🎵02:─1─強要された集団自決は近代日本の「軍官民共生共死」の思想が原因であった。~No.2No.3 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 殖産興業・富国強兵・近代教育の根本は、「世界規模の軍事経済大国の侵略から小国日本を死しても守る」という悲壮的な覚悟による軍官民共生共死の思想であった。
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 日本にしかない集団自決とは、日本民族が家文化として持っていた一家心中や無理心中に通じる。
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 2023年10月15日 MicrosoftStartニュース 毎日新聞「沖縄で相次いだ住民の集団自決 背景に「軍官民共生共死」の思想
 集団自決が起きた渡嘉敷島の山中。足の踏み場もないほど、多くの島民たちが息絶えていたという=沖縄県渡嘉敷村で2023年3月27日、喜屋武真之介撮影
 © 毎日新聞 提供
 1945年、沖縄・渡嘉敷島。「天皇陛下万歳」という声の後、山中に避難していた島民たちは日本軍から配られていた手投げ弾を次々と爆発させ、命を絶った。手投げ弾が不発だったり、行き渡らなかったりした家族らは、鎌や石、木の棒などを使い、親が子を、若者が高齢者を、男性が女性を殺し、残った人たちも最後は首をつるなどして死んだ。
 太平洋戦争末期、米軍は日本本土を攻略する際の拠点として沖縄の占領を狙い、日本軍との間で約3カ月にわたる地上戦となった。
 45年3月26~27日、米軍がまず上陸したのは、沖縄本島の西約40キロにある慶良間(けらま)諸島。島々では一般住民による「集団自決」が起き、座間味(ざまみ)島で177人、慶留間(げるま)島で53人、渡嘉敷島では300人以上が亡くなったとされる。米軍が4月1日に沖縄本島中部の読谷(よみたん)村に上陸すると、読谷村の自然洞窟「チビチリガマ」でも集団自決が起きて80人以上が亡くなるなど、本島各地や伊江島でも住民が自ら命を絶った。
 背景には、兵士だけでなく一般住民も敵の捕虜になることを許さない「軍官民共生共死」の思想や、国のために身をささげることを求める「皇民化教育」があったとされる。日本軍は「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」などと、米軍への恐怖心をあおったため、多くの住民は米軍の手が迫る中、追い込まれ、死を選んだ。
 沖縄戦での死者は日米合わせて約20万人。19万人弱が日本の犠牲者で、日本軍の軍人・軍属が9万4136人、一般住民が推計で9万4000人。当時の沖縄県民の4人に1人が亡くなったとされる。
 戦後、沖縄は72年まで米国統治下に置かれた。集団自決については長い間、広く語られることはなかった。渡嘉敷島の集団自決は、島に当時駐留していた日本軍の元隊長が70年に沖縄を訪れたことなどをきっかけに軍の関与が議論となり、読谷村チビチリガマでの集団自決については83年になって本格的な調査が始まった。【喜屋武真之介】
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 戦前日本の天皇と国と民族を守る為に一丸となって戦い死ぬという「軍官民共生共死の思想」の原点は、江戸時代後期のロシアによる日本軍事侵略を撃破するという神国思想と尊皇攘夷思想の後期水戸学にあった。
 日本に味方してくれる友好国はなく、日本に援軍を送ってくれる同盟国はなく、小国日本は一国だけで孤独に戦うしかなかく、それ故に国民皆兵の徴兵制度が採用された。
 歴史的事実として、日本を取り巻く近隣の国家と民族は日本人の敵であった。
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 朝鮮人は、日本国籍を取得し、日本人としての諸権利を国際社会・諸外国から保証され日本人として保護されても、日本人から偏見と差別で二等国民と見下され一緒に戦う「仲間・身内」ではないとして排除されていた。
 つまり、日本人は死ぬ定めであり、朝鮮人は生きる定めであった。
 日本国籍取得条件には、愛国条項はなかった。
 外国人は、江戸時代までは帰化人であり、明治からは渡来人であった。
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 江戸時代の庶民の戦いとは、領主である大名=武士の為ではなく、天皇家・皇室の為であった。
 それ故に、幕末の庶民は、「薩長倒幕派を官軍とし、徳川幕府を朝敵とする事」を受け入れ、260年間統治者であった幕府・大名を守る為に戦わなかった。
 庶民は、非戦闘員として徴兵忌避の権利があった。
 明治維新は。表面的には下級武士の革命であったが、裏面では庶民の革命であった。
 日本の庶民は、世界が認める大衆・民衆であっても人民ではなかった。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などに陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
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 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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 日本の戦わない庶民を戦う庶民に変えたのは、江戸時代後期のロシアによる日本軍事侵略の危機であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験
 5 「集団自決」
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 背景
 沖縄戦は、極言すれば天皇制を守る戦いだといわれるように、非戦闘員すなわち一般住民の「集団自決」も「皇土防衛」「国体護持」作戦の犠牲といえる。
 明治以降、富国強兵の道をまっしぐらに歩んできた日本は、天皇を「神聖にして侵すべからず」と神格化し、国民には、自らの生命を喜んで天皇に捧げるといういわゆる皇民化教育を徹底してきた。
 沖縄では、方言廃止、標準語励行を強要し、方言札まで作って日本化=皇民化教育を実施した。当時は日本軍は「沖縄は民度が低く、殉国思想もなく信用できない」との偏見を抱いていたため、そうでない証(あかし)を示そうと皇民化教育を一層厳しくした。
 だが、軍部はその効果に疑問を持ったのか、皇土防衛のために総力戦を展開するに当たって「軍官民共生共死の一体化」方針を打ち出し、全県民を戦時協力体制へ導いた。日本軍の戦闘員の死者よりも非戦闘員である一般住民の戦没者が多いのも、そんな沖縄「捨て石作戦」の結果である。
 「軍官民共生共死の一体化」方針とは、「軍官民」(軍人、公務員、民間人)すなわち沖縄にいる全ての人は、日本軍と共に生きるか死ぬかのどちらかの道しかないということであり、追い詰められた日本軍が選択したのは、住民も一緒に「共生」していこうということではなく、「共死」へ導くというものであった。こうしたことからこの「集団死」事件における人々の「死」は、あくまでも社会的に強制されたものであるということができる。
 しかも追い詰められた日本軍は、住民スパイ視、そして虐殺、食糧の略奪、避難壕からの住民追い出し、マラリア有病地への住民の強制移動をしただけでなく、住民が米軍の捕虜になった場合の日本軍の秘密がもれるのを恐れて、住民が肉親、友人、知人同士で殺しあうよう誘導し、命令した。「集団自決」はまさにそうした社会的状況と軍の方針の結果であり、軍事的他殺といえよう。
 県下で「集団自決」が起きた現場のほとんどに日本軍がいたことを考えると、「自決」者たちは進めば米軍、とどまれば日本軍という極限状態に置かれ、結局は自らの命を絶たざるを得なくなり、犠牲者を増やしたことこそが沖縄戦の最大の特徴である。
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 衆議院
 沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問主意書
 平成十九年七月三日提出
 質問第四七四号
 沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問主意書
 提出者  赤嶺政賢
 沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問主意書
 文部科学省は本年三月三十日、二〇〇八年度から使用する高等学校用教科書の検定結果を公表し、沖縄戦における日本軍の強制による集団死(いわゆる「集団自決」)について検定意見を付したことが明らかになった。これまでと同様に「集団自決」への日本軍の関与を記述した五社七冊について、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」などとして、日本軍の関与そのものを削除する修正を行なわせたのである。
 当時の沖縄の日本軍は、地上戦を前にした一九四四年十一月、「軍官民共生共死の一体化」の方針を出し、陣地の構築や食糧・弾薬の運搬、戦闘に住民を総動員した。軍の機密を知る住民が捕虜になることを許さず、「捕虜になれば、男性は八つ裂きにされ、戦車でひき殺される。女性は米兵の慰みものにされる」などと恐怖心を植えつけ、「敵に投降する者はスパイとみなして射殺する」と警告・実行した。攻撃用と「自決」用の手榴弾を配った事例もある。沖縄戦における「集団自決」が、日本軍の命令・強制・誘導なしに起こり得なかったことは歴史的事実である。これを削除させた今回の文部科学省による検定意見はきわめて不当であり、断じて許されない。
 今回の検定意見に対し、沖縄戦の実相を歪曲するものとして、戦争体験者をはじめ、沖縄県民と国民から強い批判と抗議の声があがっている。沖縄県内では、県議会と県下四十一市町村議会のすべてで検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書が採択され、県教育委員会文部科学省に申し入れを行なっている。
 ところが政府・文部科学省は、「教科書の検定については、専門家による教科用図書検定調査審議会の答申に基づいて行なっている」として、検定基準に照らしても不当な今回の検定意見の撤回を拒否し、検定意見に至った経過と根拠についての具体的な説明を回避しつづけている。このような政府・文部科学省の姿勢は言語道断であり、到底許されるものではない。
 以下、質問する。
一 五社七冊の申請図書は、それぞれ沖縄戦の「集団自決」についてどのように記述し、それについていかなる理由でどういう意見が付され、結果、どのような記述に変更されたのか、改めて申請図書ごとに明示されたい。
二 文部科学省は、本年四月十一日の衆議院文部科学委員会での私の質問に対し、「今回の教科用図書検定調査審議会の意見は、現時点では軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないという趣旨で付されたものと受けとめておりまして、日本軍の関与等を否定するものではないというふうに考えております」(銭谷初等中等教育局長)と答弁している。
 ところが、今回の検定では、例えば、「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という申請図書の記述に対し、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付され、検定決定では「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、そのなかには日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた」という記述に変更されている。「集団自決」への日本軍の関与が一切削除されている。
 当時の日本軍が「軍官民共生共死の一体化」の方針をとり、日本軍による「集団自決」の命令・強制・誘導があったことが住民の証言などで具体的に確認されている下で、「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という申請図書の記述が、なぜ「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」なのか。
 申請図書の記述は、軍の命令の有無について記述したものなのか。そのように判断した根拠は何か。申請者側は軍の命令について記述したものと説明したのか。日本軍によって「集団自決」に追い込まれた事例もあることを記述しているにすぎない申請図書の記述が、なぜ軍の命令の有無について断定したことになるのか。
三 「今回の教科用図書検定調査審議会の意見は、現時点では軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないという趣旨で付された」と言うが、昨年十二月の検定意見書の交付の場で、文部科学省の教科書調査官が、「『集団自決』では日本軍から公式な命令が出たのではないという見方が定着しつつある」(「沖縄タイムス」二〇〇七年六月十七日付)、「最近では軍命はないという見方が大部分だ」(「琉球新報」二〇〇七年六月二十九日付)と述べたと伝えられている。このような説明を行なったのか。
四 文部科学省は、「当時の関係者が訴訟を提起している」(銭谷初等中等教育局長/二〇〇七年四月十一日、衆議院文部科学委員会)と答弁し、当時の座間味島の守備隊長だった梅澤少佐らが岩波書店大江健三郎氏を相手どって二〇〇五年に大阪地裁に提訴した訴訟を検定意見の根拠の一つに挙げている。
 しかし、この訴訟は「現在なお係属中」(銭谷初等中等教育局長)である。事実認定も証人尋問さえ行なわれていない訴訟を根拠に検定意見を付したのか。これは、「高等学校教科用図書検定基準」にある「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」に照らして問題ないという認識なのか。
五 「集団自決」は「隊長命令はなかった」との主張が行なわれている座間味島渡嘉敷島だけでなく、県内各地で発生している。この点は、検定の過程でどのように扱われたのか。
六 文部科学省は、検定意見の根拠として、「最近の著書等におきまして、軍の命令の有無が明確ではない」(銭谷初等中等教育局長/二〇〇七年四月十一日、衆議院文部科学委員会)ことを挙げている。「最近の著書等」とは何か。具体的に明示されたい。
七 文部科学省は、「今回の集団自決に関する検定意見に関しましては、教科用図書検定調査審議会に調査意見書が出されまして、それを受けまして、審議会におきまして検定意見書を付すための審議が行われ、沖縄戦の集団自決に関する意見につきましては特段の異論がなかったというふうに伺っております。その結果として、調査意見書と同じ趣旨の検定意見書という形で審議会の決定が行われたものでございます」(布村審議官/二〇〇七年六月十八日、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会)と説明している。
 文部科学省職員である教科書調査官は、どのような調査を行なって「調査意見書」をまとめたのか。その過程で、具体的にどの審議会委員、臨時委員、専門委員から、どのような意見が出されたのか。「調査意見書」をまとめるにあたって、住民の証言は聴取したのか。
八 「調査意見書」は、どのような経過を経て検定意見となったのか。教科用図書検定調査審議会及びその下に設置された部会や小委員会では、どのような意見が出されたのか。
九 審議会委員、臨時委員、教科書調査官、専門委員は、どのような基準に基づいて採用されるのか。文部科学省は審議会委員、臨時委員についてはホームページで公表しているが、教科書調査官、専門委員については公表していない。この際、教科書調査官、専門委員の氏名、その内日本史担当者の氏名を明らかにされたい。
十 今回の検定決定では、「日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた」などのように、日本軍の「集団自決」への関与そのものが削除されている。伊吹文部科学大臣は、「今回の教科書は、沖縄の集団自決について、軍の関与がなかったとは言っていません。軍の関与があったことは認めているわけです。」(二〇〇七年六月十五日、記者会見)などと発言しているが、軍の関与を認める記述がどこにあるのか、明示されたい。
十一 今回の検定意見に関し、沖縄県議会をはじめ、県下四十一市町村のすべてで意見書が採択され、「沖縄戦における『集団自決』が日本軍による命令・強制・誘導等なしに起こりえなかったことは紛れもない事実」(那覇市議会意見書)との声が上がっている。伊吹文部科学大臣自身、「集団自決」について「日本軍の強制があった部分はあるかもわからない、それは当然あったかもわからないと思いますよ」(二〇〇七年四月十一日、衆議院文部科学委員会)と答弁している。今回の検定決定の記述は、日本軍の「集団自決」への関与そのものがなかったかのような誤解を与える表現になっているのではないか。これは、「高等学校教科用図書検定基準」にある「図書の内容に,誤りや不正確なところ,相互に矛盾しているところはないこと」「図書の内容に,生徒がその意味を理解し難い表現や,誤解するおそれのある表現はないこと」に抵触しないのか。
十二 「教科用図書検定規則」は、第三章で「検定済図書の訂正」について規定している。これまで「検定を経た図書について、誤記、誤植、脱字若しくは誤った事実の記載又は客観的事情の変更に伴い明白に誤りとなった事実の記載があることを発見した」(十三条一項)事例としては、どのようなものがあるのか。「学習を進める上に支障となる記載、更新を行うことが適切な事実の記載若しくは統計資料の記載又は変更を行うことが適切な体裁があることを発見した」(同条二項)事例としては、どのようなものがあるのか。「文部科学大臣は、検定を経た図書について、第一項及び第二項に規定する記載があると認めるときは、発行者に対し、その訂正の申請を勧告することができる」(同条四項)と規定しているが、勧告した事例としては、どのようなものがあるのか。
十三 伊吹文部科学大臣は、「政権政党の価値観あるいは歴史観、あるいはまた文部科学大臣の政治理念で、検定権者であるから教科書の内容が左右されるということはあってはならない」(二〇〇七年四月十一日、衆議院文部科学委員会)などと答弁しているが、これは、「教科用図書検定規則」に基づく文部科学大臣の権限と責任を否定したものか。
 右質問する。
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 現代の理論
 特集●闘いは続く安保・沖縄
 近代沖縄と日本の国防
 断ち切られるべき蔑視と依存の構造
 流通経済大学教授 宮平 真弥
1.安保・平和憲法・沖縄
2.国防の要地
3.沖縄の軍事施設
4.徴兵制の施行と徴兵拒否
5.沖縄戦と軍機保護法
6.沖縄利用・依存からの脱却
 1.安保・平和憲法・沖縄
 「日本国憲法の9条を変えないほうがいいと答える日本人は64%(朝日新聞2009年4月)だが、日米安保条約がアジア太平洋の安全に貢献していると答えるのは75%(読売新聞-ガラップ、2009年12月)である」。「沖縄での安保支持率は7%だ(琉球新報2010年5月31日)。安保条約は、米軍基地を日本領土に置く、という条約だ。安保を支持することは、米軍基地を置いてほしい、という意味以外の何物でもない」。「その基地を『欲しくない』人のところよりも、『欲しい』と言っている人のところに置くのは……当たり前の考え」(ダグラス・ラミス『要石:沖縄と憲法9条』)。
 憲法9条(「戦力を保持しない」)と安保条約(米軍基地、兵器を領土内に置く)を同時に支持する日本人が過半数を超えていることをダグラス・ラミスはいぶかっており、次のような例を紹介している。日本には、憲法9条を守る組織が数千もあり、9条を世界遺産にすべきだ、という運動もある。ある本土の女性がラミスに、憲法9条が世界遺産になれるかと尋ねたところ、「安保がある限り、それは無理だろう」と答えた。するとその女性は「安保をなくすんですか。だって日本は無防備でしょう。……危ないじゃないですか」と反応した。このような分裂した考え方は「沖縄を利用して」可能になっていると、ラミスは述べる。
 すなわち、日本は平和憲法を持っている→平和憲法を維持するためには日米安保が必要である(軍隊がないと危ないから)→安保条約=米軍基地を日本の領土に置く→米軍基地は沖縄に置けばよい、という論理である。まさに、「沖縄を利用して」自己の安全をはかるという発想である。本稿では、このような日本人の発想の歴史的淵源を考察する。
 2.国防の要地
 琉球は「非武の文化」を持つ国だった。尚氏によって統一国家が成立してから、王府は国内の按司勢力(豪族)から武器を取り上げ、国家の一元管理の下に置いた。1609年、薩摩島津氏は琉球を侵略し、琉球国に武具統制策を実施した。結果的に、琉球国には非武装文化が定着し、19世紀には欧米にも広く知られた。また、琉球国の「士」は武士ではなく、「刀剣を身に帯びることはなく、文を尊び、科挙(科試)に及第して王府の官吏になることを目指して研鑽するのを本分とし」ており、「武器を持たない琉球が、国を守る手段としたのが、外交術であった」(波平恒男「沖縄がつむぐ『非武の安全保障』思想」、『日本の安全保障4 沖縄が問う日本の安全保障』)。
 琉球国には、1840年代以降、しばしば異国船が訪れ、開国を迫ってきた。琉球王府は「徹底的な平和外交」という方針を貫き、マニュアルとして「異国人への返答の心得」を作成した。王府は、異国船が必要な品々を無償で与えて対立を避け、異国人に「産物は」と聞かれたら、「黒砂糖、アワなどで、しかも出来高は少ない」と、「貧乏な国」であることを強調した。1844年以降、異国人と交渉する臨時の官職を設け、按司や親方を当てた。王府首脳は臨時の官員が時間稼ぎをしている間に、異国の要求を検討し、対応策を考える時間を確保した(琉球新報・新垣毅編『沖縄の自己決定権』)。
 しかし、「琉球処分」により日本国に併合されて以降、琉球国の「非武の文化」、「徹底的な平和外交」は否定される。日本国は、日本国の侵略行為に沖縄住民を加担させ、また、日本国の戦争遂行のために沖縄住民に犠牲を強いていく。
 まず、日本国の国防における沖縄の位置づけに関する意見を概観しよう。
 福澤諭吉は、1886(明治19)年9月21日の『時事新報』で以下の意見を発表している。
 「兵備拡張の事は我輩の常に言う所にして」、「八重山の港に軍艦を繋ぐか、又は陸上に兵隊を屯せしめ、八重山より宮古沖縄を経て鹿児島に電信を通じ、軍艦をして常に其近海を巡廻せしめることが至急の急要」(「宮古八重山を如何せん」)。
 福澤は、欧米列強の東洋進出に備えて防備を固めよとの主張の中で、八重山への軍艦配備、兵の駐屯を訴えている。この福沢の意見に影響を与えた人物は、田代安定である。福澤は、上述の「宮古八重山を如何せん」において、「鹿児島の士人田代安定に面会し、其言を聞くに付けても……」と記している。
 田代安定は1882(明治15)年に、農商務省農務局陸産係として沖縄県に出張し、さらに1885(明治18)年から1886(明治19)年にかけて2度目の沖縄調査を実施している。
 田代安定「沖縄県管下八重山群島急務意見」(成城大学民俗学研究室『伝承文化7号』)は、1886(明治19)年8月に明治政府に提出した意見書で、八重山の防備、「島民の鎮定」、産業育成等を提案している。その中から防備を中心にみていこう。
 意見書の「第一項 第一条」は、「軍備拡張ノ事」である。
 「八重山ノ群島タル我カ版図ノ南門ニ当リ直ニ隣敵ニ臨ムノ地ナレバ今日ノ急務ハ兵営ヲ設置シテ其鎖鑰ヲ固フシ一ハ以テ外寇ノ予防ニ備ヘ一ハ以テ島民ノ方向ヲ鎮定スルニ在リ」。「船浮港ニハ四時交代ノ軍艦弐艘ツヽヲ繋泊シ水雷船ト小飛脚船若干艘ヲ附添シ此軍艦ハ即チ南海巡邏艦ノ一ニ属シテ常ニ台湾及ヒ支那福州近海ヲ巡航シ傍ラ海岸測量等ヲ為テ……」。
 以上のように八重山の防備を強調しつつ、「島民ノ方向ヲ鎮定スル」ことを主張している。これは「皇化」を進めるということであり、沖縄は「皇化ノ洽カラサル」地域であるとの認識があった。教育は「皇化」の手段とされ、「青年ノ徒ハ人物ヲ選択シテ内地殊ニ東京辺ニ遊学セシメテ頑夢ヲ覚醒シ皇化ニ帰セシムルヲ先務トス」と提案している。 さらに「八重山群島ハ総テ内地人ヲ以テ埋填シ益々国権ヲ拡張スベシ」、「女子ノ如キハ成ル可ク内地移住民ノ配偶ニ充ル様ニ漸次此属民ヲ内地人に向化親睦セシムルコト」と主張しており、国権拡張を目的とした八重山の「内地化」を説いている。
 また、「其事業ヲ中央政府殊ニ内務省ノ直轄ニシテ一ノ事業管理所ヲ設ケ之ニ内務幷農務兼任ノ理事官ヲ置キ同島管理ノ全権ヲ此理事官ニ委任」と、八重山の防備・改革事業を政府直轄とすることを提案している。
 また、事業遂行のために警察権を拡張し、警察官に裁判権までもたせ、沖縄住民の諸活動に対する取り締まり、監視を強化する必要があると説いている。以下のように、警察権の拡張は、人権の制限、停止をともなう。
 「本島ノ事業ヲ拡張スレバ随テ警察ノ権利ヲ拡張セサルヲ得ズ」。「警察官ヲ増加シテ各自裁判事務ヲ兼任セシメ同島従来ノ律例ヲ損益シテ訴訟商業其他諸般ノ法度ヲ更生シ山林船舶等一切ノ取締ヲ厳密ニスルニ在リ即チ非常ヲ戒ムルニハ営兵アリト雖モ常ニ警察官ヲ以テ惣体ヲ監視セシメ……」。
 田代の訴えを、時の政府は「時期尚早」として退けた(清国との沖縄領土問題があったため)。しかし、田代は品川弥二郎森有礼松方正義井上馨山県有朋ら、政府要人に強く働きかけており、前述のように福沢諭吉にも影響を与えている。そして、田代の構想は沖縄戦における、沖縄守備隊第32軍の創設、軍機保護法による特殊地域指定、日本軍による沖縄住民虐殺行為を想起させる。沖縄戦は日本軍による究極の直轄支配であった。日本国の国防のために、沖縄住民の権利は侵害してもよいとの発想が明治期に芽生えていた。
 山県有朋内務大臣は1886(明治19)年2月に沖縄を巡視し、県治の状況と国防について視察した。同年5月、明治政府に対して「復命書」を提出し、その中で沖縄の軍備拡張を主張している。
 「沖縄ハ我南門、対馬ハ西門ニシテ最要衝ノ地ナレハ……南海諸島常備軍隊ノ制ヲ確定シ、電線ヲ布設シ、其通信ヲ便ナラシメ、益々人心ヲ撫安シ、以テ外寇防禦ニ充ツヘシ」。宮古八重山には「軍艦ヲシテ時々諸島ヲ巡視セシメ、一ハ以テ航海ノ針路ヲ明カニシ、一ハ以テ防護ノ準備ニ注意セシムヘシ」。
 なお、山県の沖縄住民に対する印象は頗るよろしくない。「徴兵ノ召集ニ応セシメ、各隊ニ編入スルノ法ヲ設ケ、常ニ各鎮台ニ分派シ、我内地ノ制度風俗及ヒ、兵制ノ大要ヲ領知セシメ新陳交換シテ以テ星相ヲ経ハ、其愛国ノ気風自カラ振作勃興シ……」。すなわち、沖縄住民は、軍隊に入れて「内地ノ制度風俗」を叩き込み、愛国心を養う必要があると認識している。前提として「其土人ノ心術情状ヲ察スルニ、維新ノ恩典ヲ顧ミス両属ノ念頑然猶絶エス」という沖縄イメージがあった(福澤諭吉、田代安定、山県有朋については三木健『八重山近代民衆史』参照)。
 山県の沖縄住民に対する印象は、のちの日本軍部の沖縄観と類似する。沖縄住民は愛国心に乏しく、信用できないとする軍部の沖縄観は、沖縄戦時の日本軍ももっており、その不信感が沖縄住民をスパイ視し、虐殺することにつながっていく。
 3.沖縄の軍事施設
 上述のように、明治政府は沖縄を国防上の要地と認識していたが、アジア太平洋戦争末期まで、本格的な軍事施設は建造しなかった。沖縄は歩兵連隊が設置されなかった数少ない県の一つであるが、日本軍が沖縄出身兵に不信感をもっていたことが原因だといわれている。よって、沖縄で徴集された兵士は九州各県に派兵された。
 1876(明治9)年に熊本鎮台の分遣隊が沖縄に派遣され、1879(明治12)年の「琉球処分」の際に、320人の陸軍部隊が派遣されている。また、1896(明治29)年まで九州から歩兵一個中隊が交代で派遣されている。沖縄への派遣隊の目的は、山県有朋によると「本県ノ民心ヲ鎮撫スルカ為」、すなわち沖縄内の治安維持であり、「隣敵」に備えるものではなかった。いわば沖縄の抗日運動への備えだったといえよう。よって、1895(明治28)年、日清戦争琉球国復活の可能性がなくなると、派遣隊は引き揚げた。
 大規模な軍事施設は、太平洋戦争直前から建設されはじめ、1941(昭和16)年7月、臨時要塞建設が発令され、10月に中城湾臨時要塞司令部と船浮臨時要塞司令部が沖縄に到着した。陸軍は、1943(昭和18)年、不時着用の飛行場(読谷)の建設に着手した。海軍は、1942(昭和17)年に石垣島平得、1943(昭和18)年に宮古島石垣島大浜などに飛行場建設をはじめた。日本国が沖縄に本格的な軍隊を配備するのは、1944(昭和19)年3月、沖縄守備隊第32軍の創設以降である(『沖縄県史 各論編5』、林博史編『地域の中の軍隊6 九州・沖縄』)。
 沖縄の軍事施設について、我部政明の次のコメントが参考になる。「(1922年のワシントン会議において)琉球以南に日本の基地は造らないという条件で、南太平洋の日本の委任統治を認めるという取引が行なわれている。これは日本の膨張を抑えるため、フィリピンを拠点にしていた米国が太平洋の支配維持の見地から行なわれた。……沖縄の戦略的位置はそこに住む人間の意思に関係なく決定されている。決定するのは、沖縄の人間でも地理的位置でもなく、周りから見て勢力圏を描く人々の考え方である」(琉球新報社『新南島探験』)。
 4.徴兵制の施行と徴兵拒否
 1898(明治31)年、日本本土より25年遅れて沖縄に徴兵令が施行された。しかし大陸への脱出を試みたり、身代わりをたてたりする徴兵忌避者が続出した。徴兵令施行から1915(大正4)年までの間に774名の者が、徴兵忌避で逮捕、告発された(琉球新報社『新南島探験』)。
 また、移民に徴兵忌避の意図があるとみなされることもあった。海外に在留しているために徴集が延期された者は、1935(昭和10)年時点で全国に5万1722人いたが、府県別では沖縄県がもっとも多く9472人であった。1940(昭和15)年、留守第6師団長河村薫は、陸軍大臣に以下のような報告書を提出した。海外渡航者が「事変前ノ3倍ニ激増」していることを指摘した上で「間々合法的徴兵忌避ノ悪質ニ基ク渡航トモ思考セラルル向アリテ徹底的方策ヲ講スル要アリ」。沖縄県は1939(昭和14)年に「徴兵検査未済者の海外渡航防止」の通牒を市町村に出しており、「徴兵忌避の疑いある者、又は其の誤解を受ける事情のある者は極力阻止方法を講ずること」とし、市町村会議でも「19歳以上の徴兵検査未済者の海外渡航は禁止」することを指示した(林博史編『地域の中の軍隊6 九州・沖縄』)。
 吉浜忍「明治期の沖縄における海軍志願兵」(『南島文化24号』)によると、1899(明治32)年の沖縄県の海軍志願者は13名であるが、同年、宮崎県は379名、鹿児島県は922名である。1906(明治39)年には、沖縄県の志願者は40名に増えたが、宮崎県は712名、鹿児島県は1455名に増えた。大正から昭和初期にかけて、沖縄県の海軍志願者数は40名前後から80名前後で推移している。ただし徴兵制施行により、「沖縄でも毎年のように徴兵検査、入営、出征、帰還、戦死などの軍事にかかわる風景がみられたはずだ。これらの延長線に沖縄戦があるという認識を持つ必要がある」。
 以上の状況を踏まえて、軍部の沖縄県民観を、石原昌家「沖縄戦の諸相とその背景」(琉球新報社『新琉球史 近代・現代編』)からみていく。1910(明治43年)度「沖縄警備隊区徴募概況」では、沖縄県民は普通語を理解する者が少なく、徴兵業務に支障をきたしており、徴兵忌避の観念が強いと嘆いている(普通語を話せないと偽って徴集を逃れようとする)。沖縄連隊区司令部、1924(大正13年)12月発行「沖縄県の歴史的関係及人情風俗」でも、沖縄県民は教育程度が低級なうえ、皇室国体に関する観念が徹底していないことを短所と指摘している。さらに沖縄は移民県で、アメリカやハワイに多数出かけているので思想上に及ぼす影響が懸念されるとも記している。1934(昭和9)年、沖縄連隊区司令官の「沖縄防備対策」には、沖縄県民の国家意識、愛国熱は他地方と較べられないほど低く、外国からの支配をうけると容易にその支配に甘んじるだろうと記されている。
 徴兵忌避は、「伝統的に『非武の文化』をもつ沖縄の人々の間には、徴兵に対する強い違和感があった。海外移民も、徴兵に対する消極的抵抗の一形態」という見方もできる(後藤乾一『近代日本の「南進」と沖縄』)。しかし、日本国特に軍部は、愛国心、皇室観念が希薄であることを沖縄住民の欠点ととらえた。沖縄戦における、日本兵の残虐行為の要因の一つは、このような沖縄住民に対する蔑視である。
 5.沖縄戦と軍機保護法
 日本軍の沖縄住民スパイ視及び軍機保護法についてみていこう。明治期の田代安定の構想にあった「警察権の拡張」が、日本兵によって極限まで拡大されて行使され、人権蹂躙という形で顕在化したのが沖縄戦である。
 一部の日本兵は、言いがかり、腹いせ、食料を強奪する口実として沖縄住民をスパイ視した。負け戦を沖縄住民に責任転嫁する日本兵もいた。方言をしゃべる者、外国帰り、外国語を話せる者は特にスパイ視されやすかった。ペルー帰りのある人物は、収容所の班長をしていたが、それを知った日本兵が彼を呼び出し、スパイだといって日本刀で斬った。日本語を話せない老人が、3日ほど縛られた後、銃殺された。ある日本兵は、壕に避難していた老婆に「この壕から出なさいと」命じたところ、老婆が方言で返事をしたため、軍刀で首を切り落とした(沖縄探見社編『沖縄戦の狂気をたどる』)。
 このような日本兵の残虐行為の法的根拠は軍機保護法である。我部政男「沖縄戦争時期のスパイ(防諜・間諜)論議と軍機保護法」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』42号)は、沖縄戦における軍機保護法の果たした役割を考察している。32軍のスパイ観については、「軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ(沖縄語デ談話シアルモノハ間諜ト看做シ処分ス)」(32軍参謀長 長勇)、に端的にあらわれており、この命令は「軍の自信喪失と住民への猜疑心を露呈したものであった」。
 さらに、「沖縄秘密戦構想には、沖縄住民を戦力として利用する大がかりな作戦が予定されて」おり、「軍官民共生共死」によって戦争が進められていく。その際軍部は「皇民意識ノ徹底セザル」沖縄住民に不信感をいだきながら、その住民の協力を必要とするというジレンマに陥っていた。そこから「スパイ嫌疑」が発生した。
 石原昌家「沖縄戦の諸相とその背景」(『新・琉球史 近代・現代編』)も沖縄戦における軍機保護法の影響を指摘しており、「陣地周辺をうろつくものはスパイ視されたという複数の証言」があり、「戦場でスパイ視されるということは『軍機保護法』が拡大解釈され、ただちに『処刑』されることを意味していた」。
 軍機保護法は「軍事上ノ秘密ヲ探知シ又ハ収集シタル者之ヲ公ニシ又ハ外国若ハ外国の為ニ行動スル者ニ漏泄シタルトキハ死刑又ハ無期刑若ハ3年以上ノ懲役ニ処ス」という内容で、地上戦の舞台となった沖縄では「軍に協力していた住民が、米軍の進撃を目前にして、家族の避難壕を捜し回っているうちに別の部隊の兵士にスパイ視」された。単に戦場を逃げ回っていても、日本兵は軍事機密の探知、収集と受けとめることがある。これが、「軍官民共生共死」の実態である。
 なお、日本兵の沖縄住民への不信感の要因として、日本社会における沖縄蔑視も考慮する必要がある(久志富佐子『滅び行く琉球女の手記』に描かれているような状況)。今日でも、オスプレイ配備に反対する沖縄の議員、首長達の抗議行動に対して、日の丸や星条旗を掲げた本土の人たちが、「非国民」、「反日」、「中国へ帰れ」、「ゴキブリ!」などの罵声を浴びせた例があり(2013年1月27日、日比谷野外音楽堂での「NO OSPREY 東京集会」。ウエブサイト「ヘリ基地いらない二見以北10区の会」参照)、ネット上にも沖縄人へのヘイトスピーチが溢れている。
 6.沖縄利用・依存からの脱却
 沖縄戦は、国体護持及び本土決戦を遅らせるための持久戦だった。日本国は沖縄住民を盾として利用した。冒頭で述べたように、憲法9条支持者の発想の中にも「沖縄利用」が存在する。背景には、沖縄住民蔑視があった。軽蔑しながら利用する、頼る、依存しているといってもいいだろう。なお、米軍統治の27年間、米軍は沖縄を「直轄支配」し(布令・布告)、沖縄返還後も日米安保地位協定体制下に置き、沖縄住民の人権を侵害している(生存権、土地所有権、地方自治、集会結社の自由等。例えば辺野古基地反対抗議に対する海上保安庁による違法な弾圧やスラップ訴訟)。2013年、日本国の国会は特定秘密保護法を可決した。同法の悪影響を集中的に受けるのは軍事基地周辺地域である。沖縄はスパイ視される可能性がもっとも高い地域となる上、住民に必要な情報も「防諜」の名の下、今まで以上に入手しにくくなる。沖縄住民の犠牲と引き換えに、本土住民は「米軍に守ってもらえる」という安心感を得ている(巨大な軍事施設を維持するためには、直轄支配と警察権の拡張-監視、取り締まり-が必要と説いていた田代はさすがであった)。
 かかる状況を良しとしない本土の住民も存在する。しかし、傍観は加担と大差ない。本土の住民(私自身も含む)に問われていることは、どのような方法で沖縄利用・依存を止めるか、利用・依存を促進する動きを阻止するかであろう。ヒントはある。
 地方自治の尊重という価値を実現するために、議会決議を通じて、声を上げ始めた自治体がある。「アメリカのバークレー市議会、吹田市尼崎市岩倉市武蔵野市白馬村の各議会は、沖縄の自治の尊重を認め、沖縄の人々を支援し、辺野古・大浦湾の新基地建設に反対する決議を上げています」(琉球新報、2015年10月14日)。
 辺野古基地反対国会包囲の例もある。「約1万5千人(主催者発表)が国会を取り囲み、『人間の鎖』を作った」(朝日新聞デジタル、2015年5月24日)。
 また、辺野古基地建設反対活動を支援する「辺野古基金」への寄付金が、2015年4月の創設から3カ月弱で、3億5000万円を突破し、事務局によると「7割は本土からの寄付」(東京新聞電子版、2015年6月27日)。
 本土のマスメディアは米軍基地関連のニュースをそれほど報じないが、少部数のメディアは積極的である。『DAYS JAPAN』 は、2015年6月号で「沖縄をかえせ沖縄のもとに」という特集を組むなど頻繁に沖縄を取り上げている。ホームレスの自立を支援する『THE BIG ISSUE JAPAN』も2015年8月1日号で「平和へ-米軍基地のたたみ方」を掲載している。
 とりわけ興味深いのは、「信州発の産直泥つきマガジン」を称する『たぁくらたぁ 34号』である。「絶対に造らせない-辺野古の新基地」を掲載し、昆布土地闘争、104号線超え実弾演習阻止、安波ハリアーパッド建設など、「非暴力の抵抗運動」で基地拡張、新設を阻止した例を紹介している。デモでは何も変わらないという意見に対し、「沖縄にはあてはまりません」と記している。「非暴力の抵抗運動」の成功事例を伝えていくことは、今後の抵抗運動の励みになり、継続を促進するだろう。
 また、のりこえねっと(ヘイトスピーチレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)共同代表の一人で法政大学沖縄文化研究所兼担所員(法政大学総長)の田中優子は、「(集団的自衛権行使容認について)日本もまた平和実現の手段を『非戦』から『戦争』へと変えるという。……戦争という手段で平和を実現するという方法論が間違っている。……平和を叫ぶのは意味がない。『非戦』という手段を実現するしかない」と述べており、興味深い(『週刊金曜日』、2015年8月7日・14日合併号)。非武と非戦の関係について検討したいと思う。
 本土住民が沖縄に関心を持つきっかけは、地方自治、自己決定権、民主主義、人権など多岐にわたる。いずれにしても、「沖縄問題」は沖縄住民の行為によるものではなく、戦前は日本国、戦後は日米両国が引き起こしたものであり、解決する責任は、主として日米両国の政府と住民にある。このことを認識し、請願、デモ、情報発信などの行動を起こす本土の人間はまだ少数である(日本には1700以上の自治体があるが、「辺野古基地建設強行」に対して請願・陳情をしたのは上述の5議会のみ。辺野古基地反対デモも、反原発や安保法制反対デモに比べて参加者は少ない)。これらの行動の輪をどれだけ大きくしていけるか。日本本土の「民度」が試されている。
 みやひら・しんや
 1967年、沖縄県生まれ。東京都立大学社会科学研究科博士課程(基礎法学)満期退学。現在、流通経済大学法学部教授。専門は日本近代法史(入会権、水利権、温泉権等)。著書に、『リーガルスタディ法学入門』(共著、酒井書店)、『部落有林野の形成と水利』(共著、御茶の水書房)、『現代日本のガバナンス』(共著、流通経済大学出版会)など。
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