🎺25:3─皇室の外交。昭和天皇のバチカンを利用した極秘早期終戦工作。〜No.126No.127 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦前の日本でバチカンローマ教皇カトリック教会が日本の命運にとって重要性な存在であっ事を知ってたのは、昭和天皇キリスト教松岡洋右である。
 故に、アメリカやソ連共産主義者ユダヤ系の国際金融資本や国際報道機関は、国家と民族を守る為にバチカンを利用しようとした昭和天皇松岡洋右を嫌い滅ぼそうとしていた。
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 宗教的無謬説で護られているのは、日本天皇ローマ教皇だけである。
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 2019年11月26日 産経新聞「一筆多論 バチカンと外交協力深めよ 岡部伸
 羽田空港に到着したローマ教皇(中央)=23日午後、東京都大田区(宮崎瑞穂撮影)
 38年ぶりに来日したローマ・カトリック教会の最高指導者、フランシスコ教皇(法王)は、世界最小国バチカン市国国家元首である。バチカンが大戦中、日本と協力関係にあったことはあまり知られていない。
 世界で約13億人の信徒を持つ教皇は、国際政治に大きな影響力を持つ。全世界に数十万人の司祭を配置し、大国が舌を巻く第一級インテリジェンスを吸い上げる情報網を持っていることが大きい。
 日本がバチカンと外交関係を樹立したのは、太平洋戦争さなかの1942年。昭和天皇実録によると、昭和天皇が戦争終結時に備えバチカンの影響力と仲介外交を期待したからだ。期待通り大戦末期、仲介役として終戦工作に関わる。
 米中央情報局(CIA)の前身である戦略情報局(OSS)工作員だったマーティン・S・キグリー著『バチカン発・和平工作電』によると、同じアイルランドカトリック教徒だったOSSのドノバン長官の指令を受けてキグリーは1945年5月、バチカンのバニョッツィ司教を通じて、和平を仲介する用意があるので日本側と接触したいと申し出る。原田健駐バチカン公使は、外務省に同6月5日と12日、極秘電で報告したが、「返電」はなかった。
 政府は同6月6日の戦争指導会議で徹底抗戦を確認し、和平するならソ連仲介と決定していたからだ。
 外交史料館に残る外務省記録によると、原田公使は、素性、目的ともに明確ではない一米国人の申し入れは受けられないと回答したとされる。
また44年12月には、日本の「代表的財界人」が駐日バチカン使節パウロ・マレラ大司教に、「バチカンの和平仲介受け入れで、日本政府を動かす用意がある」として連合国側の講和条件を求めた。マレラ大司教は、ローマ法王庁に報告、OSSに伝えた。しかし米国から回答はなかった。工作は結実しなかったが、米日の要請を受けバチカンが和平の斡旋(あっせん)に乗り出したことは間違いない。
 一方、大戦前から日本陸軍は、独ソの侵攻で祖国を奪われたポーランドと極秘に情報協力を重ね、全欧州に広がる情報ネットワークを構築した。日本の同盟国だったドイツ保安警察(SIPO)が41年7月作成した報告書で、「協力の一端にバチカンが関与」と指摘し、「日本の諜報組織『東』部門-対ソ諜報の長はストックホルムの小野寺信(まこと)陸軍武官で、補助役が『命のビザ』を出して6千人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝(ちうね)ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)領事」と分析した。
 小野寺や杉原らは、ポーランドの情報士官に日本の旅券を発行し、日本の在外公館で職員として雇用して、彼らを保護する一方、外交特権で他国が開封できない日本の「外交行嚢(こうのう)」を使って彼らの手紙や金銭を全欧中に運搬した。バチカンは欧州各地で両国の情報協力を支援した。
 見返りに日本はポーランド亡命政府から機密情報を得た。その最大の成果が小野寺がスウェーデンで45年2月に受け取ったドイツ敗戦3カ月後にソ連が参戦するヤルタ密約だった。
 教皇来日を機に日本は、領土野心を持たず、軍事力にも頼らず、平和を求めるバチカンと協力を深め、外交とインテリジェンスの幅を広げたい。(論説委員
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 1945年6月末頃、昭和天皇と政府と軍部は、沖縄戦の敗北で原爆投下以前に降伏するべく極秘交渉をスイスで開始し、現地の民間金融マン・外交官・陸軍将校・海軍将校らが折衝に当たっていた。
 正統保守は、皇室と国と民族を守る為に昭和天皇を信じ、叡慮による英断・聖断に期待していた。
 主戦派の青年将校、若手官僚、民間の報道機関、右翼らは、本気で本土決戦による一億玉砕で勝利をえる事ができると確信していた。
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2017-09-28
✨21)─1─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.89No.90No.92・ @ ⑰ 
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範皇籍剥奪の皇籍離脱天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放
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 戦国時代。中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に世界に輸出していた。
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 日本を襲う陰謀論、文化マルクス主義者(リベラル左派)の陰謀、中国共産党媚中派)の陰謀、レーニンの亡霊(レーニン崇拝者)。
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 ソ連コミンテルンの27年テーズ、32年テーゼ。
 日本国内に潜む、反宗教無神論・反天皇反民族反日マルクス主義エセ保守。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
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 昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達の靖国神社、軍部・陸軍は、反ユダヤの宗教的人種主義が支配する世界から助けたユダヤ人に裏切られた。
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 2019年11月26日 報道ステーション昭和天皇バチカン…幻の終戦工作
 38年ぶりに来日したローマ・カトリック教会、フランシスコ教皇(82)は、被爆地の長崎、広島を訪れ、核兵器廃絶を訴えた。実は、74年前、そのバチカンを舞台にした終戦工作があった。1921年、昭和天皇の初めての外国訪問はヨーロッパで、その際、バチカンにも立ち寄り教皇ベネディクト15世と会見していた。この時の経験が、20年後に生きてくる。1941年、真珠湾攻撃の2カ月前、昭和天皇は側近に「戦争終結の場合の手段を、初めより充分考究し、ローマ法皇庁(バチカン)との親善関係につき、方策を樹つるの要あるべし」と指示していた。昭和天皇は、開戦前に、戦争を終わらせる道筋を考えていたのだ。フランシスコ教皇の側近で、昭和天皇バチカンの関係を知る元上智大学副学長・オロリッシュ枢機卿は「戦争を始める時には“戦争の出口”も作らなければならない。昭和天皇も“戦争の出口”を作りたかったのではないか」と話す。ではなぜ、“戦争の出口”の舞台がバチカンだったのか。
 全世界に13億人の信者を抱えるカトリック教会の総本山がバチカン昭和天皇独白録によると「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なることなどを考えて(公使派遣を)要望した」という。この昭和天皇の意向を受け、1942年4月に初めてバチカン日本大使館が置かれた。しかし、公使として着任したのはフランスの日本大使館にいた原田健参事官だった。就任した原田公使は“終戦工作のため”という昭和天皇の考えを聞かされていなかった。
 バチカンを舞台に事態が動いたのは、日本の敗戦が濃厚となった1945年の初夏。アメリカの諜報部員、マーティン・キグリーが動き出した。キグリーの特別任務は、日本の降伏を実現する対話の道が開けないか、時期をみて探るというものだった。キグリーは、バチカンの外交官・ヴァニヨッツイ司教に「戦争を早期に終結できれば、どれほどためになるかをお考え下さい」と、日本への仲介を頼んだ。平和を希求するバチカンの外交官としてヴァニヨッツイ司教は、すぐさまアメリカ側の提案を日本側に伝えたが、原田公使は半信半疑だった。数日迷った末、1945年6月3日付で電報を打ち、終戦に向けた交渉を行いたいというアメリカ側の意向を東京に伝えた。しかし、東京から返事はなかった。
原田公使は、キグリーからの2回目のメッセージを、再びバチカンの外交官を介して受け取った。原田公使は6月12日付で『米側の公の地位に在る者と日本とを非公式且つ極秘裡に会談せしめ、両者の接近を図らんとしたるものなり』というキグリーの言葉を東京に送った。しかし、これにも反応はなかった。名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は「当時、日ソ中立条約が締結されていたので、アメリカとの交渉の仲介というのはソビエトにしてもらうということに決まっていた。決まっていたからこそ反応しなかったと思う。その(原田公使の)電報自体も昭和天皇にあげなかったと考えられる」と指摘する。
 原田公使が電報を送った2カ月後、広島と長崎に原爆が投下され、悲惨な戦争が終わった。戦後、キグリーは著書に「これが成功していれば、戦争の終結を6週間早め、原爆の使用を回避できたかもしれない」と書き残している。敗戦の翌年、昭和天皇は側近に「開戦後、法皇庁(バチカン)に使節を派遣した。之は私の発意である。充分なる活動の出来なかった事は残念な事であった」と漏らしている。原田公使が昭和天皇の考えを知ったのは帰国した後だった。その後、どういうめぐり合わせか、宮内庁式部官長として昭和天皇に仕えることになった。原田式部官長は「戦後、木戸(幸一)日記で初めて知った。陛下(昭和天皇)が和平の準備のために必要だと強く主張されて、バチカンに大使館が置かれたということを。私は何のお役にも立てなかった」と語っている。オロリッシュ枢機卿は「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)が中立であることをよくご存じだった。“戦争の出口”を作りたい場合は、中立の政府を通すことしかできない。でも、できなかったということは、とても残念。できなかったということは、広島、長崎が大変なこととなった」と語る。
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 2022年12月27日 朝日新聞デジタル記事「江戸時代の奉答書、昭和天皇の親書…バチカンと日本、450年の交流
 有料記事
 西田健
 東北のキリシタンから教皇に送られた奉答書。イタリアのフィレンツェで新たに発見された=川村信三・上智大教授提供
 「バチカンと日本 100年プロジェクト」シンポジウム
 バチカンにある日本関連の歴史資料を研究する「バチカンと日本 100年プロジェクト」(主催・角川文化振興財団、共催・朝日新聞社)が2022年11月、3年にわたる活動を取りまとめたシンポジウムを上智大学(東京都千代田区)で開いた。19年秋のローマ教皇来日を契機に企画され、新型コロナの広がりで思うように現地調査ができない時期が続いたが、制約の中でも新たな発見があった。シンポジウムでは450年を超えるバチカンと日本の交流の歴史をひもといた。(西田健作)
 バチカンと日本 100年プロジェクト 
 このプロジェクトは、宣教師が送った文章や近代の外交関係資料など、バチカンが所蔵する日本関係文書に光を当てて、両国の交流史を調査研究するもの。今後100年のさらなる友好に向け、バチカンの協力を得て、日本の研究者が中心になって調査している。成果を発表する公開シンポジウムをこれまで3回実施してきた。
 東北のキリシタンからの奉答書は3通あった
 研究代表を務める川村信三・上智大学教授は22年9月、イタリア・フィレンツェで、江戸時代初期に東北のキリシタンローマ教皇に送った「奉答書」を新たに見つけた。シンポジウムでは「日本信徒の教皇パウロ5世宛『奉答書』 新発見史料を読み解く」と題して、同じ内容のものが3通あることが分かった東北の奉答書について、発見の経緯と、その詳細を報告した。
 奉答書は、教皇パウロ5世(在位1605~21年)が日本の信徒を励ますために送った書簡に対して、日本から感謝を伝える返信。1620~21年に近畿、長崎、東北など全国5地区から送られた。バチカン図書館は東北のものだけ2通、あとは1通ずつ所蔵している。
 川村教授は「なぜ東北の奉答書だけが2通あるのか深く考えたことがなかった。だが、今春、フィレンツェで3通目が見つかったという情報が寄せられたため、現地に行ってこれら3通を比較した」と話した。
 3通目はフィレンツェのサン…
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 2023年8月24日公開: NHKスペシャル「発見 昭和天皇御進講メモ〜戦時下 知られざる外交戦〜【前編】
 (2023年8月7日の放送内容を基にしています)
 2022年10月。旧家の屋根裏で、昭和史を書き換える資料が見つかった。昭和天皇と太平洋戦争に関わる極秘資料である。
 資料を残したのは、宮内省御用掛・松田道一。昭和天皇のもとで特別な役割を担っていた。それは国際情勢の御進講、解説であった。回数にして500回に上った。
 研究者「これだけの情報を一人で集めて御進講したというのはすごい。この分量はすごいですね。一体どうやって集めたんだろう」
 研究者「『御下問』というふうに、天皇からの質問の内容が記されてます。天皇自身の関心がどこにあるのかもわかるので、その意味でも重要な史料だと思います」 
御進講は、1933年から敗戦までの12年間、異例の長さにわたった。日本が戦争へと突き進んだ時代である。昭和天皇はどのように開戦と終戦を決断したのか。新発見の御進講メモから、天皇と松田の知られざる外交戦に迫る。
 <天皇の御下問 国際情勢への関心は>
 1933(昭和8)年。昭和天皇にとって特別な「御進講」が始まった。
 32歳の青年君主であった昭和天皇への御進講は、毎週木曜午前11時から宮中で行われた。御進講とは、“天皇への講義”を意味する。異例の長期に及んだ松田の御進講の全容が、初めて明らかになった。
 宮内省御用掛・松田道一。当時57歳。松田はイタリア大使などを歴任した元外交官で、国際協調を重視していたことから白羽の矢が立てられた。御進講の中で天皇が発した質問「御下問」を、松田は詳細に記していた。
 昭和天皇「欧洲にては、何となく不安の気、漲(みな)ぐるの感あり。其(そ)の原因は何(いず)れにありや」
 宮内省御用掛 松田道一「一体の不安気分に付(つき)、Hitlerの抬頭(たいとう)其他(そのほか)、一般に凡(すべ)てが思ふ様に行かざる心理状態が、多分にあると思われます」(御進講メモ/1934年2月15日)
 1933年、ドイツでヒトラーが政権を獲得し、領土拡大の野心をあらわにしていく。同じ頃、日本は満州国承認問題をめぐって、国際連盟からの脱退を通告。世界から孤立しようとしていた。
 昭和天皇「脱退後の日本の聯盟(れんめい)協力問題は、如何(いか)に処理するや」
 松田道一「我方にては、先方にて協力を欲する限り、自ら進んで脱退する必要はございません」(御進講メモ/1935年1月24日)
 松田は国際連盟の日本の帝国事務局長を務め、連盟脱退に傾く世論に批判的だった。
 加藤陽子(近現代史)「天皇にとって松田は、連盟脱退以降の国際体制に対してどう対応するかという最後の英米協調派だと思います。どうにか知恵を寄せ合って対応を準備し、対処するときの政策グループの一員だったと思います。だからこそ、いろいろなことが聞けたのではないでしょうか」
 昭和天皇もまた、国際協調を重視していた。松田によれば、天皇外務大臣の奏上に対し、自らの外交方針を述べていた。
 昭和天皇「平和主義に則り(のっとり)、極力、戦争を避くるを要す」(御進講メモ/1933年10月19日)
 しかし、旧満州中国東北部満州国が建国されると(1932年)、国際社会は日本の傀儡(かいらい)国家であると非難を強めていた。御進講メモからは、世界各国が日本をどのように見ているか、天皇の関心が浮かび上がる。再三にわたり言及していたのが「バチカン」だった。
 昭和天皇「Vatican国が満洲国を承認しおれりや」
 松田道一「Vatican国が正式に外交上満洲国を承認するの手続きは、未(いま)だ執っておりません」(御進講メモ/1934年9月13日)
 ローマ・カトリック教会の中心地、バチカン。当時、その信者は4億人。独立国として国際社会に影響力を持っていた。
 当時20歳であった皇太子時代の昭和天皇は、1921年、同盟国だったイギリスの招きで、半年間ヨーロッパを歴訪した。イギリスでは国王や首相に面会。フランスでは第一次世界大戦の激戦地を訪ね、惨禍を目の当たりにした。当時、フランス大使館参事官として皇太子一行を出迎え随行したのが、松田道一であった。二人はヨーロッパで“国際協調”という新たな秩序が生まれる様を、目の当たりにしていた。この旅の最後に訪れたのが、バチカンであった。ここで天皇は、第一次世界大戦のさなか和平交渉に乗り出し、戦後、国際連盟の発足に尽力したローマ教皇ベネディクト15世に会見する。天皇にとって、ベネディクト15世との出会いが大きな意味を持ったと研究者は指摘する。
 松本佐保(バチカン近現代史)「ローマ教皇は戦争においては中立であり、次なる戦争を阻止するように動いている方だということは、おそらくご存じだったのではないか。のちのち昭和天皇になられたときに、第二次世界大戦をいかに終わらせるのか、平和裏に終わらせるのか、何らかの影響あるいはインスピレーションがあったのではないかと思います」
 ヨーロッパで見聞を深めた天皇は国際情勢を気にかけ、新聞から得た情報について、松田に下問を繰り返した。松田が記録した367件の御下問を、AIで解析(下画像)。研究者とともに読み解いた。
 一橋大学 吉田裕 名誉教授(近現代史)「新聞はとにかくよく読んでいますね」
 志學館大学 茶谷誠一 教授(近現代史)「〇〇問題について新聞で読んだが、その情報について何か情報はないかという、そのスタイルが結構多いんですよ」
 吉田裕(近現代史)「スペイン、目立つね」
 際立って頻出する「スペイン」。さらに、スペインの関連ワードを解析すると、「内乱」などの文字が現れる。
 1936年に始まったスペイン内戦では、ソ連などが援助する人民戦線とドイツ・イタリアが支援するスペインのフランコが争った。天皇はその行方を注視していた。
 昭和天皇「西班牙(スペイン)の内乱は、中々終局困難なるやに思はるる」(御進講メモ/1937年4月30日)
 古川隆久(近現代史)「新聞でも、ものすごく大きく扱っているんです。左翼と右翼でバーンとぶつかってやっていることが、どっちの方向に転ぶか、関心を持った」
 吉田裕(近現代史)「国際的な共産主義運動にどう対抗していくかという問題意識が強い。非常に細かく聞いています。スペインは皇室にとっては脅威になり得る、脅威だという認識が、当然ですけれどあるんだと思います」
 天皇は、スペインの内戦をはじめ、フランス総選挙での共産党の躍進や、中国共産党が国民党との内戦を停止した西安事件ソ連との武力衝突であるノモンハン事件など、世界各地の共産主義勢力の拡大を注視していた。
 <第二次世界大戦 ドイツ覇権と日本>
 ヨーロッパで台頭する共産主義ファシズム自由主義。各陣営の対立を、天皇は懸念していた。
 昭和天皇「欧洲の政情は、追々Bloc對抗(たいこう)が尖鋭(せんえい)化するに非(あら)ずや」(御進講メモ/1937年5月6日)
 1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻。イギリス・フランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。松田は週に2~3回、外務省に出向いて、刻々と変わるヨーロッパの戦況について情報を収集した。
 松田道一「9:00 voiture(車)出省。電信課長室にて電信を見る。明日の準備に忙し。
 夜、夕食後、電信整理。欧州の風雲を眺めて新聞精読。radioを聴く」(松田日記より抜粋/1939年)
 松田道一の孫・史郎は、当時のことをこう語る。
 松田道一の孫 史郎「朝、菊の御紋がついた黒い車が迎えに来る。家族は大変な緊張感だったんじゃないですか。(道一は)非常に温厚、やさしい人。非常に物静かで。ただ一度だけ(道一から)怒られたことがある。すごく怒られた。晩御飯にネギの味噌汁を出した。『なんだこれは』とすごく怒ったと。『あした御進講だと覚えてないのか』と。(臭いがするのは)失礼だと」
 天皇にとって松田の御進講は、どのような位置づけだったのか。統治権の総攬者(そうらんしゃ)である天皇には、外交、内政、軍事など、すべての情報が集まった。松田はこれらのルートと一線を画し、独自に情報を分析し、天皇に解説していた。
 茶谷誠一(近現代史)「輔弼(ほひつ)責任がある外務大臣の奏上や質問と松田の進講は、役割を天皇の中で分けていた傾向が見えます。松田の進講を介していろんな情報を得て、天皇が事前に得た情報を逆に松田に対して確認するという重要な役割を担っていた」
 1940年5月。
 ドイツ軍はベルギーに侵攻。電撃戦で勝利を収めた。
 松田道一「英仏両軍とも独逸軍の前には無力なる以上、世界の情勢は正に(まさに)一大転回期に直面しつゝあり」(御進講メモ/1940年5月30日)
 6月、パリが陥落。フランスが降伏した。
 松田道一「巴里(パリ)を独軍に無抵抗にて明け渡し、仏軍、退却又退却」(松田日記/1940年6月14日)
 国際協調を信条としてきた松田も、ドイツの覇権を認めざるを得ない状況となった。
 古川隆久(近現代史)「松田はもともと協調派、連盟派の外交官の一人でしたので、ドイツに関してはとくに肩入れしてはいなかったけれども、電撃戦でドイツが西ヨーロッパを占領すると、ドイツが優勢という判断になってしまった。実は松田が意見を変えた頃とほぼ同じくして、昭和天皇英米との協調は無理だという考え方になって、松田の外交認識の変化と昭和天皇の外交認識の変化がほとんどリンクしている」
 7月、ドイツ軍はイギリス本土への空襲を開始。ロンドンでは、多くの市民が地下鉄の駅などに避難した。
 昭和天皇「独逸(ドイツ)空軍のLondon襲撃に付(つき)、此朝(けさ)の新聞に、Buckingham宮殿に爆弾落下損害状況、報道せらる。公電ありや」
 松田道一「これは確実なる報道と思はれます」(御進講メモ/1940年9月12日)
 この日(1940年9月12日)のニューヨークタイムズは、バッキンガム宮殿が爆撃され、イギリス国王夫妻に危険が迫ったことを詳しく報じていた。
昭和天皇「英国の対独防御も、今後、必ずしも有望とは見へず、其の為め(そのため)英国はCanadaに逃避し、結局、英国はそうなれば、米国の支援の下に立ち、国威は大いに減殺さるヿ(こと)になる」(御進講メモ/1940年9月5日)
 日本は、ヒトラーのドイツと関係を強め、9月、日独伊三国同盟に調印する。
 松田道一「独逸としては、欧州大陸の覇権を握り、新秩序の設立に乗り出すの意気込み頗る(すこぶる)強く、米国の対英援助が充分効を奏せざる以前に、英国の屈服を余儀なくせしめんと期待し居(お)れる」(御進講メモ/1940年12月26日)
 日本は、三国同盟ソ連を加えた4か国で、イギリス・アメリカに対抗しようと構想する。そのため、1941年4月、ソ連との間に中立条約を締結した。
 <独ソ戦情報 開戦の決断へ>
 しかし、その目論見(もくろみ)はすぐに崩れた。およそ2か月後、ドイツがソ連に侵攻。独ソ戦(1941年6月~)が始まった。松田は、ベルリンの大島浩大使からの電信に注目する。
 松田道一「大島大使の戦地視察報告(独軍の大規模空戦に驚嘆)」(御進講メモ/1941年7月24日)
 大島大使の戦地視察をもとに、松田は戦況を伝える。
 松田道一「独逸(ドイツ)軍が全蘇聯(ソ連)軍を完全に殲滅(せんめつ)するは、独逸側の云ふ(いう)如く(ごとく)、八月又は九月上旬頃には終末を告ぐるものと、大島大使自身も判断する旨を報じて来ております」(御進講メモ/1941年7月24日)
 戦後、大島自身がこう証言している。
 駐ドイツ大使 大島浩「独ソ開戦して1か月ぐらいたったときに見に行った。ヒトラーに呼ばれて、キエフのすぐ前まで。戦はもう、いたる所で勝っている。ヒトラーは(ロシア攻撃を)やるとき、こういうことを言いました。『私は相手が剣を抜く意思があったら、抜かん前にというのが私の方針だ』と。『ロシアがやるに違いないから、先へやっちまえというのでやった』と」(読売新聞社「昭和史の天皇」取材資料より)
 独ソ戦により、日本は2つの選択肢を検討する。ドイツ優勢の場合、“北進”して対ソ戦に挑むか、資源獲得のために“南進”を選ぶかである(上画像)。
 日本は南進を選択。7月下旬、南部仏印に進駐した。
 強い制裁措置で応じたのが、アメリカである。「在米日本資産の凍結」、「対日石油輸出の禁止」を決定した。これに対して、海軍の中で「早期開戦論」が台頭する。しかし、天皇は日米交渉に望みを託し、開戦には慎重な姿勢だった。一方9月に入り、ドイツ軍はモスクワに迫る勢いを見せていた。モスクワの建川美次大使からの電信を、松田は報告する。
 松田道一「蘇聯軍の戦力は今や、急速に減退しつゝある。蘇聯軍の退色は決定的となるべしと云ふ(いう)」(御進講メモ/1941年9月4日)
 松田の情報源は、主にドイツ・ソ連の大使館情報だったが、海外の新聞やラジオも参考に、偏りのないよう留意していた。そのひとつが中立国・スウェーデンの新聞である。
 松田道一「瑞典(スウェーデン)新聞の論調によれば、独逸軍の攻勢は全く予想外の事なりと認め居り」(御進講メモ/1941年10月16日)
 スウェーデンの報道も、ドイツ優勢の観測を伝えていた。
 ドイツは積極的な情報戦も仕掛けていた。リッベントロップ外相は、大島大使に情報を伝えて来た。
 「莫斯科(モスクワ)包囲戦、本作戦は今次対蘇戦争の殆ど(ほとんど)結末とも称すべき」(ベルリン発 電信/10月7日)
 まもなく、ドイツの勝利に終わるというのである。
 古川隆久(近現代史)「情報戦で言うと、ドイツがすごく仕掛けていたわけで、向こうの首脳の直接の直話、大島大使の直話がすごく効いてしまって、それがバランスを崩している大きな要因なので、ドイツの情報戦はすごいんだということが逆に見える。ドイツの情報戦を覆す、そのバランスを正すだけの情報収集が、日本側、外務省がちゃんとできていないこともうかがえるのではないか」
 ドイツ有利の情勢判断の中、11月5日、御前会議が開かれた。日米交渉が行き詰まった場合は、対米開戦となった。同時に、戦争を終わらせるための基本戦略もまとめられた。
 「南米諸国、瑞典(スウェーデン)、葡国(ポルトガル)、法王庁(バチカン)に対する外交並びに宣伝の施策を強化す」(対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案/11月15日)
 茶谷誠一(近現代史)「アメリカと戦争に踏み切っても、ドイツが頑張ってソ連が屈服し、日本も南方に出て行ってアメリカと持久戦をやっていく中で、中立国の南米諸国やスウェーデンバチカンなどを通じて、和平交渉で何とかアメリカと手打ちに持っていける。ある程度勝算のある戦争になっていったと、昭和天皇の心境に変化を及ぼしたと言えると思います」
 戦争終結の見通しを得た昭和天皇。宣戦の詔書を裁可(さいか)した。
 年間60回を超えていた天皇の御下問は、その数が年々減り、開戦直前の1941年9月を最後に、記録が途絶える。
 吉田裕(近現代史)「天皇が何も言わなくなることはないと思う。1941年3月に国防保安法で、御前会議の決定や重要な国家機密の漏洩(ろうえい)に対して、厳罰に処するというのがあって、天皇の発言を記録すること自体も少しためらわれる環境になってきている」
 茶谷誠一(近現代史)「やはりアメリカと戦争になっていくことに対して、何らかの形で外部に漏れる可能性というのも、当然、松田は考えたでしょう」
 【資料提供】
 米国立公文書館 国立国会図書館 国立公文書館 防衛研究所戦史研究センター
 毎日新聞社
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 公開:2023年8月24日 発見 昭和天皇御進講メモ〜戦時下 知られざる外交戦〜【後編】
 <バチカン和平工作 天皇と中立国>
 1941年12月8日、太平洋戦争が始まった。松田は、開戦後もヨーロッパの戦況を伝え続けていた。一方で、参戦していない国々の動向にも目を配っていた。ヨーロッパのみならず、中東、南米諸国にまで及び、こうした国々をめぐる外交戦の重要性について語っていた。
 松田道一「外交といふことは、外交戦とも申す。早い話が、味方の方へ沢山(たくさん)の国を引きつけて相手方に向へば、結局我方が勝つ」(ラジオ講演/1940年3月)
 開戦後、日本に宣戦布告した国は18か国(上画像)。中立を維持する国との関係づくりこそ重要だと、松田は考えていた。
 日本が積極的に働きかけた中立国、それはバチカンである。開戦翌年の1942年5月、日本とバチカンは国交を樹立した。日本からの使節団がバチカン宮殿に招かれ、ローマ教皇ピウス12世と玉座の間での謁見が許された。在法王庁特命全権公使となったのは、原田健。
 昭和天皇教皇へ送った原田公使の信任状が、3年前に公開された(下画像)。
 「法王庁との間に存する所の友誼(ゆうぎ)交情の益(ますます)鞏固(きょうこ)親密ならんことを欲す」
 開戦前の1940年、天皇バチカンの重要性を語っていた。
 昭和天皇法王庁反共主義と平和主義とは、我國(わがくに)の國策(こくさく)にも副ふ(そう)所なるが故に、Vaticanとの或(ある)程度の協力は有益なることと見ゆるが、此(この)点に付(つき)、外務大臣の意向を松田より聞質し(ききただし)置き呉(く)れたし」
 松田道一「承りました」(御進講メモ/1940年2月15日)
 松本佐保(バチカン近現代史)「戦争を始める時点で、戦争の出口がもし昭和天皇のお考えの中にあるのであれば、バチカンは中立国ですし、世界中にネットワークがある。情報収集能力ですね。和平のほうに行くのか戦争を継続するのかという材料としても、非常に有益だと考えたんだと思います」
 松田も、バチカンの重要性を認識していた。
 松田道一「和平の斡旋(あっせん)仲介の如き(ごとき)は、世界平和の目的のために、教会使命の一部と見られて居る。若し(もし)形勢が之(これ)を容るす(ゆるす)なれば、決して其の(その)労を取るに躊躇(ちゅうちょ)はしないであらう」(外交評論/1943年4月)
 これに対し、強く反発したのがアメリカ。ルーズベルト大統領は、日本に先んじて特使を派遣し、バチカンとの関係強化を図ろうとしていた。バチカンは、日本との国交が必要な理由をアメリカに釈明した。
 「満州、フィリピンでは、日本軍によってカトリックの布教活動が脅かされている。教皇庁には極東のカトリック信者の権利と利益を保護する義務がある」
 国務省文書館長 ヨハン・イックス「教皇ピウス12世のねらいは、日本が占領する広大なアジアでのカトリック信者の保護でした。そのためアメリカが『日本との国交は不適切で認められない』と非難しても、バチカンは決めたことを変えなかったのです」
 <終戦への道 和平をめぐる苦悩>
 アメリカの反発を退け、バチカンと国交を樹立した日本。しかし1か月後、ミッドウェー海戦で大敗。以後、戦局は大きく転換し、ヨーロッパでも、1943年、ドイツ軍がスターリングラード攻防戦で敗退する。
 松田道一「英米筋にては蘇聯(ソ連)軍の成功を喜び、戦争は聯合(れんごう)側の勝利により終了すべしなど宣伝に努め居る所、戦後に於て(おいて)共産主義が、全欧羅巴(ヨーロッパ)を風靡(ふうび)するが如き(ごとき)ことも考へられ、之れ(これ)は由々敷(ゆゆしき)大事なりとの観察なり」(御進講メモ/1943年2月18日)
 1945年2月、ソ連軍はドイツの首都・ベルリンに迫っていた。
 松田道一「今回の蘇(ソ)軍の進出は、大部隊を集結して短時日の間に戦線を突破せるに鑑み、獨逸(ドイツ)側の之(これ)に対する対抗措置には困難を感じているようです」(御進講メモ/1945年2月1日)
 松田道一「独逸の危機に付(つき)、御熱心に御聴取あり」(松田日記/1945年2月1日)
 いよいよ劣勢となったドイツ。天皇は、アメリカに一撃を与えた上で、有利な条件を引き出す“一撃講和”を考えていた。
 同じ頃、クリミア半島のヤルタで、米・英・ソの首脳会談が開かれた。ドイツに勝利した後、ソ連が対日参戦する秘密協定が結ばれた。
 5月7日、ドイツがついに無条件降伏。
 6月、沖縄戦は絶望的な状況に陥っていた。それでも、陸軍は本土決戦を唱えていた。
 この戦争をどのように終わらせるべきか。松田は思いを巡らせていた。
 松田道一「沖縄戦は愈々(いよいよ)終末に近し。我方勝算なく、日本全土を敵の空襲に委ねて、猶且(なおかつ)必勝完遂を唱ふ。童気(わらべぎ)壮(そう)と云ふ(いう)べし。世界を挙げて之を敵とし、和平の考慮なし。結局、独逸(ドイツ)の轍(てつ)を踏むこと、素人目にも明也(あきらかなり)。殊に独逸よりも一層不利の結果を招くべし。即ち(すなわち)和すべき機を逸せざるの覚悟、肝要也(なり)。嗚呼(ああ)」(松田日記/1945年6月7日)
 このとき、和平の動きがバチカンからもたらされた。
 6月3日、バチカンの原田健公使が外務省へ打電。特に極秘を意味する「館長符号」電報である(上画像)。
 「羅馬(ローマ)に在る一米人より、和平問題に関して日本側と接触したきに付(つき)、橋渡しを依頼したしとの申出あり」(バチカン発 電信/1945年6月3日)
 それは、アメリカが和平問題について日本側と接触したいという申し出だった。打診してきたのは、アメリカ人のマーティン・キグリー。CIAの前身、OSSの諜報員であった。バチカン国務省のヴァニョッツイ司教を介して、原田にメッセージを伝えた。アメリカ側の提案に、原田は半信半疑だったが、迷った末に東京へ打電した。
 アメリカ側が休戦条件として挙げたのは、「占領地の還附」と「陸海軍の武装解除」。国体・天皇制には触れず、「日本本土の占領を考慮しない」というものであった。
 この電信を外務省はどう受け止めたのか。電信には、外務次官や政務局長に回付されたことを示す印があった。さらに小さく書かれた「大臣スミ」の文字(上画像)。外務大臣東郷茂徳にも届けられたことが確認できる。
 しかし、松田の御進講メモには、バチカンからの電信について一切記述がない。実は、松田はひとつき近く御進講を休まざるを得ない状況に陥っていた。
 松田道一「東京大空襲、外ム省焼失。調査不便、情報不手廻りの為め(ため)、此(こ)の三回は御休講とす」(御進講メモ/1945年6月14日)
 外務省焼失により、松田はバチカンからの情報を入手できなかった。そして、天皇も知ることがなかったと考えられる。
 同じ頃、鈴木貫太郎首相、東郷外相らは軍の意向も受け、ソ連に和平交渉の仲介を依頼する方針を定めていた。結局、外務省はバチカンからの電信に返信しなかった。
 松本佐保(バチカン近現代史)「東郷外相はソ連側と和平交渉をやる方向性で固まっていて、日本の軍の関係者は、やはりソ連と何とか話をつけることにすごくこだわっていたので、基本的には日本の政府内では、ほとんど聞き入れられることがない状態だった。そこも非常に大きな問題であったのではないか」
 6月はじめ、
 米・英・仏にソ連を加えた4か国は、ドイツを分割占領することを決めた。
 6月14日。ひとつきぶりに御進講が再開され、松田は「ドイツ処分問題」について報告した。
 松田道一「今回の対獨処分案の大方針は、直ちに平和条約を調印することなく、獨逸全土に占領行政を行ひ、何程の期間、継続さるべきやも不明なるが、多少長期に亘る(わたる)ものと観測せられ・・・」(御進講メモ/1945年6月14日)
 松田道一「御進講をお始めの処(ところ)、途中御気分過ごせられず、中止御入り(おはいり)」(松田日記/1945年6月14日)
 松田道一「侍従長に、聖上の御模様を尋ねたる所、御吐瀉(おとしゃ(嘔吐))あり」(松田日記/1945年6月19日)
 吉田裕(近現代史)「非常に激務になっていて、疲労している。ドイツの降伏は無条件降伏、軍事占領です。日本も同じ扱いを受けるのかもしれないということです。直接軍政になるかもしれない。天皇制の存続というのは非常にあやういですし、切迫した状況の中で非常に苦悩している」
 6月22日。
 天皇臨席の会議で、ソ連を仲介とする戦争終結を急ぐことが確認された。
 翌月、元首相の近衛文麿を特使として派遣することが決まった。近衛は、ソ連との交渉でアメリカとの対話につなげる考えだった。これに対し松田は、ソ連仲介の和平工作に懐疑的な見方をしていた。
 松田道一「近衛をMoscow(モスクワ)に派遣するの案あり。同地にて蘇大使に会し、進んではTruman会見の機を作るの心組ならんと云ふ。目的は対米工作と云ふ。可咥(わらうべし)」
 ソ連仲介の外交を批判した松田は、和平への道をどのように考えていたのか。それを示す資料が、御進講メモの中にとじられていた(上画像)。中立国・スイスの日本大使館からの電信である。知日派として知られたアメリカの国務次官ジョセフ・グルーの「対日和平声明」を伝える内容だった。
 「無条件降伏は、日本国民の根絶、又は奴隷化にあらず。それは戦争の終わりを意味する。日本人の苦しみを長引かせてはならない」(対日和平声明/7月11日)
 松田は、アメリカ国内に日本への融和的な論調があり、戦争の早期終結を呼びかけていることを、天皇に伝えた。
 加藤陽子(近現代史)「松田は、アメリカのソフトピース(穏健な和平)の線を、御進講という形で、アメリカの状況を説明する形をとりながら(天皇を)説得しているのではないか。天皇も明確に、もう戦争を終結に導くと判断している頃なので、松田の御進講はものすごく影響があったと思うし、英米協調派がどのような形で終戦をリードしていくか、その流れとしても読めると思いました」
 7月。
 米・英・ソはポツダム会談を開き、日本に対して無条件降伏を勧告した。
 7月26日。
 松田はポツダム会談を受けて、天皇に報告。これが最後の御進講となった。
 松田道一「蘇聯が対日戦に参加するや否やの問題は、本会議に於て(おいて)決せらるることは、之(これ)なかるべしと観測されて居ります。米国は太平洋に於いて日本と対立の地位にありといえども、独逸(ドイツ)に対するがごとく、之を根こそぎに破滅するが如き(ごとき)は、ソ連の勢力が存する限り同様には行われないでしょう」(御進講メモ/1945年7月26日)
 吉田裕(近現代史)「連合国の無条件降伏の緩和があり得るのかどうか、つねに注視している。国体護持で折り合いがつかないか。ですから、米ソの対立が激化すれば、日本をアメリカの陣営に組み入れるために日本に対する過酷な要求は緩和されるんじゃないかという見通しも、一方で述べられています。そういう可能性があるとすれば、いわばそこにかけるということですよね」
 8月6日、広島に原爆が投下。8月9日、長崎に原爆が投下される。
 そして、日本が和平工作の望みをかけたソ連は中立条約を破棄して、満州に侵攻した。
 昭和天皇は御前会議で、ポツダム宣言の受諾を決めた。
 松田道一「正午の聖上放送を謹聴。不思(おもわず)嗚咽(おえつ)に迫る」(松田日記/1945年8月15日)
 このときまでに日本に宣戦布告した国は、40か国に上っていた。天皇と松田は、中立国への働きかけを考え続けてきたが、外交戦に敗れたのである。
 松田道一は、敗戦の年の暮れ、宮内省御用掛を退いた。そして翌年、69歳で生涯を閉じた。
 それから80年。封印を解かれた御進講メモには、世界戦争のさなか日本が直面した知られざる外交と情報の戦いが記録されていた。
 吉田裕(近現代史)「昭和天皇自身が、主体的な判断のできる君主になるべきだと、自分自身でもそう思っていて、外交関係の情報をかなり意識的に聞こうとしていると思うんですけれど、情報関係のスタッフを天皇は持っていない。おそらく国際関係に関する唯一の情報関係のスタッフが、松田。
 もうひとつは、情報の質の問題。精査されない情報が、いろんな形で天皇のもとにも集まってきている気がします。自分の期待に即して情勢を判断する、ドイツが勝つから、何とか日本もドイツの勝利を背景にして講和に持ち込めるんだと。現実と願望が取り違えられている状況が印象に残ります。それをチェックしたり精査したりする仕組みがあるかどうか。その辺の組織のあり方に一番問題があるように思います」
 確かな情報に基づいた外交。戦争の時代、それが何より重要であることを、発見された御進講メモはいまに伝えている。
 【資料提供】
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