⛅16:─2─コザ騒動を起こした普段みかけない人々と、沖縄の人の複雑な想い。1970年~No.48No.49 

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 コザ暴動、英語: Koza Riot)は、1970年(昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人をひいた交通事故だが、背景に米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。
 地元の沖縄では、「暴動」ではなくコザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)と呼ばれる。
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 2023年3月27日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「アメリカ軍の車を「焼き討ち」…「コザ騒動」を起こした「普段みかけない人々」と、沖縄の人の「複雑な想い」
 フリート 横田
 美しき沖縄に残る戦争の歴史
 沖縄に惹かれる。青い海と食や酒をもとめて、毎度いろいろなところに出かけていく。けれどこれまで、私は戦跡にはほとんど足を向けていない。関心は強い。戦争の記憶についてときどき文章を書いているわけだから、沖縄戦の証言集を読み、むしろ当時の人々に心を寄せているつもりでいる。でも、都会の生活に疲れると、もう「歴史」にも「現実」にも目をつむって、ただ青い海へと向かっていってしまう――。
 いつも、沖縄の人々は優しい笑顔で迎えてくれるだけ。罪悪感をどこかに感じながらも頭をからっぽにして街を出歩くと、それでも最近は、「現実」が目に映ってしまう。商店街を歩けば、シャッターがおりたままの店舗は多いし、レンタカーでETCレーンを通り抜けようとふと脇を見れば、現金レーンには地元車両の長い列。居酒屋で一杯やっておもてへ出れば、壁の求人広告は時給900円。――東京とはだいぶ違う歴史をたどって今を迎えているのを、やはり思わずにはおれない。まずなにより、戦争が街にもたらした最大の存在、米軍基地が目の前に広がる。
 私は盛り場を飲み歩き、その街のあゆみを聞くのが好きだ。今回はどうしても、沖縄の戦後を象徴する盛り場を歩き、なまの言葉で、「現実」を教えてもらいたくなった。訪れたのは、コザ。在日米軍嘉手納基地とともに歩んできた街である。
 アメリカ軍の車を「焼き討ち」…「コザ騒動」を起こした「普段みかけない人々」と、沖縄の人の「複雑な想い」
 © 現代ビジネス
 嘉手納基地のゲート(出入り口)を起点とするゲート通りにはタトゥー店などが並ぶ。
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 カタカナで書かれていたこの地名も沖縄戦と米軍に由来する。戦争末期、沖縄上陸を控えた米軍は、攻略のための地図を製作するとき、当地の古くからの名、「古謝」や「胡屋」に、「koza」と誤った読み方を記した。沖縄戦が始まり、米軍が上陸するとそのまま定着したという説が有力のようである。現在、自治体の名としては存在せず、沖縄市になっているが、「コザ」の名は、日常的に使われている。
 米軍の人は沖縄の人を見下げていた
 数時間、まず繁華街とされるいくつかの通りを歩き回った。そこには私が日本全国あちこちの歓楽街で見かけた風景と同じものが広がっていた――。米兵相手のタトゥー店、バーは確かにあり、本土との違いや情緒を見出せるけれど、それよりも空き店舗の多さが目につく。正直、人もあまり歩いていない。若い人も多くない。兵士の姿はぱらぱらとは、見かける。かつてはバー街を闊歩したこの人々と、街の人たちはどうつきあってきたのだろうか。戦後の街を知る人に最初話を聞いた。
 ポールダンサーの踊るクラブでは、米兵の姿も多い。
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 「私は戦後、基地のなかのスーパーでマネージャーをしていました」
 ゆっくりと語る、古堅宗栄(ふるげんそうえい)。昭和4年生まれの94歳だ。沖縄戦を知る世代である。身に着けた明るい色のアロハシャツとは不釣り合いな言葉をつぶやく。「戦時中は……鉄血勤皇隊にいたんです」。この隊は、徴兵年齢にも達しない14~16歳の少年たちを動員して編成した部隊。激戦のなかに送り込まれ大勢が亡くなっている。ぶかぶかの軍服を着せた子どもたちの命で、本土決戦までの準備時間をあがなったのだった。
 生き残れた古堅は、戦後さまざまな仕事を経て、昭和のなかごろ、嘉手納基地内売店の責任者の仕事についた。スタッフには、「若い白人」(軍属だろうか)もいた。棚卸しさせてみて驚く。
 「(英文で書いた)商品のリストを渡しますね。すると、読めない人がいるんです」
 世界一豊かな国から極東の基地に送られた人々のなかには、教育を受けられなかった境遇の人も多くいた。そして本国の社会では弱い立場に置かれた彼らも、基地では顔を変えた。古堅は、おだやかに続ける。
 「まあ……(沖縄の人を)見下げるようなね……態度が(米兵同士とは)、違いますね。いじめられてもしょうがない、そういうふうに思っていました」 
 混ざることのない米軍と沖縄人 そんな中…
 そんな彼らと打ち解けるために、一緒に食事や飲みに出かけたりは? 高齢の古堅はゆっくりと首を回し、こちらに目を見開く。
 「とんでもない。コザのなかでも、白人、黒人、沖縄人、行くところはみんな別でした」
 昼は溶け合って仕事しているようでも、夜、盛り場で息を抜くときは本音が出る。沖縄の人々は、基地の人々には背を向け、中の町付近で固まって飲んだ。では仮に、そこへ米兵が来たら?
 「……大変なことになったでしょうね」
 実際、コザの名が歴史に刻まれる大事件が起きてしまう。昭和45(1970)年12月20日未明、街からは大きな炎がたちのぼった。「コザ騒動」、あるいは「コザ暴動」と呼ばれる一件。
 その夜、米兵が運転する車が沖縄の人をはねる交通事故が発生。現場検証するMP(アメリカ軍の憲兵)のまわりにはにわかに人が集まってきた。「どうせ逃がすんだろう」。人々はそう思っていた。泥沼のベトナム戦争の時代である。コザには気の立った帰還兵があふれ、彼らによる交通事故をはじめ、強姦や殺人などの凶悪犯罪もたびたび起きていた。が、兵士たちへの捜査権、裁判権は米側にあり、たとえ死亡事故を起こしても基地内に逃げ込んでしまえば、罪に問われず帰国してしまうことも珍しくなかった。
 米軍車を焼き討ち
 この夜は、偶然続けざまに交通事故が起こり、運転していた兵士を群衆が取り囲んでしまう。騒然としだすと、MPは威嚇のために発砲。煽られた群衆は叫び、投石し、ついにはイエローナンバー(軍人・軍属など基地関係者用の黄色いプレート)のついた車を次々とひっくりかえし、焼き討ちしていった。夜が明けると、80台以上の車の残骸が転がっていた。ちなみに略奪や死者は発生していない。
 MP。騒動の大きさにショックを受けているのだろうか(撮影:吉岡攻)
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 炎上するイエローナンバーの車両。当夜、現場にいたテレビディレクターの吉岡攻は騒動発生から50年の2020年に、事件を追った番組を製作している。(撮影:吉岡攻)
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 頭から血を流し倒れこむ沖縄の男性。米兵運転の車を逃がすものかと立ちはだかり、はねられたのだという。群衆の中には、バーで働いているのか、着物姿の女性の姿もある。(撮影:吉岡攻)
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 あの夜のこと、古堅はどう思ったのだろう。決して興奮してものを言うタイプの人ではなかったが、彼は笑みを浮かべ、ゆっくり、力強く親指を立てた。そして、
 「まあ……うれしかったね」
 偽らざる、地元民の本音だったと思う。この夜、差別的な仕打ちに沸点を超えた地元沖縄人が力で訴えたのだった……と記そうとしたが、どうもそれは単純化しすぎのようだ。私の前提を即座に否定する声に出会った。
 「コザの人は、火をつけるなんて絶対しない。俺はあの現場にいて、この目で見てるから。やったら八重島のニューコザの二の舞になる。地元はみんなわかってた。あそこの赤線は、米軍からオフリミットプレイスにされて、つぶされた。戦後、キャバレーやクラブ、ホステスやってた女たち、商売してた人の店は潰れ、仕事を失ったんだ。心では応援したけど、あれをやったのは間違いなく地元の人ではないと私は思うよ」
 ハードロックバンド「紫」のドラマー、宮永英一は、コザの地元民による暴発ストーリーに同意しない。黒の革ジャンに髭をたくわえた宮永は、強い語調で話しだす。ときどき怒りをにじませ、こちらに人差し指を立て、目に怒気をにじませながら語るが、その目線は私を突き抜けて、遠くへ及んでいる――。
 地元民は暴動のトリガーではない
 19歳だった彼は、その夜現場にいた。ライブの帰り道、偶然、事件に出くわしている。この発言には少々解説がいる。彼の言う「ニューコザ」とは、八重島地区の一角に昭和25(1950)年に造成された歓楽街を指している。最盛期100軒ほども並んだ小さな料理屋は、特殊飲食店、いわゆる「赤線」と呼んでいい売春施設だった。
 1950年代の八重島の歓楽地。各店の看板は英語表記である(所蔵:沖縄市総務課 市史編集担当)
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 同じく八重島。「カフエー」の文字が見える。(所蔵:沖縄市総務課 市史編集担当)
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 中心市街地であるコザ十字路や胡屋地区、中の町地区からずいぶん離れた八重島に造成されたのは、若い兵士による性暴力が街中になだれ込むのを防ぐためだったろう。朝鮮戦争ごろは米兵たちで活況を呈したものの、性病の蔓延などで米側から「オフリミッツ」(米兵の立ち入りを禁止)の指定を受けると、飲み屋の人々、女たちは一挙に仕事を失った。以後、転業するなどしても一角に最盛期の賑わいが戻ることはなかった。
 宮永は、コザの地元民はその経緯も、米軍の怖さもよく覚えていたのだと言う。だから暴力などには訴えるはずがないと力をこめる。事件数時間前の昼間、付近では、反基地を訴える集会が開かれていた。基地内に密かに持ち込まれていた毒ガス兵器の撤去を求める集会である。いわば「声をあげる人々」が集っていた。宮永の目に日頃「見かけない人たち」が映る。
 「集会のあと、その人らが大勢、中の町で飲んでた。まあ夕方から飲んで夜中12時ごろできあがったころに、あの事件ですよ」
 宮永は、そう捉えている。ざわざわと人が集まっている「騒然」の状態から一線を越え、「暴動」へのトリガーを引いたのは、地元で商売していた人ではないと。比喩としても実際の話としても、「火がついてから」コザの人達は加担したという見立て。
 このあたりにこだわるのは、基地への思いが単純化できないからだと思える。戦後、街の経済は米軍に依拠、多大な恩恵を得ながらも、同時に地元民が理不尽な扱いを受け続けてきた。割り切れない、どこか矛盾した思いを抱えていた。
 騒動か、暴動か、誰がやったか、事件をどう捉えるか――。沖縄の人々の間でも温度差があるのだ。ただし、古堅もそうだが、騒ぎを見つめる気分は一つだった、と言っていい。
 今思うと米軍の気持ちもわかる
 理不尽な思いは、宮永にもある。
 中学を卒業したばかりの宮永少年は、現在の中央パークアベニューを歩いていた。1960年代後半のこと、ベトナム戦争の只中である。目の前の嘉手納基地には、戦地へ送られる兵士たちが集められ、彼らはわずかな休暇を得ると盛り場で憂さを晴らした。通りの向こうから来た白人兵士と目が合う宮永少年。ほほえみ返すと――
 「それだけで滅茶苦茶に殴り飛ばされた。こっちはフレンドシップの目をしたつもりが、向こうはこの野郎、なわけ。そのころのBCストリート(現・パークアベニュー)って、白人の町。同じ米兵だって黒人は来れないくらい。その白人米兵たちが俺らをどう見てるかって。スレイブ(奴隷)とおなじ。トラウマになったね。ずっと憎んでた」
 ここからのくだりが私には意外だった。彼はこう付け加える。
 「でも今はね、米兵の気持ちもわかる」
 音楽が宮永のトラウマを解く。戦地手当をフトコロにつめこんだ若い兵士たちは、コザの盛り場で浴びるように酒を飲み、故郷をしのばせるロックミュージックを聞いた。Aサインバー(本土復帰前、米軍公認を示す許可証「Aサイン」を掲げた飲み屋)で、宮永は毎夜必死でドラムをたたき続ける。
 兵士たちは次々とコザからベトナムへ旅立ち、
 「まわりから一人一人と友達が減っていく。次は自分の番だと思ってる。こっちが演奏しててもね、やつら、最初は命令口調なの。下手な演奏すると、ビール瓶を投げてくるやつもいる。だけどだんだんプリーズ、プレイって言ってくる。俺のためにあの曲をやってくれ、って。家族や愛する人とひきはがされて来てるわけでしょ。その怒りのはけ口が俺らだった、って気付いた。差別されてたという意識が強すぎて、俺らもあいつらを逆差別してた」
 旅立ちを前に米兵たちは次々難しい曲を宮永たち日本人バンドにオーダーする。本気で応えるうち、次第に演奏はスムーズになり、ステージは熱くなり、やがて兵士たちは総立ちに。
 「目をみてるから。あんなに打ちひしがれた目がやさしくなってる。俺は涙がこぼれた」
 激して話していた宮永の目も潤んでいた。
 戦争終結後、コザの歓楽街は活気を失った
 やがてベトナム戦争終結。コザ暴動から二年後の昭和47(1972)年に沖縄は本土復帰し、二年後、コザ市美里村と合併し沖縄市となり、コザの名は自治体名から消えた。
 その時代からすでに半世紀。街を行き来した兵士たちの姿もすっかり減った。冒頭で記した通り、コザの歓楽街は元気がない。BCストリートはかつての享楽の町のイメージを払拭するためか80年代にはパークアベニューという名に付け替えられ、アーケードも設置して、かつてよりクリーンなイメージを打ち出している。にもかかわらず宮永は昭和以来のBCストリートという名を使う。
 中央パークアベニュー。80年代に入るまでは「BCストリート」と呼ばれていた。
 © 現代ビジネス
 「このBCストリートのイメージというのは、汚い世界だと。酔っぱらった米兵が女とイチャつき、酒はもちろんストリップはあったし、麻薬もあった。はい、 どう見ても美しい世界じゃないよね。ホステスたちは『今晩こそ付き合ってあげるわよ』って言って、期待して兵士たちは大盤振る舞いしたわけです。そしていよいよ時間が近くなってきたら、ちょっと化粧直していくわ、なんていって裏口から逃げてしまう。米兵はあの子はどこへいった、といって暴れる。この街で、そういうのを何回も見てますから。あの頃、千ドルで家が建つと言われた時代。バーといってもね、裏に部屋をもっている。そこに女性たちと消えることができた。でもそこで働いた人間たちは日々、戦ってたわけですよ」
 清濁併せ呑んでいた70年代の盛り場風景を宮永は愛憎半ばの気持ちで懐かしむ。私もその気分、混沌の魔力に惹かれるものの一人だ。だが今、過去の風景をそのまま再び目指すことは現実的ではないだろう。
 また一緒に街を盛り上げたい
 それでも――宮永は言葉を継ぐ。あれだけ憎んだ米兵と、
 「また一緒に街をもりあげたらいい」
 という。
 たとえば横須賀など、私は基地のある街で飲み歩くことがあるけれど、コザ同様、兵士の姿はかつてほど多くない。昭和戦後期の記録を読むにつれ、時代が変わったのだと当然ながら感じる。通りを埋めた荒ぶる兵士などの姿も、待ち受ける女たちもすっかり姿を消したし、日本社会も豊かになった。いま、基地の側に限らず、自治体の側も、いざこざの起こりやすい盛り場で、両者が再び交じり合うことを歓迎しているとは思えない。
 一方、コザの町を紹介した観光ガイドブックを開けば、「異国情緒」や「アメリカ文化」といった基地由来のイメージをいつでも前面に打ち出し、観光資源としている。なにか、どこかにねじれや未整理の部分があるように感じられる。よそ者がパッとなにか言うのは気が引けるが、あのシャッター街を見るにつれ、基地のなかの人々と街がどう付き合っていくのか、整理しなおすときが来ているのではないか。彼の言葉は、そういう思いを抱かせた。
 実は宮永は、父が米兵、母が奄美出身である。戦後まもなく父母は出会い宮永が生まれたが、父は朝鮮戦争へ出征し、その後、本国へ帰り、彼のもとに戻ることはなかった。その彼だから分かる感覚なのかもしれない。
 私の目をじっと見据え、指をさし、ときに怒気をはらんだ男の視線は、私をつらぬいて海をこえ、本土へまでも届かせようとしているようだった。
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