☂43:─1─流血内ゲバ。映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」。昭和47年。~No.138No.139 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 過激派マルクス主義者は、残忍で流血を好む。
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 日本、日本人の中にも、虐殺を正義として活動する非人道的過激派テロリストがいるし、現代社会にも潜み、協力している日本人が政治的エリートと進歩的インテリ、エセ保守とリベラル左派、メディアと教育、文化マルクス主義者の中に少なからず存在している。
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 革マル派は、労働運動や大衆運動に積極的に取り組み、組織の維持、拡大を図りました。
 中核派(党中央)は、労働運動を通じて組織拡大を図る「階級的労働運動路線」を進めながら、各種闘争に取り組みました。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達として、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 2024年5月26日 YAHOO!JAPANニュース 水上賢治映画ライター「なぜ、彼はリンチされ殺されなければならなかったのか?当事者が一同に口を閉ざす闇の真相を求めて
 「ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~」より
 映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」は、いまから約50年前に東京都の早稲田大学構内で起きた「川口大三郎リンチ殺人事件」に焦点を当てる。
 殺害された川口大三郎さんは当時まだ20歳。早稲田大学第一文学部二年生のごく普通の学生だった。
 学生運動終末期に起きた事件のあらましはこうだ。
 1972年11月8日14時ごろ、文学部自治会を牛耳り、早稲田大学支配を狙う新左翼党派・革マル派日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)が、川口さんを対立する中核派のシンパとみなし、早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室に拉致。約8時間にわたるリンチを加えて殺害し、その後、川口さんの遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄した。
 翌日の11月9日に遺体が東大で発見されると、昼過ぎに、革マル派が声明を発表。「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆した内容で、川口さんが内ゲバによって殺害されたことが判明する。
 川口さんの死因は「丸太や角材の強打によるショック死」で、遺体は打撲傷の跡は四十カ所を超え、全身あざだらけ。
 骨折した腕から骨が出ていたほど、変わり果てた姿になっていたという。
 だが、川口さんは学生運動や部落解放運動などに参加はしていたが、実際には中核派とほとんど無関係。つまりなんの理由もなく無関係の人間が、勝手な抗争に巻き込まれて、壮絶なリンチの末に殺害される理不尽な死だった。
 なぜ、なんの関係もなかった川口大三郎さんは殺されなければならなったのか?彼の死とは?
 ここを起点に本作は、学生運動終焉期に激化した「内ゲバ」に迫ろうとする。
 同じ革命を志す若者同士が激しく対立し、最後は殺し合いにまでエスカレートしていった「内ゲバ」について、当事者たちはいまだに堅く口を閉ざしている。100名以上が命を奪われながら、どういった内実があったのかほとんど語られていないという。
 これだけの死者が出ていて、何も語らないまま終わらせていいのか?川口さんはこのまま忘れられてしまっていいのか?
 このある種の隠蔽と無関心は、いまの日本社会が抱える問題にもつながっている気がしてならない。
 「内ゲバの真相」と「川口大三郎の死」と向き合った代島治彦監督に訊く。全六回/第一回
 「ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~」の代島治彦監督
 「内ゲバ」について作品を作ることはまったく考えていませんでした
 はじめに、『三里塚に生きる』『三里塚イカロス』『きみが死んだあとで』とここ三作品のドキュメンタリー映画で、代島監督は1960~1970年代の日本の政治闘争の時代と向き合ってきた。
 前作『きみが死んだあとで』の後、次回作でも再びこの時代と学生運動と向き合うと当初から考えていたのだろうか?
 「実は、前作の『きみが死んだあとで』を発表した後、政治闘争の時代、学生運動について描くことはこれで最後にしようと思っていました。本気で(苦笑)。
 もっと言うと、今回の『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ』のメインのテーマである『内ゲバ』について作品を作ることもまったく考えていませんでした。
 確かに、『きみが死んだあとで』は内ゲバに触れていないわけではない。元中核派幹部の赤松英一さんが、自身の片腕であった仲間の2人が内ゲバで殺されたことを話す場面があります。
 ただ、作品としては、そこまで内ゲバに触れていない。あくまで1967年10月8日、機動隊によって撲殺された京大生・山﨑博昭さんの死がまずあって。彼の死に直面した人間たちがどのような人生を送ったのかに主眼は置かれていました。そこを描いたことで自分の中では一区切りついたというか。政治闘争の時代を生きた人間たちの人生をきちんと描くことができたと納得できるところがあった。なので、このテーマは今回で終わりだと思ったんです。
 あともうひとつこういう思いもありました。『内ゲバは絶対にドキュメンタリーにならない、無理だ』と」
 「ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~」より
 「内ゲバ」については語らない。語りたがらない
 「内ゲバ」を無理と思った理由をこう明かす。
 「なぜかというと、革マル派の活動家にしても、中核派の活動家も、ほかの活動家も、彼らにかかわった人たちも、あるいは同時代を生きた人たちも『内ゲバ』については語らない。語りたがらない。
 そのことをある意味、物語っているのだけれど、『内ゲバ』をきちんと検証した本は出てない。
 これだけの命が奪われたわけだから、なぜこのようなことになったのか本来は検証しなければならない。
 でも、きちんと検証した本は出ていない。当事者たちはほとんど語らないできた。
 だから、僕がたとえば何か『内ゲバ』についての作品を作ろうとしても絶対無理だろうと。だって誰もしゃべらないのだからどうしようもない。こちらとしてはやりようがない。
 だから、無理だと思いました。
 それからもう一つは、『三里塚に生きる』『三里塚イカロス』『きみが死んだあとで』ができたのは、アーカイブ映像の存在が大きい。
 小川紳介監督の三里塚に関するドキュメンタリー映画をはじめ、そのことを物語るアーカイブ映像がいろいろと残されていた。
 それらの映像をうまく使うことで、作品を成立させられたところがある。
 でも、内ゲバに関してはアーカイブ映像がなにも残されていない。現場写真なんてもちろんあるわけがない。
 たとえば連合赤軍リンチ殺人事件であれば、あさま山荘での銃撃戦の映像など、テレビ局各局にアーカイブ映像が残っている。
 それから、どんなことが内部であってどんなことが起きたのか、リーダーだった森恒夫永田洋子坂口弘らが手記として書き残している。
 でも、内ゲバについては誰も語っていない。起きたことをきちんと書き残していない。無いものは描けない。
 また、僕は当時者ではない。学生運動が終わりを迎えたその後に、大学生になった世代だから、当時のことを当事者として体験はしていない。
 だから、僕の勝手な思い込みで『内ゲバってこういうことだったんじゃないか』と描いても、『資料だけでこんな映画を作りやがって』とか、『当時を何も知らないくせに』とか、絶対にものすごい反発を喰らうことになる。当事者の新左翼党派の元活動家や現役活動家からすごい非難を浴びることになる。
 だから、内ゲバに関しては無理だろうと思っていました」
 (※第二回に続く)
 「ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~」ポスタービジュアル
 「ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~」
 監督・企画・編集:代島治彦
 撮影:加藤孝信
 プロデューサー:沢辺均
 音楽:大友良英
 劇パート 脚本・演出:鴻上尚史
 劇パート出演:望月歩川口大三郎 役)、遠藤琴和(女闘士 役)ほか
 出演:池上彰佐藤優内田樹、樋田毅、青木日照、二葉幸三、藤野豊、永嶋秀一郎、林勝昭、岩間輝生、吉岡由美子、大橋正明、臼田謙一、野崎泰志、岡本厚、冨樫一紀、石田英敬
 公式HP:gewalt-no-mori.com
 ユーロスペースほか全国順次公開中
 写真はすべて(C)「ゲバルトの杜」製作委員会(ポット出版+スコブル工房)
 水上賢治
 映画ライター
 レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFFぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。
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 福岡県警察
 過激派とは?
1 過激派について
 (1)過激派ってなに ?
 過激派のデモ風景
 過激派は、「革命のため」と称して、爆弾や時限式発火装置を使用した凶悪なテロ、ゲリラ事件を引き起こし、平和で自由な社会を暴力で破壊・転覆しようと企てている極めて反社会的な集団です。
 過激派は、昭和32年に誕生して以来、火炎ビン等による街頭での武装闘争、連続企業爆破等の爆弾事件、過激派同士の陰惨な殺し合い(いわゆる内ゲバ)等の過激な行動を繰り広げてきましたが、現在でもその主義主張に変化はなく、暴力による革命を目指し、その機会を虎視眈々と狙っています。
 (2)どんな集団があるの ?
過激派は、その結成や信奉する理論等から、「中核派」、「革マル派」、「革労協」等様々の集団(セクト)に分かれており、その勢力は、昭和44年の約5万3,500人をピークに、その後減少したものの、現在でも約1万8,900人の勢力があると見られています。
 過激派秘密アジト発見にご協力を!!(3)へ「過去のテロ・ゲリラ事件」へ 
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 群馬県警察
 「非公然活動家」って何?
 掲載日:2022年8月1日 印刷ページ表示
 過激派は、「テロ、ゲリラ事件」、「内ゲバ事件」を引き起こしたり、自分たちの意見、理論にあわない団体や個人に対する盗聴などの調査活動を行っています。
 こうした違法行為を中心となって行うのが、「非公然活動家」なのです。
 非公然活動家は、
 爆弾等の武器の開発、製造
 攻撃対象等の調査
 テロ、ゲリラ、内ゲバの直接実行
 連絡、輸送、防衛
 など、それぞれの任務別に部隊が編成されていると言われています。
 また、人知れず様々な違法行為を行う必要があるために、過激派の集会やデモには姿を見せず、普通の市民を装い、偽名や他人名義でアパート、マンションを借り上げ、そこを拠点として生活しているのです。
 この非公然活動家を検挙することが、凶悪な事件、様々な違法行為の減少につながるのです。
 「非公然アジト」って何?
 非公然活動家は、日頃は善良な市民の仮面をかぶり、アパート、マンションなどに、勝手に他人の名前を使ったり、架空の人物の名前を使って入居して生活しています。
このような非公然活動家たちの拠点「隠れ家」となっている場所を「非公然アジト」と言います。
 本県においても、平成5年6月に中核派の「高崎アジト」を摘発しております。
 隠れ家といっても、人目につかない山奥や離島にある訳ではなく、私たちの生活している周辺にある普通のアパートやマンションの一室に「非公然アジト」はあるのです。
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 日本共産党 2010年3月27日(土)「しんぶん赤旗
 「革マル派」「中核派」とはどんな団体?
 〈問い〉 集会の会場付近で、「革マル派」とか、「中核派」などと名乗る団体をみかけましたが、どんな団体なのでしょうか。日本共産党とは関係があるのでしょうか。(東京・一読者)
 〈答え〉 「革マル派」とか「中核派」などと名乗る団体は、凄惨(せいさん)な「内ゲバ」事件などをおこしてきた反社会的な暴力・殺人者集団であり、日本共産党とはまったく関係がありません。
 最近の彼らの言動をみると、国際的な無差別テロを賛美し、テロリストへの支持・連帯という主張をさけんでいます。
 2001年にアメリカでおこった3千人近くの人命を奪った9・11同時多発テロについて、「画歴史的行為」(「革マル派」機関紙「解放」01年9月24日号)などとほめたたえ、テロ勢力との「連帯」までかかげてきました。
 日本共産党にたいしては、「テロ根絶」の主張について、口ぎたない悪口を投げつけてきました。
 彼らは、「革命」や「共産主義」などの言葉をかかげています。しかし、実際の役割は、国民の要求実現のたたかいと政治革新のとりくみを、暴力によって混乱させ、妨害することにあります。
 国民の期待と支持が日本共産党に集まることを恐れる支配勢力は、「共産主義」を掲げ、暴力行為をおこなう集団を、日本共産党とかかわりがあるかのように、反共宣伝に利用してきました。
  それは、反共右翼や警察がこうした集団に資金を提供してきたことや、警察が彼らの暴力行為を本気で取り締まろうとせず、「泳がせ」政策をとってきたことにも表れています。
 日本共産党は、彼らの暴力行為を、一貫してきびしく糾弾してきました。
 これらの集団が、「改憲阻止」などのスローガンをかかげて、憲法を守る人たちの運動の内部に入り込む策動をしていますが、民主勢力のなかでは、「統一行動の妨害団体」として、「共闘にくわえない」となっています。(坂)
 〔2010・3・27(土)〕
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 ウィキペディア
 内ゲバとは、内部ゲバルトの略。ゲバルト(Gewalt)はドイツ語で「威力、暴力」の意味で、同一陣営または同一党派内での暴力を使用した抗争のこと。
 一般的には、左翼党派内または左翼党派間、特に日本の学生運動や日本の新左翼党派間での暴力を使用した党派闘争を指す場合が多い。逆に機動隊などの国家権力(公権力)に対する暴力を用いた抗争は外ゲバ(そとゲバ)、同一セクト内の場合は内内ゲバ(うちうちゲバ)とも呼ぶ。
 概要
 国家権力の暴力装置(警察等)に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。
 日本では1950年に日本共産党が所感派と国際派に分裂して以降、日本の学生運動で両派のテロやリンチが頻発したのが始まりである。
 日本共産党(特に国際派の議会闘争路線)を否定して生まれた日本の新左翼が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に個人を拉致しリンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていった。また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。特に中核派革労協革マル派との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派中核派革労協の最高指導者を暗殺したことで、内ゲバは「戦争」状態となった。なお第四インターなどは内ゲバを否定し続けた。
 日本共産党は1955年(昭和30年)の六全協で、従来の武装闘争路線から、議会による平和革命を目指す方向に転換したため、その指導を受ける民青とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。選挙戦略の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた。
 犯罪白書によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名だが、2004年迄の死者3名を加えると死者100名である。内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認、活動資金確保を目的としたノックアウト強盗(内ゲバを装う)によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「誤爆」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が謝罪したケースはほとんどない。
 また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、公安警察が各セクトにその敵対者の所在情報を巧みにリークするなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、スパイとして潜入していた警察官もいたという。
 このように学生運動が凶暴化し、組織的な殺人を繰り返すようになってからは、社会主義共産主義に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずのスターリン主義の思想や、同志を大量虐殺した大粛清とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。なお最大の内ゲバ状態にあった中核派革マル派の抗争については両派トップの会談によって停戦状態になったとされているが、両派ともに公表していない。
 また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、覆面姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な捜査妨害、隠ぺい工作から、白昼に行われたり、機関紙で犯行を自認したような事件でも公訴時効が成立して犯人を検挙できなかった事件は少なくない。
 なお新右翼民族派)においても、スパイ粛清事件など少数ではあるが内ゲバ事件が発生している。
 内ゲバの原因
 内ゲバの原因としては、他派切り崩し、自治会の主導権争い、分派闘争があり、その背景として、各派は自派が唯一正しく、自派以外は有害で殲滅すべき革命の敵とする分派撃滅の思想があるという。とりわけ革マル派は、他党派解体を路線化し組織的・計画的に他党派にテロを仕掛けたため、新左翼内ゲバを広げることとなった。内ゲバによる犠牲者数は革マル派が突出して多い。 各集団は、内ゲバを、「革命闘争」「武装解放闘争の重大な萌芽」「日帝(日本帝国主義)に対する武装闘争の導火線」であり、革命達成に不可避の崇高な義務と位置づけ、正当化してきた。
 主な種類
 代々木系(日本共産党系)と新左翼
 初期の内ゲバの代表例。1968年から1973年の5年間で、内ゲバは1023件(死者 10名)発生し、約半数の488件が代々木系全学連新左翼系学生集団との抗争であった。
 中核派革マル派
 内ゲバの最も代表的な事例。死傷者数がその他の内ゲバよりも突出しており、両派ともに新左翼学生運動・大衆運動で新左翼のうち最大で拮抗していたことによる。両派はもとは同じ組織であったことも「内ゲバ」という現象を印象づけた。立花隆『中核vs革マル』でも知られる。
 1960年代の分裂後内ゲバが頻発し、1970年代に入り殺し合いの状態になり、全国の大学や職場、路上で内ゲバが繰り広げられた(東京教育大学生リンチ殺人事件、関西大学構内内ゲバ殺人事件、川口大三郎事件、琉球大学内ゲバ誤認殺人事件等)。特に1975年に革マル派中核派の最高指導者を殺害(中核派書記長内ゲバ殺人事件)以降は、中核派革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(川崎市女子職員内ゲバ殺人事件等)。
 1990年代に入って、両者の内ゲバは次第に沈静化し、21世紀になると労働組合や市民団体などの大きな集会で中核・革マル両派が並んで穏やかにビラを配る光景も見られるようになった。革マル派公式Webサイトでの中核派等批判ページ「謀略粉砕・走狗一掃」は2004年を最後に更新が無く、中核派公式Webサイトでの革マル派批判ページ「カクマル批判アーカイブ」は2017年を最後に更新が無い。1990年代初めに中核・革マル両派最高幹部が内ゲバ終結で手打ちしたとも言われるが、真相は不明。
 革労協(解放派)と革マル派
 東京大学早稲田大学の拠点ヘゲモニー争いから始まった内ゲバは、1970年代に入り殺し合いの状態となる。1977年 革マル派による革労協の最高指導者殺害(革労協書記長内ゲバ殺人事件)以降は、革労協革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(浦和車両放火内ゲバ殺人事件等)。
 革労協の内内ゲバ
 1989年 社青同解放派革労協)は革労協元幹部内ゲバ殺人事件を起こし「同志殺し」の「内内ゲバ」を正当化した。更に1999年から2004年にかけて、主流派(狭間派・現代社派)からの反主流派(赤砦社派・木元派)の分裂に際して10人が殺害され、大きな内ゲバ事件がほぼなくなっていた時期の内ゲバは社会に衝撃を与えた。
 ブント各派の内ゲバ
 第2次ブント崩壊の過程で、様々なセクト内ゲバを繰り広げた。1969年7月、中央大学社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学生が死亡した。1969年7月6日、共産主義者同盟赤軍派が共産同執行部さらぎ徳二議長を監禁・暴行、翌日には叛旗派による赤軍派襲撃と塩見らの拉致、その脱出時に赤軍派1名が転落死した。
 革マル派と他党派
 革マル派は他党派解体路線をおしだし、あらゆる新左翼党派にゲバルトや個人リンチを加え、暴力的に大学自治会や労組を掌握していった。
 中核派第四インター統一書記局派
 第四インター統一書記局派は内ゲバを否定していた党派であった。1984年(昭和59年)1月に、三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派第四インター統一書記局派関係者を襲撃して大怪我を負わせた。死者はいなかったものの、アイスピックで大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出した。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、中核派を暴力で反撃することはしなかった。これは、中核派による一方的な内ゲバ殲滅と位置づけられている。ただし第四インターも、拠点校では暴力により、対立党派を威圧することもあったため、常に内ゲバ反対という立場を貫徹していたわけではない。
 後に中核派関西地方委員会が、2007年に中核派から分裂した革命的共産主義者同盟再建協議会が、中核派による襲撃を謝罪した。
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