🎺86:─2・A─日本国内での日本軍による捕虜虐待事件。戦勝国の日本人兵士捕虜虐殺は無罪。~No.383 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 敵軍兵士捕虜による虐待・惨殺は、日本軍だけではなく、アメリカ軍やオーストラリア軍でも行われ、中国共産軍やソ連軍ではもっと残虐であった。
 その中で日本軍だけが断罪されるのは、日本が敗戦国であり、国連と国際司法機関が戦争犯罪国と認定しているからである。
 国際法の人道に対する罪では、敗戦国では無条件に有罪で、戦勝国では無条件に無罪である。
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 2024年1月14日 YAHOO!JAPANニュース カナロコ by 神奈川新聞「神奈川に最多16カ所、捕虜収容所の実態明らかに 市民研究者ら事典刊行 全国で3559人死亡
 捕虜尋問を目的に国際社会にはその存在を隠された「海軍大船捕虜収容所」(現在の鎌倉市)。収容された6人が死亡した(工藤洋三さん提供、米国立公文書館蔵)
 太平洋戦争時の外国人捕虜の実態を調べている市民団体「POW研究会」が20年以上に及ぶ研究成果をまとめた専門書「捕虜収容所・民間人抑留所事典」を昨年12月に刊行した。旧日本軍は連合国側の戦争捕虜3万6千人を国内連行し、約1割に当たる3559人が暴力や劣悪な環境から命を落とし、在日外国人の民間人も約1200人が抑留された。戦時下の捕虜や民間人抑留の全体像をまとめた研究図書は過去になく、市民研究者たちが知られざる「戦争犯罪」の歴史の闇に光を当てた。
 【写真が多数】「京浜地区ワーストの収容所」とされた三菱ドック(現在の横浜市神奈川区
 開戦直後からアジア太平洋地域の占領地を拡大した旧日本軍は米英やオランダなど連合国兵士16万人を捕虜とした。徴兵による日本国内の労働力不足を補うため、一部が本土へ送られることになったが、輸送船が連合国の攻撃を受け約1万1千人が海に沈んだ。日本に着いた約3万6千人が全国130カ所の収容所に送られた。
 日本は当時、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約を批准していなかったが、開戦後に条約の「準用」を国際社会に宣言した。しかし、実際には収容所職員による捕虜の暴行や虐待が横行し、赤十字国際委員会からの救援物資も横取りされて十分な食料や医療も与えられず、強制労働により衰弱した。
 草の根の研究成果を996ページにまとめた事典には、京浜工業地帯を抱えて全国最多16カ所が設置された県内の収容所も詳述。少なくとも2500人以上が収容され、213人が亡くなったとされる。
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 チャールズ・リンドバーグ自伝
 オーストラリア軍の日本兵捕虜虐殺
 2013-03-08 04:13:36
 テーマ:世界の歴史
■オーストラリア軍の日本兵捕虜虐殺 ■
 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなった時の話を覚えているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ 捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
 (リンドバーグ第二次大戦日記・新潮社刊 八月六日より)
ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。
 着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。
 『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』と将校の一人が答えた。
 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』
 『(原文伏字)では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百人か二百人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降はためらうだろ?』
 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』と、別の将校が調子を合わせる」
★ ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。
http://hoi333.blog.fc2.com/blog-entry-419.html
オーストラリア軍の捕虜虐殺
http://www.tamanegiya.com/o-sutoraria19.1.20.html
孤高の鷲〈下〉―リンドバーグ第二次大戦参戦記 学研M文庫
チャールズ リンドバーグ (著),
Charles A. Lindbergh (原著), 新庄 哲夫 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4059011150/249-7534127-5484316
ジュネーブ条約と捕虜待遇】旧日本軍以外、どこが守った?
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/140212.html
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 2024年1月14日05:00 カナコロ 神奈川新聞「「足元の戦争犯罪を残したい」捕虜経験者と交流重ね、市民研究者らが専門書
 20年以上、外国人捕虜や民間人抑留者の研究を続けたPOW研究会の小宮まゆみさん(左)と笹本妙子さん=横浜市
 太平洋戦争時の外国人捕虜の実態を調べている市民団体「POW研究会」が20年以上に及ぶ研究成果をまとめた専門書「捕虜収容所・民間人抑留所事典」を昨年12月に刊行した。
 「POW研究会」は、長らく実態が明らかにされてこなかった事実に光を当てる一方、捕虜経験者らに日本を案内するなど交流も重ね、戦後も日本を憎み続けた捕虜たちとの和解も進めてきた。20年の活動の集大成は通過点で「自分たちの足元で起きていた戦争犯罪を歴史として残していきたい」と訴える。
 知られぬ墓地
 (有料サイト)
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 1月14日05:10 カナコロ 神奈川新聞「神奈川に最多16カ所、捕虜収容所の実態明らかに 市民研究者ら事典刊行
 捕虜尋問を目的に国際社会にはその存在を隠された「海軍大船捕虜収容所」(現在の鎌倉市)。収容された6人が死亡した(工藤洋三さん提供、米国立公文書館蔵)
 太平洋戦争時の外国人捕虜の実態を調べている市民団体「POW研究会」が20年以上に及ぶ研究成果をまとめた専門書「捕虜収容所・民間人抑留所事典」を昨年12月に刊行した。旧日本軍は連合国側の戦争捕虜3万6千人を国内連行し、約1割に当たる3559人が暴力や劣悪な環境から命を落とし、在日外国人の民間人も約1200人が抑留された。戦時下の捕虜や民間人抑留の全体像をまとめた研究図書は過去になく、市民研究者たちが知られざる「戦争犯罪」の歴史の闇に光を当てた。
 開戦直後からアジア太平洋地域の占領地を拡大した旧日本軍は米英やオランダなど連合国兵士16万人を捕虜とした。徴兵による日本国内の労働力不足を補うため、一部が本土へ送られることになったが、輸送船が連合国の攻撃を受け約1万1千人が海に沈んだ。日本に着いた約3万6千人が全国130カ所の収容所に送られた。
 日本は当時、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約を批准していなかったが、開戦後に条約の「準用」を国際社会に宣言した。しかし、実際には収容所職員による捕虜の暴行や虐待が横行し、赤十字国際委員会からの救援物資も横取りされて十分な食料や医療も与えられず、強制労働により衰弱した。
 草の根の研究成果を996ページにまとめた事典には、京浜工業地帯を抱えて全国最多16カ所が設置された県内の収容所も詳述。少なくとも2500人以上が収容され、213人が亡くなったとされる。
 大船収容所では禁じられた尋問も
 (有料サイト)
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 1月13日 毎日新聞「広島原爆 米兵捕虜12人被爆死 GHQ捜査公文書でも裏付け
 原爆ドーム広島市中区で、本社ヘリから加古信志撮影
 米軍による広島への原爆投下で、米兵12人が死亡したと1948年に結論付けた連合国軍総司令部GHQ)の捜査報告書が見つかった。作成者は米軍大尉で「原爆を投下した結果」と死亡理由を記述。日本の戦争犯罪を裁くため被爆した米兵への虐待の有無を調査し、捕虜だった12人について「残虐行為の証拠は得られなかった」として被爆死と断定した。専門家によると、米兵被爆死の総数が米側の公文書で確認されたのは初めて。
 米国立公文書館所蔵文書の複写を共同通信が入手し、広島市立大広島平和研究所の永井均教授(日本近現代史)に分析を依頼した。広島で被爆した歴史研究家の森重昭氏(86)が遺族への調査に基づき、2008年の著書で12人と公表した独自調査が裏付けられた。
 (有料記事 906文字)
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 COURRiER JAPAN
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 『帝国の虜囚』歴史家サラ・コブナーがその実態に迫る
 日本は大戦中「戦争捕虜」を一貫して虐待していたのか?
 「バターン死の行進」中のアメリカ人とフィリピン人の戦争捕虜たち(1942年5月)Photo: MPI/Getty Images
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 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 アジア・太平洋戦争中、日本軍が連合国の捕虜を一貫して虐待していたという「定説」が欧米では根強く残っている。アメリカ人の日本現代史家サラ・コブナーは、そうした定説と膨大な資料を照らし合わせ、歴史的な実態を浮き彫りにしていく。
サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は1回目/全3回
 1941年12月、大日本帝国の陸海軍は2日にわたり真珠湾、マラヤ、タイを攻撃し、世界に衝撃を与えた。
 日本は1937年半ばにも中国に侵攻していた。そのため注意深い観測筋は、日本が軍事行動を起こす可能性を予測していた。
 だがアメリカやイギリスでは、大多数の市民が降って湧いたような事態に仰天した。電子メールや無料通話が存在せず、東京とタイを結ぶ直行便も飛んでいなかったその時代、日本で生じる脅威は、遠いかなたの話でしかなかった。
 しかしいまや日本軍は、何千キロも外洋を渡り、アリューシャン列島からマラッカ海峡マーシャル諸島からビルマ公路までの領域へと、猛進撃をつづけたのである。
 日本軍は太平洋戦争を開始した最初の5ヵ月間に、14万人を超える連合軍兵士と13万人の民間人を、十数ヵ国で捕虜にした。日本の指揮官たちは急遽、大量の捕虜収容所や民間人の収容所を設置しなくてはならなかった。
 戦争中にはアメリカ軍捕虜の3人にひとりが、故郷に帰ることなく命を落とした。戦争末期になると、オーストラリア兵も、戦闘で死亡する者よりも収容所で死亡する者が多くなった。
 映画や小説に登場する日本兵は、不可解な人々である
 遠いかなたの国でしかなかった日本と日本人は、太平洋戦争により西洋諸国によく知られる国となった。それも主として、憎しみの対象として。それ以来、回顧録、読み物、映像や論述を通し、日本がいかに一貫して捕虜を虐待し、屈辱を与えたかが伝えられてきた。
 1957年の映画『戦場にかける橋』のニコルソン大佐がたどる悲劇であれ、ローラ・ヒレンブランドのベストセラー『不屈の男 アンブロークン』に描かれる陸軍飛行士ルイス・ザンペリーニの英雄的な活躍であれ、捕虜は収容所所長や監視兵から残酷な仕打ちを受ける対象として描写されている。
 映画や小説に登場する日本兵は、不可解な人々である。捕虜の残酷な扱いについて説明がなされる場合には、たいていの場合、日本の軍事教育と武士道(20世紀に復活し、再構築された以前の侍の道)が作り上げた軍事思想によって起きたことであるとされてきた。
 日本軍は兵士に、捕虜になるのを最大の恥であると思わせる教育をした。そのために、進んで投降する敵兵を軽蔑する意識が生まれた、というのがその説明である。
 太平洋地域で捕虜にとられた連合軍兵士は、連合軍全体の0.5パーセント前後でしかなかった。そのことを考えれば、太平洋戦争の記憶には、周知となっている歴史観がきわめて大きな影響を及ぼしている。
 第二次世界大戦終結から65年後に発行された『アンブロークン』も、長くベストセラーになっていた。
 ジョン・グリシャムのスリラー小説に登場する人物について背景説明がなくても、ビデオゲームの「コール・オブ・デューティ──ワールド・アット・ウォー」が前置きもなしにストーリーに入っても、すぐに文脈が理解されるほど、太平洋戦争の捕虜が経験した苦しみは広く世に知られている。
 タイ、カンチャナブリで保存されている泰緬鉄道の建設現場
 #09 日本軍の元捕虜の遺族が語る「父の虐待の記憶」─オーストラリアで消えぬ太平洋戦争の「負の連鎖」
 捕虜の経験には、簡単には説明のつかない側面もあった
 だが、捕虜の経験には、簡単には説明のつかない側面もあった。1904年に勃発した日露戦争では、日本はロシアの捕虜を手厚く扱い、国際的な報道機関や西洋のオブザーバーから称賛を受けた。
 捕虜にきめ細かい配慮を見せた日本は、国際法キリスト教文明の延長線上にあるものと考えていた西洋諸国に、普遍的な法としての再定義をうながした。
 しかし第二次世界大戦では、日本軍の捕虜収容所で監視兵をしていたのは、多くが朝鮮人や台湾人の〈軍属〉であり、日本兵ではなかった。
 また、戦いで名誉を重んじる日本の精神が連合軍捕虜の扱いに影響を与えたことは確かであるとしても、戦闘員ではなかった民間人の抑留者が経験したことは、どう説明すればいいのだろう。
 民間人抑留者の経験は捕虜とは異なっていたものの、彼らも同様に苦しんだのである。民間人でありながら、捕虜と同じ収容所に入れられた人々もいた。スティーブン・スピルバーグ監督によって映画化されたJ・G・バラードの小説『太陽の帝国』には、そのような状況が描かれている。
 ヨーロッパ人、アメリカ人やオーストラリア人による戦争中の上海、香港、シンガポール、マニラが舞台の小説や映画は、太平洋戦争の捕虜や抑留者にかかわる見方を形作ることに貢献してきた。連合軍捕虜の死亡や苦しみは、アメリカやイギリスでは悪名高い出来ごととして知られている。
 一方、日本ではそのことが民衆の記憶に刻まれていないのは、どのように説明することができるのだろうか。
 日本は戦争捕虜を残酷に扱ったのか?
 これらの問いに答えるには、比較分析を行なう必要がある。しかし英語で書かれた言説は、アメリカ人はアメリカについて、オーストラリア人はオーストラリアについて研究し、総じて国際的な視点を欠いている。日本の文献が引用されているものも限られている。
 アメリカで抑留されていた日本人や日系アメリカ人についても、ほとんど触れられていない。だが戦争中の日本政府は、アメリカが邦人抑留者をどのように扱っているかに注目し、アメリカ側の扱いは、日本の連合軍捕虜の処遇に影響を与えていたのである。
 捕らえたアメリカの航空兵の処刑などに見られる日本の振る舞いを比較分析の観点から評価するにあたっては、日本の都市への空爆など、日本政府が戦争犯罪とみなした連合軍側の行為も、比較の俎上に載せて論じる必要があるだろう。
 英文の言説では、友軍の攻撃を受けて死亡した捕虜がかなりの割合でいたことも、軽視される傾向がみられる。連合軍の指揮官は、捕虜が犠牲になる可能性があることを承知の上で、輸送船団を潜水艦で攻撃し、日本の都市に空襲をかけていたのだ。
 日本軍による虐待やネグレクトよりも、友軍による爆撃の巻き添えになって死亡した捕虜の方が多かったとも言われている。
 本書では、日本人の性質や日本文化には、捕虜の非人道的な扱いに結びつくような固有の特性は内在していなかったことについて論じたい。
 日本には何十万人もの捕虜を残酷に扱うような行動規範が元来備わっていた、という見解を前提とはせずに、日本の高官が今日の言説に示されるよりもはるかに低い程度でしか、捕虜の管理の問題を考慮していなかったことを指摘したいと思う。
 投降した連合軍兵士の人数は、日本の指揮官たちの予想を大幅に上回る規模であった。兵站の制約に圧迫を受けながら、自軍の倍近い敵軍と戦うこともあった日本軍の指揮官は、捕虜の世話や食事の問題を後まわしにせざるを得なかった。
 日本軍が捕虜の管理に無頓着であったこと、捕虜の面倒を見ることに関心がなかったことは、残酷で非人道的な出来ごとをもたらした。
 捕虜の扱いに関して日本軍が際立っていた点は、〈無意識〉に残酷な扱いがなされていたことであった。強制労働、栄養失調、医療の不備といったネグレクトや虐待が、多くの捕虜を苦しめたり死亡させたりしたことは間違いない。しかし日本側の事情を考察しない論述では、その理由を説明することは難しい。
 日本は捕虜を虐待する方針を掲げていたわけではなかった
 この本では、日本政府と軍部は、捕虜を虐待する方針を掲げていたわけではなかったことを明らかにしたい。日本軍の士官や監視兵は、捕虜の虐待、利用、射殺などを命じる指令を受けたことはなかった。
 日本の公式方針はジュネーブ条約を尊重することであったが、それを知っていた将兵は少なかった。そして知っていた者でさえ、たいていはジュネーブ条約を守るための条件や力を欠いていた。
 また、大日本帝国の政策立案者は、勢力圏の拡大にとって必要となる資源について首尾一貫した検討を行なっていなかった。日本軍はそのために十分な兵站や労働力を整えることができず、一連のジレンマに見舞われることになった。
 日本政府は、一貫性のある管理体制や明確な指揮系統の構築も怠っていた。その結果、捕虜への虐待やネグレクトを未然に防ぐための基準の策定や運用が難しくなっていた。
 さらに、捕虜の窮状について対策を講じようとする場合にも、日本の行政と軍部は深く分裂し、明快な方針を打ち出すには至らなかった。収容所の状況が各所各様で、捕虜の体験にも収容所によって大きなばらつきがあったのは、このような背景を踏まえれば当然のことであった。
 捕虜の扱いには状況に左右される重要な要素と、収容所ごとの環境の相違が両面から作用していたのである。そのため捕虜の経験は、道義的な問題としてとらえる枠組みだけでは論じることができない。
 日本政府は、戦争の開始当初から連合軍捕虜を即座に処刑することもできた。欧州の東部戦線ではそれが行なわれていた。日本も中国兵に対しては、そうすることが珍しくなかった。
 しかし日本政府は、ジュネーブ条約の遵守に合意し、全員ではなくとも捕虜に赤十字の救恤(きゅうじゅつ)品の受け取りを認め、紛争地域外の視察官が中立の立場で収容所を視察することも受け入れた。政府は捕虜の厚遇も宣伝したため、日本人のなかにはそれを羨望する人も出た。
 日本政府が自国の市民と兵士をどのように扱っていたかという視点から考えると、連合軍捕虜への扱いは別の意味合いを帯びてくる。(続く)
 ※この記事は『帝国の虜囚』からの抜粋です。注などは割愛しています。
 『帝国の虜囚──日本軍捕虜収容所の現実』
 サラ・コブナー 著 白川貴子 訳 みすず書房
 EDITORS’ PICKS
 世界の文学賞受賞者も輩出した「ライターズ・レジデンス」を訪ねてみたら
 共通言語はラテン語─世界最後の“アカデミア”で生徒たちは何を学ぶ
 日本人の英語力が下がり続けているのは「おごり」と「傲慢さ」が原因だ
 PROFILE
 サラ・コブナー Sarah Kovner コロンビア大学サルツマン戦争と平和研究所上席研究員(日本研究)。イェール大学国際安全保障研究所フェロー、フロリダ大学准教授(歴史学)も務める。コロンビア大学で博士号取得。京都大学東京大学でも研究を行なう。初の著書『占領権力──戦後日本の売春婦と軍人』(未邦訳)は、米国大学・研究図書館協会(ACRL)書評誌が選ぶ「傑出した学術書籍」に選ばれている。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』(全3回)
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 日本軍の行動に浮かび上がってくる別の様相
 日本はなぜ大戦中、秩序だった捕虜の扱いができなかったのか?
 ジャワの戦いで日本軍に捕らえられたアメリカ兵たちPhoto by Keystone/Getty Images
 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 戦時中、日本が意図的に戦争捕虜を虐待していたわけではないとする根拠は何か? 日本現代史家サラ・コブナーが引き続き、「帝国の虜囚」を取り巻いていた文脈を解き明かす。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は2回目/全3回
 広範な文脈に照らして捕虜の経験を捉え直す
 連合軍捕虜がきわめて残酷な行為と考えた平手打ち、強制的な行進、貧弱な米粥の食事は、大日本帝国陸軍の兵士にとってべつだん珍しいことではなかったのである。それにもかかわらず、日本軍が捕虜虐待の嫌疑で監視兵を軍法会議にかけていたことは、注目に値する。
 戦争中には、連合国政府に捕虜にかかわる情報を提供するための行政体制も大幅に拡充された。
 日本は、〈大東亜共栄圏〉構想の受益者とされていた中国、インドやフィリピンの捕虜が、日本兵と同等もしくはそれ以下の扱いを受けてアジア諸国がどう反応するかということより、西洋諸国からの評価を重視していたのは明らかであった。
 本書は、一見すると矛盾しているこれらの行動を可能な限り広範な文脈に照らし、捕虜の経験を考察する。
 そのなかには、国際機関に参加したり、欧米の植民地主義を模倣したりする形で、西洋とかかわり、競争しようとしてきた日本の長年の努力の歴史も含まれる。
 日本は非西洋国として最初に赤十字国際委員会(ICRC)に参加した国であった。赤十字の日本支部が世界最大の規模を誇っていた時代もあった。
 だが太平洋戦争がはじまる1941年のかなり前から、日本の軍部はアジア人の捕虜は〈戦争捕虜〉とみなすに値しないと考えはじめていた。台湾の現地民とのちには大陸の中国人は、一貫して匪賊とみなされ、〈便衣隊(べんいたい)〉と呼ばれていた。
 残り: 4548文字 / 全文 : 5259文字
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 さまざまな「歴史の産物」
 「日本軍の戦争捕虜」をジェンダー、人種、階級の観点からも分析する
 台湾の日本軍俘虜収容所から解放され、パンとバターを持って喜ぶ連合軍の捕虜たち(1945年)Photo by Keystone/Getty Images
 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 日本は戦時中、戦争捕虜を一貫して虐待していたわけではなかったと立証する日本現代史家のサラ・コブナーは、軍事史のなかで見落とされてきたジェンダー、人種、階級の観点からも「帝国の虜囚」が置かれていた文脈を分析する。現代の戦争捕虜をめぐる問題にも通じる、その重要な視点とは──。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は3回目/全3回
 軍事史では異色のテーマ
 捕虜収容所という主題もまた、軍事史においては異色である。著名な学者が述べている「戦史の本質は戦闘であり、それがこの分野を独特なものにしている」という言葉が、そのことをよく表している。しかし敗北や武装解除も、戦争の一部ではないだろうか。
 現代の戦争は20世紀後半まで、どちらか、もしくは双方の降伏をもって終結するのが典型的な形だったのである。
 戦争中の活動は肉体を鍛錬して剛勇を発揮するというような、男らしさや武勇に結びつけて考えられるが、囚われの状態を特徴づけるのは、戦闘の〈不在〉である。軍事史において重要な要素であるそのような面は、捕虜収容所ではほとんど発揮することができない。
 連合軍の兵士は、捕虜になった場合は脱走やサボタージュを試みることとされていた。しかしアジアの捕虜収容所では、脱走もサボタージュも、実行するのは現実問題としては難しかった。
 捕虜たちはそうする代わりに、減っていく体重を記録し、擦り切れていく服を繕い、日本軍から与えられる屈辱に鬱屈を募らせる生活を送っていた。
 残り: 4476文字 / 全文 : 5090文字
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 NHK
 戦跡 薄れる記憶
 “日本人を殲滅せよ” アメリカ従軍記者は何を見たのか
 (2023/08/11 NHKスペシャル取材班 村山世奈)
 80年前の太平洋戦争で、戦場に身を置きながら日米の戦いを記録した人物がいる。タイム誌の記者、ロバート・シャーロッド。彼は、日本兵が命をかえりみずにアメリカ軍に突撃する様子や、勝てないと悟ったときにみずから命を絶つ姿に衝撃を受けた。
 シャーロッドが伝えた日本兵の姿は、アメリカ国民にも衝撃を与え、やがて容赦のない激しい攻撃へとつながっていく。当時、アメリカ人ジャーナリストの目から、日本兵はどう見えていたのか。シャーロッドが残した膨大な文書からたどる。
 (NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」取材班 村山世奈)
 ※本文では戦時中の事実を忠実に伝えるため、当時使われていた差別的な表現を原文のまま掲載しています
 戦場の日本人を記録した膨大な取材記録
 ニューヨークにあるシラキュース大学。ジャーナリスト志望の学生が学ぶ大学院があることで知られている。ここに、ロバート・シャーロッドの資料が所蔵されている。
 資料は、1964年にシャーロッド本人が寄贈したもので、42箱にのぼる。タイム誌などに掲載された記事だけでなく、草稿段階の原稿や、友人へ送った手紙の写しも含まれている。
 シャーロッドが太平洋戦争のさなか、1944年1月に知人へ送った手紙に、こうつづられている。
 「我々アメリカ人は-陸軍も海軍も国民も-、誤解のもとにこの太平洋戦争に突入したと思う。私たちは、日本人の強さについて全く知らなかったのだ」
 当時アメリカでは、戦意高揚のために作られた戦争映画などで、強く勇敢なアメリカ兵と、劣った日本兵という対比で描かれることが多く、日本との戦争は早く終わると考えていた国民も少なくなかった。
 しかし、シャーロッドはこの前年、2つの戦場で日本兵の衝撃的な姿を目の当たりにしていた。その経験が、彼の日本人観を大きく変えていく。
 目撃した自決 「西洋人の心では理解しがたい」
 34歳だったシャーロッドが初めて日本兵と対峙したのは、1943年5月の「アッツ島の戦い」だった。北太平洋アリューシャン列島の一角をなすアメリカ領の島で、ここを占領した日本軍から島を奪い返す作戦だった。
 アッツ島に上陸した米軍
 アメリカ時間5月11日(日本時間の12日)、アメリカ軍は1万人を超える兵力で上陸し、日本軍の守備隊2600人を追い詰め、大部分を壊滅させていった。勝敗はもはや明白だった。日本軍には援軍も補給も来ず、まもなく戦闘は終結するかに思われた。しかし…。
 シャーロッドの原稿
 「逆上し、やり場のない気持ちを抱えた800から1000名のジャップ(原文ママ)が狂ったように支離滅裂な言葉を吐きながら軍刀と旗を振りかざしながら突撃し、死んでいった」
 「そればかりでなく、500人以上と推測される多くのジャップが自害した。まだアメリカ人を殺すことができたかもしれないのに、自らの腹部に手りゅう弾を押し当てて内臓を吹き飛ばして死んでいった」
 「大量のグロテスクな死体を見て、動揺した若い将校が言った。『これは正常な軍務じゃない』」
 アッツ島 日本軍が最後の突撃をしたとされる場所
 上陸から2週間以上たった5月28日(日本時間の29日)、アッツの戦いは終わった。生き残っていた日本兵100人ほどが、わずかな武器を手に、死を覚悟の上でアメリカ軍に総攻撃をしかけてきたのだ。
 5月31日の原稿
 「島に残っているほとんどすべての日本人が団結し、自分たちが死ぬ前にできるだけ多くのアメリカ人を殺そうと、最後の決死の努力をした。この狂信の結果は想像を絶するものであった。少なくとも半数の日本人が自殺している。その暴力的な光景は、西洋人の心では理解しがたいものである」
 日本軍・アッツ島守備隊2600人のほぼ全員が戦死した
 日本兵の心のうちを探る
 シャーロッドの目には「死に固執している」と映った日本兵。一方で、別の一面も記録している。負傷してアメリカ軍に捕らえられた日本兵の姿だ。
 「食事が与えられ、暖かい衣類も得られると知って、多くの捕虜が喜んでいる――感謝の気持ちがかなりあふれ出ている。大尉が『あなたはアメリカの戦争捕虜であるから、国際法の定めに従い最良の扱いを受けることになる』と言うと、一人のずんぐりとした小さなジャップが、飛び上がって敬礼し、満面の笑みを浮かべ、自分を捕らえた兵士らにしつこく握手を求めた」
 「ほとんどの人は、生きていてよかった、と思う普通の人である」
 突撃や自決を繰り返す日本兵と、食事に歓喜する日本兵。その乖離にシャーロッドは関心をひかれたようだ。
 アッツ島でのシャーロッド
 アメリカ軍は、日本側の機密情報や士気を探るために、日本兵の日記を収集して翻訳していたが、シャーロッドも熱心に読み込んでいる。そして、不平や不満が記されていないことに驚いている。
 「あらゆるみじめさや失望の中で、日本人は不平を言わないのだ。ジャップは『いったいどうして増援をよこさないんだ』とか『また大失態だ。この凍てつく塹壕の中で食料も毛布もない』とは言わない」
 「自分の頭で考えられることを示す証拠すら見せない。上官に対して決して声を荒げたりしない。なぜならそれは確立された権威に逆らうことになるからだ」
 シャーロッドは「ジャップ」という差別的な言葉を用いて、日本人を「だまされやすく、ひたむきな小さな兵士」と表現している。
 そして、こう記している。
 「ジャップを制圧するのはたやすいことではない」
 恐怖のタラワ
 アッツ島の戦いを目撃し、日本兵の姿を伝えようとしたシャーロッドだったが、その思いを十分に果たすことはできなかった。検閲によって、日本兵の日記に関する部分は削除され、原稿が掲載されたのは1か月後。その間に、アッツ島での大勝利が報じられ、シャーロッドの記事は埋没してしまったのだ。
 検閲で切り取られたシャーロッドの原稿
 その一方で、アメリカ政府も国民の対日戦への危機感の薄さに懸念を持っていた。軍需産業ではストライキが起き、戦争継続の資金集めのために発行した公債も、思うように売れていなかったのだ。そこで国民の意識を変えようと、戦場でのアメリカ兵の奮闘を積極的にメディアで報道する方針を打ち出す。そして1943年11月、シャーロッドは再び、海兵隊を中心とした大規模な作戦に同行できることになった。
 作戦の舞台は、赤道近くに浮かぶ小さな環礁、タラワ島。日本が4601人の守備隊を置いて占領していた。
 この戦いが、シャーロッドの、そしてアメリカ国民の対日観に大きな影響を与えることになる。
 アメリカ軍に爆撃されるタラワ
 アメリカ軍が1万8600人の兵力で島に押し寄せたのは、11月20日(日本時間21日)。上陸に先立って艦砲射撃と空からの爆撃で日本軍の陣地を攻撃した。爆撃の炎は百数十メートルもの高さまで噴き上がったという。
 船上で見ていたシャーロッドは、「このような砲撃を受けて生きていられる人間は1人もいないだろう」と記している。しかしその油断が、のちに「恐怖のタラワ」と言われる惨劇を引き起こす。
 11月22日の原稿
 「水陸両用車から水中に飛び込んだ。それは首まである深さだった。その時、我々は機関銃の集中砲火を浴びせられることになる。何百発もの銃弾が飛んできた。ジャップは死んでいなかったのだ」
 水陸両用車はサンゴ礁のために足止めされ、アメリカの兵士たちは浅瀬を歩いて海岸に渡るしかなかった。水中の兵士たちは格好の標的となった。日本兵は地下に堅牢な陣地を築き、爆撃を生き延びていたのだった。
 多くの死傷者を出しながら、アメリカ軍は上陸を果たしたが、日本軍は頑強に抵抗した。
 上陸1日目
 「5分ごとに数十人の海兵隊員は殺されるか負傷していた。ジャップの狙撃兵はヤシの木の上に隠れるか、土で覆われたヤシの丸太の下に用心深く隠れていたため、ほとんど姿を見ることはなかった。要塞の隙間や、浜辺の後方から機関銃が米兵に掃射された。中尉は『やつらの姿が見えないのに、いったいどうやって撃ったらいいんだ』と歯ぎしりした」
 上陸2日目
 「朝、干潮になると悲惨な光景があらわになった。サンゴ礁の干潟にアメリ海兵隊員たちが横たわっていたのだ。ある者はグロテスクに身を丸めていたが、みんな前に突撃している姿で倒れていた。ある者は赤道直下の輝く太陽に向かって腕を広げて倒れていた。この島の海兵隊を指揮している、巨漢で恐れ知らずの、首の太いデビッド・シャウプ大佐は、冷静にこういった。『我々は大変な窮地に立たされている』」
 アメリカ軍にも多くの死傷者が出た
 2日目の午後から徐々に形勢が逆転した。日本の陣地をアメリカの援軍が空から爆撃し、上陸した戦車が至近距離から1つ1つ破壊、火炎放射器で焼き払っていった。
 やがて日本軍の敗北は明らかになった。しかし、日本兵爆雷を抱えて戦車の下に飛び込み、ひとりでも多くのアメリカ兵を道連れにしようとした。そして、シャーロッドはアッツ島と同じ光景を再び目にすることになる。
 11月24日に書かれた原稿
 「ジャップの反撃は3日目の晩に島の後尾で始まった。この戦闘終了後、300名ほどのジャップの遺体が列をなし、積み重なって残された。2人の将官は、多数のジャップが手りゅう弾や小銃で自殺した様子を目にしたという。自殺の総数は数百にのぼるとみられる」
 この戦いで、4601人の日本軍はほぼ全滅、一方のアメリカ側も1000人以上の死者を出し、2000人以上が負傷した。凄惨な戦いを目にしたシャーロッドは、ある結論を書いている。
 「日本人はここで殲滅(せんめつ)しなければならない。やつらが我々の子供たちに二度と立ち向かえないように。その過程で何十万人ものアメリカ人が死ぬかもしれない。しかし、それが唯一の方法だ」
 タラワの戦いを経てシャーロッドの言葉は激しさを増していった
 アメリカ国民が抱いた憎しみ
 タラワの戦いは、戦場のアメリカ兵の姿を積極的に伝えるとの政府の方針のもと、撮影スタッフが同行し悲惨な戦闘の一部始終を映像で記録した最初の戦場だった。しかし、想定外の犠牲が出たため、どこまで公開するのかアメリカ政府は対応に苦慮する。
 シャーロッドは、ルーズベルト大統領に直接意見を求められている。
 12月28日 上司への手紙
 「大統領は『このタラワの映像をどう思うか』と言った。彼はこう付け加えた。『かなりむごたらしいんだ。遺体がたくさん写っている』。私は当たり前のこととしてこう答えた。『戦争はむごたらしいものですよ、大統領』。そして、『公表するべきでしょう』と言った」
 1944年3月、タラワの戦いを記録したフィルムが、ドキュメンタリー映画「With the Marines at Tarawa」として公開された。そこには、砂浜に横たわる無数のアメリカ兵、焼けただれた遺体が映し出されていた。
 あるアメリカ市民はこう語っている。
 アメリカ市民の声
 「アメリカ兵の遺体が波間に浮かんでいる。私たちはただただ打ちのめされた。日本人への嫌悪感は激しいものとなり、ジャップを殺さなければならないと思うようになった。私たちは戦争を終わらせなければならない」(Geoffrey C.Ward,Ken Burns「The War:An Intimate History,1941-1945」)
 タラワ島の戦いを記録した映画でアメリカ兵の遺体の映像が初めて映し出された
 その後シャーロッドはサイパン島の戦いにも従軍し、日本兵ばかりでなく一般市民までもが投降せず死を選ぶことに、改めてショックを受けている。
 「戦いの果てにアメリカ人が見たものは、気が遠くなるような、とても信じ難いものだった。理解するためには、人間の思考プロセスに関する西洋人の概念をすべて捨て去らねばならなかった。サイパンの最北端で、日本の民間人の大部分が平然と、意図的に自殺していた。数百人、あるいは数千人の人間が、日本人が愛情を込めて言う「天皇の盾」として死ぬことを選んだのだ」
 そしてシャーロッドは、特攻隊による自爆攻撃を目撃、硫黄島の戦い、沖縄戦にも従軍し、日本人の姿を伝え続けた。
 この間、アメリカ国民にとっての日本人は、「ちっぽけで弱い」存在から「滅ぼすべき存在」へと変わっていった。
 シャーロッドの思いは?
 日本人を、理解できない殲滅すべき存在として描きだしたシャーロッド。それが戦時報道の一翼を担った彼の役割だったのかもしれない。一方で、日本兵を尋問した将校に話を聞き、日本兵の日記を読み込む姿からは、取材者としての姿勢も感じ取れる。
 シャーロッドは太平洋戦争の終結後も、日本との関わりをもちつづけた。アメリカなどの占領を経て、日本が独立を回復した1952年、特派員として東京で暮らし始め、焼け野原から復興する姿や、物価の高騰などを取材した。1994年に85歳で亡くなっている。
 シャーロッドの思いに迫りたいと、アメリペンシルベニア州に暮らす次男を訪ねた。
 次男 ロバート・シャーロッド・ジュニアさん(83歳)
 父の名前を継ぐ次男は、父親と目元がよく似ていて、「コンニチハ」と日本語で出迎えてくれた。10代のとき、父とともに家族で東京に暮らしていたのだ。
 父から太平洋戦争について聞いた記憶はほとんどないという。一方で、記者という仕事に対する強いこだわりを感じ取っていた。
 次男 ロバート・シャーロッド・ジュニア
 「父は、本物の記者になりたかったのだと思います。『多くの記者は、実際に起こっていることを体験しない。でも、アメリカ兵のことを書くのであれば、彼らと同じ経験をしなければならない』と言っていました。『ありのままを伝えること』―これが、父にとってとても重要なことでした。家庭でもそうで、私が何か大げさに言ったりすると、叱られたものです」
 シャーロッドは、日本人をどうとらえていたのか。そう尋ねると、少し意外な答えが返ってきた。
 次男 ロバート・シャーロッド・ジュニア
 「父は、日本のある言葉についてよく話していました。『義務はとても強いが、死は羽よりも軽い』と(軍人勅諭にあった『義は山嶽よりも重く 死は鴻毛よりも軽し』を指すと思われる)。彼がよくそう言っていたのを覚えています。アメリカ人にとっては生きることがとても大切ですが…。
 ただ、私が言えるのは、任務に対して強い思いを持つ日本人と、父自身も少し似ていたのではないかと思います。私はそれがあまり好きではなかったけどね。父が日本人を嫌っていたとは思いません。ただ、真実を伝えたかったんです」
 真実を伝えたいと願い、戦場の現実を記録しつづけた記者、ロバート・シャーロッド。彼の書き残したものをたどると、理解しがたい存在が、憎しみの対象へと変わっていく人間の心理が見えてきた。それは、80年たった今も世界中で起きていることと変わらないのかもしれない。
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