☂04:─5─敗戦混乱期の日本共産党と在日本朝鮮人連盟は一体化であった。〜No.19 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 朝鮮人は、戦前では親日・知日が多数派で反日・敵日・侮日は少数派であったが、戦後は逆転して今日に至る。
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 共産主義は5%理論で、暴力と恐怖で少数派が多数派を支配する。
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 敗戦革命・8月革命は、日本人共産主義者ではなく朝鮮人共産主義者が進めていた。
 ソ連中国共産党・国際共産主義勢力は、敗戦混乱にある日本で反天皇反民族・反宗教無神論の人民革命を起こさせるべく、朝鮮人共産主義者や日本人共産主義者らに革命資金と武器を提供していた。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇と皇族を惨殺するべく暗躍した。
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 日本の対外戦争は、江戸時代後期から敵の侵略に対する積極的自衛戦争であった。
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 2022年4月7日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工の未払い資金』
 戦後、日本共産党を再建することになる日本人幹部たちは、長らく収監されていたため、活動資金も人的ネットワークもなかった。それをカバーしたのは、在日本本朝鮮人連盟であるが。当時、多くの朝鮮人が掛け持ちして共産党員となり、組織作りや活動を主導してった。
 〔前号まで 戦後、いち早く政治運動に取り組んだ朝鮮人共産主義者たちは『政治犯釈放運動を展開、徳田球一日本共産党の再建を担う人物を出獄させた。同時に、戦前から依存した日朝親睦団体や戦後に誕生した朝鮮人組織を糾合し『在日本朝鮮人連盟を結成する。だがその結成式典では大粛清が行われた。共産主義者親日民族派を拘束、暴力を振るって追い出したのだ。』〕
 第6回 在日本朝鮮人連盟と一体化していた日本共産党
 敗戦後の日本に『在日本朝鮮人連盟』(朝連)という、共産主義者が支配する巨大な朝鮮人組織が誕生した。この組織は、日本共産党の再建に大きな役割を果たす。
 『在日一世の記憶』(小熊英二姜尚中編、集英社新書)にも証言が収録されている李建完は、父親が在日本朝鮮人連盟の長野県本部を作り、自身は日本共産党長野県辰野支部を任されていた人物である。李は辰野支部を設立した当時のことを筆者(東郷)に、
 『日本共産党と言ってもね、当時は実体がなく、名前はあっても形はなく、在日本朝鮮人連盟の上にのっていただけなんだ』
 と語っていた。
 朝鮮総連の活動家だった李玄鎮も、滋賀県竜王町で中学時代に共産党に入党したが、
 『日本共産党に入る時、共産党員というのは5、6人しかいないんです。ほとんどが在日の人で、日本人はたった1人でした』
 と回想する。
 地域にバラつきはあるが、終戦時、日本共産党員の多くは朝鮮人であり、地方支部では、朝連と党支部のメンバーの多くは重複していた。いや、むしろ朝連の中に日本共産党があり、一体化して活動をしていたと言った方がいいかもしれない。
 日本共産党史に記述はないが、『日本共産党1世』と呼ばれる幹部たち──志賀義雄、寺尾五郎、山辺健太郎、亀山幸三、岩田英一などは、いずれも朝鮮人との連帯を書き残している。例えば寺尾五郎はこう書く。
 『戦前の日本では、それが党であれ、労働組合であれ、また反帝・反戦の運動や文化運動であれ、すべて左翼的運動は、その半分を朝鮮人によって担われていたようである。戦前の日本の左翼団体なるものは、幹部だけは別にして、本当の中堅活動家や下積みの働き手などは実は半分ちかく朝鮮人だったのではないかと思われる。とげのある言い方をすれば、左翼運動までが朝鮮人を踏み台にして成り立っていたような一面もあるのである』(寺尾五郎『1945年10月に出獄して』『季刊三千里』15号)
 亀山幸三は、1945年10月に日本共産党に入党、1946年の第5回党大会以降、中央委員である黒木重徳財政部長の下で財政部副部長を務め、後に党の財政部長として活躍した人物である。その彼は、
 『その頃の共産党の舞台裏に関していえば、朝鮮人の同志らの存在が大きかった。彼らは戦後ながらく、朝鮮共産党の日本における党員ということではなく、日本共産党の党員であったわけで、「第三国人」──戦勝国民でもなく敗戦国民でもない──という立場にあってさまざまな自由があったことも手伝って、党のために財政面などで非常に力になってくれた』(『戦後日本共産党の二重帳簿』現代評論社
 と振り返っている。
 GHQは1945年11月1日、『日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令』を発令し、その中で『朝鮮人を「解放人民」として処遇すべである』とした。そしてその後、占領下の日本に居留する旧外地の台湾・朝鮮人などを『THIRD NATIONALS(第三国人)』と呼んだ。現在、『三国人』は蔑称のように捉えられることがあるが、占領下の日本で、解放人民である朝鮮人が、連合国民ではないが敗戦国民の日本人とは異なる『特別の待遇』を受けていたことを表していた。
 覚醒する朝鮮人
 それにしても、なぜ朝鮮人の多くが共産主義者になったのか。
 朝連に参加した朝鮮人の証言を集めてみると、意外にも戦前から共産党員であった人は少数で、戦時中は軍国少年だった人が多い。
 筆者が直接インタビューをした朝連関係者の多く──後に祖国防衛隊や、日本共産党支部山村工作隊で活躍した人でさえも、『終戦』については、『悲しくて泣いた』『寂しかった』と答えている。
 朝鮮民族の多くは、第二次大戦では旭日旗を背負って闘い、前線においても銃後の守りにおいても、大日本帝国の最大の協力者であった。35年間の皇民化政策により、敗戦のその時まで帝国臣民だった。
 朝鮮人連盟の青年部長を務めた宣允植(後の浜松朝鮮高校校長)は、祖父から日本が負けたことを聞かされた時の気持ちを次のように語っている。
 『喜びともつかん、悲しみともつかん。しかし、日本の戦争が負けたのかという一つの、衰え死んでいく人間の挽歌のような気持ちも。ともあれ、そりゃ複雑な気持ちだよ。数え15から20までというのは、物心ついて色々勉強した時代だから、敗れ去るものに対しての惜別の気持ちもまたあるんだよ』(吉見義明『宣允植氏からの聞き取り〈第1回〉』『中央大学商学論纂』第50巻)
 宣允植は、戦時中、陸軍士官学校を志願していた。
 『「士官学校受けるんだって?」「そうだ。受ける」「なんで?」「だって、軍人にならなくちゃ、国のために尽くさなきゃ、天皇陛下のためにお役にたたなくちゃ」「何?天皇陛下のため?お前何のために死ぬんだ?」って、聞いたこともない問題を出すんだ。要するにこういうことだ。自分の国をとった日本の大本の天皇陛下のために死ぬ、お前どうかしているんじゃないか。それでやめました』(同前)
 宣允植は国家の意志で皇民になったものの、『天皇陛下』を民族として受け止めることができない複雑な思いを抱えていた。そしてこの会話を機に、朝鮮民族のDNAが呼び覚まされ、共産主義思想に傾斜していく。
 当時はそうした青年たちの受け皿は共産主義しかなかった。共産党のみが天皇制に真っ向から挑み、唯一のグローバルなイデオロギーを確立した政治集団だったからだ。そして戦後、新しい朝鮮の建国に燃える在日朝鮮人のインテリたちが手を携えるにあたっても、この共産党以外に選択肢はなかった。彼らは敗戦国民となった日本人と一線を画し、自らを準連合国民と位置づけて、『解放された民』として覚醒するのだ。
 朝鮮分断の影響
 戦後、朝鮮人青年たちを共産主義に走らせたもう一つの大きな理由は、朝鮮半島の分断にあった。
 朝鮮半島玉音放送の後にも春を迎えることはなかった。終戦直前の1945年8月8日、ソ連は日ソ不可侵条約を無視して日本に宣戦布告し、関東軍が撤退する満州朝鮮半島へと南下した。このため朝鮮半島では、大日本帝国陸軍がどこで降伏するかにより、人々の運命は大きく左右されることになった。
 連合国軍から一般命令(連合国最高司令官総司令部指令)が出されると、日本本土、フィリピン、北緯38度以南の朝鮮にいた帝国陸軍は米国マッカーサー元帥に対し降伏をした。北緯38度以北にいた帝国陸軍ソ連軍に対し降伏をした。
 ヨシフ・スターリンは特に北朝鮮満州の日本の工業力を強く欲し、東は釧路から西は留萌まで北海道の北半分を要求したが、幸いにもトルーマン大統領は日本の一括統治を守り、分断統治案を一蹴した。
 だが朝鮮半島においては、米軍は38度線以北に兵力を送る余力はなく、地上兵力を送る船舶もなかった。
 トルーマンはこう書いている。
 『一般命令第一号が承認を得るため私に提出されたとき、38度線より南は米軍により、北はソ連軍によって降伏を受諾するようになっていた。私はバーンズ(国務)長官が、米軍はできるだけ北の方まで降伏を受け入れるように提案したことを耳にした。しかし陸軍当局は、距離が遠いのと人員不足のため克服できない障害にぶつかっていた。38度線でさえ陸軍のどの部隊からしても遠かったのである』(『トルーマン回顧録』恒文社)
 こうして朝鮮半島は、日本軍が降伏を受け入れるために便宜的に定められた38度線で北と南に分断されてしまった。
 朝鮮設立の中心人物・金斗鎔は、朝鮮半島共産主義による統一を信じ、人民共和国建設を夢見て日本の革命運動に身を投じた。
 『金はまた、分断された祖国は、ソ連の主導で共産主義によって統一されるべきであり、その統一は近い将来に可能である、と論じた』(『権逸回顧録』)
 金は38度線以北出身であったが、在留朝鮮人の多くは南の出身者だった。にもかかわず、朝連幹部の多くは北朝鮮による朝鮮半島の統一運動に身を投じ、やがては北越していく。
 では日本共産党と在日本朝鮮人連盟は、どのように接近し、いかに関係をつくっていったのか。
 共産党に対する朝鮮人たちのシンパシーは戦前より培われていた。『季刊三千里』48号に『解放後10年の在日朝鮮人運動』と題された姜在彦、李哲、李進煕の鼎談がある。
 『李哲 日本共産党に対しても、自らシンパであることをためらわなかった。読み書きのできないじいちゃん、ばあちゃんでも、日本共産党は戦前から自分たちの味方であったし、また実際にそうであったわけですか、共産党を助けることはすなわちわが祖国、わが民族のためになるのだとおもっていましたからね。それはいわば一種の皮膚感覚のようなものだった。ですから「一匙運動」といって、ご飯を炊くとき、一匙は活動家のためにとっておいたものですよ。これに象徴されるように、少なくとも戦後のある時期までは、朝鮮人ぬきで地方での日本共産党の活動は考えられないものがあったといえます。しかしそれは、共産党朝鮮人に要求したというより、朝鮮人が進んで参加したんですよ』
 朝連結成時の72人の中央委員の一人で、日本共産党の再建に関わった張錠嘉は、こう説明している。
 『1945年の10月までは、解放前に意識を持って活発に活動をして、指導的立場にいた人たちは、日本人でも朝鮮人でもみんな刑務所に放り込まれていた。外にいた者で、転向した者は別として、懲役期間の短かった者は、いちおう出されてはいたが、保護観察で刑事がずっと張り付いていたから、大したことはできなかった。特高警察が解散されて、治安維持法も撤廃されるのは10月以降だから、監視が付けられている者はそれまで身動きができなかった。(中略)
 10月になって、共産党員、社会主義者アナキストたちが解放された。日本共産党員も10月10日に獄中から出てきたが、元共産党の幹部たちは、十何年も獄中にいたため国内情勢について正確な判断ができなかった。また、日本人はきがぬけてしまって脱落していた。そのような状態で、みんなどうしていいかわからず、うろうろしていた。
 そのなかで、この時期にいち早くこれからの方向を見極め、すばやく行動に移せたのは朝鮮人だった。朝連が出てきて、その組織を通じてむかしの仲間に連絡をつけたわけだ』(張錠壽『在日60年・自立と抵抗』社会評論社
 掛け持ち党員
 日本共産党の幹部たちは、獄中に長くいたため、いわゆる『ムショぼけ』で、社会にすぐ適応できずにいた。理念を実行に移すには、組織を作るにせよ会を開催するにせよ、事務的な手続きや、生活の知恵が必要である。一方、在留朝鮮人には戦前から様々な団体組織があり、朝連も結成され、縦横の連絡網がしっかりと構築されていた。日本社会でお互いに助け合いながら生きてきた朝鮮人のほうが、社会性があったのである。
 『「日本共産党は全滅したが、いまやっと立ち直って産声をあげているんだ。これをどうにかしなければ」と社会主義運動をやっていた朝鮮人は考えて、共産党との連絡をつけ、元党員を刑務所から連れだして応援をして、この人たちの組織を手伝った。むかし、われわれが日本に来ていじめられていたとき、われわれの味方になってくれた恩返しをしたわけだ』(同前)
 そして多くのメンバーが朝連と日本共産党の掛け持ちをする。
 『日本における社会主義運動は、日本にいる朝鮮人も日本の社会主義者といっしょに運動しなければならないと考えて、わたしは組織を通じてあちこち歩いてまわって、共産党員と連絡をつけた。ちょうど朝連の関西本部ができて朝連の組織化を作るために歩いていた時期と同じ頃である。この時期、わたしは朝連と日本共産党の活動を両方やっていたわけである。党の組織を起こすと言っていたのが、45年9月中ごろだったから、それから10月にかけて、とにかく精力的に動きまわった』(同前)
 張らは朝連のネットワークをフル活用して共産党員を勧誘し組織を作っていく。
 『このとき日本共産党は朝連と手を握らなければ立ち上がれなかった。資金がないし、10月10日まではみんな放りこまれていて人数的にも少ないし、10月10日以後でもほとんど45年いっぱいは、しっかりとした足場がつくれなかった。だから、わたしも朝鮮に派遣されるまでの間、できるかぎり、何かひっかかりがあれば、それをつたって連絡をつけていった。朝鮮人だけでなく日本人でも、何か少しでもつながりがあるところに片っ端から訪ねていった』(同前)
 国力のすべてを賭けて総力戦を戦った日本は家庭から鍋釜まで供出させ、なけなしの金を戦争で使い果たし、敗戦後は惨憺たる経済状況にあって、戦時中から共産革命に賛同するものもいるにはいたが、表立って旗を振る人はなく、革命家は特高を恐れて地下に潜った。それが突然、世に出ても、厳しい戦後経済の中で多額の政治資金を集めるのは難しかっただろう。日本共産党幹部が、自己資金で組織政党を作るのは不可能だった。
 もっとも時勢は共産党にとって追い風であった。戦後、反動から共産主義に傾倒するものも多く、戦時中弾圧された日本共産党への同情と、潜在的共産主義者が、共産党幹部の出獄とともに動き出し、急速に輪は広がった。しかし、ここまで見てきたように、その底流には、朝鮮民族の封建的な上意下達のコミュニケーション力と、有無を言わせない赤誠の集金力があった。在日本朝鮮人連盟には潤沢な資金があり、戦後の日本共産党は、この爆発する在日本朝鮮人連盟のエネルギーのマグマと潤沢な財源を利用して再建を果たしていくのである。」
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 日本民族にとって、古代から、朝鮮人は中国人同様に友・友人、親友、戦友つまり味方・仲間ではなく敵であり、朝鮮と中国の間には公式な友好・善隣関係など存在しなかった。
 歴史的事実として、32代崇峻天皇を暗殺したのは天皇への忠誠心と日本国への愛国心がない渡来人であった。
 日本民族には、天皇を傷付け殺害する事はできなかった。
 つまり、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のイデオロギー革命を実行し成功させられ共産主義者は、日本民族日本人ではなく、一部の日本人と朝鮮人や中国人だけであった。
 それを証明したのが、敗戦後の混乱期である。
 では何故、敗戦革命・8月革命が不発に終わったのか、それは、日本国内で生活していた約400万人以上の在日朝鮮人朝鮮半島に帰還して約60万人に激減したからである。
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 敗戦後間もない日本では、日本共産党や部落解放組織の主要幹部は日本人であったが、現場で活動していたのは朝鮮人共産主義者であった。
 戦後の混乱で、反天皇反日本反政府の暴動・騒動・事件(略奪・暴行・殺害・強姦・放火・他)を起こしていたのは朝鮮人共産主義者であった。
 日本共産党日本社会党・部落解放組織に日本人が増えたのは、60年代以降に、日教組戦後民主主義教育でイデオロギー的に育てた反天皇反民族反日的日本人青年が大量に社会に出始めてからである。
 伝統を溺愛する日本民族には、反宗教無神論と反天皇反民族反日本人は受け入れがたく、拒否し、偏見と差別で遠ざけていた。
 日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリスト同様に、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙い、皇居や御用邸への手製ロケット発射テロを繰り返していた。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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