🎹04:─3─30代の軍官の革新エリートが絶望的戦争を初め日本国民を地獄の戦場へ送り込んだ。~No.10No.11 

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 戦前の日本は、「老人が戦争を始め、若者が犠牲になった」は、嘘であった。
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 2024年4月15日6:26 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「海軍大学校を首席で卒業「神がかり参謀」が見せた“天才的な戦術”と“頓珍漢な戦略”の落差
 神 重徳(1900-1945)
 日本が戦争に敗れた理由は、兵器の性能や、兵力の差だけではない。指揮官の質にも大きな問題があった。
 軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)は、日米英12人の指揮官たちの決断の背後に潜む「文化」や「教育」の違いに着目している。
 同書で取り上げられている軍人の一人が、日本海軍の神重徳(かみ・しげのり)。キスカ撤退戦などで水際立った才能を発揮する一方で、「捷(しょう)」号作戦や「大和」沖縄特攻など破滅的な作戦を次々に立案し、「神がかり参謀」と呼ばれた。
 以下、同書をもとに、そんな神の生涯と戦歴をたどり、「戦術の天才」と「戦略の失格者」という二面性について見てみよう(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第3章をもとに再構成)。
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 軽巡洋艦「多摩」の艦長としてキスカ撤退を成功に導く
 神重徳は1900(明治33)年に鹿児島県の造り酒屋に生まれ、何度か受験に失敗しながら海軍兵学校へ進学。卒業後は砲術科の将校となった。またも受験失敗を繰り返しながら海軍大学校に進み、卒業時は何と首席だった。その後ドイツ駐在を命じられると、ちょうど政権を掌握したナチスに心酔。ヒトラーの崇拝者となるが、帰国後は日独伊三国同盟締結が世界大戦につながる危険性を認識し、不安を覚えていたようだ。
 そんな神だが、こと戦術面に関しては強気の姿勢を崩さなかった。以下、その具体例。
大本営海軍部参謀時代、真珠湾攻撃成功の後、連合艦隊を挙げてパナマ運河を叩くべしと上官に提言。補給困難を理由に却下される。
・第1次ソロモン海戦を立案。ガダルカナル上陸作戦の援護に当たっていた連合軍艦隊に完勝。艦上にていわく「これだから海戦はやめられないのさ」。
アッツ島玉砕の後、キスカ撤退作戦に臨んで、躊躇する司令官を一喝。軽巡「多摩」に乗り込み守備隊の完全救出に成功する。
 参戦各国の指揮官や参謀たちは、いかなるエリート教育を受けたのか。どの国も腐心したリーダーシップ醸成の方策とは何なのか――。「指揮統帥文化」という新たな視座から、日米英12人の個性豊かな人物像と戦歴を再検証。組織と個人のせめぎ合いの果てに現れる勝利と敗北の定理を探り、従来の軍人論に革新を迫る野心的列伝 『決断の太平洋 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』
 かくのごとく、前線では「優れた闘将」と評された神だが、1943(昭和18)年12月、海軍省教育局に戻される。その後は水上艦艇の「殴り込み」の成功体験が忘れられなかったのか、すでに航空兵力の前に無力であることが証明された戦艦を活用すべしと主張。犠牲ばかりが増大する作戦を、次々に立案していくのである。以下、その具体例。
・上官に自分を戦艦「山城(やましろ)」の艦長にするよう要望。それに乗ってサイパン島の米軍を撃破すると主張し、却下される。
連合艦隊先任参謀として、フィリピン海上において空母機動部隊を囮として米艦隊を引き付け、その隙に水上部隊を敵上陸船団に突っ込ませるという「捷」号作戦を立案。結果は惨敗。
・沖縄に来寇した米軍に対する水上艦艇の特攻を主張。その結果、「大和」を旗艦とする第2艦隊は沖縄へ向かい、悲惨な結末を迎える。
 終戦時、神は第10航空艦隊参謀長の任にあった。隷下部隊との連絡のため北海道に出張した帰途、乗機が青森県三沢沖で不時着水。同乗者と岸に向けて泳ぎだしたものの、途中でその姿は消えた。事故とも自殺とも判然としない、謎の死であった。
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 大木氏は、ある意味で日本軍人の典型のような神の戦歴には、日本軍の教育が大きく関わっていると分析し、次のように述べている。
 「よく知られているように、海軍兵学校海軍大学校陸軍士官学校陸軍大学校の教育は、作戦・戦術次元の知識を偏重し、敢えていうならステレオタイプの解答を叩き込んだ。そうして形成された日本軍の指揮官は、戦闘の「公式」が通用する範囲、すなわち艦長や連隊長・大隊長レベルでは有能たり得た。しかし、より創造性と柔軟な思考を必要とする戦略・戦争指導の責任を負うや、愚行に向かうということがしばしばあったのだ。むろん、彼らの個人的な資質の問題もあっただろう。けれども、かかる日本軍のコマンド・カルチャーも深刻な影響をおよぼしていたのではないだろうか」
 戦史の表層には現れることのない参戦各国の「教育」が、戦いの帰趨を左右したという大木氏の指摘は、現代においても大きな意味を持つのではないか。
 ※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
 デイリー新潮編集部
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 日本を太平洋戦争に暴走させたのは、50代60代の保守的官僚や軍人ではなかった。
 超難関校出の高学歴な超エリート層は革新マルクス主義者として、ファシストの親ナチス・ドイツ派、ヒトラー崇拝者と共産主義の親ソ派、レーニン信奉者に分かれていた。
 皇室と戦前の正統保守は、親ユダヤであり親ポーランド、そして親英知米派であった。
 反ユダヤなどの人種差別主義者である右翼・右派は、保守ではない。
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 明治新政府は、ロシアに対する積極的自衛戦争に勝つ為に佐幕派・討幕派の優秀な子弟を超難関校の帝国大学や陸海軍大学に集めてエリート教育を施した。
 日本のエリート教育が狂い始めたのは、日露戦争日韓併合後で、マルクス主義共産主義が最高学府の帝国大学に浸透してからである。
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 40年5月 ノモンハン事件ソ連軍を指揮したジューコフ将軍は、スターリンに接見して日本軍の評価を尋ねられ、「兵士は真剣で頑強。特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは、狂信的な頑強さで戦います。しかし、高級将校は訓練が弱く、紋切り型の行動しかできない」と答えている。(「ジューコフ元帥回想録」)
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 4月16日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは「日本の良さ」が失われていた「文明開化」の「激しい反動」…崩れてしまった「和魂漢才」
 松岡 正剛
 じつは「日本の良さ」が失われていた「文明開化」の「激しい反動」…崩れてしまった「和魂漢才」
 © 現代ビジネス 提供
 日本文化はハイコンテキストである。
 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 「ジャパン・フィルター」が機能しなくなる
 大和本草国学のような国産物の開発、日本儒学の研究といった連打は、政治や思想や文化における「中国離れ」を引きおこします。日本はこのままいけるんではないか、もっと充実した国になれるんではないか。宝暦天明期や文化文政期には、そんな驕りさえ出てきます。
 ところが、そこにおこったのがアヘン戦争(1840)です。イギリスが清を蹂躙した。幕府が唯一親交を温めてきたオランダ国王からの親書には、「次は日本がやられるかもしれない」という警告が書いてありました。これは「オランダ風説書」という文書に示されています。
 実際にもロシアの戦艦が千島や対馬にやってきて、通商のための開港を求めます。幕府は外国船打払令などを連発して、これを追い払おうとするのですが、効き目がない。
 そうこうするうちに、ついに「黒船」がやってきて(1853)、この対処に戸惑った幕府は解体を余儀なくされました。海外向け、外交上のジャパン・フィルターの持ち札がなかったのです。やむなく攘夷か開国かで国内は大騒動です。これで明治維新に突入することになったのです。
 こんなふうになったのは、黒船に代表される西洋の近代科学の力に圧倒されたということもあるでしょうし、同時にその西洋の力によって、かつての日本にとってのグローバルスタンダードであった清国がなすすべもなく蹂躙されたアヘン戦争という事件を間近に見たせいでもあったでしょうが、いずれにしてもそこで、それまで日本が保持していた何かが損なわれたのです。
 これまでの日本であれば、グローバルスタンダードを独特のジャパン・フィルターを通して導入していたはずのものが、西洋の政体と思想と文物をダイレクトに入れることにしたとたん、つまり「苗代」をつくらずに、フィルターをかけることなく取り込もうとしてしまったとたん、日本は「欧米化」に突入することになったのです。
 これを当時は「文明開化」とは言ってみましたが、でもそこからは、大変です。列強諸国のほうが、裁判権とか通商権などに関してフィルターをかけようとしたのです。
 西洋の文化を受け入れるに際して、あまりに極端なオープンマインド、オープンシステムで応じたために、中国の文物を受け入れるに際しては機能した「和漢の境をまたぐ」という仕掛けがはたらかなくなりました。
 こうして「和魂漢才」はくずれ、できれば「和魂洋才」を律したかったのですが、そこもどちらかといえば「洋魂米才」があっというまに広がっていきました。このことは明治の大学が「お雇い外国人」にそのスタートを頼んだことにもあらわれています。
 仮名の発明から徳川時代国学まで続いた「中国離れ」は「列強含み」に変わったのです。それではいかんと奮起して日清戦争日露戦争に勝利できたあたりから、日本主義やアジア主義を唱える新たなムーブメントもおこりますが、その動向はまことに微妙なもの、あるいは過剰なものとなっていきました。
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 さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
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