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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本陸軍は、第二次上海事変から始まった中期日中戦争でファシスト中国(国民党)軍を軍事支援するナチス・ドイツの国防軍軍事顧問団とソ連正規軍と戦っていた。
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2024年8月6日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「日本人が知らない「後期日中戦争」
歩兵砲の照準器をのぞき込んで砲撃目標を定める日本陸軍の兵士=中国・広東省で1941年(昭和16年)9月、阿部徹雄撮影
太平洋で米国と戦争をしていたとき、中国戦線はどうなっていたか。「後期日中戦争」の著書がある、愛知学院大学准教授の広中一成さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
【写真】中国南部の市街地を行軍する日本軍兵士
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◇なぜ「後期」
――なぜ「後期日中戦争」なのでしょう。
広中氏 8年間の日中戦争が半分を過ぎたころに、太平洋戦争が始まりました。
私自身、盧溝橋事件や南京事件のような日中戦争の前半部分については事細かく話すことができても、「太平洋戦争の時の日中戦争」について聞かれると、うまく説明できない経験をしました。
太平洋戦争中の中国戦線に触れた研究はあっても、日中戦争全体のなかで取り上げられることが多く、後半に焦点を当てたものは少ないのです。
――抜け落ちています。
◆アジア太平洋戦争の枠組みのなかでは、真珠湾攻撃後は対米戦争に関心が行ってしまい、中国への関心が薄くなります。これは一般でも、研究者でも同じです。新聞の夏の特集も同じではないでしょうか。
中国での戦争が十分に描かれていません。あの戦争はなんだったかという議論をするならば、そこは埋めなければなりません。
――15年戦争という言い方もあります。
◆満州事変からとみると「15年戦争」となりますし、そうでなければ「8年戦争」となります。
しかし、「15年」か「8年」かの論争に戦争の後半部分は考慮されていません。いかに日中戦争がはじまったかは大事な議論ですが、その結果、後半部分への関心が薄くなっています。
太平洋戦争の開戦を基準に日中戦争をみると、太平洋戦争がはじまって戦争の相手が増えたことで、中国戦線の状況が変わります。太平洋戦争と日中戦争がどう関わり合ったかの議論がもっと必要です。
◇大きな作戦も
――一般にはあまり知られていませんが、米国と戦争をしている時にも中国戦線で大きな作戦があります。
◆中国戦線では蔣介石を屈服させることが目的でした。蔣介石のいる重慶には手が届かないわけですが、あきらめたわけではありません。なんとか重慶まで行こうといろいろと大きな作戦をやっています。
ところが、太平洋戦争の旗色が悪くなると、それに影響されてやらなくてもいい作戦をするようになります。
日本への空襲の基地となることを防ぐために、中国沿岸部の飛行場を攻撃しますが、蔣介石は奥地にいるわけですから、中国戦線の本来の目的からは外れます。太平洋戦争に中国戦線がひきずられている例です。
――日中戦争は2国間の戦争ではないと指摘されています。
◆「日中戦争」といいますが、対米戦争が始まる前から、双方の背後には欧米列強がいて、実は隠れた国際戦争なのです。太平洋戦争になれば当然、国際戦争の一部になります。前半ばかりみていると、国際戦争の部分がみえにくくなり、2国間の戦争のように見えてしまいます。
◇日本は中国に敗北した
――一方で、特に華北では日本は中国に敗北したと強調されています。
◆今もなお、日本は中国には負けていないと言う人がいます。1944年の大陸打通作戦では、南のかなり奥(広西省南部、貴州省南部)まで行っているので、負けていない部分もあります。しかし、特に華北での八路軍(中国共産党の軍隊)との戦いでは明確に敗北しています。
そのことをよく分かっていない人がいます。あらためて、負けたことをはっきり言っておく必要があると思いました。
◇日本は中国人をどうみているのか
――なぜ今も「負けていない」という感覚があるのでしょうか。
◆日中戦争では毒ガスや細菌兵器のような非人道的な兵器が使われます。細菌兵器は、731部隊が旧満州(現中国東北部)にあったので、使いやすかったのでしょう。毒ガスといっても実際は催涙ガスのようなもので、致死性のあるものは限られていました。作戦上の理由もあったでしょう。いずれにしても、無辜(むこ)の人民に被害を与えました。
背景には中国人に対する、人を人と見ていない感覚があります。下に見ているものには平気でひどいことができる、ということではないでしょうか。
暴支膺懲(ぼうしようちょう)という言葉があります。「暴れる支那をこらしめる」という意味です。中国人に対してはそういう発想なのです。それは今でも変わっていないのではないでしょうか。
そうしたことは、今、日中戦争を見る時にも影響しています。来年は敗戦から80年です。あの戦争はなんだったか、中国との戦争はなんだったのかということを、あらためてフラットに見るべきではないでしょうか。(政治プレミア)
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2024-01-08
💖目次)─8─近代天皇と靖国神社の人道貢献・平和貢献。「歴史の修正」は悪なのか?~No.1 *
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5月20日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「「大東亜戦争」 「太平洋戦争」 隣国を忘れた日本
三谷博・東京大名誉教授
硫黄島で執り行われた日米合同の慰霊式=東京都小笠原村で2024年3月30日、幾島健太郎撮影
陸上自衛隊第32普通科連隊の公式X(ツイッター)が「大東亜戦争」という表現を使いました(その後削除)。では「太平洋戦争」ならいいのか。東京大名誉教授の三谷博さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
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アジアを忘れた日本
――「太平洋戦争」からはアジアが抜け落ちています。
三谷氏 忘却です。戦前にアジアに深入りしすぎたために、戦後は反対に行動しました。隣国を忘れ、米国による占領もあって、西洋一辺倒になりました。
中国戦線に行った人は、自分が多くの中国人を手にかけたことを記憶しています。しかし、子どもにはそのことをまったく語りませんでした。
我々の記憶には大きな穴が開いています。これが太平洋戦争という言葉が定着した背景です。米国が使ったから使ったのですが、日本にとっても都合が良かったのかもしれません。
今、学界で使われる「アジア太平洋戦争」という言葉はそのことを反省しなければならないとして作られた言葉です。
――大東亜戦争の「亜」はアジアの「亜」です。
◆大東亜戦争は当時の政府が閣議決定した名称ですが、過去を語るのに当時の用語をそのまま使えばよいわけではありません…
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7月8日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「中韓と日本 隣国の歴史認識と加害の歴史
山田朗・明治大学教授
旧登戸研究所本館跡地前で、遺構の重要性を語る山田朗さん=川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで2019年12月19日、佐野格撮影
アジアの近隣諸国との間では、歴史認識が課題になっています。日本近代史が専門の明治大学文学部教授の山田朗さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
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――歴史認識をめぐっては、日本では停滞が続いているように見えます。
山田氏 日本による過去の植民地支配と侵略を認めて謝罪した村山富市首相談話(1995年)まではそれなりに進展してきたと思いますが、以降はあまり大きな展開がありません。安倍政権以降、日本の歴史認識を対外的にもおしつける状況が強まっています。
日本独自の歴史認識はあってしかるべきですが、歴史認識は隣国とはなかなか一致しないものです。それでも、相手がなぜこう思うか、どこが矛盾するのか、衝突するのかを考えながら、自らの歴史認識を検証することが必要です。
特定の歴史認識にたどりついて終わりということはありません。歴史から何を学ぶかは時代によっても変化していきます。お互いの食い違いを認識しながら振り返ることが大切です。
今の問題
――今の問題にし続けなければならないということでしょうか。
◆戦争や植民地支配が行われた当時の政府の立場もありますが、新しい関係を築くためには、過去の戦争、植民地支配を今、我々がどうとらえているか、相手がどうとらえているかを突き合わせなければなりません。
「アジアの言うことだから」
――隣国に耳を傾けない傾向があります。
◆中国や韓国に対して、…
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6月11日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「「大東亜戦争」と「解放史観」
後藤乾一・早稲田大学名誉教授
日本海軍の陸戦隊の兵士たち=インドネシア・セレベス島のマタンコロで1942年(昭和17年)8月、海軍報道班(PK・プロパガンダカンバニー)の写真部員撮影
「大東亜戦争で日本が東南アジアを解放した」。いわゆる解放史観です。「日本の南進と大東亜共栄圏」の著書がある、早稲田大学名誉教授の後藤乾一さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
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――「大東亜」という言葉はどこから出てきたのでしょうか。
後藤氏 1938年11月に第1次近衛文麿内閣が出した声明では、「東亜新秩序」で、「大東亜」ではありません。しかし、すでに東南アジアが念頭にあります。36年8月に決定(五相会議)された「国策の基準」には、「北進・南進」並立の方針が入っています。
40年7月の第2次近衛内閣で決定された「基本国策要綱」で「大東亜新秩序」となります。南進などの言葉は出てきませんが、東南アジアを含めた新秩序を作ることが政府の方針になりました。
41年7月の御前会議での「情勢の推移に伴う帝国国策遂行要領」では、南方進出を通じて「自存自衛の基礎」を作るとなります。
南方進出をするなら、対英米関係が問題になりますから、41年9月の御前会議の「帝国国策遂行要領」では、「対英米蘭戦辞さず」になります。
そして開戦2週間前の41年11月に、東南アジアを占領したらどうするかという「南方占領地行政実施要領」が出て、「治安の恢復(かいふく)」、「重要国防資源の急速獲得」、「作戦軍の自活確保」という軍政3原則が出されます。そして12月8日対英米戦争に突入し、その直後に名称を「大東亜戦争」と決定します。
こうした経緯からも、「大東亜戦争」が南進を前提とした呼称であることは明らかです。同時に、将来はインドや豪州も手に入れたいから、地理的な限定はしていません。
――どのような新秩序を作ろうとしたのでしょうか。
◆日本を…
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2019-08-07
🐡4〗─1─中国の飢餓。西北大飢饉・河南省大飢饉とキリスト教会・日本赤十字社・日本軍の人道貢献。〜No.8No.9No.10・
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2019-05-11
💖3)─1─華北大旱魃を救った明治天皇と明治政府。義和団事件。中国は西原借款の善意を踏み倒した。〜No.6No.7No.8No.9・
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2021-05-09
💖12)─1─1920年の華北大旱害・飢饉に対する軍国日本の調査と救済。~No.50No.51No.52
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2019-12-05
💖17)─1─稲塚権次郎の小麦農林10号が、飢餓に苦しむ華北の中国人を救った。1935年。〜No.65No.66No.67・
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日中戦争。
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河堤防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76・
2024-06-27
💖18)─4─戦争の最中、日本の陸軍と宣撫官は1,000万人以上の中国人飢餓民を助けていた。〜No.77No.78No.79
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日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・
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中国共産党の非人道行為。
2019-05-17
💖20)─1─中国共産党は、日本人戦病餓死者の尊厳を穢し、霊魂を冒涜し、慰霊の場を踏みにじる。〜No.84No.85No.86No.87・
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2018-12-05
🎺40:─6─日本陸軍部隊は、漢口大空襲の中から数十万人の中国人を救出し保護し収容し治療して助けた。1944年12月17日。~No.188No.189No.190No.191・ @
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2019-03-28
💖28)─1─中国共産党による「日本はホロコースト犯罪国家である」という国際世論操作。〜No.116・
2024-03-30
💖28)─2─国際的反日反天皇勢力によるウソの「日本軍3000万人虐殺説」。〜No.117No.118No.119No.120
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2021-06-20
💖33)─1─日本民族は敵味方に関係なく死者は等しく弔った。松井石根 と興亜観音。〜No.139No.140No.141No.142
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2021-09-29
💖38)─1─1942〜44年のベンガル飢饉と東條内閣。餓死者約300万人。〜No.159No.160No.161No.162
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