⛅3:─2─琉球と明和大津波。八重山地震1771年4月24日(明和8年3月10日)~No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 沖縄を主島とする宮古諸島八重山諸島奄美諸島は、日本列島に連なる島々で自然環境と自然災害は似ていて、中国大陸や朝鮮半島とは縁も所縁もない。
 日本と沖縄は、運命共同体、一蓮托生であった。
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 日本民族琉球民族は、甚大な被害をもたらした巨大自然災害を忘れない為に民族神話や民族宗教に落とし込み、伝統、因襲、風習、習慣として生活の中に取り込んでいた。
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 日本民族琉球民族は、数万年前の日本先住民である縄文人(日本土人)の子孫として兄弟民族であった。
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「明和の大津波」とは - 沖縄の歴史
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 近世琉球琉球王国の再建 10/10
■明和の大津波
 「明和の大津波」とは、1771(乾隆36)年4月、石垣島東南海域でおきた海底火山の爆発による地震で、宮古八重山に甚大な被害をもたらした大津波のことです。津波石垣島の東南の浜からかけ登り、先端部は標高85.4mの地点にまで達したといわれます。
 津波によるおもな被害は住居家屋流失2,176戸、流出米2,223石、死亡者は9,313人で、なんと八重山の全人口の約3分の1におよびました。
 津波のあと、天災と疫病(えきびょう)が発生したましたが、疫病の流行は人災の要素が強いといわれます。沖縄本島南部で津波と同年に発生した疫病には義援の穀物が支給されたものの、八重山津波罹災者へは支給されなかったため、餓死(がし)寸前の食糧事情が被害をよりいっそう拡大させたといえるのです。しかも、王府は津波被害によって未納となった人頭税(にんとうぜい)を死んだ人々の分まで徴収したため、生き残った者に過酷な労働を強いることになりました。
 天災・疫病・税の徴収と、壊滅的な打撃を受けた八重山の人口は減り続け、王国末期には津波前の人口の約3分の1まで減ってしまったといいます。
 また、この津波宮古でも大きな被害をもたらしました。30数mの地点まで押し寄せた津波によって、2,548人が亡くなったと宮古史伝に記されています。
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 2024年6月22日10:02 YAHOO!JAPANニュース 47NEWS「石垣島に残る巨石の謎を追った郷土史家の著書「明和大津波」が天皇陛下の目に留まった訳は
 故牧野清さんの写真と、著書「八重山の明和大津波」=2023年6月
 天皇陛下は一人の郷土史家に光を当てられたことがある。
 【写真】発生3カ月で被災地へ、見えた陛下の個性 能登半島地震、寄り添う姿勢変わらず
 明和の大津波によって運ばれたとされる「津波石」=2023年6月、沖縄県石垣市
 江戸時代に沖縄・先島諸島を襲った「明和の大津波」を、丹念なフィールドワークで調べ上げた沖縄県石垣市の故牧野清さん(1910~2000年)だ。
 過去に学び、未来に生かす。牧野さんの姿勢は、防災に対する陛下の思いと一致する。足跡をたどると、皇室とのつながりが見つかった。(共同通信=田中真司)
 ▽1冊の本
 「『津波石』の存在は、石垣市の職員であった牧野清氏が職務の傍ら現場に赴き、石垣島に残る津波石と推定された岩塊の分布を克明に調べ、1冊の本にまとめたことによって、広く知られることとなりました。災害を歴史から学ぶ先駆となった事例といえましょう」
 2021年6月、陛下はオンラインで参加した「国連水と災害に関する特別会合」で基調講演をし、牧野さんの事績と著書「八重山の明和大津波」を紹介した。
 地震による津波は1771(明和8)年に起きた。犠牲者は約1万2千人。このうち石垣島では約8400人が亡くなり、当時の人口に対する死亡率は約48パーセントに上った。
 故牧野清さんの写真を手にする長男の光博さん=2023年6月、沖縄県石垣市 (1)
 そして今も各地には、津波によって海から陸に運ばれた巨石「津波石」が残っている。津波石は元々、海にあったサンゴやその化石などの岩石で、大きいものは重さ200トンを超え、「明和の大津波」より昔の津波で運ばれたものもある。石垣島の東側海岸に点在する五つは「津波石群」として国の天然記念物にもなっている。
 この大災害の痕跡を追い続けたのが、牧野さんだった。
 専門知識はなかったが、石垣市助役の傍ら、休日に島中の津波石を調べ、地図に落とし込んだ。被害を記録した古文書を読み解き、島に残る多くの口承を聞き取った。
 地道なフィールドワークは、1968年に自費出版した約450ページの本に結実した。
 被害の詳細、津波の高さや浸入経路の復元にとどまらず、長く人口が回復しなかった石垣島の様子や防災にまで言及。島では衛生環境が悪化したことに加え、被害を受けた田畑の土地が衰え、飢饉が起きたり疫病がまん延したりしたと指摘した。
 「将来に生かすべきである」。牧野さんは本の中で、こう思いをつづっている。
 「明和の大津波」を語る上で不可欠の文献となり、今でも専門家の研究を支える。陛下は講演で「歴史の記録と、物的証拠などをつないで過去の自然災害の実態を明らかにしようとした試み」と高く評価した。
 ▽皇室へ届ける
 著書を出版した牧野さんは、もう一つの行動を起こす。「役に立てば幸い」として、国内の沿岸部の自治体に自腹で本を送り続けた。
 長男光博さん(84)は作業を手伝い、何度も郵便局に向かった当時を覚えている。
 犠牲者の鎮魂のために「慰霊之塔」の建設にも奔走した。現在は毎年、慰霊祭が開かれ、後世に語り継ぐ場になっている。
 牧野さんには、光博さんも知らなかった皇室との関わりがあった。
 石垣市立図書館に、皇太子時代の上皇さまの側近トップ鈴木菊男東宮大夫が、牧野さんに宛てた1通の手紙が保管されている。
 「皇太子殿下へ献上の下記の品はお手許へ差し上げましたので御通知いたします。 記 『八重山の明和大津波』 1冊」
 手紙の日付は、本の出版年と同じ1968年の10月30日となっている。
 牧野さんがなぜ皇室に献本したのか、光博さんに思い当たる節はなく、首をかしげるばかりだ。本がその後、皇室でどのように利用されたかも分からない。
 だが、陛下は講演で牧野さんの業績に触れ、その存在を知っていた。光博さんは「防災に活用したいという父の願いが、どこかで陛下に伝わったのだろう」とほほ笑んだ。
 陛下は2023年6月、即位後初めて東日本大震災の被災地に入り、感想を公表した。「事実と教訓、体験や復興への思いを後世に伝えていくことの大切さを感じました」。防災にかけた牧野さんの思いとつながった。
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 2024年4月24日 YAHOO!JAPANニュース 沖縄タイムズ「「明和の大津波」で石垣島宮古島に多くの犠牲者 X年前 何があった? 沖縄の歴史4月24日版
 今からX年前の4月24日、沖縄ではこんな出来事がありました。過去のニュースを振り返ります。
重要無形文化財琉球古典音楽」保持者(人間国宝)の島袋正雄さんが肺炎のため、うるま市内の病院で死去。95歳(2018年)
▶県が沖縄空手の将来像を示した「沖縄空手振興ビジョン」を公表。県や空手団体、経済界などが一体となり、「保存・継承」「普及・啓発」「振興・発展」の三つの基本理念を軸に20年後の「ありたい姿」「あるべき姿」を示す(18年)
▶米軍嘉手納基地でパラシュート降下訓練が11年5月以来6年ぶりに実施された。午前7時半過ぎから約2時間に計5回、米兵30人が約3千メートル上空から滑走路に相次いで降下(17年)
▶市町村別の平均寿命で、女性で最も長かったのは北中城村の89.3歳だったと厚労省が発表。05年市区町村別生命表で判明(08年)
ハワイ州議会の上下両院は、沖縄の基地返還に引き続き努力するよう米大統領国防総省に求めた決議書を可決(1997年)
沖縄国際大学が開学。初代学長安里源秀氏(72年)
首里城正殿、国宝に指定(25年)
那覇市立実業高等女学校、那覇市立高等女学校と改称(24年)
琉球諸島にある石垣島の南南東沖を震源とする地震が起きた(旧暦3月10日)。大規模な津波が発生して石垣島宮古島を襲い、多くの犠牲者が出た。「明和の大津波」と呼ばれる。地震の規模を示すマグニチュードは推定7.4(1771年)
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 石垣島地方気象台
 地域の情報 八重山地方 明和の大津波 ∼巨大な岩を動かす津波の力!∼
 明和の大津波 ∼巨大な岩を動かす津波の力!∼
1.概要
 1771年4月24日午前8時ごろ、石垣島近海(石垣島の南南東約40km付近)でマグニチュード(M)7.4の地震が発生しました。震源は北緯24.0度、東経124.3度と推定されています(図1、震源は理科年表による)。 地震の揺れによる被害はなかったようですが、大津波八重山諸島及び宮古諸島に押し寄せ、たくさんの死者・行方不明者が出ました(牧野,1968)。この地震による津波は、牧野清が1968年に著した「八重山の明和大津波」で日本の元号で呼んだことから「明和の大津波」と呼ばれています。
 図1 1771年4月24日の地震(M7.4)の推定位置
 図1 1771年4月24日の地震(M7.4)の推定位置
2.明和の大津波の特徴及び原因
明和の大津波の特徴は、震害はなかったようですが、津波による被害が大きかったことです。 原因として「津波地震※」(Ryuta Arai et al. ,2016)又は「海底地滑りによる津波※」(Okamura et al. ,2018)といわれていましたが、最近の調査・研究では激しい地震動を伴う「巨大地震※」(Ando et al. ,2017)であったと推定される報告があります。

 ・「津波地震」:一般的には断層が通常よりゆっくりとずれるために、人に感じられる揺れが小さくても、発生する津波の規模は
 大きくなるような地震をいいます。
 ・「海底地滑りによる津波」:河川や海流により長い間に堆積した堆積物が、地震の振動をきっかけにして崩れる
 ことによりおこる現象をいいます。
 ・「巨大地震」:一般的にマグニチュード8以上の大きな地震のことをいいます。
 津波のエネルギーは巨大な岩をも動かすほどです。八重山宮古諸島には、襲来した大津波によって海から運ばれてきたといわれている津波石(珊瑚石灰岩)があります(図2)。津波堆積物や津波石の年代測定などの調査により、過去2千年間に約600年間隔で、1771年「明和の大津波」とほぼ同規模の津波が4回程度起きたのではないかといわれています(Ando et al. ,2017)。
 図2 石垣市大浜崎原公園にある津波大石
 図2 石垣市大浜の崎原公園にある津波大石(職員撮影)。明和以前の大津波によって運ばれたとされる(T.Sato et al. ,2014)。
 (推定重量は500∼600トン以上)
 牧野(1968)によると、明和の大津波による死者・不明者数は、八重山地方で9,313人(このうち石垣島8,439人)、宮古島地方で2,548人、合わせて11,861人でした。なお、八重山地方における津波による死亡率は、石垣島で48.6%、八重山地方全体で32.2%となっています(表1及び表2参照)。明和の大津波に襲われる前の八重山地方の人口は3万人弱でしたが、津波の後には2万人ほどに減り、津波後約100年後の明治時代の初期には1万人程度まで減っています。 人口が減った原因は、津波によって居住地域の衛生環境の悪化のほか、八重山の田畑が冠水して土地が疲弊したため、飢饉や疫病等により多くの人が死んだためではないかと考察しています。
 表1 大津波当時の人口、死亡行方不明者及び生存者男女別表(石垣島)(牧野,1968)
 表2 大津波当時の人口、死亡行方不明者及び生存者男女別表(離島)(牧野,1968)
参考資料
 理科年表(平成31年版)
 「日本被害地震総覧」宇佐美龍夫東京大学出版会
 「地震の事典(第2版)」宇津徳治etc.編集/朝倉書店
 「八重山の明和大津波」牧野清(1968年)
 (T. Sato et al. ,2014)
 T. Sato, N. Nakamura, K. Goto, Y. Kumagai, H. Nagahama, and K. Minoura,2014:aleomagnetism reveals the emplacement age of tsunamigenic coral boulders on Ishigaki Island, Japan. Geology, published online May 22, 2014, doi: 10.1130/G35366.1
 (Ando et al. ,2017)
 Masataka Ando ,Akihisa Kitamura,Yoko Tu, Yoko Ohashi, Takafumi Imai, Mamoru Nakamura, Ryoya Ikuta, Yosuke Miyairi, Yusuke Yokoyama, Masanobu Shishikura 2018?Source of high tsunamis along the southernmost Ryukyu trench inferred from tsunami stratigraphy,Tectonophysics 722, 265?276
 (Ryuta Arai et al. ,2016)
 Ryuta Arai,Tsutomu Takahashi,Shuichi Kodaira,Yuka Kaiho,Ayako Nakanishi,Gou Fujie,Yasuyuki Nakamura,Yojiro Yamamoto,Yasushi Ishihara,Seiichi Miura & Yoshiyuki Kaneda Structure of the tsunamigenic plate boundary and low-frequency earthquakes in the southern Ryukyu Trench Nature Communications volume 7, Article number:12255 (2016)
 (Okamura et al. ,2018)
 Yukinobu Okamura,Azusa Nishizawa,Yushiro Fujii & Hideaki Yanagisawa, 2018;Accretionary prism collapse: a new hypothesis on the source of the 1771 giant tsunami in the Ryukyu Arc, SW Japan Scientific Reports 2018 8:13620 DOI:10.1038/s41598-018-31956-8
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 沖縄県立博物館・美術館
 続・明和津波の襲来から250年 ―分かっていないことが多い明和津波の事実―
 最終更新日:2021.06.25
 『大津波の痕跡を探る』解説動画・前編
 『大津波の痕跡を探る』解説動画・後編
 前回は明和津波をテーマにしたミニ展示について開催の顛末や展示の主旨について触れてきましたが、今回は展示の内容に少し踏み込んでみたいと思います。
 明和津波宮古諸島八重山諸島の沿岸部一帯を襲った津波であり、「明和の大津波」「乾隆三六年の大波」「八重山地震津波」とも呼ばれています。この津波は1771年4月24日(旧暦では3月10日)の午前8時頃に発生した、石垣島の南南東沖約40km地点を震源域とするマグニチュード7.4の地震により引き起こされました。八重山諸島では9千人以上、宮古諸島では2千人以上の犠牲者を出した未曽有の自然災害で、被害の状況については文献資料において詳しく知ることができます。そして、この惨状を後世に伝えていくために石垣島宮古島には津波犠牲者への慰霊碑、祈念碑がそれぞれ建立されています(写真1,2)。実のところ明和津波については未だに解明されていない部分が多くあります。以下、それらを簡単に紹介していきたいと思います。
 写真1 明和津波慰霊碑(石垣島
 写真2 乾隆36年大波碑(宮古島
 まずは先に触れた震源域が石垣島の南南東沖とされている一方で、多良間島石垣島の間にある断層のズレにより引き起こされた地震であるという学説も出されています。このことから震源域については未だ議論の余地を残していると言えます。次にこの津波の要因となった地震の震度は4と一般的に言われていますが、嘉良嶽東方古墓群発掘調査ではその近くから地割れ痕が検出されていることにより、震度5以上であった可能性も指摘されます。他には石垣島の各地で見られる津波石の多くが明和津波によって打ち上げられたとされていますが、近年の調査では明和津波以前に大規模な津波が何度か発生しており、その際に打ち上げられた津波石も多く見られるといった分析結果が出ています(写真3、4)。
 写真3 石垣島津波石(津口北のたかこるせ石)
 写真4 石垣島津波石(白保南海岸の津波石群)
 更に注目されるのはこの津波における遡上高についても疑問点があります。首里王府へ提出された津波被害報告書である「大波之時各村之形行書」では石垣島の宮良村にて「二八丈二尺(85.4m)」まで波が達したと記されていますが、当時における測量方法の精度により、数値の信憑性は疑わしいとされています。伝承では宮良湾から名蔵湾へと波が抜けたとされていますが、そのような記録が他に見られないことから、津波の遡上高についてもよく分かっていないのが実際のところです。近年では宮古島の友利元島遺跡の発掘調査において、標高12mまで海岸堆積物が上がっていることが確認されたことから、宮古島南部では津波の遡上高は15m前後であったことが推察されます(写真5)。
 写真5 現在の友利元島遺跡にみる明和津波遡上高附近
 以上のことから明和津波を発生させた地震震源域や震度、更には津波の威力についても不明確な部分が多いと言えます。今回のミニ展示では明和津波の分かっていない部分についてもスポットを当てたかったのですが、展示スペースの問題や章立ての関係で詳しく紹介することができませんでした。また、6月5日に予定していた本展の展示解説会で明和津波の研究がどこまで進んでいるのかについての話をする予定でしたが、緊急事態宣言によって中止となってしまったことから、今回の学芸員コラムで少し補足をさせていただきました。
 現在、「大津波の痕跡を探る―発掘調査で確認された、いわゆる明和津波の痕跡―」展示解説動画を製作し(写真6)、youtube上で公開しております。前・後編各10分程度の展示解説動画を本頁の冒頭にアップしておりますので、興味ある方々は是非ご覧いただければと思います。
 写真6 解説動画撮影風景
 当館主任学芸員 山本正昭
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 防災システム研究所
 1771年・八重山地震・明和の大津波津波跡現地調査/文・写真:山村武彦)
★筆者(写真左下)身長175㎝から推定し高さ7.5~8mほどの津波大石(つなみうふいし・石垣島・大浜崎原公園・推定重量700トン)
 津波によって海中にあったおびただしい数の大石が陸に打ち上げられている。その最大のものが大浜崎原公園の西北隅にある津波大石で、表面にはみどり石、テーブルサンゴなどサンゴ礁に寄生生物跡が残されている。(一部で明和大津波で打ち上げられたものと伝承されているが、最近の研究では約2000年ほど前の津波で打ち上げられたのではないかと推定されている。)
★宮良湾内やリーフに打ち上げられたおびただしい津波石(上)と、津波が遡った宮良川河口付近(下)
★宮良川に架かる宮良橋北東にある「ちびすく石」と名付けられている津波石(写真中央)宮良川を遡った津波によって打ち上げられたと伝えられる
★新空港滑走路予定地近くを流れる轟川(白保地区と宮良地区の間にある)も津波が遡り大きな津波石を約4Km以上の地点まで打ち上げたといわれる
★日本最悪・最大85.4m(弐拾八丈弐尺)の津波
 1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ごろ、沖縄県石垣島南東沖約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。地震の揺れによる被害は一部の建物や石垣が崩れるなどの被害はあったが比較的軽微であった。しかし、この地震によって大きな被害を引き起こしたのは最大28丈2尺(85.4m・石垣島)の大津波であった。津波は三波まで襲来し第二波が一番大きかったと伝えられている。八重山群島(死者行方不明9,313人)、宮古群島(死者行方不明2,548人)などで死者行方不明者合計11,861人もの琉球史上最悪の大惨事に発展する。
 石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
 また、津波に流された田畑は農作物が育たず、津波で生き残った人たちにさらなる試練(飢饉、疫病など)が襲いかかり、1771年からの100年間にこの地域の人口はさらに7000人以上も減少する。明和大津波、この悪夢が与えた直接間接的影響から解き放たれるまでに約100年を要するほどの大災害であり、地域住民の困窮は筆舌に尽くしがたいものがあったと推定される。
 明和の大津波災害及び被害についての記録で主なものは、当時薩摩藩に服した琉球王国支配下にあった石垣島八重山政庁蔵元(地域役所)から首里王府に提出された「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)と「大波揚候次第」(おおなみあがりそうろうしだい)の二つである。津波高さ、被害者数などもこれらの資料を参考にした)
★M7.4で大津波を引き起こした?そのプロセス及びその震源地は?
 気象庁や理科年表などによればこの地震震源地は石垣島南東約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)の断層が動いたとされている。ただM7.4の地震でこれほどまでの大津波が発生するということにはいくつかの疑問もあってか、地震後に海底で大規模な地滑りなどが発生した複合津波ではないかと推定されてきた。しかし、これまでの海底調査では石垣島南東40Km・北緯24.0度、東経124.3度付近で断層が動いた明確な形跡や大規模な海底地すべりの痕跡は未だ見つかっていない。(琉球大学理学部の中村衛先生は、石垣島南東沖約40Kmの断層ではなく、もっと沖合の海溝型のM8クラスの巨大地震だったという研究を発表されている)
 八重山地震・明和の大津波を引き起こしたのがこれまで通説とされてきたM7.4のエネルギーだとすれば、震源断層の長さは一般的に約40Km程度であり、断層のずれだけでこれほどの大津波を引き起こすことは考えられない。また、海底地すべりが同時に発生したとすれば極めて大規模な地滑りであるはずで、海底調査で200年前程度の変動痕跡は判明していなければならない。しかし、海溝型でM8クラスの巨大地震だったとすれば震源断層の長さは150Km前後と推定され巨大津波が発生する可能性は高く、今後の研究成果が期待されている。
★明和大津波が襲来した4月24日に「明和大津波遭難者慰霊之塔」で慰霊祭が開かれる。慰霊之塔の前の碑文
★宮良湾(中央)と、その向こう(東側)が白保嘉崎浜。津波は主に東側から襲ってきたと伝承・証言がある
 激しい地震の揺れのあと、海上に雷鳴のような轟音が聞こえたといわれている。その後「外の瀬まで潮干き」「水平線まで海はカラカラになっているように見えた」(大浜村での言い伝え)、「地震があって不時に退潮し、岩礁砂浜が遠くまで露われた」(宮古島の記録)とされるように、当日8時ごろは最干潮時刻であったが地震による海底異変によって津波前に異常な引き波があったものと思われる。そして、地震発生後数分から数十分後巨大な津波が押し寄せてくる。陸地に駆け上った津波高さは最大85.4mで、これは日本最大の津波高さとして記録されている。ただ、この津波高さは潮位としての波高ではなく、現地で「潮上がり」と呼ぶように津波が陸地を駆け上った(遡上)最大高さを示しているものと思われる。
★厳しい自然、苛烈な支配体制、哀切の歴史
 今は八重山地震津波(明和の大津波)と呼ばれるが、当時石垣島は日本の暦を使っておらず1771年は当時薩摩藩に服していたとはいえ琉球暦が使われていた。1771年は琉球暦の乾隆(けんりゅう)36年卯歳であった。牧野清氏が昭和43年(1968年)に著した「八重山の明和大津波」で日本暦に直されてから一般的に明和の大津波と呼ばれるようになったといわれる。それまで地元では乾隆大津波又は八重山津波と呼ばれていたようだ。この著著は沖縄返還(1972年)前の出版だったため、奥書に定価2弗50仙(2ドル50セント)と書かれている。石垣島を含む八重山地方は台風、津波マラリアなどの厳しい自然脅威だけでなく、琉球王国支配下(1500年~)、島津藩支配下(1609年~)、苛烈な人頭税(1637年)、島津藩から沖縄県へ(1879年~)、大東亜戦争(1941年~)、敗戦(1945年)、米軍統治(1946年~)、本土復帰(1972年)など、ドラスティックに入れ替わる支配体制に抑圧・翻弄され続けてきた哀切の歴史が奥書や津波名にもにじみ出ている。
★「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録された津波波高(潮上がり・陸地に到達した高さと推定)
津波前の人口、津波による死者(行方不明者含む)数、死亡率
村名 潮上がり高(旧尺貫法) メートル換算 津波前の人口 死者(行方不明)数 死亡(行方不明)率
宮良村 28丈2尺 85.4m 1,221人 1,050人 85.9%
白保村 19丈8尺 60.0m 1,574人 1,546人 98.2%
安良村 18丈6尺3寸 56.4m 482人 461人 95.6%
原崎 15丈4尺 46.7m ー ー ー
大浜村 14丈5尺8寸 44.2m 1,402人 1,287人 91.8%
嘉良岳 13丈1尺5寸 39.8m ー ー ー
伊原間村 10丈8尺 32.7m 720人 625人 86.8%
玉取崎 10丈6尺 32.1m ー ー ー
平得村 8丈6尺 26.0m 1,178人 560人 47.5%
真栄里村 6丈4尺 19.4m 1,173人 908人 77.4%
登野城村 4条3寸 12.2m 1,141人 624人 54.7%
仲興銘村 3丈5尺4寸 10.7m 283人 283人 100%
桃里村 3丈2尺 9.7m 888人 199人 22%
大川村 3丈4寸 9.2m 1,290人 412人 31.9%
石垣村 3丈4寸 9.2m 1,162人 311人 26.8%
富崎野 2丈9尺8寸 9.0m ー ー ー
新川村 2丈7尺 8.2m 1、091人 213人 19.5%
 
石垣島 17,349人 8,439人 48.6%
西表島 4,596人 324人 0.07%
波照間島 1,528人 14人 0.9%
竹富島 1,313人 27人 2.0%
黒島 1,195人 293人 4.4%
与那国島 972人 0人 0%
小浜島 900人 9人 1.0%
新城島 554人 205人 37%
八重山群島合計 28,407人 9,311人 32.7%

 桃林寺に隣接する権現堂
★28丈2尺(85.4m)の信頼性
 「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)で津波の最大高さは宮良村(現在の石垣市宮良)の28丈2尺と記されている。しかし、その場所について具体的な位置は示されていない。そのため、未だに場所は特定されておらず疑念や諸説を招くことになる。中には当時の技術で正確な高低測量は期待できず、陸遡上としても最大高さ数値の確度は低いのではないかとか、「白髪三千丈」の類で非常に大きな津波だったことを表すための比喩ではないかなど、記録の真実性を疑問視するむきもあったようだ。
 しかし、当時の測量技術については石垣市の桃林寺と権現堂の建立記録に、慶長14年(1609年)琉球を征服した薩摩藩は直ちに全琉球の測量を実施し、慶長16年(1611年)には八重山に測量隊が派遣されたという記述(慶長の検地)がある。「丈量竿を使って検地帳に記載した」と書かれている。この測量隊が時の琉球王(尚寧王)に対し八重山に社寺建立を進言した結果、慶長19年(1614年)に現在の桃林寺と権現堂が創建されたとされている。その後正保4年(1648年)にも薩摩の測量隊が来島したという記録もある。
 薩摩の測量隊といえども当時は現代からみれば初歩的な測量技術でしかなかったと思われるが、測量隊には常に琉球の測量役人も随行したとされるので、蔵元の役人の中にはこうした技術を持ったものが居ても不思議ではない。過去40年以上津波被災地の調査をしてきて共通していたことは、津波が遡上(潮上がり)した地域は樹木や草地が塩害・潮やけで枯れてしまっていて鮮明に判別できたことである。そのため津波の遡上高さは第三者が客観的に後からでも確認することは比較的容易であった。明和の大津波当時も応急対応後、蔵元役人が現地を回り海面を基準にして高低測量を行い○丈○尺と報告したものではないか、根拠のない数値を報告したとは考えにくい。私は、王府に報告された「大波之時各村之形行書」に書かれた28丈2尺という数値はおおむね信頼できると思われる。
★28丈2尺(85.4m)を記録した場所は?
 「八重山の明和大津波」(牧野清著)には「宮良部落の北方ゆるい坂でおよそ2キロ、白保部落から約3キロの地点に海抜88・7mという高台地があり、現在の小字名は牧中である。直進して嘉崎浜(白保村と宮良村境界付近の古い呼び名)から打ち上げた波は猛然として、この台地をかけ上がり、台地の頂上に近く85.4mのところに達したものと思われる。(中略)牧中は昔は牧場だったが、現在はほとんどパイン畑になっており、その一番高いところは戦時中あったという海軍の見張り所の跡が残っている。」と書かれている。そこで私も牧野氏のいう「牧中のパイン畑」と思われる高台周辺を回ってみた。しかし、震源地~嘉崎浜~牧中まで津波が一直線に駆け上ったのではという仮説には多少の疑問を感じる。
 それより、東方(白保浜方面)から西方(宮良方面)に押し寄せた波と、轟川を遡ってきた津波とが合流し斜面を回り込むように横断したという次に掲げる目撃伝承のほうにより説得性があるように思われた。
 明和大津波に遭遇したとき、宮良の高台で農作業に当たっていて助かった先祖(運天筑登之氏)により代々語り継がれてきた大津波体験目撃談。それを継承されていた父親(大久宣佐氏)から共に現場を回って伝承された話を、宮良の小濱勝義氏(77歳・大久から小濱に改姓・下の写真))に聞いた。筆者が石垣島へ調査に伺ったとき(平成22年4月28日)、降りしきる雨の中にもかかわらず小濱氏は高台まで同行して下さり、父君から聞いたという津波当日の生々しい伝承話を聞かせて下さった。
 小濱勝義氏
 以下は小濱氏が書かれた伝承の概要「明和大津波襲来の日、運天家の先祖は早朝野良に出て、牛馬の朝つなぎをすませ、畑仕事に精を出していた。その時大波が来て宮良村を飲み込む様子を両の目でしっかりと見てしまった。水がひいて急ぎ村へ戻ってみるとと家はなく家族の姿も見えなかった。やむなくタコラサー石のもとで呆然としていると、外本御嶽のツカサ(神司)で、村の御用布係をしている大久ウナリがやってきた。ウナリは津波の難を逃れてきたのである。4月24日は宮良村の御用布を蔵元へ納付する日であったため、前日は真栄里村の知人宅で宿泊し、24日の朝、蔵元へいざ出発という時に「ナンヌンドゥクード!」(津波が来るぞ!)と村人が騒ぎ出したので、ウナリは御用布を背負って地底御嶽(ギゼクオン)へたどり着いた。見るともなく東方の宮良村へ目をやると、赤く濁った水が村をおし流していた。唖然として立ちつくし、大水がひくのを待って宮良をめざして歩き出した。やっとたどり着いた所が宮良牧中のタナ―ムルで、それから下りてタコラサー石まで行った。タコラサー石のもとには宮良村の運天筑登之や高良親雲上が居たので、そこにとどまった。
 日が暮れかけてから松明(たいまつ)をつけていたところ、その灯りをたよりに生存者が寄り集まってきた。運天筑登之とウナリは高良親雲上とともに生存者の救護に当り、また食糧の調達をして協同生活した。そこへ蔵元からの指示があって幾日かして村跡へ下りることになった。運天筑登之と大久ウナリはそれが縁で結ばれ、子どもをもうけた。二人の間に生まれた子の中から、長男は運天家、次男は大久家を継ぐことになり、運天家と大久家が現在もなお脈々と続いているのは、このことがはじまりである。したがってタコラサー石(下の写真)のある場所は、宮良村の生存者たちが寄り集まって蘇生した所でもあるとともに、運天、大久両家の縁結びの地でもある」。
 「明和大津波遭難者慰霊之塔」裏側にあるタコラサー石
 このタコラサー石の前で、毎年4月24日夜に松明を焚き大津波遭難者の霊を慰め、蘇生した先祖をしのぶ集まりがある
 小濱氏は大久家の墓所の前で「この墓の前を東側から西側に高台を回り込むように津波が走って行ったと父親から聞いた」と話す
★タコラサー石より東側にある大久家の墓所、小濱氏が父君から聞いた話では津波は東側 (白保嘉崎浜・轟川方面)から西側(宮良方面)に流れて行き、この場所(上原・うえばる)の下まで津波が来たという。そして犠牲者をここへ埋葬したと聞いたそうである。そして、28丈2尺かどうかはわからないがここが津波が一番高く上がった場所と言っていたとのこと。240年前のことゆえ津波の痕跡があるわけではないが目撃者の伝承談として記載しておく。
★現在、茶山と呼ばれている山林一帯(石垣市字平得大俣135番地付近)は昔からスリ山とも呼ばれている。地元の人の話では明和大津波のとき、津波が通過した際、山をすり切ったということによって生まれたという話である。津波が通過した所は草木が潮やけして枯れてしまうので、津波が山肌をすり切ったというニュアンスは胸に落ちるものがあり、一直線に駆け上ったというより斜面を横からすり切ったのではないかと考えられる。
★風化する大津波の記憶
 明和の大津波で人口が半数になるほど被害を受けた石垣市、毎年「慰霊の塔」前で慰霊祭が開かれるものの市民の防災意識は低下し大津波の記憶も風化しつつあるように見える。津波警報が出されたときに車で津波見物をしようと橋などが混雑したり、大きな被害を出して高台に村ごと移転した宮良地区の海岸に住宅を建てた若者たちには警鐘を鳴らす長老たちの言葉は届いていない。
 明和大津波遭難者慰霊の塔への案内標識が津波防災意識の風化を物語る
★注意深く見ると津波避難ビルの標識がチサンホテル、ハイパーホテルなどの壁面に掲げられていたり、避難場所表示板がいくつかあったりするが、それはごくわずかでしかない。日本最大・最悪の津波に襲われた石垣市に、本土の津波襲来地のような密度での津波注意標識がないのは極めて残念である。
石垣市星野は人魚の里(人魚伝説が伝わる町)
★人魚伝説
 「八重山に伝わる民話その一」(NPO法人沖縄伝承話資料センター発行)に人魚伝説「人魚と津波」が書かれている。「昔、白保(しらほ)と伊野田(いのた)との間に野原(のばる)という部落があった。ある日の夜、野原(星野)部落の沖から女のきれいな歌声が聞こえてきたという。「いったい何だろう」と何人かの青年で沖へ出て網を入れてみた。二、三回網を投げているうちに、重いものが引っかかったので、「よし、これは大きな魚だ」と喜びながら舟に上げてみた。それは、驚いたことに、上半身は若い女、胴体から下は魚のような不思議な姿のものだった。青年たちは「これが人魚か。みんなに見せよう」と部落へ持って帰ろうとした。
 すると、この人魚がしくしく泣き出して、「どうかわたしを放してください。放してくだされば大きな秘密を話しますから」と頼んだそうだ。青年たちは、「これだけ涙を流しているんだから、放してあげようか」と放すことになった。人魚は「明日の朝、津波が来ます」と言ったそうだ。そのことを聞いて、びっくりした青年たちは急いで部落に帰り、「明日の朝、津波がくるらしいから早く避難しよう」とみんなに知らせた。また、白保まで走り、「明日の朝は津波がくらうらしいぞ」と言ったら、信じる人もいれば、信じない人もいたそうだ。その後、本当に津波がやってきて、野原(星野)部落の人はみんな助かったが、白保の人は、多くの人が波にさらわれたそうだ。それが「明和の大津波」ということです。」と。
 この野原を星野部落と言いかえたものや、白保だけでなく宮良にも知らせたなどの民話があるようだ。星野は白保の隣部落に位置している。白保村は津波前人口1,574人だったが、そのうち死者行方不明者は1,546人で実に98.2%が犠牲になってしまった。ひきかえ隣接する星野ではほとんど被害がなかったことからこうした伝説が生まれ、津波に警戒すべきという教訓を民話に託そうと地震後に創られたものと思われる。
 羅賀の津波石/田野畑村
★トンガの大津波
 ニュージーランドの北2,000Kmにあるトンガ王国にも巨大な津波石がある。最新の研究によると、トンガにあるサンゴでできた7個の巨石は、過去7000年以内に火山の噴火によって発生した津波によって、斜面を押し上げられて運ばれたものであるという。そのうち最大の巨石(写真)は、海岸から100メートル以上内陸の海抜10メートルを超える地面に鎮座している。
 よく見ると石垣島にある津波石と似ているように思われる。トンガは南西太平洋にあって、トンガ海溝、トンガプレートなどがあり、周辺で大地震、大津波が繰り返し襲来してきた場所で、日本と同じような地勢的リスクのある地域である。
★山村武彦の津波防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報
 地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することです。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。
3、「できるだけ早く高台へ、無理なら近くの高いビル」「車は使わず・遠くより、高く」一度避難したら戻らない。
 「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、ビルの4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは条件付きで危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います)。いったん避難したら、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。
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 八重山地震(やえやまじしん)は、1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃に八重山列島近海を震源として発生した地震である。
 この地震が引き起こした大津波により先島諸島が大きな被害を受けた。この大津波は、牧野清による『八重山の明和大津波』(1968年)以降、日本の元号を取って明和の大津波とも呼ばれている。
 概要
 地震発生のメカニズムは、フィリピン海プレートユーラシアプレートの下に沈み込むために生ずる、歪みがもとで発生した海溝型地震と考えられており、地震によって発生した海底地すべりが大津波を引き起こしたとされる。
 東北大学災害科学国際研究所の調査によれば、津波で陸に打ち上がったと伝えられるサンゴ巨礫(津波石)を南西諸島の10の島において調査した結果、高波に由来する巨礫が全域に分布するのに対して、津波に由来するものは宮古列島八重山列島に限られ、それより北の奄美諸島沖縄諸島では発見されなかった。これによって地震による津波の範囲が限定的であったことが明確となり、過去2,400年間にわたって約150 - 400年周期で大規模な津波が来襲したという、別の調査の結果が裏付けられた。

 復興
 琉球王朝は被害地域の復興のため、被害の大きかった地域に、他の島から入植させる政策を取った。最も被害が大きかった白保村には波照間島から418人、隣接する宮良村には小浜島から320人の島民が移り住んだ。
 もともと違う方言を話していた地域から移り住んだため、これらの地区の方言、風習、芸能には21世紀になっても石垣市街の中心部とは違いが見られる。また、移住者は自分たちのために御嶽と呼ばれる祈祷の場を新たに設けたため、村内に複数の御嶽が存在する。
 伝説
 石垣島では、この大地震に関する伝説がある。ある日「野原(ぬばれ)村」(現在はない)の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。野原村の村人はその言葉を信じ山に逃げ、津波の事を隣村の白保村に伝えるために伝達を出した。知らされた白保村では人魚の話など馬鹿げた話だと信じてもらえず、結局信じる人々のみが於茂登岳に避難した。そして津波は起こり、島は津波に飲み込まれてしまう。「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録されたデータでは、この津波による野原村の遡上高は46.7メートルで死者(行方不明者)は2名だけであったが、白保村での遡上高は60メートルに及び、死者(行方不明者)は全村民1,574名中の1,546名で、98.2%が死亡した。
 宮古列島下地島の通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている。
 「通り池#伝説」も参照
 島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが、真偽は不明である。
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