🎹19:─5─軍国日本は、1940年に東京でオリンピック大会を開催する為に、親日派エチオピアを見捨てた。1936年~No.94No.95No.96 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1932年3月1日 満州国建国宣言。 
 7月 東京市議会は、オリンピックを東京に招致する為の実行委員会を設置し、10月に誘致決議案を可決した。
 8月 ロサンゼルス五輪。日本は、1940年のオリンピックを東京で開催すべく、IOCやアメリカに好印象を与えるべく大選手団を派遣した。
 昭和天皇は、オリンピックの場を利用して、世界との絆を保ち、アメリカで人種差別で苦しめられている日系人を励ます為にも、選手団の活躍を希望して私有財産から1万円を下賜した。 
 日本政府も、オリンピック選手団への補助金を前回の6万円から10万円に増額した。
 嘉納治五郎と岸精一の両IOC委員は、ロサンゼルスで開催されたIOC総会で1940年オリンピック大会オリンピック大会開催地として東京が立候補するという正式招請状を提出した。
 IOC総会の決定権を握っているのは欧州諸国である為に、地理的な面と旅費など経費面から有力な候補地はローマであった。
 ドイツは今なお経済低迷が続いており、次期首相のヒトラーは「オリンピック無用論」で36年ベルリン大会を返上する可能性が高く、もし返上すれば代替地にローマが選ばれる公算が高かった。
 もし。ベルリンが返上してローマが代替地に選ばれれば、他に候補地がなければ東京開催が決定される可能性があった。
 非白人のアジアで大会が開催されることは、オリンピック大会史上の快挙であった。
 東京でオリンピック大会開催が決定し、東京オリンピック大会が成功すれば、反日感情を強めている国際世論での評価を好転させ国際信用の回復に役立つ事が期待できた。
 東京開催を勝ち取る事は、国際社会で軍国日本が孤立するかどうかを見極める重要な機会であった。
 昭和天皇は、日本の将来を好転させる為にも東京開催を切望していた。
 ムッソリーニは、ローマ・オリンピック大会開催に積極的であった。
 日本IOCは、東京開催を勝ち取る為にはローマ開催地立候補を辞退して貰うべく、ムッソリーニへの説得を続けた。
 ムッソリーニは、政治的判断でローマ開催を断念して開催地候補を取り下げた。
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 1933年3月27日 日本、国際連盟脱退通告。
 9月14日 国際協調派の広田弘毅A級戦犯)は、孤立化した軍国日本の地位回復させるべくオリンピック大会招致に力を入れた。
 12月23日 皇太子明仁親王ご誕生。
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 1934年12月 ワルワル事件、イタリアは、エチオピア侵攻の為に、国境で挑発を始めた。 
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 1935年 IOC総会は、ムッソリーニが日本との約束を反故にしてローマ開催地立候補を表明した為に紛糾し、開催地決定を来年に持ち越した。
 日本IOCは、東京開催のカギを握っているのはIOC会長バイエ・ラトゥール(ベルギー)と睨んで日本への招聘を申し込んだ。
 1月 エチオピアはイタリアの侵略を国際連盟に提訴したが、イタリアは提訴を無視して挑発を繰り返した。
 2月 ムッソリーニは、副島道正伯爵と面会し、開催都市招致を辞退する事を言い渡した。
 ムッソリーニがオリンピック大会開催を東京に譲ったのは、エチオピア侵攻について軍国日本を封じるためであった。
 エチオピアは、親日派で、日本と天皇に親近感を持っていた。
 7月15日〜8月20日 第7回コミンテルン大会。「35年テーゼ」
 10月3日 イタリアは、エチオピアに侵攻した。
 国際連盟総会は、賛成50、反対1,棄権3で、イタリアを侵略者とする採決を可決し、経済制裁を参加国に要請した。
 が、加盟国は、建前としてイタリアを批判したが、本音では非白人のエチオピアを救う為に経済制裁を行う意思はなかった。
 国際正義とは、白人が身勝手に「ほざく」しょせんは綺麗事に過ぎなかった。
 エチオピアは、世界から同情されても見捨てられていたが、世界の孤児としてイタリアの侵略から祖国を守る為に自衛戦争を始めた。
 10月24日 ロンドン海軍軍縮交渉開始。
 12月 イタリア軍は、エチオピア軍の頑強な抵抗にあって苦戦に追い込まれた為に毒ガスを使用した。
 ムッソリーニエチオピアは文明国ではないので国際法は適用されない」
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 1936年1月15日 日本は、ロンドン海軍軍縮条約から脱退勧告。
 建艦競争最再開。
 2月26日 2・26事件。
 3月7日 ドイツ軍は、ライラントに進駐した。
 3月9日 広田弘毅内閣成立。
 3月19日 ラトゥール会長が乗船する、豪華客船「秩父丸」は横浜港に入港した。
 日本政府と日本IOCは、ラトゥール会長を桜の花咲く東京、京都、日光などを案内し、歓待した。
 4月9日 ラトゥール会長は、東京開催に好意的なコメントを残して日本を離れた。
 開催地候補として残っていたのは、東京、ローマ、フィンランドヘルシンキであった。
 ムッソリーニは、ローマ開催を最終的に取り下げた。
 5月5日 イタリア軍は、エチオピア首都アジスアベバを軍事占領した。
 5月7日 イタリアは、エチオピアを併合した。
 5月9日 エチオピア皇帝ハイレ・セラシェ1世は、亡命した。
 6月 ロンドンが、突然、開催地立候補を表明した。
 東京市長牛塚虎太郎は、ロンドンに立候補取り下げを依頼したが、拒否された。
 7月29日 ベルリンで、1940年オリンピック開催地決定のIOC総会が開催された。
 ラトゥール会長は、ロンドンの後出しジャンケン的な立候補に不快感を表し、東京開催を支持する姿勢を示した。
 ロンドンは、東京には勝てないと判断して辞退を表明した。
 候補地は、東京とヘルシンキの2都市に絞られた。
 7月31日 IOC総会で投票が行われ、東京は36票、ヘルシンキは27票で、1940年のオリンピック大会は東京で開催される事が決定した。
 軍国日本は、国際社会で孤立化してはいなかった。
 8月2日 東京日日新聞(現、毎日新聞)「躍進日本の熱意示す、競技設備に豪華計画、4年後の完璧布陣を期して手ぐすね引く各方面」
 陸軍は、オリンピック開催準備費に軍事費を削がれ、戦場から優秀な兵士を大会出場選手として引き揚げさせなければならず、不満であった為に協力する事に消極的であった。
 軍部は、戦時下であるにもかかわず、各国の選手団と共に世界中から報道関係者や大会観戦者が日本に押し寄せ、日本国内を自由に移動する事を警戒した。
 8月7日 国策の基準を決定した。
 12月4日 西安事件
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 1937年3月20日 衆議院予算委員会で。政友会の河野一郎代議士は、「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがかと思う」と、疑問を呈した。
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 1938年 帝国議会で。杉山元陸相は、戦時につき鉄鋼など軍需物資が逼迫の度を増しているとして、五輪中止論を述べた。
 新聞各紙も、東京五輪に消極的な記事を掲載した。
 3月 IOC委員の嘉納治五郎は、カイロで開かれていたIOC総会で、東京開催を危ぶむIOC委員達を説得して回った。
 「オリンピックに政治の影響を及ぼしてはならない」
 欧米諸国のIOC委員は、嘉納治五郎東京五輪開催への情熱に心を動かされ、それぞれの本国を東京五輪開催支持に説得した。
 東京五輪開催は揺るぎないものとなった。
 5月4日 嘉納治五郎は、横浜まであと2日という氷川丸船中で肺炎に罹って急逝した。享年77歳であった。
 6月23日 近衛文麿内閣は、軍部の圧力に屈して、戦争遂行のため以外の戦略物資の使用制限を閣議決定した。
 7月15日 日本政府は、国内外で強くなった東京五輪返上の意見に押されて、日本初の五輪開催を正式に断念した。
 五輪担当の木戸幸一(初代)厚生相「戦時体制に備えている時、五輪だけ別というのは不可能」
 同日。広瀬久忠厚生次官名で、五輪開催中止の通達文が小橋一太東京市長宛てに送られた。
 「政府に於いて成るべく大会を開催し得る様希望して来たるが、現下の時局は挙国一致、物心両面にわたり益々国家の総力を挙げて事変の目的達成に邁進するを要する状勢なるに鑑み、オリンピック大会はこれが開催を取止むるを適当なりと認むる。……」
 同様に、札幌の冬季五輪も返上された。
 9月 ミュンヘン会談。
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 1939年 秋田県は、1940年の東京五輪開催によって訪日外国人客が増加し、その外国人観光客を十和田湖に呼び込む為に十和田ホテル建設を始めた。
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 ウィキペディア
 東京オリンピックは、1940年(昭和15年)に日本の東京府東京市(現・東京都区部)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。
 史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われるオリンピック大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。
 概要
 当時の「五大国」の一つである日本の首都・東京での開催は1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定し、それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変等の影響から日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定した。1940年大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。
日本は第二次世界大戦での敗戦後、1960年(昭和35年)の夏季大会に東京を開催地として再びオリンピック開催地として立候補、東京での開催は「東京オリンピック」として1964年(昭和39年)に実現した。これがアジアで初であると同時に、有色人種国家初のオリンピック開催となった。また、1964年大会から56年が経った2020年にも東京でオリンピックが開催されることが決定している(2020年夏季オリンピック)。
 開催準備
 日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。
 その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が支出された。主会場には、明治神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画(明治神宮外苑競技場の改築)したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京府荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。
 また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。
 さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。
 開催権返上へ
 国内からの反対意見
 このように開催に向けた準備が進む一方で、1937年3月に衆議院予算総会で河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」と発言。実際に前年までヨーロッパとアフリカでは第二次エチオピア戦争が起きており、またこの発言のその4か月後に盧溝橋事件が起こり、その後日本軍と中華民国国軍の戦闘区域が拡大し「支那事変」(日中戦争)と呼ばれるようになると、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えた。また各種団体からの満州国選手団の参加を求める抗議行動が続いていた。
 1938年に入ると日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきた。さらに陸軍大臣杉山元が議会においてオリンピック中止を進言し、河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。
 さらに、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣近衛文麿は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。
 国外からの反対意見
 1938年3月にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会では、ベルリン大会組織委員会事務総長のカール・ディームが聖火リレーの実施を提議し、各国から実施の要望がなされるなど、開催へ向けて準備が進んだ上に、聖火リレーのルートに満州国を入れることで、満州国選手団の参加に弾みをつけた。
 しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦を構成する自治領オーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。このような状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。
 また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任する事態となった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥールから日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。
 返上決定とその後
 さらに、東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになる。
 こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地自転車競技場(現存せず)と、埼玉県北足立郡戸田村(現・戸田市)のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までに完成し、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3,407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1946年大会に生かされた。
 なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1946年大会開催に当たって池田内閣で建設大臣(オリンピック関連施設や道路の建設の指揮監督を担当)およびオリンピック担当国務大臣を務めた。



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