も、日中連携の可能性を憂慮していた。米英からの援助が少ないことに中国の蒋介石が落胆しているという情報を得ていた彼は、中国が連合国を離れてしまうとアジアが反西洋でまとまってしまうと、米国政府内の有力者に説いて回った。
 人種を軸に戦争を考えている者は、戦後秩序構想を検討する合同委員会にもみられた。外交政策諮問委員会内の会議で、海軍代表委員は、この戦争を東西文明の生き残りをかけた戦争であり、白人文明を守るために、国際的悪党である日本人を民族として根絶すべきとの意見を述べた。国務省からの委員も日本人の人口を減らすべきとの考えに同意し、日本を破壊するなら戦争継続中に行わなければならないと述べた。
 連邦議会内でも、ある議員が人種戦争の可能性について発言していた。将来、黄色人種と白人種の間に人種戦争が起きる可能性があり、日本が中国を率いて、その豊富な資源を欲しいままにしたなら、西洋文明は滅ぼされてしまうかもしれないというのである。
 戦場から遠く離れた米東海岸においてですら人種戦争的議論がなされていたことからも想像できるように、太平洋の前線では日本への敵意はより激しいものがあった。米海軍のハルゼー南太平洋方面司令官の口癖が「ジャップを殺せ、殺せ、もっと殺せ」であったことは有名である。兵士たちが、日本兵の耳をそぎ落として記念として持ち帰ることが広く行われていたが、ドイツ兵やイタリア兵に対しては同様のことは行われなかった。
 日本の敗戦で、米国は黄禍論から解放されたのか?
 こうした米国の過度な日本への敵意の中で、日本も米国を苛立たせるようなことをしていたのもまた事実である。その一例は、当時日本軍が中国大陸で配布している小冊子がそれである。1882年の移民法制定以来、米国への中国人移民の入国や帰化は禁止されており、いくら米国に味方しても、米国人は中国人を差別しており、中国人は米国に移民することも帰化することもできないと書かれており、中国人の米国に対する不安を煽っていた。
 このような日本軍の宣伝が説得力を持つ可能性を重く見た米国政府は、中国人排斥法の廃止に動いた。結果として、1943年に中国人排斥法は廃止されたが、1年間に認められた移民の数は僅か105人であり、便宜的な改正であったことは明らかである。
 もう一例は、同じ1943年に日本が開催したアジア諸国の首脳会議である大東亜会議である。日本の他の参加国はタイを除けば満州国や中国の汪兆銘政権など日本の傀儡国ばかりであったが、米国のメディアの一部はそのような日本の動きを危険視した。例えば、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙は、守勢に立たされた日本は必至で中国と手を結ぼうとするとして、もし、それが実現すれば極東の戦局は大きく変わるだろうと、日中連携の可能性を懸念した。
 このような中、戦局はますます日本に不利になり、日本軍は追い詰められていった。1945年4月にルーズベルト大統領が病死し、後を継いだトルーマン大統領は日本に対する原子爆弾の投下を許可した。原爆投下の理由として、トルーマンは「ケダモノを扱うときはケダモノとして扱わなければならない」と記している。また、カナダのマッケンジー・キング首相も、原爆が欧州の白人種ではなく日本人に対して用いられたことを、「幸運」と表現した。
 度重なる空襲によって日本の主要都市は壊滅し、米国を中心とする占領軍のコントロール下におかれることになる。米国は第二次世界大戦を共に戦った中国国民政府との友好関係を維持することで、黄禍論的悪夢からようやく解放されるはずであった。しかし、中国共産党の勝利によってその目論見は外れ、また、誰もが予想だにしなかった戦後日本の急速な発展によって、再び黄禍論が沸き起こることになる。
 次回は戦後世界における黄禍論の展開を見ていきたい。
 『Wedge』では、第一次世界大戦第二次世界大戦の狭間である「戦間期」を振り返る企画「歴史は繰り返す」を連載しております。『Wedge』2022年11月号の同連載では、本稿筆者の廣部泉による寄稿『今も米国に残る「黄禍論」 人種主義なる〝病〟と向き合うには』を掲載しております。
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 ウィキペディア
 隔離演説(英:Quarantine Speech)または防疫演説(ぼうえきえんぜつ)とは、アメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領が1937年10月5日にシカゴで行った演説である。
 概要
 当時の米国において一般的であった中立・不干渉の政治的風潮に代わるものとして、国際的な「侵略国の隔離」を要求した。演説は米国の孤立主義的風潮を煽り、不干渉主義者や介入者による抗議を招いた。演説の中で特定の国が直接名指しされた訳ではないが、ドイツ、イタリア及び日本(後の枢軸国)を指すものと解釈された。ルーズヴェルトは、強硬ながらもあからさまな攻撃よりは直接的でない反応として、「経済的圧力の行使」を提案した。
 演説に対する世間の反応は様々であった。著名漫画家で4コマ漫画「スキッピー」の作者のパーシー・クロスビーは、ルーズヴェルトを痛烈に批判してきた人物であるが、彼はニューヨーク・サンの広告枠を2ページ分購入して演説を攻撃した。さらに、演説はウィリアム・ランドルフ・ハーストが所有する数々の新聞社やシカゴ・トリビューンのロバート・R・マコーミックから酷評されたが、のちに一部社説が示したところによれば、米国のメディアは概して演説を認めていた。
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 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
 西川 秀和
 はじめに
1. 第一次世界大戦後のアメリカの風潮
2. フランクリン・ローズヴェルトの意図
3. 国内外の反応
4. 結語


はじめに
本稿の目的は、第一次世界大戦後、深まる孤立主義的風潮(1)の中で、フランクリン・ローズヴェルト大統領(Franklin D. Roosevelt)が、どのような意図で「隔離演説」を行ったのかを明らかにすることである。さらにその「隔離演説」に対する国内外の反応が、ローズヴェルト外交政策にどのような影響を及ぼしたのかということを追求する。

2. フランクリン・ローズヴェルトの意図
 著名な大統領レトリック研究者であるライアン(Halford Ryan)は、隔離演説を以下のように評している。
 「ローズヴェルトの目的は、1941 年 12 月 8 日まで完全に達成されることはなかったが、『隔離』演説は、アメリカ国民を戦争に順応させ、戦争をアメリカ国民に適合させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであった」[Ryan 1988: 141]
 ライアンの指摘からすると「隔離」演説は、一種の戦争レトリック(6)であるということになる。しかし、ローズヴェルトの意図は、単純にアメリカ国民を戦争に順応させることではなかったように思われる。
 「隔離」演説に関する先行研究の中で代表的なものはボーグ(Dorothy Borg)の研究である。一般的な解釈によると、ローズヴェルトの「隔離」演説は、中立法による孤立主義を放棄し、ウィルソン的な集団安全保障体制に参加することを闡明したものである。しかし、ボーグは、そうした一般的な解釈とは異なり、ローズヴェルトが「隔離」演説で訴えようとしたのは集団不干渉主義の推進であり、枢軸国に対す る強硬姿勢を闡明したものではないと論じている[Borg 1957: 420]。
 ここで「隔離」演説作成の経緯を説明し、次に「隔離」演説の内容について分析していく。1937 年 9 月 6 日、ローズヴェルトは、世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って大掃除をする準備ができていることを公にするとモーゲンソー財務長官(Henry Morgenthau,Jr.)とハル国務長官(Cordell Hull)に語った。そうした問題には国民を事前に教化する必要があるとして両者は、大統領の意見に反対した。ハルが憂慮していたのは、アメリカ国内の世論が分裂している姿を諸外国にさらすことであった。そこでハルは、大統領の旧友のデーヴィス無任所大使(Norman H. Davis)と相談し、西部旅行の途上、孤立主義で凝り固まっている大都市の一つで、国際協力に関する演説を行うべきだと大統領に提案することにした。ローズヴェルトはそのハルの提案を受け入れ、演説草稿の作成にかかるように指示した。モーゲンソーとハルは、シカゴで行われる予定の演説によって、アメリカ国民が「三つの野蛮国家」の振る舞いに 嫌 悪 感 を 抱 い て い る こ と を 世 界 に 伝 え る こ と が で き れ ば よ い と 考 え て い た [Borg 1964:
379-380; Hull 1948: 544]。
 「隔離」演説の冒頭は、チョトークヮでの演説(7)の冒頭に非常によく似ている。チョトークヮでの演説の冒頭で、ローズヴェルトは、国内情勢だけでなく国外情勢にも目を向けるように国民に訴えかけている。同様に「隔離」演説の冒頭でローズヴェルトは、大恐慌期に比べて国内経済が好転していることを感慨深げに語った後に、「隣人と平和と友誼を以って共存していこうと望んでいるすべての諸国民と諸国家は、ますます悪化している世界の政治情勢に大いなる懸念と不安を抱いている」[Rosenman 1969: 407]と国民に訴えかけた。次いで戦争の恐怖に慄く世界では、ブリアン-ケロッグ平和協定(パリ不戦条約)の精神に立ち返ることが重要だとローズヴェルトは説いた。さらにローズヴェルトは以下のように国際的無法状態が世界に蔓延していることを強調した。
 「現在の恐怖と国際的無秩序の時代は、他国の内政に対する不当なる干渉、あるいは国際条約違反による外国領土の侵略を以って開始されたが、今日では当に文明の礎が甚だしく脅かされるに至っている。そして宣戦布告も警告もまた如何なる正当化もなく、女子供を含む市民が空中からの爆弾により容赦なく殺戮されている。所謂『平和』時に船舶が何等理由もなく無警告で潜水艦によって撃沈されている。ある国々は、未だかつて彼らに何も害を及ぼさなかった国の内乱に関与し、互いに一方に味方して内乱を助長している。ある国々は、彼ら自身の自由を要求しながらも、他国に自由を与えることを拒んでいる」[Rosenman 1969: 407]
 「女子供を含む市民が空中からの爆弾により容赦なく殺戮されている」という行が、1937年 4 月のゲルニカ爆撃事件を指していることは当時の聴衆にとって容易に推測できたに違いない。名指しを避けながらも明確に意図するところを伝えるというのは巧みなレトリックである。また潜水艦による船舶の無警告撃沈は、第一世界大戦参戦前のドイツのアメリカに対する仕打ちを聴衆に思い出させるものであった。ローズヴェルトの激しい非難は続く。
 「無実の諸国民、無実の国々は、正義や人道的な考えなど欠けらもない権力や支配の虜によって残酷にも踏みにじられている」[Rosenman 1969: 407]
 ここでローズヴェルトは、ヒルトン(James Hilton)の『失われた地平線』からの一節を引用する。
 「殺人の技術を手にして狂喜した人間が世界中を狂奔し、すべての貴重なものが危機にさらされる時代をおそらく我々は予見することになる。あらゆる書籍、絵画、音楽、二千年の間に蓄積されたあらゆる財産、小さく、繊細で、無防備なもの―すべてが蹂躙され完全に破壊されるだろう」[Rosenman 1969: 407-408]
 この引用部分は、主人公コーンウェイとシャングリ・ラ(チベットの秘境の名)の大ラマとが世界の行く末について話し合っていた時に、大ラマ自身が見た未来の世界の幻想をコーンウェイに語った行である。原文では、文末は「すべてのものは、リヴィウスの書籍[『ローマ建国史』]が散逸したように失われ、イギリス軍が北京の夏の離宮を蹂躙したように踏みにじられるだろう」[Hilton 1947: 127]となっている。当時、イギリスとの協調関係を模索していたローズヴェルトが、イギリスに対する非難につながるような箇所を削ったのは言うまでもないことである。ローズヴェルトは世界に忍び寄る脅威をこのように説明した後、それがアメリカにどのような影響を及ぼすか語る。
 「もしそうしたことが世界のその他の地域で蔓延したとしたら、アメリカだけがそれを免れ、アメリカだけが幸運を期待し、この西半球だけが攻撃されず、静穏かつ平和的に文明の精華や倫理を保ち続けることができるなどと誰が想像できるだろう」[Rosenman 1969: 408]
 ここでローズヴェルトは、西半球をアメリカの勢力圏と定め、その圏外からの干渉を許さないという所謂伝統的なモンロー主義だけでは、アメリカの安全を保証できないことを示唆している。こうした事態を避けるためにローズヴェルトは、平和愛好諸国に一致協力を求める。
 「平和愛好諸国は、今日、単なる孤立や中立によって逃れることなどできない国際的無法状態や不安定を生み出している、こうした条約違反や人間の本性の無視に一致協力して反対しなければならない」[Rosenman 1969: 408]
 「隔離」演説は単にアメリカ国民を対象としたものではなく、世界を視野に入れたものだとわかる。しかし、平和愛好諸国に一致協力して反対することを呼びかけたといっても、ここでは具体的な手段が明らかにされているわけではない。さらにローズヴェルトはいかなる国も現在の国際情勢の中では孤立したままでいることはできないと論を進める。
 「現代世界は、技術的、道義的に緊密に結び付き相互に関連しあっているので、どんな国も世界の他の部分で起きる政治的経済的動乱が縮小せずに拡大した場合、そうした政治的、経済的動乱から完全に孤立することはできない」[Rosenman 1969: 409]
 ローズヴェルトは関税障壁を取り除き、世界貿易を拡大させ、軍縮を行うことにより国富を軍備にではなく生産財に向けるようにしようと世界に訴えかけた。比較的穏やかな調子になりつつあった演説は、再び熱を帯び始め、この演説の通称の由来となった最も有名な行にさしかかる。
 「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。法の下に、また数世紀にわたって広く受容されてきた道徳規範を守って平和に生きようとする九割の人々は、自分たちの意志を貫徹する道を見出すことが出来るし、また見出さなければならない。(中略)。不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[Rosenman1969: 410
 この「隔離」の行は、実はローズヴェルトの独断で演説草稿に挿入されたものである。先述の通り、ハルは演説草稿にデーヴィスと共に携わっていたのだが、演説が実際行われるまでこの行があることを全く知らなかった[Hull 1948: 545]。デーヴィスが準備していた演説草稿によると、「隔離」の行の部分はもともと以下のような内容だった。
 「私は、平和主義を追求しようと決意した。だが、もし我々が自分達の権利と利益を守ることができないとしたら、我々は他国からの尊敬を失い、さらに自尊心をも失ってしまうだろう。我が国は、父祖たちが自らの生命よりも尊く、それなしでは生きる価値などないと考えた主義に殉じようとしている。もし我々が、自由と進歩の礎となる主義を、最善を尽くしてももはや守れない時が来たら、我々は偉大なる国家の遺産を犠牲にすることになり、我が国を維持するための活力を失うことになるだろう」[Borg 1964:627]
 疫病や隔離に関連するような表現は全くなかったことは明らかである。ローズヴェルトはいったいどこから疫病や隔離に関連する着想を得たのであろうか。
 九月頃、大統領はデーヴィスにしばしば世界情勢や国務省について語っていた。先述の通り、デーヴィスは、シカゴでの演説の草稿を準備していたが、その草稿には、「戦争は伝染病である」という文句はあったが、「隔離」のアイデアはまだ使われていなかった。デーヴィスの他にイッケス内務長官(Harold Ickes)も、度々、大統領と外交問題を話し合っていた。大統領が西部に出掛ける前の昼食会で、イッケスは大統領に、ローズヴェルトの声こそ、世界に残された民主主義を奮起させることができる唯一の声であると述べた。大統領は、イッケスが国務省の弱腰を非難するのに同意し、旅行から帰り次第、国務省を大統領自ら運営すると述べた。その時、イッケスは、国際情勢を病気に譬えて、近隣諸国は、感染の脅威に対して自らを「隔離」する権利があると話した。大統領はイッケスの話を遮り、その言葉を書き留めて、それをいつか使おうと言った[Rosenman 1972: 164-165]。
 またローズヴェルトは、ウェルズ国務次官(Sumner Welles)とも外交問題を話し合っていた。ローズヴェルトは、ウェルズに日本を隔離する計画の概容を話していたが、それをいつ公にするか詳しい時期については話していなかった。ウェルズは度々ローズヴェルトに対して、世界戦争を回避するために何らかの努力をとるべきだと主張していた。七月から八月にかけてローズヴェルトとウェルズはどういった行動を取るべきか話し合った。ローズヴェルトは、イギリス海軍と協力して戦略地点に部隊を派遣し、日本への輸出を阻止するつもりだと七月にウェルズに語っている。日本に対して領土拡大をしないように求めるか、もしくは禁輸措置をとる場合、太平洋でイギリスと共同戦線を張ることができるかどうかの可能性をローズヴェルトは探っていたのである。その時点でローズヴェルトが考えていた「隔離」とは、太平洋でイギリスと協力し、日本に対して海上封鎖を行うということだった。ウェルズはローズヴェルトに、我々がそのような措置を取るとなると戦争になるのではないかと危惧を示したが、ローズヴェルトは、戦争になるとは思わないし、イギリスはこの申し出を快諾するだろうと楽観的に答えた。
しかし、この案はイギリスの快諾が得られず、また戦争を誘発する可能性があるため議会やアメリカ国民には受け入れそうにないということで放棄された[Graff 1988: 180-182]。
 こうした閣僚達との話し合いの他に、先述の『失われた地平線』も疫病や隔離に関連する着想のヒントになっているようである。なぜなら『失われた地平線』は、シャングリ・ラがその他の世界から隔離されているので世の中に蔓延する欲望という名の疫病から逃れることができるというテーマを含んでいるからである。
 結局、「隔離」演説の中では、この「隔離」という概念がいったいどのような意味を持つのかということが大きな問題となるのである。それは次の節で述べる。
 ローズヴェルトは演説の最後で再度、疫病に関連する表現を述べている。
 「宣戦布告されていようがいまいが、戦争は伝染病である。戦闘が行われている場所から遠く隔たった諸国や諸国民を戦争は飲み込んでいく。我々は戦争の局外に立とうと決意したが、それでも、戦争の及ぼす破滅的な影響から身を守り、戦争に巻き込まれないようにすることはできない。我々は戦争に巻き込まれるリスクを最小にするために、戦争の局外に立つという方法を採用しているが、信念と安全が崩壊している無秩序な世界の中で完全に身を守ることなどできない」[Rosenman 1969: 411]
 孤立主義だけではアメリカを守ることはできないというテーマが伝染病という比喩が織り込まれ新たな形で繰り返されている。伝染病が逃れ得ないものであるのと同じく、戦争も逃れ得いものであると聴衆に納得させようとしている。伝染病のイメージが有効に活かされていると評価できる。最後にローズヴェルトは以下の言葉で演説を締め括った。
 「アメリカは戦争を憎む。アメリカは平和を望む。それ故、アメリカは平和を追求する試みに積極的に参画する」[Rosenman 1969: 411]
3.国内外の反応
ローズヴェルト、平和に向けて『一致協力』を求め、戦争屋を糾弾す」(8)
 ニューヨーク・タイムズは、一面でローズヴェルトの「隔離」演説について以上のように報じた。多くの新聞がローズヴェルトの「隔離」演説に対し好意的な反応を示し、大統領に寄せられた手紙の多くも、「隔離」演説を強く支持していた。例えばコロンビア大学学長のバトラー(Nicholas Murray Butler)は以下のような手紙をローズヴェルトに寄せている。
 「昨朝のシカゴでのあなたの演説は、まるで窒息しかけた世界に吹き込んだ新鮮な空気のようであった。あなたが表明したこと、指し示した道は、国際世論に大きな影響を与えた。私の見解では、それよりもさらに重要なことは、戦争に至ることなく、そして戦争の恐れを増すことなく、真の結果を生み出す政策と行動を闡明することができたことである。世界を導くのは我々である。そして我々の中に巣喰う最大の平和の敵は、孤立と中立という言葉が意味を全くなさない状況の下で、なおもそれらを説く連中である。シカゴでの演説であなたが示した方針よりも、むしろ彼らの考える政策のほうが、ずっと武力衝突に至る可能性が高い」 [Schewe 1983: 27]
 しかし、一部の新聞はローズヴェルトを辛辣に非難した。ウォールストリート・ジャーナルは、「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」というコメントを発表し、シカゴ・トリビューンは、大統領がシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えてしまったと非難した[ルクテンバーグ 1968: 180]。実はハルも、演説草稿に携わったとはいえ、「隔離」の行については批判的であった。ハルは彼の『回顧録』の中で以下のように書いている。
 「この隔離思想に対する反響は大きなものであった。私の考えでは、この演説は、世論を国際協力の方へ向かわせるために我々が継続的に行ってきたキャンペーンを、尐なくとも六ヶ月は退歩させる結果になった。このキャンペーンに関わった人員は、演説、声明その他の方法を通じてできるだけ積極的に活動したが、同時に、孤立主義者の反発を煽り、かえって逆の効果を生むようなことがないように注意していた。[世間を]驚かすような声明を発表したり、早まった行動に出たりして激しい反発を引き起こし、世界に国内が二つ割れている姿を示すよりは、徐々に事を進め、無用の反対をまねかない方が、言葉や活動がそれほどダイナミックで強いものでなくとも、世界全体にははるかに効果があったはずである」[Hull 1948: 545]
 ハルは、平和主義団体が「隔離」演説に猛反発することを危惧したが、それはすぐに現実となった。戦争防止のための全国委員会会長のリビー(Fredrick Libby)は、「大統領のシカゴ演説は、中立法に基づく政策を覆すものである。そして、議会の平明なる法と精神は、台無しにされただけでなく侵害されたのである。大統領は、議会での圧倒的な票数で示された国民の意志を裏切っている。我々は戦争へ至る道を辿ることに反対する」[Marabell 1982: 205]とローズヴェルトを激しく非難した。
 またフィッシュ下院議員(Hamilton Fish)は、大統領は、戦争を避けることができないと言うことにより国中に戦争ヒステリーを捲き起こしたと

 一方、ディックホフ駐米ドイツ大使(Hans Heinrich Dieckhoff)は、ウェルズに面談した際、「隔離」演説についてはコメントを控え、ドイツの目標は平和的な手段により植民地を再復することにあると主張している[Department of State 1954a: 138-139]。ディックホフは、「隔離」演説について本国に報告を送っている。ディックホフは、もともと演説草稿には「隔離」の部分は無かったはずであり、大統領自らその部分を後から挿入したと推測している。そして、演説が行われた直接的な原因は、中国での日本の行動に大統領が危機感を抱いたことにあるとディックホフは示唆している。最後にディックホフは、おそらく、「隔離」演説には、外交問題を殊更に取り上げてみせることで、大統領を悩ませていた黒人問題から大衆の気を逸らせる意図もあったはずだと結論を下している[Rosenman 1972: 166]。
 この報告からは、ディックホフが「隔離」演説をドイツに対する警告であると受け止めた様子は全く窺えない。ディックホフからすれば、「隔離」演説はまさに単なるレトリックに過ぎなかったのである。
 「隔離」演説に対して最も過敏に反応したのは日本であった。毎日新聞(10)は、「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」と大見出しを掲げ、「ルーズヴェルト米國大統領は五日シカゴにおいて一般民衆を前に國際政局の危機を指摘し平和愛好諸國民の協力を要請し侵略國を非難する大演説を試み暗に支那事變を諷するが如き言辭を用ひた」と報じた。さらに毎日新聞は、「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」という見出しの下に「ル大統領は右演説で特定の國の名は擧げなかつたが、右がスペインおよび支那の事態に關聨せるものであるのは明らかである。聴衆中にはこの演説によりあるひは米國政府が將來さうした國々に對する何らかの制裁に參加するのではないかといふ如き意見を出すものもあつた」と報じた。
 同日の朝日新聞(11)も「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」という見出しの下に、扱いは毎日新聞よりも小さいものの、「特に國の名は擧げなかつたが、日支事變並に地中海の『海賊』潜水艦問題から更に満州事變及び伊エ戦争に遡つて『侵略國』を論難したのは頗る注目されてゐる」と報じている。
 一方、松方幸次郎(12)は、訪米直前に日本駐在のドゥーマン参事官(Eugene H. Dooman)と会見し、「隔離」演説に対する日本の指導層の反応を伝えた。松方の説明によると、陸軍から弱腰と非難されてきた海軍の指導層の感情は、10 月 5 日の大統領の演説によって完全に変化したという。彼らの感情は、合衆国に対する強烈な反感に転じ、もし合衆国が現在のような政策を続けるならば、日本は迎え撃つ準備をするだろうと彼らは言っていると松方はドゥーマンに伝えた[McJimsey 2002: 7-8]。
 この当時、日本が最も恐れていたのは、「隔離」演説がアメリカ国民の反日感情を喚起し、それをもとに、アメリカ政府が対日強硬策を推進することであった。アメリカ国民の反日感情を鎮めるため、毎日新聞主筆の高石眞五郎が、極東における日本の立場を説明するための親善大使としてアメリカへ赴くことになった。その航海の最中、高石は随行員に向かって次のように語っている。
 「モンロー主義を看板にして、アメリカは自らの四半球支配を天輿の權利と考へてゐる。それだけならいゝが、他の國がそれぞれの地域に自主的な共存圏を建設しようとすれば、直ちにそれを全世界支配の前提であるかのやうに、または全人類奴隷化の野心のやうに考へる。自己の世界四半だけが、世界の平和を保障するもので、これを承認しない一切のものを不正義、不道德と非難するのだから、その獨善と驕慢とは、およそ度し難いものかも知れぬ」[古海 1941: 24]
 この高石の言葉は、「隔離」演説に対する日本の反応をよく表しているように思える。駐日アメリカ大使グルー(Joseph C. Grew)も次のように分析している。
「大統領の 10 月 5 日のシカゴ演説と同月 6 日の国務省声明(13)発表後、合衆国に対する[日本国民の]感情が高まっている。こうした感情の高まりは、[合衆国により日本が]非難されたことに対する憤りと合衆国が日本に押し付けようとしている意図が漠然としているということから生じている」[Department of State 1954b: 633]
 グルーは、こうした「隔離」演説により惹起された憤りが、日本国内の穏健派の勢力を弱めることを危惧していたのである。
 このように「隔離」演説は、国内外に大きな反響を及ぼした。ローズヴェルト自身は、賛成意見ももちろん多かったものの、演説に対してなされる攻撃の多さに驚くことになる。それ故、「隔離」演説の翌日に開かれた記者会見[Rosenman 1969: 414-424]で、ローズヴェルトは「隔離」が具体的にどのような意味を内包しているのか(14)言質を与えることを巧みに避けた。会見冒頭から記者は「隔離」演説についての質問を大統領に浴びせた。

4. 結語
 10 月 6 日の国際連盟総会決議(16)に基づいて招請が決定されたブリュッセル会議(九カ国条約会議) が 11 月 3 日から 24 日にかけて開催された。ブリュッセル会議は、アメリカが「隔離」演説に基づいてどのような具体的方策を提案するかを世界が固唾を呑んで見守った場であった。
 デーヴィスがブリュッセル会議に出席するために出発する前にローズヴェルトは覚書を手渡している。その中でローズヴェルトは、ブリュッセル会議で、アメリカには次のような世論があることをイギリスに認識させるべきだと指示している。つまり、合衆国は必ずしも国際連盟と共同歩調を取るつもりはないこと、合衆国は、将来の行動において先導役を務めることなど予見していないこと、合衆国はイギリスの驥尾に付すつもりはないことといった世論である。そして、合衆国が共同歩調をとる場合も、それはあくまで合衆国とイギリス相互が独立した形で行われるべきであり、場合によっては共同歩調を取る必要もないとイギリス政府に認識させるべきであるとローズヴェルトはデーヴィスに伝えている[Schewe 1983: 129]。またウェルズは「[ブリュッセル]会議で日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」[Graff 1988: 206]と述べている。
 このようにアメリカはブリュッセル会議で「隔離」演説で示したような積極的な立場を示さなかった。この点について谷は次のように分析している。
 「隔離演説で訴えた明確なものが、ブリュッセル会議になぜ示されなかったのであろうか。それは恐らく、演説に反対を示した世論の動きにローズヴェルトが敏感に反応して、表面上は、一時的に後退したとみるべきである」[谷 1986: 46]
この谷の指摘はローズヴェルトが「隔離」演説の後の記者会見で示した姿勢からすると妥当な指摘であると考えられる。
 前にも述べた通り、ボーグは、ローズヴェルトが「隔離」演説で訴えようとしたのは集団不干渉主義の推進であり、枢軸国に対する強硬姿勢を闡明したものではないと論じた。しかし、そのように訴えたのは孤立主義者との正面衝突を避けようとする戦略であり、ローズヴェルトの本意は、集団安全保障体制に基づいて、アメリカが世界平和において積極的な役割を果たし、第一次世界大戦の轍を踏まないようにすることであった。
 またウェルズに加えて多くの研究者が指摘しているように「隔離」演説が時期尚早であったという議論も一理ある。何故なら「隔離」演説の約二ヵ月後にパネー号事件(17)が起きたが、それは周知の通り、戦争の引き金とはならなかったからである。
 パネー号事件は、1898 年 2 月 15 日のメイン号事件(18)、1915 年のルシタニア号事件(19)に類比される事件であるが、メイン号が米西戦争の直接的な引き金となり、ルシタニア号がアメリカの第一次世界大戦参戦の遠因となったのとは対照的に、パネー号はアメリカの第二次世界大戦参戦にほとんど影響を及ぼさず、すぐに落着している。これは、日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因があると考えられる。ローズヴェルトは、パネー号事件における日本軍の振舞いに激怒していた[ルクテンバーグ 1968: 182]が、「隔離」演説による教訓からか、パネー号事件をルシタニア号やメイン号と類比することはせず、激しい言辞を使うこともなかった。結局、パネー号事件は「真珠湾」にはならなかったのである。
(1) 孤立主義に関する先行研究については、[安藤 1996: 141-145]を参照されたし。
(2) 中立政策に関する諸観点の違いについては[中澄 1992]を参照されたし。
(3) 1935 年の中立法の条項の詳細ついては、[Department of State 1943: 266-271]を参照されたし。
(4) ブリッカー修正とは、1951 年から 1957 年にかけて、ブリッカー上院議員(John W. Bricker)を中心としたグループにより提議された憲法改正案である。それは、「第二次世界大戦以来、外交をめぐり行政府と立法府間で行なわれた争いの中でも最も重大な争いの一つ」[Garrett 1972: 189]であり、「アメリカの外交政策形成をリードするのは、大統領か議会のどちらか」[Schubert 1954: 258]を問うものであった。詳しくは、[西川 2005]を参照されたし。
(5) 1936 年に中立法は改正されている。主な改正点は、交戦国への借款を禁止した点である[中澄 1992: 2]。1937年の中立法の条項の詳細については、[Department of State 1943: 355-365; Garner 1937]を参照されたし。
(6) 戦争レトリックとは、大統領制のレトリック・ジャンルの一つである。狭義では、「アメリカが外国の敵と戦争状態に入っていることを議会が公式に宣言するように大統領が要請するスピーチ」[岡部 1994: 2-3]の中で、繰り広げられるレトリックを指す。しかし、20 世紀以降、戦争レトリックは狭義のものにとどまらず、広く国民に軍事行動の正当性を納得させるものであるのと同時に、国際世論をも喚起させる性格をもったものになっている。
(7) チョトークヮ演説は、1936 年 8 月 14 日、すなわち 1936 年 11 月の大統領選の前に行われた演説である。1936年の選挙戦でローズヴェルトは、共和党が弾薬を撃ち尽くす頃合いをねらうために、政治色の強い演説をひかえ、十月になってから大演説を四つか五つ行うという作戦を立てていた。チョトークヮ演説は、選挙戦で大演説を行う準備運動であった [シュレジンガー 1966: 484-485, 498]。
(8) The New York Times, October 6, 1937.
(9) Radio Address by Hon. Hamilton Fish, of New York, on October 22, 1937.
(10) 毎日新聞、昭和十二年十月七日。
(11) 朝日新聞、昭和十二年十月七日。
(12) 松方幸次郎(1865~1950)。松方正義の三男。神戸政財界の巨頭で川崎造船所初代社長。幸次郎は、1937 年当時、日本で不足しがちであった石油やくず鉄の供給を確保するために訪米を計画していた。松方幸次郎は、非公式の所謂「親善大使団」の一員であった。後に幸次郎は、ローズヴェルトと同窓生であった弟の乙彦(正義の六男)と共にローズヴェルトと会見している[McJimsey 2002: 211, 237]。ローズヴェルトと松方乙彦については、[五百旗頭 2001: 119]を参照されたし。
(13) 1937 年 10 月 6 日の国務省声明の内容は次の通りである。国際紛争を平和的手段で解決するべきだという考え方と条約の不可侵性をアメリカは支持し、大統領の「隔離」演説の要諦はそれを唱導することにあるとした。そして中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものだと認めている[Department of State 1943: 387-388]。国務省声明と「隔離」演説の大きく異なる点は、「隔離」演説では、日本が名指しされることはなかったのにもかかわらず、国務省声明では、はっきりと日本が名指しされていることである。
(14) 「隔離」演説直後、ローズヴェルトはシカゴ管区大司教マンダレイン(George Cardinal Mundelein)の家で催された昼食会に出席し、「隔離」の意味についてマンダレインと話し合っている。マンダレインはその翌日、在アメリカ法王大使のチコニャーニ(Amleto Giovanni Cardinal Cicognani)に以下のような手紙を送っている。「大統領の計画は、非道な侵略国に対する軍事行動や一般的に理解されるような『制裁』を行おうというものではなく、むしろ全条約加盟政府が一致して[非道な侵略国と]国交を断絶するという孤立主義である。もしその目標が、欧州とアジアにおける無法行為を抑制することであるなら、世界の文明化した諸国民の一致団結が不可欠である」[Schewe 1983: 25-26]
(15) 1937 年 10 月 27 日のビドルからの手紙に対する返書。ビドルはその手紙の中で「隔離」演説について、「あなたの見事なシカゴでのスピーチは、全欧州に深い感銘を与えた。外交政策を実行するに於いて明哲なる道義心を持つ諸国は、あなたの言葉を心からの熱狂を持って迎え、大きな刺激を受けている」と書いている[Department
of State 1954a: 151]。
(16) 1937 年 10 月 6 日、国際連盟は、日本の中国に対する軍事行動が、1922 年の九カ国条約、1928 年のパリ不戦条約に違反するものだという裁定を下し、九カ国条約会議を招請することを関係各国に通達した。
(17) パネー号事件とは、1937 年 12 月 12 日、日本海軍所属の爆撃機編隊が、揚子江の巡回任務に就いていた合衆国砲艦パネー号を「誤爆」し、撃沈したという事件である [Morison 2001: 16-18]。パネー号事件の真相については未だに研究者の間で決着がついていないが、陸軍急進派がパネー号「誤爆」を指嗾し、その責任を海軍の穏健派に被せようとしたという見方が主流である[ディングマン 1990; 山本 1993]。
(18) 1898 年 2 月 15 日、キューバハバナ港に停泊していた米軍艦メイン号が何者かにより爆沈された事件。いったい何者がメイン号を爆沈したのかは未だ研究者の間で決着がついていない。この事件を契機に国民感情は一気に沸騰し米西戦争の直接の契機になった[Campbell and Jamieson 1990: 106-108]。
(19) 1915 年 5 月 7 日、ドイツの潜水艦が、アイルランド沖でイギリス船籍の定期船ルシタニア号を撃沈した事件。1,198 名にも及ぶ犠牲者の中には、124 名のアメリカ人が含まれ、アメリカ国民を激昂させる事件となった [リンク 1974: 93-94]。
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 「疑似共産主義政権」だった? ルーズベルト政権の驚くべき実態
 2022年02月21日 公開
 渡辺惣樹(日米近現代史研究家)
 ルーズベルト大統領の周囲には、共産主義者たちが幅を利かせ、政権を操っていた形跡がある。信じがたいことに、容共思想家やソビエトスパイが大統領の側近として、その重要な「政治的決定」をリードしていた可能性が指摘される。
 ※本稿は、渡辺惣樹著『第二次世界大戦とは何だったのか戦争指導者たちの謀略と工作』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。
 ソビエトを直ちに国家承認
 本稿では1933年に発足したフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)政権が、実質共産主義者に乗っ取られていた「疑似共産主義政権」であったのではないかと疑わせる事象を扱う。
 米国民は、第一次世界大戦に参戦を決めたウッドロー・ウィルソン民主党)の外交に幻滅していた。パリ講和会議を経て成立したベルサイユ体制はすわりが悪く、戦勝国であった英仏は、ベルサイユ条約(対独)およびサンジェルマン条約(対墺)で成立した小国の強欲を抑制することに汲々とした。
 戦勝国は大国小国を問わず、ドイツに対する不正義(約束に反した懲罰的条約:ベルサイユ条約の規定する諸条件)を何とか正当化しようと試みた。しかし、結局はそれに失敗した(ベルサイユ体制の崩壊現象が第二次世界大戦である)。このことを理解しなければ、ドイツ国民がなぜヒトラー政権を誕生させたか理解できない。
 第一次世界大戦では、米国も参戦し、多くの若者を犠牲にした。しかしヨーロッパ大陸に安定は訪れなかった。
 米国民は建国の父たちの遺訓(ヨーロッパ問題非介入)の正しさに、「ひどい火傷」を負って初めて気づいたのである。米国民は、ウッドロー・ウィルソン政権以降、干渉主義政党である民主党にけっして政権をとらせなかった。民主党が、1932年の選挙でハーバート・フーバー政権を倒せたのは、1929年秋から始まった世界恐慌を奇貨としたからであった。
 歴代の共和党政権は、1917年の十月革命グレゴリオ暦11月)を機に成立したソビエトをけっして国家承認しなかった。しかし、ルーズベルト政権は政権1年目(1933年)に、直ちにソビエトを正式承認した。承認の条件は、けっして内政干渉しない(世界革命思想による政治工作をしない)ことであったが、ソビエトがそれを守るはずもなかった。
 米国内に跋扈(ばっこ)する共産主義者グループ、労働組合、左翼思想家など、「第五列」を利用した工作を開始した。スターリンは留学生を装ったスパイを全米の大学に送り込み、米国の最先端技術を盗ませた。
 ニューディール政策はただの「バラマキ」
 1933年、大統領となったFDRはニューディール政策と呼ばれる社会主義統制経済を始めた。筆者の世代(60代後半)だけでなく、その前の団塊世代も、「ニューディールは、世界恐慌からの脱出をめざした進歩主義的政策」と賛辞した教科書を読んだ。政策の目玉の一つにテネシー川流域開発公社(TVA)の設立があった。試験にもよく出題された。
 一方で、原爆開発プロジェクトによるウラニウム濃縮施設がテネシー州オークリッジに建設されたことや、濃縮にはTVAからふんだんに供給される電力が使われたことを知るものは少ない。日本に落とされた原爆の原料がTVAの電気を利用したテネシー産であったことを教える歴史教師はどこにもいなかった。
 ニューディール政策の中核組織に全国復興庁(NRA)があった。NRAは、すべての消費財をコード化し、価格や生産量を決定した。資本主義制度の根幹を否定する、ソビエトも驚く政策を次々と実施した。米最高裁がNRAを違憲組織と判断したのも当然だった(1935年)。
 ニューディール政策は、国家予算の「バラマキ」で、資金の出る蛇口に近い組織や人物を喜ばせた。しかし、経済成長を生むインフラ整備には役に立たず、失業者は一向に減らなかった。米経済の回復は、ヨーロッパの戦端が開き、英仏に軍需品供給を始めた1939年9月以降のことである。
 大きな政府は必ず全体主義化する「癖」がある。大きな政府は大量の役人を必要とする。その結果、FDR政権での政府機関職員採用時のバックグラウンドチェックは甘くなった。米共産党員でさえも防諜の要となるOSS(戦略情報局)に採用された。たとえば、レオナルド・ミンスは米共産党員でありながら、OSSの天然資源情報担当官となった。
 政権中枢では、容共思想のハリー・ホプキンスが大統領側近として米外交をリードした。財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、FDRの親友の立場を利用して国務長官コーデル・ハルを差し置いて外交問題に口を挟んだ。モーゲンソーの右腕がソビエトスパイであるハリー・デクスター・ホワイトであった。日本を対米戦やむ無しと決断させた「ハルノート」を起草した人物である。
 「赤いファーストレディ」と呼ばれた
 国務省には、同じく「ヴェノナ文書」でスパイが確定したアルジャー・ヒスがいた。彼は、死期迫るルーズベルトに代わってヤルタ会談の実務を仕切り、ソビエトに日本固有の領土までも分け与える条件で対日戦争参戦を実現した。国際連合設立についても事務方のトップとして活躍した。
 ワシントン議会は、活発化する「第五列」運動に苛立っていた。米下院が、彼らの活動の調査を始めたのは1938年のことである(非米活動調査委員会)。39年の調査対象になった団体に米青年議会(AYC)がある。AYCは米青年共産主義者同盟と密接な関係にあった。
 調査が始まると、若き共産主義者たちは大挙して委員会室になだれ込み議事妨害を企てた。驚くことに、彼らの先頭にいたのはエレノアFDR大統領夫人であった。
 フェミニズム運動をきっかけに共産主義思想に染まり、「赤いファーストレディ」と呼ばれたエレノアの後ろ盾を得た彼らは強気だった。マーチン・ダイズ委員長(共和党テキサス州)に罵声を浴びせ、共産主義礼賛のビラを撒いた。その1人がジョセフ・ラッシュ(ロシア系ユダヤ人:アメリカ学生連盟書記長)だった。
 エレノアはこの男を気に入った(好きになった)。FDR3選を狙う選挙(1940年)では、彼を民主党全国委員会青年部長に推し込んだ。2人の関係を怪しんだ米陸軍情報部はエレノアの監視を始めた。彼女の私信をひそかに開封し、ホテル宿泊時には盗聴した。ラッシュも監視対象だった。陸軍は2人が1943年には愛人関係になったことを確認した。
 こうした事実に鑑みれば、ルーズベルト政権は「疑似共産主義政権」であった。日本は実質共産主義国家である米国と戦い敗北したのである。
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 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt、[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]、1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。ニューヨーク州議会上院議員(ダッチェス郡選出)、海軍次官ニューヨーク州知事を歴任した。第32代アメリカ合衆国大統領(在任:1933年3月4日 – 1945年4月12日)。FDRという略称でよく知られている。尚、姓は、ルーズヴェルトあるいはローズベルト、ローズヴェルトとも表記する。

 隔離演説から参戦まで
 隔離演説
 1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューディール阻止の為に共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる。
 1937年8月30日、中華民国国際連盟に対して、盧溝橋事件などの日本の行動が不戦条約および九ヶ国条約に違反すると主張し、措置を取るよう提訴した。9月6日、ルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」と財務長官のヘンリー・モーゲンソーと国務長官コーデル・ハルに語り、1937年(昭和12年)10月5日、世界で行われつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った。
 「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(中略)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」 
 演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には従来の棍棒外交をあらためて否定し、ドイツやイタリア、日本などの国政実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた。なおハルの証言では、アメリ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた。
 翌1938年10月6日には国務省声明を発表し、中華民国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反とみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した。ただし、アメリカはその加盟国ではなかった。
 隔離演説の反響
 隔離演説はニューヨーク・タイムズコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、シカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ、また国務長官であるハルもこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した。さらに『クリスチャン・センチュリー』誌(en)は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりソビエトの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。
 日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」[38]と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」と題してこの演説が日本を指すものとして報道した。また松方幸次郎は日本駐在の参事官ユージン・ドゥーマンに対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた。
 駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ(en)は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人(アフリカ系)問題から大衆の気をそらせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた。 なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている。日独伊を敵視する一方で、共産主義の下に恐怖政治を敷いていたスターリンと親交のあったルーズベルトは、ソ連によるフィンランドポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。
 また隔離演説は、アメリカ国民を戦争に順応させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであったともいわれる。
 レイシスト・「人種改良論者」
 ルーズベルトの人種観、特に異人種間の結婚に対する考えは、現代的な視点から判断すれば基本的にはレイシズムに基づいていると言えるが、その上でもやや一貫性のないものである。太平洋戦争会議(Pacific War Council)では、「人類は、均等な機会が与えられるのならば、うまく混ざるだろう。(戦後は)我々が知っているような人種差別は軽減されて、世界の国々は人種のるつぼのようになるだろう」と語る一方で、駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的な会話では、ルーズベルトは、スミソニアン博物館の研究者であるアレス・ハードリチカによる、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語り、「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」などとキャンベルに語ったという。
 このような自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には妻エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルやメキシコ、ペルーなどの中南米諸国において、ヒトラーユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容政策を推し進め、自由を束縛するとともに財産を放棄せざるを得ない状況に追い込んだ。
 さらに1944年6月13日には、アメリカの新聞が「ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。その後ルーズベルトは、レターオープナーの返還と適切な葬儀を命じている。
 「米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断」も参照
 原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画
 ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。
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 2017年1月1日 産経新聞「入門・日米戦争どっちが悪い(5)
 日本を追い込んだルーズベルト 背景に人種偏見とソ連のスパイ
 米大統領フランクリン・ルーズベルトは、1939年9月に欧州で始まった第二次世界大戦でドイツに追い詰められていた英国を助けるためにも、参戦したいと考えていました。しかし米国民の圧倒的多数は第一次大戦に懲りて戦争を望んでおらず、ルーズベルトは1940年11月に3選を果たした際に「あなた方の子供はいかなる外国の戦争にも送られることはない」と、戦争しないことを公約にしていました。
 選挙公約に反して戦争たくらむ
 参戦するにはよほどの口実が必要です。米軍はドイツの潜水艦を挑発して、ドイツ側から攻撃させようとしましたがドイツは引っ掛かりませんでした。そのためルーズベルトは、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだわが国を挑発するという「裏口」からの参戦をたくらんだのです。
 12月、米国議会は中国国民政府への1億ドルの借款供与案を可決。ルーズベルトは「われわれは民主主義の兵器廠とならなければならない」との談話を発表しました。翌1941年3月には、大統領の権限で他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる武器貸与法を成立させました。これによって英国や中国国民政府、ソ連に軍事援助を行いました。「戦争しない」と言って選挙に勝った、わずか半年後のことです。
 ルーズベルトの側近中の側近である財務長官ヘンリー・モーゲンソーは1940年、宣戦布告せずに国民政府軍を装ってわが国を先制爆撃する計画を政権内部で提案しました。「日本の家屋は木と紙でできているのだから焼夷(しょうい)弾で焼き払おう」と目を輝かせたといいます。米国は早くから関東大震災の被害を分析し、焼夷弾による空襲がわが国に対して最も効果的だと認識していました。
 モーゲンソーの案はそのときは採用されませんでしたが、米国はフライングタイガースと称して戦闘機100機と空軍兵士200人を中国に派遣し、前回紹介した退役軍人クレア・シェンノートの指揮下に置きました。戦闘機は国民政府軍のマークを付けていましたが、米国は実質的に支那事変に参加していました。日米戦争は始まっていたのです。ルーズベルト有権者への公約を破っていました。
 国民政府軍を装ったわが国への先制爆撃計画は翌1941年、息を吹き返します。7月23日、ルーズベルトJB355と呼ばれる文書に署名しました。その文書は150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲するという計画書でした。真珠湾攻撃の5カ月前にルーズベルトはわが国への攻撃を命令していたのです。
 しかも、この計画を推進した大統領補佐官ロークリン・カリーはソ連のスパイだったことが明らかになっています。
 JB355への署名から2日後の7月25日、米国は国内の日本資産を凍結。28日にわが国が南部仏印進駐に踏み切ると、米国は8月1日、わが国への石油輸出を全面的に禁止しました。そして英国、中国、オランダをそそのかして封じ込めを強めました(ABCD包囲網)。石油がなければ国は成り立ちませんから、「死ね」と言っているのと同じです。
 第一次世界大戦の後、侵略戦争を放棄しようとパリ不戦条約がわが国や米国、英国、フランスなどの間で結ばれていました。米国務長官フランク・ケロッグとフランス外相アリスティード・ブリアンの協議から始まったことからケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれています。
 ケロッグは条約批准を審議する議会で、経済封鎖は戦争行為ではないかと質問されてこう答弁していました。「断然戦争行為です」。つまり米国はわが国に戦争を仕掛けたのです。
 戦争準備のため時間稼ぎ
 わが国は米国との対立を平和的に解決しようと交渉していました(日米交渉)。石油全面禁輸から1週間後の8日、首相の近衛文麿はハワイでの日米首脳会談を駐米大使の野村吉三郎を通じて米国務長官コーデル・ハルに提案しました。しかしルーズベルトはそのころ、大西洋上の軍艦で英国首相ウィンストン・チャーチルと謀議を行っていました(大西洋会談)。
 ここで発表されたのが有名な大西洋憲章で、「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権・自治の返還」がうたわれました。さんざん植民地を増やしてきた米国と英国に言われても説得力はありません。
 実際「政体選択権の尊重」はドイツ占領下の東欧のことを言っていて、アジアの有色人種に適用するつもりはありませんでした。ウィルソンの「民族自決」、ヘイの「門戸開放」などと同様、美辞麗句と行動が一致しないのが米国です。
 大西洋会談でルーズベルトは、参戦を求めるチャーチルに対して「3カ月はやつら(日本)を子供のようにあやすつもりだ」と述べました。戦争準備のため時間稼ぎをするのでしばらく待ってくれという意味です。ルーズベルトはわが国に対して「ハワイは無理だが、アラスカのジュノーでなら会談してもいい」などと回答して気を持たせましたが、初めから首脳会談を行うつもりなどありませんでした。
 実は前年の1940年10月、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本を追い詰めて先制攻撃させる方法として8項目の覚書を書いています(マッカラム覚書)。そこには「在米日本資産の凍結」や「オランダとともに日本への石油輸出を禁止する」といった内容がありました。それがほぼ実行に移されたのです。
 1941年11月15日、米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは非公式の記者会見で「紙でできた日本の都市を燃やす」「市民を爆撃することに何の躊躇も感じない」と言い放ちました。
 26日、米国はわが国に中国大陸からの撤退などを求めるハル・ノートと呼ばれる最後通告を突き付けてきました。
 ハル・ノート起草したのはソ連のスパイ
 ルーズベルトは極端な人種差別主義者で、日本人を病的に蔑視していました。「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから凶悪なのだ」と大真面目に信じていたのです。駐米英公使ロバート・キャンベルルーズベルトとの会談内容を本国に報告した手紙で、ルーズベルトがアジアで白人との人種交配を進めることが重要と考え、「インド-アジア系、あるいはユーラシア系、さらにいえばヨーロッパ-インド-アジア系人種なるものを作り出し、それによって立派な文明と極東『社会』を生み出していく」、ただし「日本人は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語ったと書いています。
 「元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」という妄想を言葉に出して、わが国に通告したのがハル・ノートなのです。
 もし米国が他国から「建国当初の東部13州に戻れ」と言われたらどう思うでしょうか。戦後の東京裁判でインド代表判事のラダビノード・パールは「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈(ほこ)を取って起ち上がったであろう」という歴史家の言葉を引用しています。
 ハル・ノート国務長官のハルが手渡したためそう呼ばれていますが、原案を書いたのは財務次官補ハリー・ホワイトでした。ホワイトはJB355を推進したカリーと同様、ソ連のスパイでした。米国とわが国を戦わせるため、とても受け入れられない強硬な内容にしたのです(ホワイトがソ連のスパイだったことは戦後明らかになり、下院に喚問された3日後に自殺しています)。
 ハル・ノートを出す前に米国は暫定協定案を作っていました。わが国が受け入れ可能な内容でしたが、中国国民政府の蒋介石が強硬に反対しました。カリーの推薦で蒋介石の顧問になっていたオーエン・ラティモアが暗躍していたのです。米国のシンクタンク、太平洋問題調査会(IPR)にはラティモア共産主義シンパが入り込んでいました。わが国の昭和研究会と同じような役割を果たしたといえます。
 ルーズベルト政権には300人ものソ連への協力者が入り込んでいました。ソ連の浸透は、ソ連のスパイが本国とやり取りした暗号電報を米軍が解読したヴェノナ文書が1995年になって公開されて明らかになりました。
 前に述べた通り、ルーズベルト共産主義への警戒感はなく、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンについて「共産主義者ではなく、ただロシアの愛国者であるだけだ」と言っていました。妻のエレノアも共産主義に共鳴していました。ルーズベルトはわが国と米国を戦わせようというスターリンの謀略に影響されていたのです。
 こうしてわが国は追い詰められていきました。
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