🎺20:─2─「落下傘降下中の敵搭乗員を撃つ」事は世界戦争の常識で戦争犯罪ではなかった。~No.111No.112 

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 2024年2月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「零戦」は「ゼロセン」とは読まないという指摘が、じつは「的外れ」だと言えるワケ
 私はこれまで、30年近くにわたって元日本海軍を中心に、戦争体験者や遺族へのインタビューを重ね、一次資料を蒐集し、あるいは目を通して、何冊かの本を上梓してきた。このことが縁となって、テレビ番組や映画の考証、監修を依頼されることが時々ある。そこで得た知見は次の書籍にフィードバックすることもあるし、『マネー現代』に寄稿する記事にもそんな要素を散りばめているけれど、このへんで「考証的な豆知識」をシリーズで紹介してみたいと思う。
 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
 第1回の今回は、記事を書くたびに「誤解」に基づいたご指摘やお叱りを受けることが多い事柄についてである。
 事実を正確に伝える
 昭和18年6月16日、ブーゲンビル島ブイン基地を発進する第五八二海軍航空隊飛行隊長・進藤三郎少佐乗機の零戦二二型甲
 私の旧知の、NHKで唯一人の時代考証担当シニアディレクター・大森洋平氏の名著『考証要集』によると、ドラマの時代考証とは〈「よりリアルに見せるため、フィクションに磨きをかける」〉もの、ドキュメンタリーにおける時代考証は〈「事実を正確に提示するため、不純物を取り除く」〉作業で、両者に共通するその究極の極意は、「へんなものを出さないこと」だという。
 「へんなもの」の例として、同書には〈昭和三〇年代を描いたドラマがどんなに感動的でも、その時代にない「立ち上げる」という言葉や、スマートフォンが出てきたら芸術祭で物笑いのタネになるだけです。〉と書かれている。また、〈白菜【はくさい】〉の項目には、〈白菜は日清戦争後に帰還兵が中国から種を持ち帰り、仙台市付近で栽培を始めたのが最初である。時代劇では絶対に使ってはならない。〉とある。白菜は江戸時代の日本にはなかったのだ。
 考証は、けっして表にでてはいけない裏方だが、ドラマにせよドキュメンタリーにせよ、名作と呼ばれる作品は考証がしっかりしている。いや、考証を疎かにした作品に名作はない、と言い切っても過言ではあるまい。これは文字で紡ぐ書籍の場合にもそのまま当てはまる。もっとも、チームで動く映像作品と違い、書籍の場合は著者が考証作業も兼ねなければならないことがほとんどなのだが。
 ただ、どれほど正確を期しても、読者から思わぬ批判やお叱りを受けることがある。今回はそのことについて、いくつか具体例を挙げて紹介しよう。
 「マネー現代」(「現代ビジネス」)に寄稿した記事は、たいていYahoo! ニュースに転載されるから、さまざまな匿名コメントがつく。また、SNS上で話題になったり、ときに私のSNSに直接意見が届くこともある。好意的な意見はもちろんありがたいし、事実を踏まえた上での指摘やお叱りの声も傾聴に値する。だがなかには、誤解や認識不足をもとにした意見もけっこうあって、「そうじゃないのにな……」と思うことも多い(これは紙の本でも同じ)。ネットの常として、匿名を隠れ蓑にした批判のための批判や罵詈雑言、なぜか間違った知識で自信満々にマウントをとってくるような例もあるが、そういうのは見る価値もないので淡々と非表示にするか、酷いのは通報してブロックしている。
 このなかで悩ましいのが、「誤解や認識不足をもとにした」そうじゃないのにな、という意見だ。そうじゃないと伝えたくても伝える手段がないことがほとんどだからだ。
 たとえば、零戦搭乗員のことを書くとする。私は零式(れいしき)艦上戦闘機、すなわち零戦を「ゼロ戦」と表記するのは邪道だと思うからしないが、ときに「ぜろせん」とルビを振ることがある。すると必ずと言っていいほどクレームがくる。曰く、「零の字にゼロという読み方はない」「零戦は『れいしきかんじょうせんとうき』だから『れいせん』が正しい」「ゼロというのは英語で敵性語だから使われたはずがない!」……など。3つめの「敵性語」の指摘は論外だから無視していいが、前の2つの意見は一応理屈としては通っている。でも「そうじゃない」のだ。
 よく知られたことだが、「零式」とは、制式採用された昭和15(1940)年が神武紀元2600年であったことから、その末尾の0をとって名づけられた名称である。「零戦」はその略称だが、旧海軍の公文書を読むと、制式採用直後には「零式」とも呼ばれている。
 「零式艦上戦闘機」の略称が「零戦」だから、その読み方は当初、もちろん「れいせん」だった。だが、太平洋戦争が始まり、米軍が「Zero Fighter」などと呼ぶようになると、捕虜の尋問で「Zero」という単語が出てくるようになる。
 これについては、昭和18(1943)年6月30日に戦死した大野竹好中尉が、死の直前まで書き綴った手記にも、
 〈敵は我が海軍の零式戦闘機をzero fighterと称して悪魔の如く恐れている。かつてニューギニアで撃墜されたボーイングB-17の搭乗員の一人を、捕虜として私が訊問したことがある。
 “I saw two Zeroes!  And next second,I found myself in the fire.They were the angels of the hell to us.”
 と、彼は戦慄しながら語った。〉
 との記述がある。そしてこの頃から、前線の部隊で「ゼロセン」読みが広まったようなフシが窺える。当時、ラバウルにいた複数の元搭乗員の話を合わせると、「レイセン」派のなかに「ゼロセン」派が徐々に台頭してきたようだ(参謀などの私的なメモには、もっと早い時期から「0戦」と略した表記があるが、あくまで搭乗員の口語としてである)。
 昭和18年10月6日、第二五二海軍航空隊の零戦隊がウェーク島に来襲した米海軍の新鋭機、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機と初めて対戦し、6機撃墜の戦果と引き換えに歴戦の搭乗員19名を失った。11月末、二五二空飛行隊長・周防元成大尉が、飛行機便に託して横須賀の海軍航空技術廠飛行実験部員(テストパイロット)・志賀淑雄大尉に送った手紙には、
 〈相手は新手、おそらくF6Fと思われる。速力、上昇力ともに手強い相手だ。ゼロではもうどうにもならぬ。次を急いでくれ。〉
 と、はっきり「ゼロ」と書かれていた。大戦末期になると、古い搭乗員は「レイセン」読みのままだが、それでも実戦部隊でかなり「ゼロセン」読みが広がった様子が、当事者の話から伺える。特に大学、専門学校から海軍に身を投じ、大量養成された飛行専修予備学生13期の人に「ゼロセン」と読む人が多かった。
 大戦末期、すでに「ゼロセン」読みが一般化していことを物語るのが、昭和19(1944)年11月23日、朝日新聞一面を飾った〈覆面脱いだ『零戰』『雷電』〉と題する解説記事だ。これは11月21日、九州上空で第三五二海軍航空隊の零戦局地戦闘機雷電(らいでん)が多数のB-29を撃墜したという記事につけられた解説だが、そこには次のように書かれている。
 〈この戰闘に参加した海軍新鋭戰闘機『零式戰闘機』および最新鋭戰闘機『雷電』の名前が初めて公にされた。『零(れい)式戰闘機』は荒鷲たちからは『零戰(ゼロセン)』と呼び親しまれてゐる。大東亜戰開戦前既にその俊秀な姿を現はしてゐたが、その真価を發揮したのは開戦以来で、緒戦このかた太平洋、印度洋各戦域に海軍戰闘機隊の主力として無敵の活躍を続けてゐることは周知の通りである。
 旋回性能、火力、速力の優秀は敵の各種戰闘機に対し卓越してをり、殊に第一線の敵米航空部隊の搭乗員達は零戰と会へば必ず墜されるといふので『地獄への使者』とあだ名をつけてゐた。又敵は零戰を『ゼロ・ファイター』と呼んでゐるがその呼称が非常に神秘的な響きがあり、底知れぬ威力と相まって敵国民に畏怖の情を湧き起してゐたのである。〉
 記事にあるように、制式採用から4年以上経って初めて、海軍は「零戦」の名前を公表した。注目すべきは、「零式戦闘機」の「零」には「れい」とルビを振っているのに、「零戰」にわざわざ「ゼロセン」とルビをふっていることである。「零戰」は「レイセン」か「ゼロセン」か、戦後長い間、当事者でさえ意見の分かれるところだったが、要するにどちらとも呼ばれていたことが、これでわかる。
 私がこの30年近く、数百名の元零戦搭乗員から聞きとった限りでは、「れいせん」「ぜろせん」読みが混在していて、なかには、「はて、どっちだったかな……と考え出したら眠れなくなった」という人もいた。大雑把な傾向からいうと、「戦前に搭乗員になった年次の古い人は『レイセン』が主」「開戦後に搭乗員になった比較的若いクラスの人は『レイセン』『ゼロセン』が混在」「大戦末期に搭乗員になった、特に予備学生出身者は『ゼロセン』の方が多い』となる。
 戦後、全国の零戦搭乗員の生き残りが集い、結成された戦友会「零戦搭乗員会」も、読み方は「ぜろせんとうじょういんかい」で、これは「零戦搭乗員会」をいまに引き継ぐ「NPO法人 零戦の会(ぜろせんのかい)」も同様である。
 ――というわけで、「零戦」に「ぜろせん」とルビを振るのは80年前から行われていて間違いではないから、このことで苦情は寄越さないでいただけると助かる。
 それと念のため、零戦の型式名、「二一型」「五二型」は「にいいちがた」「ごおにいがた」であってけっして「にじゅういちがた」「ごじゅうにがた」ではないのでお間違いなく。
 次に、「落下傘降下中の敵搭乗員を撃つ」ことの是非について。
 元搭乗員の回想に基づく空中戦闘のシーンでは、被弾して飛行機から脱出、落下傘降下している敵搭乗員を撃った(あるいは逆に、落下傘降下中に撃たれた)というエピソードが時々出てくる。
 たとえば、昭和15年9月13日、重慶上空で、零戦13機が中華民国空軍のソ連製戦闘機30数機と戦った、零戦のデビュー戦。この戦いに参加した岩井勉二飛曹は、
 「1機のE-15に狙いを定めて攻撃に入ろうとしたが、その敵機は別の零戦が一瞬早く撃墜してしまった。仕方なく、墜ちる敵機から飛び出した落下傘に一撃をかけると、別の敵機を求めて空戦圏に戻った」
 と回想している。ところがこのことを書くと、鬼のように否定的な反応をし、苦情を言うする人がこれまでに少なからずいたのだ。
 「抵抗力を失った敵の搭乗員を撃つような武士道に悖る卑怯な真似を、日本人がするはずがない」
 というのが、それらに共通する言い分だが、これはハッキリと間違っている。
 現在、飛行機を捨て緊急脱出したパイロットを撃つことは、国際的な戦争法や捕虜、非戦闘員の扱いを定めたジュネーブ条約で禁止されている。だが、その条文が追加されたのは1977年のことだ。
 それ以前、支那事変でも太平洋戦争でも、敵味方ともに落下傘降下中の敵搭乗員をバンバン撃った実例があるし、そのことで「卑怯者」呼ばわりされたり責められたりすることはなかった。当時の実戦部隊の一般的な解釈では、
 「落下傘降下中、あるいは漂流中の敵は投降しておらず捕虜ではないから撃ってもよい」
 だったのだ。明らかに投降の意思を示していれば話は別だが、現に落下傘降下中を敵機に撃たれたとか、漂流中に米軍機や米艦から機銃掃射を受けたという例は枚挙にいとまがない。落下傘降下して近くの海面に着水した日米の搭乗員が、互いに拳銃を向け威嚇し合ったという例もある。
 むしろ、「手負いの敵は、生きて帰せばそのぶん強くなってまた来るから、確実にとどめを刺すべき」という考え方さえあった。
 いま、私の手元にある『重慶上空ノ空中戰斗(せんとう)ニ依ル戰訓(第十二航空隊)』と題する、航空隊幹部と参加搭乗員の座談形式で纏められた当時の公文書によると、空戦の翌九月十四日、十二空で行われた戦訓研究会で、岩井二空曹は、落下傘降下する敵を射撃したことについて
 〈落下傘降セルヲ射撃セルガ其ノ良否如何〉
 とその正否を質問し、戦闘機分隊長・横山保大尉から、
 〈昨日ノ場合ハ他ニ未ダ目標ガアルトキニ之ヲ撃ツベキデハナイ 又落下傘射撃ハ距離速力差ノ判定困難デアルカラ余リ之ヲ射ツコトハ感心スベキ事ニアラズ〉
 つまり、
 「昨日の場合は、他にまだ攻撃目標があるので撃つべきではない。落下傘は距離速力の判定が困難であるから、これを撃つことは感心できない」
 と注意を受けた。落下傘降下中の敵兵を撃つこと自体はかまわない。だが、それに気をとられて無駄な弾丸を使ったり、別の敵機につけ入られる隙ができることを横山大尉は心配したのだ。武士道がどうとか、人道的にどうなどとはひと言も言っていない。
 ではどうして、支那事変や太平洋戦争で「落下傘降下中の敵パイロットを撃つことが卑怯」というイメージの「刷り込み」ができてしまったのか。
 ――これは、ベストセラー小説の「考証的に間違った描写に基づく誤解」、というのが私の解釈である。具体的な作品名を挙げると『永遠の0』(百田尚樹著)。このなかに、
 〈奴は落下傘で降下中の米兵を撃ち殺したのだ。場所はガダルカナルだ。奴自身が空戦で墜としたグラマンから落下傘降下した搭乗員を機銃で撃ち殺したのだ。有名な話だ。(中略)
 その話を聞いた時は虫唾が走った。海軍軍人の風上にも置けない奴と思った。
 空戦は敵機を撃墜した時点で勝負はついている。米搭乗員は確かに敵だが、既に乗機を失ってい落下傘で逃げるだけの男を殺す必要があるのか。戦場でも武士の情けというのはあるだろう。(後略)〉
 という記述がある。この小説は一人の元搭乗員にも会わずに書かれたという。このことは刊行当時、著者の百田氏から直接聞いているし、それではマズかろうというので零戦搭乗員の忘年会に呼んだり、映画化の際は私が戦時考証を担当したりもした。
 間違っている旧海軍の階級呼称
 昭和17年11月1日、海軍の下士官兵の階級呼称が変わり、右肘の階級章や左肘の特技章(専門技術を身につけた証のマーク)、下士官の帽章のデザインが変わった
 誤った記述はそれだけではない。主人公の祖父が沖縄へ特攻出撃するのが広島、長崎への原爆投下後、などはその最たるものだ(じっさいには沖縄陥落が明らかになった6月22日で鹿屋基地からの組織的特攻は終わっている。映画では修正)。
 巻末に〈この作品はフィクションです。実在の組織、人物とは一切関係がありません。〉と書かれていても、現に実在の組織や名前は随所に出てくる。ベストセラーとなればなおのこと、そこに書かれたことがほんとうだと信じてしまう人が一定数いるのは避けられないだろう。現に、私が「落下傘降下中の敵搭乗員を撃った話」を書いて苦情がくるようになったのは、この本が文庫化された頃からだ。多くの読者にとっては、物語が感動的であればあるほど、たとえディテールにウソが入ってもそれをそのまま信じてしまうのは理解できる。だが、ノンフィクションをフィクションを基にした価値観で批判されるのは釈然としない。
 そういうわけで、ここでは「太平洋戦争中に落下傘降下中の敵搭乗員を撃つのは敵味方ともにしばしば行われていた」という事実を申し上げて、これからはこのことで苦情は寄越さないでくださいね、とお願いしておく。
 (ただし、敵が戦闘能力を完全に喪失して、漂流者が捕虜になるのが明白な場合、昭和17年3月、スラバヤ沖海戦で撃沈した敵艦の乗組員を日本の駆逐艦「雷」「電」が救助した例や、同年6月、ミッドウェー海戦で沈没直前の空母「飛龍」から脱出、15日間にわたって海を漂流していた乗組員たちを米軍が救助したような例はある)
 それともう一つ、「思い込み」で気になるのが、旧海軍の階級呼称について。下士官兵の階級呼称には変遷があり、時期によって書き分けているが、たとえば支那事変中の話で私が書いたことを、「コイツは間違っている。『空曹』は自衛隊の階級。海軍では『飛曹』と呼ぶ」などと鬼の首をとったような調子で批判してくるコメントがたまにある。これは100パーセント、そのコメントが間違っている。
 支那事変から太平洋戦争にかけて、海軍の下士官兵搭乗員には二度の大きな階級呼称の変更があった(一度めは准士官も)。昭和17年11月からは官職区別章(階級章)と制帽の帽章も改定されている。
 階級呼称の変遷は、文章にするとややこしいので一覧表にしてみよう。
 昭和4年5月10日より
 昭和16年6月1日より
 昭和17年11月1日より
 参考・陸軍
 兵
 海軍四等航空兵(四空)
 海軍三等航空兵(三空)
 海軍二等航空兵(二空)
 海軍一等航空兵(一空)
 海軍四等飛行兵(四飛)
 海軍三等飛行兵(三飛)
 海軍二等飛行兵(二飛)
 海軍一等飛行兵(一飛)
 海軍二等飛行兵(二飛)
 海軍一等飛行兵(一飛)
 海軍上等飛行兵(上飛)
 海軍飛行兵長
 二等兵
 一等兵
 上等兵
 兵長(昭和15年より)
 下士官
 海軍三等航空兵曹(三空曹)
 海軍二等航空兵曹(二空曹)
 海軍一等航空兵曹(一空曹)
 海軍三等飛行兵曹(三飛曹)
 海軍二等飛行兵曹(二飛曹)
 海軍一等飛行兵曹(一飛曹)
 海軍二等飛行兵曹(二飛曹)
 海軍一等飛行兵曹(一飛曹)
 海軍上等飛行兵曹(上飛曹)
 伍長
 軍曹
 曹長
 准士官
 海軍航空兵曹長(空曹長)
 海軍飛行兵曹長(飛曹長)
 海軍飛行兵曹長(飛曹長)
 准尉
 たとえば、昭和15年9月13日の零戦初空戦に参加した「二空曹」は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加した「二飛曹」と同等の階級で、さらに昭和18年ガダルカナル島攻防戦に参加した「一飛曹」とも同格である。
 これは、旧海軍の人でさえ、たとえば大戦末期に飛行学生を卒業したクラスなど、支那事変以前に下士官搭乗員が「空曹」と呼ばれていたことを知らないことが多かったから、現代の読者がご存知ないのは仕方がない。ただ、「知らない」ということは「なかった」とイコールではないから、「海軍では『空曹』なんて言ってない。この著者はものを知らない!」などとコメントするのはやめていただきたい。
 ちなみに、士官(旧日本海軍では兵科、機関科の正規士官のみを「将校」と呼ぶ)は、原則として以下のとおり。これは基本的に変わらないが、たとえば兵から累進した士官は「特務士官」と呼び、昭和17年10月31日までは「飛行特務少尉」のように呼ばれた。
 尉官
 佐官
 将官
 少尉
 中尉
 大尉
 少佐
 中佐
 大佐
 少将
 中将
 大将
 それから、表記に対するクレームで目立つのが、中華民国空軍が使用し、日本軍と戦ったソ連製戦闘機、ポリカルポフИ-15、И-16についてである。「И」はローマ字の「I」に相当するから、戦後の日本ではI-15、I-16という表記が幅を利かせている。だが、旧日本海軍の公文書にも、台湾で取材した中華民国空軍の当時の資料にも、E-15、E-16と表記されている(ハイフンは省くこともある)。「И」を「イー」と読む発音に基づくものだろうが、交戦国がともにE-15、E-16と呼んでいたのだから、E-15、E-16の表記でいいじゃないか、というのが私の考えである。もっとも最近では、面倒を避けるため、(本来はИ-15、И-16だが、日中両軍ともにE-15、E-16と呼んだ)と注釈をつけるようにはしている。
 ――以上、今回はおもに、本や記事を書いたときに「誤った指摘」に悩まされることが多い事柄を取り上げた。
 これから何度か、こんどは愚痴ではなく戦争ものの本を読んだり書いたりするときに役立ちそうな考証的な豆知識を、シリーズにして紹介しようと思う。
 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
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