⛅10:─1─現代日本が意図的に消した沖縄戦北部山間掃討戦。~No.26No.27No.28 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 沖縄戦の地獄は、南部の正規兵による攻防戦ではなく北部山間部の敗残兵に対する掃討戦で起きていた。
 アメリカ軍は、沖縄戦の記録映画を南部戦線で撮影し、投降した沖縄県民(琉球人)や日本人兵士に対し戦時国際法に従い人道的な対応をしている証拠を残した。
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 2018年9月20日 長周新聞「おじい、おばあが見た沖縄戦 「無抵抗の民の皆殺しだった」 占領目的の明確な意図
 米軍駐留の起源は、第二次大戦において県民の4人に1人の命が奪われた沖縄戦であり、すべての米軍基地は、その殺戮のうえにブルドーザーと銃剣によって力ずくで奪われたものにほかならない。「本土から押しつけられた」「押しつけた」云々以前に、そもそもの経緯からしアメリカが地上戦まで展開して乗り込み、勝手に奪っていったままなのである。沖縄戦体験者たちは、その言語に絶する経験をもとに、さらに未来永劫にわたって沖縄を米軍支配に縛り付ける新基地計画に対して底深い怒りを語っている。沖縄戦当時、学徒隊や兵士だったおじいやおばあはどのような体験をしたのか、沖縄戦を知らない世代に何を伝えたいのか、思いを取材した。」
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 2020年8月13・20日夏期特大号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 戦争記者
 ……
 その意味で朝日新聞記者の沖縄戦回顧はいかがなものか。
 沖縄戦終戦の年の6月23日、摩文仁の陥落で終わり、あとは北部山間に敗残兵が残っていた。
 岡田記者はそんな日本兵が村民の『首を切り落とし』『追いかけ回して刺し殺した』と書く。
 その筆致(ひっち)は日本軍を沖縄の民の敵に仕立てた元朝日社会部デスク、榊原昭二の著作とそっくり同じだ。
 沖縄の民間犠牲者は10万人に及ぶが、ひめゆり部隊のような日本軍絡みは数百人。残り99%はみな米軍の無差別殺戮で殺されている。
 島尻では村民の過半が殺され、国吉では子供を含む男性すべてが米軍に連行され、銃殺された。
 女も無事ではなく1万人余が米兵に強姦された。
 宜野湾市では『空気が黄色くなった』という証言が残るように米軍はマスタードガスで村民を殺した。
 後に嘉手納でその残りが見つかるが、米軍は欧州戦線にも同じ毒ガスを持ち込み、イタリア・バーリ港でそれが漏洩して米兵83人が死んでいる。
 しかし岡田記者は事実に拘(こだわ)らず、日本軍は悪いという政治宣伝に終始する。
 ……」
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 沖縄戦、または沖縄の戦い(おきなわのたたかい)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう。

 沖縄本島北部の戦い
 伊江島で戦死した直後の従軍記者アーニー・パイル。
 日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。
 この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定8万人の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった。
 4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された。
 日本軍が伊江島保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた[180]。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している。

 本島北部への避難(島内避難)
 1944年10月10日の十・十空襲による沖縄県民の被害は大きく、那覇の市街地の90%が焼失したほか、県民の1か月分の食糧も焼失、生活必要物資がひっ迫し県民の生活は困窮した。当時、沖縄を管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状を考慮して、空襲被害のあった地域の租税徴収を2年間免除するという特例を講じた。また、1942年2月24日に施行された『戦時災害保護法』を適用し、那覇市民の罹災者救援のために現金給付を行ったが、アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金で購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果は薄かった。
 沖縄県の経済情勢が急速に悪化する中、1944年12月に軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、住民を戦力化できるものとできないものに選別し、戦力化できるものは戦闘や後方支援や食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが、第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した。
 1,およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する。
 2,60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。
 3,各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。
 4,爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。
 5,県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。
 この要領を作成した八原には「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」という考えがあったが、この要領により、17歳~45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化され、中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも、疎開することを禁止され、通信兵や看護婦として軍に協力させられて『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに組み入れられた。
 1945年1月31日に島田叡新沖縄県知事が着任したが、第32軍参謀長の長と島田は上海事変のときからの旧知の仲であった。長は泉守紀前知事のときの不遜な態度とはうって島田には変わり礼を尽くし、島田の着任早々に情報主任薬丸参謀を連れて自ら沖縄県庁を訪ねた。そこで長は島田に「ウルシー島を進撃した米機動部隊は、沖縄方面に向かっている。一週間後の、2月25日頃には、沖縄までやってくる」と詳細な軍事情勢を伝え、「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と要請した。長の要請を受けた島田は、着任早々にも関わらず非常な熱意で食糧確保に奔走し、2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。しかし、その後台湾と沖縄間の海上輸送がアメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった。島田はそのほかにも、大蔵省専売局の出張所に自ら出向き、厳しく統制されていた酒や煙草の特別放出を指示するなど少しでも沖縄県民の心をなごやかにするような努力をおこなった。
 食糧の備蓄も少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯にすすんで避難しようという住民は少なく、沖縄県の必死の呼びかけや、軍用車両を提供するなどの軍の努力にも関わらず、疎開は遅々として進まなかった。沖縄県は家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ、戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部に疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった。北部は山岳地帯で耕作地も限られ、さらにはマラリア発症地帯であって、餓死やマラリアで死者を出すことになったが(沖縄市民の北部での死者は戦闘を含む全ての要因を合わせて約600名)。その後、上陸したアメリカ軍が沖縄北部を制圧した5月上旬までに130,000人の住民がアメリカ軍に収容されており、結果的に疎開した多くの住民が生存することができた。沖縄本島北部疎開により救われた沖縄県民は150,000人に達したという推計もある。
 そのほか、本島から先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島ではマラリア汚染地に多くの住民が疎開させられたため、16,884人がマラリアに感染し、うち3,647人が死亡している。これは後に戦争マラリアと呼ばれた。
 なお、アメリカ軍上陸2ヶ月前の1945年1月末、第32軍司令部では戒厳令の適用により行政権・司法権を軍司令官が掌握することを検討したが、着任した島田叡県知事との会議の結果、県と軍の協力体制が実現できたとして戒厳布告を見送った。同じく陸軍中央でも1944年6月頃から戒厳令の適用を研究していたが、結論が出ずに終わっている。戒厳布告が見送られたことで軍が民政に対する責任を負わず、無秩序な徴用やスパイ容疑での住民処刑につながったという説もある。

 連合軍による住民殺害
 既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
 沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
 住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された。
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 戦争は勝利すれば官軍で、どんな残虐兵器を使用しようとも、如何なる卑怯な手段や陰湿な作戦を採用しても、一切罪には問われない。
 如何に正論を掲げ、戦時国際法に則り正々堂々と戦っても、負ければ全責任を負わされ、どんな理由があっても戦争犯罪者として有罪判決を受け処刑される。
 つまり、原爆投下実験もロシア人共産主義者による虐殺も正当行為とされる。
 まして、日本が無条件降伏をしたのであればアメリカやソ連(ロシア)に対して抗議はできない。
 つまり、無条件降伏とは戦勝国に対して絶対服従で「殺され損」である。
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 アメリカ人兵士は、平氏や民間人の区別なく全ての日本人を害虫・獣との認識から、日本人を殺す事に罪悪感を持たず、七面鳥を撃ち殺すように楽しんでいた。
 アメリカ人兵士が日本人兵士を恐れ精神を患って原因は、万歳突撃による玉砕やカミカゼ特攻の自殺であった。
 もし、日本人が恥も外聞もなく惨めに命乞いをしたら、アメリカ人兵士はインディアンやフィリピン人の様に情け容赦なく惨殺し、勝利を絶対神に感謝し、勝利の美酒を飲み歓喜して喜んだであろう。
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 アメリカ人兵士が、ベトナム戦争で行った残虐行為以上の行為を沖縄で行っていた。
 1940年代のアメリカ人が、1970年代のアメリカ人より良心的で善人であったかといえばそうではない。
 それは、中国人や朝鮮人でも言える。
 ベトナム戦争時、韓国人はアメリカ人以上の残虐行為を罪の意識もなくベトナム人に対して繰り返していた。
 韓国は、虐殺を繰り返す為にアメリカから大金を貰っていた。
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 朝鮮人は、友人として戦友として、激戦地で安心して背後を任せられない恐ろしさがある。
 その証拠が、敗戦後の日本国内で不逞朝鮮人が起こしていた凶悪犯罪の数々である。
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 沖縄戦より悲惨な残虐行為は、ソ連軍・ロシア人共産主義者満州樺太などで行った日本人避難者(主に女性や子供)に対する虐殺である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買して金儲けをしていた。
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 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア・報道関係者、左翼・左派・ネットサハの学者・評論家・専門家、護憲派人権派、正義派、反米派・反安保派、反戦平和市民団体、反天皇反日的日本人達は、不都合な歴史の真実を隠し、捏造・歪曲・改竄した嘘の歴史を子供たちに教え洗脳している。
 彼らは、同じ祖先を持つ日本民族日本人と琉球人の間を引き裂き、偏見と不信感と憎悪を増幅させ、敵意を持った対立を煽っている。
 それが、中国共産党有利なアメリカ軍基地反対や辺野古埋め立て反対などの反自衛隊反日米安保反米運動である。
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 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人は、中国人や朝鮮人とは違って、縄文人の子孫である。
 琉球人・アイヌ人は、縄文人の直系として縄文人の遺伝子が濃い。
 日本民族日本人は、縄文人の傍系として縄文人の遺伝子が薄い。
 縄文人は、日本列島を中心として、南は沖縄から北は北方領土・千島列島・樺太、西は朝鮮半島南半分に広く住み、手漕ぎ舟で日本海縄文人の海)を行き来していた。
 縄文文化は、揚子江文明の影響を強く受けていた。
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⛅8:─1─昭和天皇も東條内閣も沖縄と沖縄県民を見捨て助けなかった訳ではない。~No.20No.21No.22 * 

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 日本軍部は、沖縄を本土決戦準備の為の時間稼ぎの捨て石にしたが、見捨てた訳ではない。
 もし本土決戦の為に見捨てたのならば、無駄死・犬死にであるカミカゼ特攻などを続けず、幾ら未熟と言っても貴重な若い隊員を温存したはずである。
 つまり、本土にいるのは女性・子供・老人・兵士不適格者で若者は少なかった為に、若者は一人でも多く必要であった。
 たとえ、竹槍でも女性・子供・老人・兵士不適格者が持つより若者が持った方が武器になる。
 百姓が持った竹槍は、武士・サムライが持つ日本刀より優れた殺傷能力を持っていた。
 昭和天皇も、沖縄県民を救う為に、戦艦大和など残存軍艦の水上特攻を求めはしなかった。
 軍艦は、本土決戦時には浮き砲台として利用され、撃沈されても船体の一部は海面上に出る為に防衛拠点にでき、それ故に一隻でも失う訳にはいかなかった。
 大和の水上特攻で6,000人以上の貴重な水兵を無駄に失った。
 沖縄を見捨てたのは、戦争を避けて逃げてきた沖縄県民を卑怯者として差別し追い返した本土の日本人である。
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 自衛隊の「沖縄戦での住民避難」批判     04・9作成
 鳥取県自衛隊幹部による講義の中で「沖縄戦における避難」が教訓として取り上げられ、そのことが現在進められている「国民保護法」の避難計画に利用されようとしているが、その解釈や分析に多くの間違いや問題があり、黙過できない。
 彼らは、沖縄戦の経過のなかで、住民避難において不手際があり、その不手際に基づく避難計画を教訓とすべきであると言う。そのことをふれるなかで、指摘して行きたい。沖縄本島に関する初歩的な記述でも数字等のミスが多いが、ここでは沖縄戦に絞り、沖縄戦の経過についてその事実を確認したうえで内容について触れることにする。

 2 県外疎開の状況
 項目           自衛隊幹部資料
 昭和19年7月7日    昭和19年7月7日政府緊急会議→南西諸島から急いで老幼婦女子を本土と台湾に疎開させることを閣議決定
 目標          ○本土に8万人、台湾に2万人の計10万人を7月中に疎開
             ○県は直ちに第32軍と協力して疎開計画を立案
 予算措置        1500万円を計上
 疎開者の輸送      沖縄に軍の部隊や軍需品を輸送した帰りの空船を利用
 法的に拘束力      「勧奨」形式
 疎開業務        ○19年の7月中旬、疎開第1陣が出発
             ○8月22日対馬丸の悲劇疎開業務が振り出しに戻る
 業務の実態       ○19年10月10日那覇大空襲住民の疎開意欲が高まり、
             昭和20年3月上旬まで島外疎開を継続。
 計画の遅れ
 -希望者が少なかった  ○県民の疎開に対する不安
             ・老幼婦女子だけの疎開生活・沖縄からの送金や物資
             ・米潜水艦の脅威
             ○県首脳部の熱意不足…
             I知事「個人的には引き上げの必要はないと思う。」
             と発言
 結果          予定の80%(8万人以上)が県外に疎開

 ※上の表は、沖縄県警と自衛隊の県外疎開に対する分析を整理したものである。

 県外疎開希望者が少なかったのはなぜか
 両者において、「疎開の遅れ-希望者が少なかった」ということで沖縄戦における疎開(避難計画)がうまくいかなかったという結果とその理由においておおかた一致しているが、その理由の一点だけで見解が異なる。
 沖縄県警は「続々上陸する我が軍の威容に接し、歓喜するとともに戦いには必ず勝つ、と思い込む者」という表現で、当時の沖縄県民の多くが日本軍の沖縄上陸を心強く思い、軍隊とともにいることが安全だという気持ちになっていた、と分析する。確かに、県警の荒井警察部長が第32軍に対して、「軍隊側が戦いに勝つ勝つと宣伝されるので住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は景気のよい言葉を慎しみ、住民が疎開するよう協力して貰いたい」旨、申し入れるほどであった。
 一方の自衛隊幹部の見解は、「県首脳部の熱意不足」として、当時のI知事(泉知事)の疎開への消極的姿勢を問題にしている。泉知事は第32軍との関係でもあまりうまくはいっていなかったし、10・10空襲のときは中頭の自然壕に自ら退避し、県庁をそこに移すとまで言って周囲に不信感を与えたほどであった。昭和20年1月31日、泉知事の後任として島田知事が着任してから県行政の戦時体制は一変したという。
 どちらが本当の理由か
 さて、どちらの原因が県外疎開を遅らせたのか。それぞれの持つ理由はあろうが、そのいずれも県民の真の気持ちを捉えているとは言いがたい。
 自衛隊幹部のあげた泉知事の消極性については、実際の疎開業務は県警が進めていたことから、県民の気持ちに直接的な影響はなかったと見る方が妥当である。疎開を渋った証言等をみても、このような点にはほとんど触れられていない。どちらかというと、県民の反応は県警が指摘しているような日本軍の近くにいるのが安全であるという気持ちが強かったようである。
 しかし、県警の指摘する「日本軍に対する好意的反応」にしても、当時の県民の気持ちを十分には捉えてはいない。それは、当時の国民や沖縄県民が大日本帝国の中でどのような位置にいたかということと深く関わっていて、その置かれた状況と切り離しては捉えられない。
 ひとつは、「皇国不滅、皇軍不敗」という神話が国民全体に浸透していたことである。32軍が編成され、その部隊が沖縄に入ってきた時、すべての公共建物(学校、公民館等)は接収された。のみならず、大きな民家も日本軍の将校宿舎にあてがわれて、住民はその世話までさせられ、徴用や供出が重なる、というように第32軍の動員に応じている。半強制的な動員に対して、住民の多くがそれに従っていったのは、不敗の皇軍が身近にいることへの信頼感があったからであった。当時の県民は第32軍のことを「友軍」と呼んだ。もちろん、それはおおかたの県民がそうであったということであって、なかには、逆に「兵隊のいない所に逃げろよ」と注意する住民もいたことはいた。
 真の原因は32軍の方針
 もう一つは、沖縄県民独特の事情があった。それは、日本という国家の中での沖縄の位置づけである。薩摩の支配以来、いや、少なくとも明治以来、沖縄は、国家の枠組みの中で常にその外に置かれてきた。国家的都合によって沖縄の位置づけが決定づけられていたし、そのための差別的疎外感もあった。その一方では、皇民化教育に見られるような沖縄の本土化=皇民化の激しい押しつけが行われた。
 したがって、沖縄戦における第32軍の駐屯はより多くの県民にとっては沖縄に対する差別的疎外感の深い溝を埋める機会として捉えられていた。それが皇軍としての日本兵に対する好感度を上げることによって達成できると考えられていたのである。その表現の一つが「友軍」という呼称であったろう。しかも、その好感度は一方的な思いではなく、当時国民が一般的に考えたような官民一体の戦う気構えを備えたものであった。
 したがって、友軍がいるから安心という受け身ではなく、自らも戦いに命を捨てるという側面もあった。折しも、第32軍の牛島司令官は、「現地自活主義」を沖縄戦の方針の一つに掲げて、県民のその気持ちを最大限に利用した。制海権を奪われた離島県である沖縄で、戦闘が行われることの必然として第32軍の方針と県民に対する皇民化教育の集大成が合致したと言えよう。
 この「現地自活主義」によって、使える者(または物)は徹底的に使い、そうでないものを切り捨てるという真のねらいは、閉ざされた島の少ない食料の口減らしであった。しかし、前者のために疎開要員を大きく制限したことが、後者の疎開希望者を少なくするという自己矛盾をもたらしたのである。したがって、沖縄戦における疎開計画は「非戦闘員」を戦場から排除すると言う単純な「避難計画」ではなかった。そのことが自衛隊幹部の「島外に疎開できたのは、老幼婦女の一部」という分析が出てくる所以であるが、その方式(方針)は県外疎開だけでなく県内疎開(北部への)においても同様に貫かれたために、県内疎開でも希望者は少なかった。
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 菊水作戦は、太平洋戦争末期の天号作戦中、沖縄に来攻する連合国軍に対し特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。
 第一機動基地航空部隊(第三航空艦隊、第五航空艦隊、第十航空艦隊)によって1945年4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで行われ、これらに策応し、海軍の第一航空艦隊や陸軍の第六航空軍、初期には第八飛行師団も総攻撃を行った。これらの作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。
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 坊ノ岬沖海戦は、1945年(昭和20年)4月7日に沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和とその護衛艦艇をアメリカ海軍の空母艦載機部隊が攻撃した戦闘。日本海軍が発動した天一号作戦の一環として第一遊撃部隊(第二艦隊のうち、第一航空戦隊の戦艦大和と第二水雷戦隊の軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻からなる)は沖縄方面に出撃、アメリカ海軍第58任務部隊がそれを迎撃した。午後12時40分から約二時間におよぶ戦闘の結果、大和以下6隻が沈没。日本海軍の大型水上艦による最後の攻撃となった。
 沈没艦 戦艦大和 軽巡洋艦矢矧 駆逐艦4隻
 戦死4,044名
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 沖縄戦、または沖縄の戦いは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう。
 
 アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難)
 県外疎開
 大本営沖縄県民59万人の住民疎開、避難について検討を始めたのは、サイパン島アメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された。 その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、県内に29万人いた60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた(県外転出実施要綱)。また、学童集団疎開については、原則として国民学校3年生〜6年生を対象とし、1、2年生は付き添い不要の者に限られている。
 手段は沖縄に兵士や軍需物資を輸送する軍用輸送船の帰路を利用して、日本本土や台湾に疎開させようというものであったが、費用は全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学童疎開沖縄県庁内政部教学課を主担当として、各市町村、各国民学校長、部落会、隣保班を通じて推進された。

 学童疎開対馬丸を撃沈したアメリカ軍潜水艦ボーフィン
 しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。しかし、荒井退造沖縄県警察刑務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた)ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった。そのため、疎開希望者の間で辞退する者が続出し、出発日に疎開者が集まらず、疎開船が空船のままで出航することもあるなど、疎開業務が一時頓挫することとなった。
 さらには、前任の第32軍司令官渡辺中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、かえって恐怖心を起こさせたのに対し、1944年8月に着任した後任の牛島の落ち着いた風格が、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼を高めたことや[389]、続々到着する増援の大軍を見た沖縄県民の間に、日本軍の勝利という希望的観測が広まっていたことも疎開が進まない大きな要因となった。末端将兵の放言もその希望的観測を強めており、そのため、住民疎開を主導していた沖縄県警察刑務部長の荒井が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している。その後、皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのはアメリカ軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった。
 県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5,586人を含む約80,000人が疎開した。内訳は、九州へは沖縄本島から約65,000人、台湾へは沖縄本島から3,000人以上、先島諸島から9,000人以上の約12,500人となっている(「台湾疎開」も参照)。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが、宮城博は沖縄県の独自調査で一般疎開者が乗船して航行中に撃沈された船舶が32隻と報告されたとしている。
 九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、1945年7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。

 集団自決
 詳細は「沖縄戦における集団自決」を参照
 サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村チビチリガマの事例(83人)などが知られ、集団自決者の総数は1,000人以上とする研究者もいる。
 これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する。
 集団投降
 日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「アメリカ軍に捕まったら、何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。

 連合軍による住民の扱い
 連合軍による住民殺害
 既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
 沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
 住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された。

 連合軍兵士による性的暴行などの虐待
 収容所およびアメリカ軍の占領地域では、アメリカ軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後から射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている。戦争の終結後も暴行は続き、例えば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる。アメリカ軍兵士により強姦された女性数を10,000人と推定する見解もある。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという。
 アメリカ軍の報告書においても、収容所にいる女性に対し劣情を抱いた多数のアメリカ兵が周囲をうろつき中々立ち去らない為、警備する憲兵(MP)の数が足りなくなり、やむなく「強姦事件と病気予防のため」に軍の法務官に、収容所で発見された兵士を憲兵隊長に引き渡してよいという権限を与えている。
 沖縄戦時中にアメリカ兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後アメリ海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした。

 沖縄戦での特別攻撃隊
 「菊水作戦」も参照
 沖縄戦には陸海軍計1,900機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。撮影の翌日、5月27日に隊長・佐藤睦夫中尉以下九九式襲撃機10機の第72振武隊は万世飛行場を出撃、その内2機が金武湾上においてアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ブレイン」に突入し大破の戦果をあげた。
 義烈空挺隊が使用しアメリカ軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に強行着陸した九七式重爆撃機改造輸送機。
 アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将が第10軍司令官バックナー中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられており、この頃にニミッツはワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している。
 前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている。
 この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちを隠そうともせずに進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミス大将は「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている。
 首里戦線の第32軍の危機に、大本営は菊水六号作戦(5月11日~5月14日)菊水七号作戦(5月23日・24日)を発動した。11日には第58任務部隊の旗艦バンカーヒルが2機の特攻を受け大破、396名の戦死者と264名の負傷者を出すという甚大な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。「バンカーヒル」は後にアメリカ本土のピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けたが、同海軍工廠史上、最悪の損傷レベルであった。翌日に第58任務部隊の旗艦はエンタープライズに変更され、特攻機基地を制圧するために九州に接近したが、迎え撃った第5航空艦隊所属の富安中尉搭乗の零式艦上戦闘機が「エンタープライズ」に命中して大破させ、短い間に続けて同一のアメリカ艦隊の旗艦が特攻で大破するという事態に陥った。これは、第5艦隊(司令スプルーアンス)旗艦の重巡洋艦インディアナポリスと戦艦ニューメキシコ、第54任務部隊(司令モートン・デヨ少将)旗艦の戦艦テネシー軽巡洋艦バーミングハムに続くもので、3つの艦隊旗艦が1つの作戦で敵の攻撃により2回も変更になるのは異例なことであった。
 この当時のアメリカ艦隊の様子を1943年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者ハンソン・ボールドウィンが取材している。

 {毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。(中略)時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。
— ハンソン・ボ―ルドウィン。}

 第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令スプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた。ミッチャ―はこの後も体調がすぐれず、戦争終結後まもなく1947年に他界している。
 アメリカ軍は占領した嘉手納飛行場や読谷飛行場や伊江島飛行場に、陸軍航空隊や海兵隊の戦闘機多数を配備し沖縄の制空権を確保しており、特攻援護のために陸海軍の爆撃機や芙蓉部隊の彗星艦上爆撃機などが執拗に夜襲を繰り返していたが、飛行場機能に支障が出るほどの打撃を与えることはできていなかった。そこで日本軍は、菊水七号作戦時には、一時的にでもアメリカ軍飛行場を制圧し、その間に特攻機アメリカ軍艦船を攻撃させるべく、陸軍空挺部隊から抽出したコマンド部隊「義烈空挺隊」をアメリカ軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動した。熊本から12機の九七式重爆撃機改造輸送機(第3独立飛行隊)が出撃し、うち1機が読谷飛行場に強行着陸に成功、搭乗していた隊員と乗員が機体から飛び出すと、着陸している航空機や燃料集積所を襲撃し、飛行場の守備隊と激しい銃撃戦を行い、アメリカ軍戦闘機・爆撃機・輸送機9機が破壊炎上、29機が撃破され、アメリカ兵20名が死傷し、ドラム缶600本分70,000ガロンの航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え、読谷飛行場を地獄さながらの大混乱に陥らせて、半日に渡って飛行場を使用不能としたが、戦況を動かすことはなかった。
 特攻はこの後、本土決戦準備の航空戦力温存策による作戦機の枯渇もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で特攻により受けた損害は甚大であり、公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。アメリ歴史学者の中でも最高の権威者と言われているサミュエル・モリソンは著書で「艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」と沖縄戦アメリカ海軍戦史上最大の損害であったと述懐し、アメリカ軍も公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している。
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⛅7:─1─カイロ宣言。沖縄戦。尖閣列島戦時遭難事件と中国共産党。沖縄教育連合会。アメリカ軍の重犯罪。1943年。~No.17No.18No.19 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 本土に見捨てられた沖縄の悲劇。
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 沖縄人(ウチナーンチュ)と本土人(ヤマトンチュ)。
   ・   ・   ・   
 1609年3月7日(〜4月5日) 薩摩藩琉球征伐。
   ・   ・   ・   
 琉球は、中華思想で周辺諸島を支配し、本島人以外の諸島民を下等民と差別して重税を課していた。
 日本人は、善人ばかりではなく、悪人も多くいる。
 琉球人にも、善人はいるし悪人もいる。
   ・   ・   ・   
 中華帝国、日本、琉球は、中華思想を持っていた。
 朝鮮は、中華思想を持たず、小中華主義を持っていた。
   ・   ・   ・    
 明治政府は、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とし、「四民平等」の太政官令を持って本島人と離島人の差別的待遇を禁止した。
 宮古島などの離島人は、同じ日本人となる事で本島人からの不当な差別から解放された。
 中華思想華夷秩序で上位者としけ優位を誇っていた中国系琉球人は、面子を潰されて激怒して日本への併呑に反発し、琉球を中国の領土にするべく画策し始めた。
 琉球の国名は、朝鮮国と同様に明国皇帝から下賜されたものである為に、日本の支配下にある事を内外に知らせるべく島名を「沖縄」と改称した。
   ・   ・   ・   
 中華皇帝は、アジアの覇王として、臣下となった蛮族に対して国名と民族名と暦を授けた。
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 琉球処分。明治政府は、琉球王国を日本領に編入するするべく1872年に琉球藩を置き、1879年に軍隊を派遣して軍事力で廃藩置県を断行し、琉球人の気持ちを無視して沖縄県を設置した。
 琉球王国を支配していたのは、中国系琉球人と支那党であった。
 琉球王国は、朝鮮王国よりも優遇されていた。
 本当の琉球人は、上下関係厳守の儒教価値観を押し付けてくる中国系琉球人を嫌い、神道を信仰する日本人を同胞として信用していた。
 清国は、伝統的宗主権をもって琉球は清国に属すと主張した。
 グラント前大統領は、先島諸島は清国領、沖縄は日本領とする調停案を示した。
 清国は、琉球全体の領有を主張して、先島分離案を拒否した。
 日本は、沖縄や先島諸島を武力を持って強引に日本領に編入した。
 日本人は、琉球人を差別し蔑み、そして見捨てた。
 中国系琉球人と支那党は、日本ではなく清国への併合を希望して清国軍の来航を切望していた。
 日本人が、真に沖縄の事を考えているかは疑問である。
 特に、左翼・左派のマルクス主義者が本心から沖縄基地問題に取り組んでいるかは疑問である。
   ・   ・   ・   
 日本は、尖閣諸島の領有について、日清戦争の開戦前から10年かけて現地調査を行った。
 清国は、日本が尖閣諸島を領有する為に調査している事を知っていたが抗議しなかったし、領有権を主張しなかった。
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 日本の真の生命線は沖縄と台湾であり、日本が独立国として生存するには沖縄と台湾を中華に渡さない事であった。
 故に。軍国日本は、沖縄と台湾を守る為に可能な兵力を投入した。
 そして、10代の少年達をカミカゼとして爆弾を持たせて出撃させた。
   ・   ・   ・   
 1943年12月1日 カイロ会談。ルーズベルトチャーチル蒋介石は、数日間会談を行い連合国の対日基本方針を発表した。
 第1次大戦開始以降に軍国日本が奪取、占領した太平洋の全ての島嶼を取り上げる。
 満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還。
 朝鮮の独立。
 軍国日本に無条件降伏を求める。
 尖閣諸島を含む琉球群島は、日本領に留める。
 親中国反日ルーズベルトは、日本国領土を最小限まで切り詰めるべく、極秘提案として蒋介石琉球群島の領有を進めた。
 蒋介石は、日清戦争及び日中戦争における日本軍の手強さと、日本人の日本天皇とへの忠誠心と日本国への愛国心を恐れて断った。
 中国は、沖縄編入の好機を逸した。
 ルーズベルトは、日本憎しの人種差別から、戦争に勝ち占領したあかつきには、昭和天皇を処罰し、日本国を大改造し、多様性を高める為にアジア・太平洋の諸民族を移民させ日本民族と混血させて単一性を消滅させる事を考えていた。
 そして、中国をアジアの盟主に復帰させる事を望んでいた。
 つまり、アメリカの理想主義を日本で実現する為に、天皇制度を廃絶し、日本国を解体しようとしていた。
   ・   ・   ・   
 1944年4月9日 第32軍の各部隊への命令書『球軍会報』「爾今、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す」
 軍部は、沖縄を差別し、沖縄人は天皇と国家を裏切って敵に内通する恐れがあると疑っていた。
 陸軍は、沖縄と沖縄人を守るのではなく、沖縄を戦場として本土を守る防衛戦略を立てていた。
 沖縄は、戦闘が始まるはるか以前に、既に見捨てられていた。
 大城将保「帝国陸軍沖縄県民を、国家と天皇に対する忠誠心が乏しい、という理由で、潜在的なスパイ容疑者と警戒していた」(『改訂版 沖縄戦』)
 7月7日 東條英機首相は、沖縄守備隊第32軍司令部の意見具申を受け、緊急閣議を開き沖縄の一般住民を安全な本土か台湾に疎開させる方針を決定した。
 沖縄県も、60歳以上15歳未満の者、女性、病人を対象として、沖縄本島宮古島石垣島西表島などから、希望者10万人を本土或いは台湾に退避させる事を決定した。
 同時に、学童疎開も決定し、国民学校初等科第3学年より第6学年までの男児希望者を募った。
 日本政府や日本軍は、戦場も銃後も、兵隊も一般市民も、老人も女子供も、全てを巻き込んで戦われる総力戦の意味を十分理解し、出来うる限りに処置をおこなっていた。
 7月21日 第32軍と沖縄県は、本土からの戦略物資を運んできた輸送船に避難民を乗せて本土に送り始めた。
 8月22日 対馬丸事件
 10月10日 アメリカ軍は、那覇空爆した。
 12月 第32軍は、沖縄県に対して、本土や台湾への県外疎開だけでは一般市民の安全を守りきれないとして、主戦場とはならないと思われる国頭などの本島北部や離島への県内疎開を説明した。
 沖縄県は、地方との調整をおこない、翌45年2月9日に県民に10万人島北部疎開とい島内疎開計画を知らせた。
 県民の一部から、本土防衛と沖縄防衛の為に軍に協力したいという強い要望が出はじめた。
 第32軍は、防衛召集を行い約2万人を集めた。
 さらに、台湾に引き抜かれた戦力を補うべく、10代の男子を根刮ぎ動員して各部隊に配属したが、彼等に与える銃器はなかった。
 軍部は、本土決戦準備の為に時間稼ぎとして沖縄を捨て石として見捨てていた。
 沖縄県民は、本土の日本人から差別されていることが分かっていた為に、自分を犠牲にしても本土の日本人以上に日本人らしくに振る舞おうとした。
 師範学校や中等学校の男子生徒を、志願という名目で1,800人を掻き集めて「鉄血勤皇隊」を組織し、各部隊に配属した。
 師範学校や高等女学校の女子生徒達も、本人希望として集めて「女子学徒隊」(ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊、瑞泉学徒隊、その他)を編成し、軍本部や野戦病院などに振り分けた。
   ・   ・   ・    
 1945年1月 大本営は、アメリカ軍の本土侵攻に備えて帝国陸海軍作戦計画大綱を決定した。
 作戦目的は、本土決戦準備の為の時間稼ぎとして、小笠原諸島及び沖縄本島以南の南西諸島を作戦を遂行する為の前縁と位置付け、アメリカ軍が上陸した際は出血を強要して戦争継続の意思を挫くとした。
 硫黄島も沖縄も、捨て石にされた。
 特に。本土の日本人は、沖縄県民を本当の日本人と見なさず見下し差別していた。
 2月 軍部は、沖縄戦に備えて、台湾の基輶(キールン)などから900トンの台湾産米を沖縄に運び込んだ。
 沖縄県庁は、県民が飢えない様に米を配給した。
 3月26日 アメリカ軍は、沖縄本島上陸作戦に先だって、本当西方の慶良間諸島を弾薬や食糧などの戦略物資備蓄基地とするべく上陸占領した。
 県外疎開は、約8万人で、台湾への疎開は2万人であった。 
 県北疎開は、約3万人であった。
 日本政府と軍部は、沖縄県民保護として疎開に本腰で取り組まなかったどころか、戦力不足を補う為に根刮ぎ動員を実施していた。
 日本本土は、沖縄県に対して冷淡であった。
 沖縄県庁のみが、県民を救う為に東奔西走していた。
 日本本土と沖縄の関係は、昔も今も変わりはしない。
 3月30日 イギリス諜報機関であるブレッチリー・パークは、在重慶のフランス大使がパリの外務省に送った「中国が琉球群島の領有を主張」という報告書を傍受した。
 「最近、米軍が開始した琉球群島戦を論評して〔不適切なグロープ〕の〝Shih Shih─Singpao〟(……中国名『時事新報』)が『群島の歴史を顧みて、明時代から19世紀末まで中国に属していたと明言している。
 〝カイロ宣言で中国に返還されるべき領土に含まれるべきところ割愛したため、我々の同盟国が敵国の群島に対する合法的領有権を認めることになったように思える。我々は歴史の恥ずべきエリートを抹消したい。
 この議題は議論されることが必要だ。群島は、日本が戦後放棄すべき、不法に占拠された領土の一つと見なされることが明らかだからだ〟』」
 イギリスとフランスは、アメリカとは違って中国を昔からよく知っていただけに、中国が主張する「明時代から琉球尖閣諸島に対して中国の領有権がある」がウソである事を知っていた。
 よって両国は、中国の主張を支持しせず、沖縄・尖閣諸島を日本から取り上げて中国に渡す事には不同意であった。 
 4月1日 アメリカ軍約18万人は、沖縄本島中部に上陸した。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍は、日本軍と島民義勇兵の頑強な抗戦を排除する為に、戦時国際法が禁止している毒ガスを使用した。
 戦争に勝つ事によって、人道に反する犯罪など如何なる戦時国際法違反も無罪にできる。
 ゆえに。アメリカ軍は、記録映写機が回っていない所で女性や子供などの民間人を軍国主義者の一味として惨殺いていた。
 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 勝った者は、免罪符を手にして如何なる卑劣な行も無罪となる。
 負けた者は、勝者の非人道的犯罪まで負わされ、如何に人道的行為を行っても有罪とされた。
 それをそそのかしたのが、ソ連中国共産党などの共産主義者であった。
 最も憎む相手は、ソ連コミンテルン中国共産党などの共産主義者であった。
 そして、反天皇反日ユダヤ人である。
 アメリカの軍産複合体は、大量の軍需物資生産で大儲けし、アメリカの戦争バブルが1970年代まで続いた。
 戦争バブルがベトナム戦争の敗北ではじけて、アメリカ経済は不況に突入した。
   ・   ・   ・   
 沖縄攻防戦。アメリカ軍は、日本人は兵士も一般人も最後の一人にあるまで抵抗する事から、兵士達に「JAP HUNTING LICENSE(日本人狩猟許可証)」を手渡し女子供に関係なく絶滅するまで容赦なく殺す事を許した。
   ・   ・   ・   
 日本軍守備隊約11万人は、長期消耗戦作戦から、水際撃滅戦術を放棄して敵軍の上陸を許した。
 4月2日 上陸地点に近い読谷村で、一般市民が敵の捕虜になる事を恐れて集団自決した。83名中51名が、20歳以下の子供であった。
 同様の集団自決は、日本軍に関係なく、慶良間諸島伊江島沖縄本島などでも起きていた。
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 八重山諸島における戦争マラリヤで、島民約3万1,000人の内約3,600人が死亡した。
 軍による、マラリア発生地帯への無謀な疎開命令で引き起こされた惨劇であった。
 軍は、マラリアが蔓延している事知りながら、充分な医療物資も食料も用意せず強制的に移住させた。
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 2017年2月号 正論(恒川健一)「Mr.フィギュア 今月の一言
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 終戦近く1945年4月11日午後、1機の神風特攻機零戦52型丙)が沖縄東方海上の米国戦艦ミズーリ右舷に突っこんだ。機体は激突四散し甲板上に遺体が投げ出された。戦艦の乗務員は冒涜する行為と怒り狂って海に落とそうとしたが、艦長W・キャラハン大佐は『この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。国家に命を捧げた有志であると敬意を表し水葬に付したい』と乗務員の反対を押し切り、星条旗に日の丸を描き遺体を包んで、翌12日海軍葬という最高の礼をもって遇した」
 日本は、好敵手のアメリカとは理解し合えるが、中国や韓国・北朝鮮とは分かり合う事はできない。
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 4月12日 アメリカ大統領ルーズベルトは急死した。
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 6月 尖閣列島戦時遭難事件。八重山諸島守備隊は、沖縄本島における戦闘が終了し、次は八重山諸島への米軍上陸が予想されるとして、民間人の疎開計画を立てた。
 6月30日 疎開を希望した高齢者や女子供の約180人(日本人以外に朝鮮人や台湾人も含まれていた)は、民間から徴収した船「第一千早丸」「第五千早丸」に乗船して、台湾の基隆港を目指して石垣島を出港した。
 7月3日 2隻の疎開船は、西表島を経由して尖閣諸島に達した所で、米軍機に発見された。
 米軍機は、非武装疎開船であって敵船舶として機銃掃射と爆撃を行った。
 第一千早丸は炎上して轟沈され、第五千早丸は大破して航行不能となった。
 沈没した第一千早丸の疎開者は全員死亡し、大破した第五千早丸の船内でも多くの者が負傷した。
 尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑「船上は阿鼻叫喚の坩堝と化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た」
 第五千早丸の船員は、米軍機の再来を恐れながら、必死にエンジンを修理して近くの尖閣諸島に船を入港させた。
 生存者は、尖閣諸島に命辛々這い上がったが、そこは無人島で水はあっても食糧がなかった。
 最初のうちは手持ちの米があったが、米が尽きるや雑草やヤドカリなど食べれそうな動植物を食べて飢えを凌ぎ、それさえもなくなるや水の飲んで我慢した。
 皆で助け合いながら救援が来るのを待ったが、ついに、負傷者や体の弱い者から餓死者が出はじめた。
 8月12日 生存者は、このままでは全員が餓死するとして手製の小舟を造り、石垣島に向けて救援を求める決死隊を送り出した。
 8月15日  決死隊は、前日の夜中に石垣島西部の川辺に辿り着き、日本軍守備隊に救助を要請した。
 8月16日 旧日本軍守備隊は、軍用機を飛ばして尖閣諸島に食糧を投下し、生存者達を救出する為の船を徴用した。
 8月18日 旧日本軍守備隊の救助船3隻は、尖閣諸島に到着して生存者を救出した。
 尖閣諸島遭難事件における犠牲者数は不明であるが。
 尖閣諸島で死亡した避難者の遺骨は、中国共産党政府の非難を恐れて収集し慰霊祭も行えず放置されている。
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  沖縄戦時中。アメリカ人兵士は、住民女性を強姦する事件が多発していた。
 アメリカ軍軍法会議は、強姦事件を起こしたアメリカ人兵士に禁錮9年の有罪とし不名誉除隊の判決を下した。
 海軍法務総監は、戦闘終了後の10月に有罪判決を破棄するよう勧告した。
 アメリカ海軍長官は、11月に判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。
 そこには、日本人の命より白人・アメリカ人の権利を優先するという人種差別が存在していた。
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 沖縄戦末期。日本軍守備隊は、アメリカ軍の猛攻で甚大な被害を出し、組織的に抗戦ができなくなり島南端へと退却した。
 島南端の日本軍陣地以外の洞窟は、避難民で一杯であった。
 所属する部隊を失った日本軍兵士は、軍の指揮系統から離れ避難民と一緒に洞窟に逃げ込んでいた。
 避難民の中には、乳飲み子を抱えた若い母親もいた。
 乳飲み子が泣き始めるや、避難民達は泣き声がアメリカ軍に聞かれ、洞窟が発見され攻撃を受けて皆殺しになると恐れた。
 日本軍兵士は、若い母親に黙らせるよう恫喝し、泣き止まないのなら乳飲み子を殺すか、乳飲み子と一緒に洞窟を出るように銃を突きつけた。
 避難民達は、自分が洞窟に潜んで生き残りたいが為に、若い母親を庇う事なく見捨てた。
 若い母親は、乳飲み子の首を絞めて殺し洞窟に留まるか、乳飲み子と一緒に洞窟を出るかの、二者択一の究極の選択を強いられた。
 意識の強い若い母親は、我が子の首を自らの手で絞めて殺しても洞窟内に留まったであろう。
 意識の弱い若い母親は、我が子を殺し、その自責の念で半狂乱となって洞窟を飛び出したであろう。
 そこに居合わせた日本人は、「我が身大事」として乳飲み子を助ける為に母親を助けず、横暴な日本軍兵士を誰も止めなかった。
 逃げ場のない極限状態に追い詰められた時、人は我が身が可愛く、生き残る為に他人を平然と犠牲にする。
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 アメリ陸軍省戦史局編集の公式報告書『OKINAWA: THE LAST BATTLE』
 「沖縄で支払った代償は高価なものであった。アメリカ軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」
 「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」
 「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上 「だが、アメリカ軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」
 アメリ海兵隊の公式活動報告書、「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」
 「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」
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 アメリカ人兵士達は、兵士専用の性的慰安所がなかった為に、戦争の終結後も日本人収容所やアメリカ軍占領地域で住民への暴行や強盗行為は続いていた。
 報告書には、無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行や住民女性への拉致・暴行・強姦も多数報告されていた。
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 6月23日 第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は切腹自決した。
 6月24日 歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼して玉砕した。
 6月25日 大本営は、沖縄本島での組織的戦闘が終了したと発表した。
 沖縄戦の日本側死亡者、18万8,136人。カミカゼ特攻隊約1,900機。
 県外出身日本兵戦死者、6万5,908人。
 沖縄県出身軍人・軍属、2万8,228人。
 戦闘参加者、5万5,246人。
 一般住民、3万8,754人。
 沖縄県民の3人に1人が、戦争で死んだ。
 命よりも大事なものがあると知っていた日本人は独自の死の美学を持ち、その美しい心を守る為に軍隊に協力して潔くあっさりと死んだ。
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 日本の心を持つ者は、太田実海軍少将の最後の電文に感動した。
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 戦場を逃げ回った者にとって戦争とは地獄であったが、投降した者にとって境界が有刺鉄線で区分された収容所はそ生き地獄であった。
 食糧の配給は意図的に遅配され、わざと劣悪な衛生環境に置かれ、マラリアなどの疫病が発生しても満足な治療がされなかった為に毎年1,000人以上が病死した。
 毎日のように射殺や暴行などの兇悪な事件が起きたが、アメリカ兵士による犯罪は個人の楽しみとして全て不問に付された。
 日本軍以上にアメリカ軍は、人道を無視し人権を踏み躙っていた。
 日本のアメリカ軍は、ヨーロッパのアメリカ軍とは違い自由と民主主義の解放軍ではなかった。勝者にとって負けた者は、人権のない奴隷以下の動物に過ぎなかった。
 国際赤十字社なども、敗者となった日本人の人権を無視した。
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 大田昌秀「最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧まで奪い取ってしまう。そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって『お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け』と冷酷に言い放ったのだ」
 「ある時、摩文仁海岸の岩陰で一人の海軍将校が、水色の軍服に巻いた脚絆を佩(は)いて岩の上に正座し、東方に向かって深々と頭を下げると、あっという間もなく手榴弾で自決するのを見た。その瞬間、付近の岩陰から何人かの敗残兵たちが飛び出し、先になった者が死者の傍にあった肩かけの袋に足を掛け拳銃を構えて周りを見回した。すると別の兵隊が手榴弾を投げつけて彼を殺害して食糧を奪い取るのを目のあたりに見せつけられた」(『沖縄の決断』)
 「日本軍に対する不信感という以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本軍が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随分見て、鬼畜米英と教えられたのは間違っていたのかもしれないと思うようになりました」
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 沖縄県民は、日本軍によって集団自決を強要され、アメリカ軍によって殺害と暴行と強姦された。
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 アメリカ軍は、日本本土を空爆と侵攻の為の空軍基地を造るべく、戦災で家を失った沖縄県民を保護する名目で強制的に収容所に入れ、有無を言わせず土地を接収し、大型車輌を投入して家や墓を破壊した。
 アメリカ兵は占領軍の特権として、幼児から老女まで女であれば強姦した。
 6歳の女児が、アメリカ兵士に強姦されゴム捨て場に捨てられた事件も起きていた。
 アメリカ軍兵士の多くが宗教的人種差別主義者で、日本人を人間以下の黄色い猿と見下していた。
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 2021年4月4日 MicrosoftNews 文春オンライン「「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言
 早坂 隆
 「甲板は一瞬で血の海、泣き叫ぶ声で地獄絵図に」機銃掃射の尖閣沖、生き残った日本人の告白 から続く
 漂流者たちの身体はみるみる衰弱し、重度の栄養失調に陥る者が続出。餓死者が相次いだ――。終戦直前、多くの日本の民間人を乗せた疎開船が遭難し、無人島だった尖閣諸島に流れ着いた。しかし、そこから120人を超える遭難者集団による、過酷な飢えの日々が始まった。
 尖閣諸島で起きた秘史について、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回め/ #1 を読む)
◆◆◆
 いきなり始まった「無人島生活」
 尖閣諸島の沖合で米軍機の襲撃に遭った疎開民たちは、傷ついた船で尖閣諸島魚釣島を目指した。
 石垣島の北西約170キロの位置にある尖閣諸島は、魚釣島や北小島、南小島、久場島大正島などから構成される。
 3・8平方キロメートルほどの面積を持つ魚釣島は、その中で最大の島である。明治時代には筑後国上妻郡(現・福岡県八女市)出身の実業家である古賀辰四郎が、島内に鰹節工場を建設。船着場も設けられた。最盛期には250名ほどが暮らしていたとされる。しかし、昭和15(1940)年に事業は停止。人々は島を去った。
 ©️共同通信社© 文春オンライン 尖閣諸島魚釣島の岩だらけの海岸(1979年)  
 島に閉じ込められ、負傷した腕からはウジが…
 それから5年後、疎開船を攻撃された漂流者たちが、無人島となっていたこの島に上陸を果たしたのである。昭和20(1945)年7月4日のことであった。
 この時に上陸した人の数は正確には不明であるが、120名以上はいたという証言が多い。
 漁師の証言通り、島内には確かに天然の湧き水があった。漂流者たちはこの湧き水によって、ようやく喉の渇きを癒すことができた。
 その後、石垣島に救助を求めに行くために、一部の者たちが友福丸に戻った。だが、直したばかりの機関が再び故障。計画は断念せざるを得なくなってしまった。友福丸はやむなく海上に放棄された。
 こうして漂流者たちは、魚釣島に閉じ込められるかたちとなった。この島で救助が来るのを待つことになったのである。
 しかし、彼らを取り巻く状況は極めて悪かった。米軍機の攻撃時に重傷を負った者も多く、傷跡にはすぐにウジが湧いた。遭難者の一人である石垣ミチはこんな話を伝える。
 〈朝鮮の女の方で腕をやられ、わずか皮だけで腕がぶらさがり、その腕から湯呑み茶わんいっぱいくらいのウジがでてきました。この方は泣きながら、ぶらさがっている腕を切ってくれと嘆願して、どうにもならないのでカミソリで切ってやりました〉(『沖縄県史 第10巻』)
 次々と人が死んでいく「飢餓地獄」
 漂流者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)などを重ねて屋根代わりにし、その下で暮らした。
 漂流者たちの主食となったのも、このクバの茎や若葉であった。当初は船内にあった米や味噌、各自の携行食などを集め、共同で炊事をして分け合いながら食べていた。しかし、少ない具の量を巡って、諍いが起きることもあった。その後、それらの食糧が尽きると、各自で食べ物を調達するようになったのである。
 漂流者たちはクバの茎をそのまま生で食べたり、水煮にしたりした。その他、サフナ(長命草)やミズナ(ニンブトゥカー)なども口にしてなんとか飢えを凌いだ。漁のできる技術や体力のある者は魚や貝、海藻などを採集した。ヤドカリやトカゲを捕まえて食べる者もいた。岩の窪みに溜まったわずかな塩を集めて舐めた。
 それでも食糧はまったく足りなかった。一部には、食糧を独り占めしようとしたり、他人の分を盗み取ろうとする者も出た。5人の子どもを連れた母親だった花木芳は、島での体験をこう記す。
 〈そのうちに食べものも無くなり、栄養失調になって動けなくなってからは、顔も体もよごれ放題、青ぶくれしてお腹も腫れて、このまま死んで行くのではないかと思っていた。
 島で一番初めに亡くなったのは、離れに住んでいたンミ(婆さん)だった。くばの葉の下に、手を組んで膝を抱いて座るようにしていらっしゃるので、「ご飯ですよう」と声をかけても聞きなさらないから、「婆ちゃんを呼んでおいで」と子どもをよこしたら、「あのばあさん、死んでいるよ」と子どもにいわれて初めて知った〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)
 毒のある豆を食べて中毒死する人も…
 毒のある豆を食べた者が中毒死する事件も起きた。当時、10歳だった石垣正子は、次のように回顧している。
 〈ある日、キヌ姉が山の向こう側の浜に豆が生えていると言うので、二人で豆を取りに行きました。それは丸っこい葉で蔓がそこらいっぱいにのびて、空豆に似た豆がいっぱい生えていました。その豆を煮て食べたら吐いたり下したりで、キヌ姉は祖母にさんざん叱られ、キヌ姉はどうしてこんなになるまで食べるのと私を怒り、大変な事になりました。この毒豆で死んだ幼子もありました〉(『沈黙の叫び』)
 このような毒豆を食わずとも、重い下痢に悩まされる者が多かった。こうして漂流者たちの身体は、みるみる衰弱していった。重度の栄養失調に陥る者が続出し、餓死者が相次いだ。当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。
 〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)
 小さな帆船を製作し、決死の脱出計画
 島には時折、米軍からの空襲もあった。漂流者たちを巡る状況は悪化するばかりであった。
 絶望的な日々が続く中、状況を打破するための一つの試みが始まった。8月上旬、一部の漂流者たちが「サバニ」と呼ばれる小さな帆船の製作を始めたのである。サバニは南西諸島で古くから漁のために使われてきた小舟だが、漂流者の中に船大工がいたのだった。
 流れの速い黒潮に囲まれた魚釣島には、岸に何隻かの難破船の残骸があった。それらの難破船の木材や釘が、サバニの貴重な材料となった。
 釘は錆びついていたものを伸ばして使った。婦人たちは衣服などを縫い合わせて、船の帆をつくった。
 こうして全長5メートル、幅2メートルほどのサバニがついに完成した。
 敵機からの機銃攻撃によって船体に穴が開いた場合のことを考えて、様々な大きさの木の栓も用意した。止水用の栓である。
 石垣島に向かう9名の「決死隊」を結成
 こうしてこの船を使って石垣島まで連絡を取りに行く「決死隊」が結成された。選ばれたメンバーは、一心丸の機関長だった金城珍吉をはじめとする9名の男たちである。
 決死隊が魚釣島を出たのは、8月12日の夕方であった。9名は島に残る者たちが歌う「かりゆし」の歌声と共に送り出された。
 十分な材料もない中で急造したサバニでの航海は、まさに死を覚悟したものだった。決死隊の面々は出発前、自身の頭髪や爪を切り、島に残る者たちに預けていた。もしもの時の「かたみ」であった。
 サバニはやがて島の沖合に出たが、風も順風とは言えなかった。6名が漕ぎ手となって、懸命に櫂を漕ぎ続けた。
 翌13日は、不運にもほとんど無風となった。さらに途中、3回ほど米軍機が上空に現れた。しかし、そんな危機にも「決死隊」は冷静であった。彼らはサバニをわざと転覆させて舟の下の海中に身を隠し、無人の転覆船を装ってやり過ごしたのである。
 14日、ついにサバニは石垣島に到着。駐屯する日本軍の守備隊に遭難の情報を伝え、救助を求めることができた。
 魚釣島から見えた「日の丸」
 だが翌15日、大東亜戦争終結。日本は敗戦国となった。
 無論、魚釣島に残っている者たちは、玉音放送のことなどつゆ知らず、助けが来るのをひたすら待っていた。
 魚釣島の上空に日本軍の機体が姿を現したのは、16日のことである。最初、機影を発見した漂流者たちは、
 (また敵機か)
 と思い、岩陰に身を隠した。しかし、機体に「日の丸」が見えると、一斉に歓喜の声をあげた。漂流者たちは涙を流して喜び合い、機体に向けて懸命に手を振った。島の上空を旋回した機体は、落下傘に吊るした筒を落として飛び去っていった。筒の中には、乾パンや金平糖などの食糧が入っていた。魚釣島には航空機が着陸できるような場所がないため、救助は艦船で行うことになったが、まずは食糧の投下を実行したのである。
 食糧を得た漂流者たちは、
 (もう大丈夫)
 と心から安堵した。
 しかし、中には身体が衰弱し切っていて、もはや手遅れの者もいた。分けてもらったばかりの金平糖を握りしめながら息絶えた者もいたという。
 それから2日後の18日の早朝、生存者たちは島に近づいてくる3隻の救助船を発見した。生存者たちはクバの葉を燃やした煙で合図を送った。
 こうして漂流者たちは救出された。
 生存者たちは次々と救助船に収容されたが、島で亡くなった者たちの遺骨を持ち帰ることはできなかった。
 帰還後にも起きた悲劇
 救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
 そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
 魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。父はそんな洋子を見て、
 「子どもたちが元気になった」
 とおどけて踊ってみせていたという。
 さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
 束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
 この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。
 終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
 しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
 遺骨収集も進む気配がない。多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)
 (早坂 隆/Webオリジナル(特集班))」
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 尖閣諸島戦時遭難事件あるいは尖閣列島戦時遭難事件とは、太平洋戦争末期の1945年7月に日本の小型船2隻がアメリカ軍機の攻撃を受け、当時、無人島だった尖閣諸島に漂着した事件である。約50日後に救出されたが、戦闘と飢餓などにより50人以上が死亡した。石垣島から台湾へ民間人を疎開させる途中に遭難したもので、「対馬丸」以外に沖縄県からの疎開船が撃沈破された数少ない事例である。台湾疎開石垣町民遭難事件、あるいは遭難船名に由来して一心丸・友福丸事件とも呼ばれる。
 事件の経過
 石垣島尖閣諸島・台湾の位置関係。
 1945年(昭和20年)6月24日、石垣島の住民に対し、24回目となる台湾疎開希望者の募集がされた。台湾へ物資を受け取りに行く独立混成第45旅団「水軍隊」所属船の往路を使った輸送であった。6月30日の夕刻に石垣港で乗船が始まり、「友福丸」(軍呼称:「第一千早丸」)と「一心丸」(軍呼称:「第五千早丸」)の焼玉エンジン搭載小型船2隻に約180人が乗り込んだ。乗船者のほとんどは女性と子供で、男性は高齢者が少数、朝鮮人と台湾人も少数いた。乗船者数を各120人程度の約240人とする回想もある。
 船団は、空襲を避けるためになるべく夜間航行を選び、6月30日夜7時頃に石垣港から台湾の基隆港を目指し出航、7月1日午前2時頃に経由地である同じ八重山諸島西表島船浮へ入った。昼間は碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、「友福丸」のエンジン故障のため出港を延期し、7月2日の午後7時に船浮を出た。船団は台湾直進ではなく、尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路で進んだ。
 船団が数時間で基隆入港予定という7月3日午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側ではB-24爆撃機と判断)1機によって発見されてしまった。アメリカ軍機は船団側方から3回の爆弾投下と機銃掃射を行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射を1回加えた。日本側は機関銃で応戦したが、効果は無かった。船上では「一心丸」の宮城三郎船長以下死傷者が続出し、銃弾で割れた瓶から味噌が流れて血と混じる惨状となった。「一心丸」は船体中央部に爆弾が命中して炎上沈没、「友福丸」も機銃弾でエンジンが破損して航行不能となった。アメリカ軍機は、「友福丸」も沈没するものと判定しつつ立ち去った。「友福丸」から伝馬船が降ろされて救助作業が行われたが、乗船者には体力に劣り泳げない者も多かったため相当数が溺死した。
 「友福丸」は浸水しながらもかろうじて沈没を免れ、有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り、翌7月4日朝にはエンジンも再始動できた。乗船者の中に尖閣諸島で古賀商店の鰹節製造事業に携わった経験者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり、4日午前9時半頃に魚釣島に到着した。このとき尖閣諸島には、本船団とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している。
 上陸当初は米や鰹節など乏しい食糧を出し合って野草入りの雑炊にする協同炊事が行われたが、1週間から2週間ほどで打ち切りとなり、以後は各自で食糧を集めた。魚釣島には淡水が湧くため飲料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木のビロウ(地方名:クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だった。ネズミやヘビも生息していたが、動きが素早くて捕まえられなかった。サクナ(長命草)などの野草や、磯辺で獲った小魚やヤドカリなどで命をつないだ。体力の低下が激しく、数人の餓死者が出た。毒草を食べて苦しむ者もあった。B-24爆撃機も島に連日飛来したが、幸いに死傷者は出なかった。
 救援を呼ぶために一部の者が「友福丸」で出発したが、すぐに機関故障を起こして航行不能となり、やむなく船体を放棄して伝馬船で島へと戻った。その後、手漕ぎのサバニを作って救助を呼ぶことが計画された。遭難者の中にいた船大工1人と陸軍工兵を中心に、海岸にあった難破船の残骸を資材として建造は進められ、10日ほどで全長5のサバニが完成した。陸軍兵と船員経験者ら8人の決死隊が編成され、出発直前に強く希望する主計准尉1人も加えて、8月12日午後5時頃に石垣島を目指して出発した。帆走と漕走で進んだ。途中で3度も敵機に遭ったが、攻撃は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島の川平湾へと到着、川平駐屯の日本軍部隊を経由して独混第45旅団司令部に連絡がされた。
 8月15日、事態を知った独混第45旅団の要請を受け、台湾所在の日本軍機が魚釣島に飛行、乾パンと金平糖をパラシュート投下した。石垣島からも独混第45旅団水軍隊の長谷川少尉が指揮する2〜3隻の救助船が軍医を乗せて出発し、終戦の日の後である8月18日に到着した。救助船は魚釣島所在の生存者を収容し、19日午後に石垣島へと帰還した。救出されたにもかかわらず、急に多量の食物を摂取したことによる消化器疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという。
 また、救助船到着時に南小島(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま帰島不能で消息不明になっていた者が6人あり、取り残されてしまった。6人が魚釣島へ戻ったときには救助船が去った後で、うち2人はその後に病死した。残る4人は、11月に家族が雇った台湾漁船によって救助された。
 犠牲者数については諸説あるが、『沖縄県史』の統計表では乗船者180人余のうち死亡75人、『琉球新報』によれば救出までの死者70人・救出後の衰弱死等20人近くとされている。このほか、少ない数値では戦死者約45人・餓死者8人、多い数値では約240人乗船で半数死亡とする回想もある。また、『沖縄県史』では、八重山諸島住民の戦闘死者総数179人のうち、船の沈没による死者総数37人となっている。
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⛅6:─1─琉球処分。明治天皇は沖縄県民を救った。中国系琉球人の琉球独立論。沖縄県民の海外移住。1879年~No.14No.15No.16 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1338年 琉球を含めた国内最古の「日本地図」が作成された。
   ・   ・   ・    
 琉球王朝は、百姓や職人など庶民を牛馬の如く扱い、重税を課して搾取していた。
 沖縄は台湾同様に宿痾の島として、猛毒を持つハブやムカデの生息地であると同時にマラリア結核アメーバ赤痢などの感染症地帯でもあった。
 衛生観念が低く、医学知識も稚拙で、治療はシャマニズムによる祈?に頼っていた。
 人間らしい暮らしは王府のある首里と有力領主が住む町ぐらいで、後の集落は貧困であった。
 人並みの生活をしていたのは、特権階級である琉球王家と琉球人領主そして中国系琉球人だけであった。
 特に少数派の中国系琉球人の横暴は目に余っていたが、琉球王家や琉球人領主は中華皇帝の介入を恐れて庶民の苦境から目をそらしていた。
 中国系琉球人は、琉球王府に対し中華世界の常識として、安定した琉球統治を続ける秘訣として琉球人庶民に無教養に置く事の重要性を説き、読み書きを禁止し、首里琉球語の使用を禁じ地域言語のみを認めさせた。
 島外から琉球人以外の人の移住がなく、島内でも人の移動が少なく、集落ごとに孤立し閉鎖的排他的共同体を形成していた。
 共同体以外の見ず知らずの若者同士の結婚はなかった為に、限られた血縁・血族間の結びつきで自然と血が濃くなって遺伝子異常による精神疾患が見られていた。
 食事事情・生活健康・精神状態・医療情況などが原因して、琉球人の平均寿命は47歳であった。
 明治天皇は、新たな臣民となった沖縄県民の生活向上を図るべく多額の皇室内帑金(ないどきん)を下賜した。
 こうした情況は、アメリカの沖縄統治で改善された。
 アメリカは、27年間の統治の間に人材と資金(約10億ドル、日本円16兆5,000億円)を投じて、医療福祉を充実させ、伝染病を根絶し、精神疾患の治療に当たった。
 アメリカ統治の遺産として、1975年5月の沖縄本土復帰頃には平均寿命が79歳となり全国最長寿県となった。
   ・   ・   ・   
 1879年 琉球処分。 日本政府は、清国が琉球王国を自国領(中国領)に併合若しくは傀儡国家として隷属下に置く事は日本の生存を脅かすと恐れ、琉球王国が自主的決断を出す前に強引に併合する手段を取った。
 琉球王国が、自主的決定権で、一国独立国家を堅持するのか、中国領の道を選ぶのか、日本領に編入する道を選ぶのか、を議論で結論が出るのを悠長に待つゆとりはなかった。
 帝国主義時代の世界的潮流において、どう考えても琉球王国のような小国が軍事力を持たず独自の外交で独立を守る事は不可能であった。
 国際航路の中継地でもないハワイ王国アメリカによって併合され、ハワイ王家は王位を剥奪され消滅した。
 国際航路の一つである東シナ海にある琉球王国を、日本と清国が自主独立を尊重して手を付けなくても、オーストラリア、ニュージランド、カレドニアなのように欧米列強が植民地にするか自国領・自治領とした可能性があった。
 帝国主義時代の外交において、国力(軍事力・経済力)が同等か優位になければ意味がない。
 一国のみで自国を守り切れない琉球王国が、アメリカやフランスなどと対等に修好条約を結んだ所で守られるという保証はなかった。
 琉球王国は、タイ王国のように列強間の力を巧み使った老練な外交を行う能力はなかった。
 もし民族意識と外交能力があれば、易々と日本に併合される事もなかったし、同化の為に創作された『日琉同祖論』に感化され沖縄県民になる事もなかった。
 時代の趨勢、世界の情勢、地域の力の均衡において、琉球併合は避けられない事態であった。
 現代の国際法ではなく、当時の国際法において琉球併合は合法であった。
 「良い悪い」の問題ではなく、それ以外に選択肢がなかったと言うしかない。
 弱小国・琉球王国がいずれかの大国・強国に併呑されて消滅するのが、地政学上の道理であった。
 時代の流れとして日本に併合され消滅した琉球の旧士族階級は、王国の復興を求める「頑固党」と日本のもとで近代化を目指す「開化党」に分裂した。
 何時の時代も、何処の地域でも、庶民にとって自分の生活が脅かされない限り支配者が誰になろうとも気にはしなかった。
 それは、日本でも同様であった。
 御維新で明治新政府の世になった時、庶民は強制的に戦場に立たされて殺されるのが嫌で、祖国を守る為の徴兵制に対して反対し暴動を起こしていた。
 庶民には、愛国心はなく、戦死を覚悟で日本を外国の侵略から守ろうという意思はなかった。
 当時の日本人は、戦争を嫌う現代の日本人に似ていた。
   ・   ・   ・   
 頑固党(支那党)は、琉球の独立を守るか、宗主国・清国の属国のまま留まるか、それが駄目なら中国の一部に編入して貰う。
 清国の軍事力を利用して本土・日本人を琉球から追い出す為に、軍隊の派兵を清国に要請した。
 清国は、海とは無縁な遊牧民族満州人であった。
 中国、中華帝国は、古代から大陸国家として海には関心が全くなかった。
 もしこの時、清国に軍隊を海外に出兵する海軍力があれば、弱小国日本は琉球を放棄するしかなかった。
 だが。清国は、援軍要請を拒否し、日本が琉球を併合するのを黙認した。
 頑固党は、琉球を日本から救う清国の援軍を得られなかったが、絶望せず、諦めず、琉球を日本から救う為の活動を続けた。
   ・   ・   ・   
 琉球の未来は、琉球人が決めた。
 琉球人は、清国人・中国人ではなく日本人になる事を選んだ。
   ・   ・   ・   
 なぜ琉球王国が、日本天皇を象徴する日本国家とは違って李氏朝鮮王朝同様に消滅した。
 日本は、民族国家の自主独立と日本天皇制度を中心とした国體を守った為に、戦えば全滅・玉砕するかもしれないという絶望的な戦いを、無謀無益を承知で、一か八か、死中に活を求める、やってみなければ分からない、破れかぶれ、として、最後の勝利を信じ死を覚悟して民族構成員一丸となって前に出て戦ったからである。
 「守る為に戦争をして死ぬ事に後悔しなけい」という、沈着にして冷静な破れかぶれ精神が日本を存続させた。
 琉球王国李氏朝鮮王国も、無駄な努力・無謀な行動はしないという成熟して一面から日本のような発狂せず、無駄な努力を省いて合理的な行動、「夷を以て夷を制す」の老獪な外交を取った。
 琉球王国李氏朝鮮王朝は、非武装として自力での祖国防衛戦を放棄し、日本の仮想敵国である中華帝国・清国の軍事力を利用するべく援軍要請を行った。
 自国の安全を他国の軍隊で守ろうとする国が滅びる事は、人類史が証明する所である。
 自国の存続を守る為に国民が如何なる犠牲を出しても戦わなければ滅亡・消滅する事は、人類史の大原則である。
 琉球王国李氏朝鮮王国が滅亡した原因は、中華帝国・清国の軍事力で日本を追い出して祖国を守るとした事が最大の原因である。
 もし、琉球王国李氏朝鮮王国が民族上げて日本の侵略から祖国を守る全面戦争を行えば、中華帝国・清国だけではなく、北方領土・北海道・対馬の領土化を狙うロシアが全面支援した。
 アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米列強は、ハイエナのように、戦後のおこぼれを狙う為に傍観した。
 時代は、領土拡大・植民地獲得を普遍的正義として、平和ではなく戦争が世界を支配していた。
 国家の興亡は、歴史が証明している通り、予め定められた運命ではなく、冷徹な地政学的通りに過ぎない。
 自国に不運は、その国民に責任であった、他国のせいではない。
 日本は、祖国を守る為に国家と国民が好戦的となり一丸となって戦った。
 琉球王国李氏朝鮮王国は、平和を求めて戦わず他国の軍隊に頼って祖国を守ろうとした。
   ・   ・   ・   
 1880年 日本と清国(中国)は、1874年の台湾事件を契機として国境画定交渉を行っていた。
 日本政府は、琉球は日本領とし、台湾に近い先島諸島八重山諸島宮古諸島尖閣諸島)を清国(中国)領にし、先島諸島を割譲する代償として清国は中国国内で欧米列強同様の通商権を日本に認可するとうい「分島・改約」案を提案した。
 清国代表団は日本側提案を受け入れたが、清国本国は批准しなかった為に発効しなかった。
 大国意識が強い中国人は、伝統的儒教価値観から小国日本を野蛮で極貧の劣等国と軽蔑していただけに、小さな先島諸島を手に入れる為に欧米列強と同じ権利を与える事は面子を潰す恥ずべき行為と嫌った。
 「倭」とは、尊称ではなく蔑称の差別用語である。
   ・   ・   ・    
 琉球帰属をめぐる日本と清国の外交交渉。
 清国側の主張。
 1,琉球王の即位は中国皇帝よりの冊封による。
 2,清帝即位の時、琉球王により慶賀使を派する。
 3,年号、歴法、文書いずれも清制で、米・仏・欄(オランダ)との条約もその通りとなっている。
 日本側の反論。
 1,西暦700年代より南島の朝貢を受け日本がこれを管治した。
 2,琉球国王は日本の皇胤である。
 3,風土、文学、言語、宗教、人種、風俗、習慣、いずれも日本と同じである。
 4,西暦1441(嘉吉元)年以来薩摩に属し、従っていて日本は数百年来統治権を行使してきた。
 5,中国への冊封、進貢は経済上の欺瞞行為に過ぎない。
 6,琉球を独立国と認めない、古来中国とその隣邦との冊封、進貢は有名無実の虚礼である。
 7,台湾藩社事件の解決において清国は日本の権利の正当性を認めた。
 清国側は、日本側の主張を論破できず引き下がった。
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 1884年 イギリスとドイツは、東部ニューギニアを領有した。
 1885年 ドイツは、マーシャル諸島を植民地とした。
 アジアや太平洋島嶼は、欧米列強の植民地か領土なり、先住民は奴隷にされた。
 日本は、ロシアの侵略と清国の軍事圧力から祖国を守る為に、琉球や朝鮮の意思を無視して軍事国家を目指した。
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 1886年 沖縄県では明治19年に義務教育令が施行されたが、男尊女卑や庶民蔑視の儒教的価値観が根強かった為に就学率が本土並みになる事がなかった。
 明治政府は、琉球保守派の反対を退けて義務教育の徹底を強引に推し進めた。
 上杉茂憲(第二代県令、賊軍の元米沢藩主)「農民は一切文字を読書きできず、自分の名前すら書けない。従って自ら視野を広める事は不可能である。家屋は小丸太を柱にして茅ふきで風雨を防ぐのに苦しみ、冬夏も一枚の粗悪な芭蕉布を着て、食事はイモやソテツだけである。居るに席なく食事の食器もなく、鶏豚牛羊は家の中に雑居して、人と畜類と少しの区別もなく、蚊蛇に刺されっぱなしだ。人々は生きている間、ただひたすら男は畑を耕し、女は布を織るでけである」
 「ああどうしてこの沖縄県民だけこのような不幸を背負うのか、廃藩置県の盛挙こそ千載一遇の好機だ、これまでの汚染を洗浄し明治維新の恩沢(皇沢)を彼らに与え、以て彼らの苦しみを解消すべきだ」(『上杉県令巡回日誌』)
 上杉県令は、諸改革を行うと共に、県内で奴隷としての人身売買が横行しているのを発見し、直ちに禁止した。
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 沖縄の人口は、琉球併合・琉球処分廃藩置県頃では約31万人であったが10年後には40万人に増えていた。
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 1898(明治31)年 明治政府は、沖縄で徴兵制を施行した。
 中国系琉球人など一部の県民は、日本天皇と日本国を守る為の徴兵を忌避して清国へ亡命した。
 清国は、亡命してきた中国系琉球人こそが本当の琉球人であるとして、何時の日か琉球を台湾と同時に奪い返すと誓った。
 大阪朝日新聞は、翌明治32年に「琉球人福州に寄食す」と言う記事を掲載して忘恩の徒である琉球人を避難した。
 中国系琉球人と一部の琉球人は、反天皇反日である。
   ・   ・   ・   
 1899年12月30日 沖縄県からハワイへの最初の移民が横浜から出港した。
   ・   ・   ・   
 1901(明治34)年8月19日 琉球最後の王・尚泰(しょうたい)侯爵が死去するや、支配階級であった琉球人と中国系琉球人は悲しんだが、搾取され牛馬の如く酷使されていた琉球人庶民は喜び、場所によってはお祭のように祝った。
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 1904(明治37)年5月 沖縄中頭群は大干魃に襲われて農産物は大打撃を受け、沖縄県民とくに農村部の被害は深刻で、農民は食べ物がなく餓死寸前に追い込まれていた。
 日本政府は、日露戦争の真っ最中で、戦費不足に苦しんでいた為に沖縄救済どころではなかった。
 明治天皇は、侍従の北条氏恭を沖縄に派遣し、皇室私有財産から皇后と連名で合計2,500円と食糧を下賜された。
 北条侍従は、沖縄本島の水不足解消として樟(くす、別名・楠)の植林を県に意見した。
 県庁は、直ちに本島中部一帯で植林を実施した。
 日本政府も、沖縄の自立の為に農地の私有制を認め、士族や大地主に農奴として使役され搾取されていた小作人や零細農民を解放させた。
 沖縄県民の国外移民、マニラ111人、ハワイ8人、メキシコ210人。
 1905年 沖縄県民は、皇室の御威徳に感謝しその御恩を後世に残すべく、本島中部北谷間切久得物見原に「植樟(しょくしょう)之碑」を建立した。
 碑文「後世に皇室の御遺徳を顕彰するため」
 沖縄県民は、餓死寸前の所を明治天皇に救われた事に感謝すると共にその御恩に報いるべく、臣民の義務として日露戦争勝利に貢献した。
 石垣島の島民は、バルチック艦隊を派遣するや船を漕いで知らせた。
 沖縄県民の国外移民、ハワイへ1,223人、仏領ニューカレドニアへ432人。
   ・   ・   ・   
 明治天皇は、沖縄が台風に襲われる度に救援活動を行い、被害を受けた琉球人達に救いの手を差し伸べていた。
 が。戦後。現代。反天皇反日的日本人や琉球独立派は、明治天皇や皇室が沖縄で行った救援活動や琉球人への救いの手を完全否定している。
    ・   ・   ・   
 1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)の成立。
 共産主義者は、日本やアジアを共産主義化する為に工作員を送り込んだ。
 日本は、反宗教無神論共産主義者から日本天皇と祖国日本を守為に軍事力を強化した。
 軍国日本の真の敵は、大虐殺を伴う暴力的共産主義革命を目指すソ連中国共産党日本共産党などの共産主義勢力であった。
   ・   ・   ・   
 1925年 大阪毎日新聞経済部長の松岡正男は、沖縄の実情を調査した結果を『赤裸々に視た琉球の現状』に書き記した。
 「沖縄県の農民は、全国平均生活程度の約3分の1にて生活するも労銀は、全国平均額の4分の1に達しない、即ち、全国平均は、男2円13銭、女1円14銭である。沖縄では男51銭、女24銭6厘に過ぎなかった」
 沖縄県には、県を豊かにできる近代的主要産業はなく、昔ながらの農業しかなかった。
 主力農産物は、サトウキビしかなかった。
 水田として利用できる豊かな土地は限られその大半をサトウキビ栽培に使い、残った痩せた土地でサツマイモなどを作っていた。
 よって、沖縄県の主食は米ではなくサツマイモであった。
 日本政府は、台湾振興の為に巨額な国税を投じて製糖業の振興と保護を行っていた為に、沖縄の製糖業は振るわず、沖縄県財政は赤字に近かった。
 沖縄県民は、貧困生活に耐えながら国民の義務として税金を納めても、日本は血税を沖縄の為ではなく競争相手の台湾や朝鮮に投じている事に不満を抱いた。
 沖縄農民は、天候に影響されやすくサトウキビを栽培しても、国の保護を受けた台湾産サトウキビとの競争には勝てず、生活費や納税の為に本土・日本から来た日本人金融業者に土地を抵当にして借金をした。
 1940年頃には、生産可能な沖縄の農地の7割が、本土・日本人に抵当として取られ、貧困農民は多額の借金に縛られ小作人の様に働かされていた。
 本土・日本人の金融業者、商社員、一旗揚げ組達は、本土の人間という優越感から貧しい沖縄人を見下し差別した為に、自尊心の高い沖縄人の反感を買った。
 同じ様な事は朝鮮や台湾でも起きていて、他人を軽蔑して見下す日本人は嫌われていた。
 好かれる日本人は、嫌われる日本人より少なかった。
 貧困農民は、本土・日本人は支配する沖縄での生活に見切りを付けて海外に移住して行った。
 海外に移住した日本人で、沖縄出身者が多いのはもの為である。
 1929年 県民の預金合計は640万円に対し、借入金は1,650万円で、月々払う借金の利息は高額であった。
 農業国で輸出する地場産業がない沖縄には、債務超過を自力返済する経済力がなかった。
 残念ながら、自己努力・自己責任で自力返済できない債務超過の巨額な赤字を抱えた沖縄県を救う手立ては戦争しかなかった。
 沖縄は、本土・日本の犠牲となった。
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 琉球王国は、中華帝国の属国として朝貢貿易を元手として台湾や東南アジアなどと中継交易を行ってい、薩摩を通じて日本とも友好関係を維持していた。
 琉球人は、中華帝国の一部になる事を夢見ていた朝鮮人とは違って中国大陸の実情を見知っていただけに、中華を文化、経済、軍事に優れた大国として敬意を持って礼を尽くしたが、朝鮮人のような卑屈に媚び諂って臣下の礼を取る事なく、自立して独自性を守っていた。
 琉球の弱みは、中国産製品を他地域に転売して利益を得る中継交易はできても、自国製品を海外に大量に輸出して国を豊かにするような競争力ある地場産業が少なかった事である。
 中華帝国が安定している時はいいが、一度動乱となって王朝が衰退し崩壊すれば朝貢貿易は途絶え国は貧しく疲弊し、新たな中華王朝が誕生するまでひたすら耐えて待つしかなかった。
 琉球王朝は、その急場をしのぐ方策として、琉球中華思想を採用して先島諸島など周辺諸島に対して朝貢を強要していた。
 琉球は、朝鮮同様に自給自足の農業国家であったが、朝鮮王朝と違う点は周辺地域に朝貢を行っていた事である。
 琉球王国が、自立国として自活できたのは、中華帝国との朝貢貿易、海外との中継貿易、周辺諸島との朝貢貿易、薩摩・日本との交易といった多様な海外交易である。
 決して、地場産業によるものではなかった。
 琉球が独立国家を維持できたのは、中華帝国が純然たる大陸国家として海外に関心も興味もなく領土拡大の意思がなかったからである。




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🌪14¦─1─日本の情報・機密情報を中国共産党・中国軍に流している利敵利得日本人。~No.68No.69No.70No.71 ㉔ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本はスパイ天国として、日本国内に数多くの中国共産党・中国軍、北朝鮮のスパイ・工作員が入り込み、日本人の協力をえて活発に活動している。
 国防の為のスパイ防止法制定に反対する日本人が存在している。
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 中国共産党は、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を日本から強奪するべく暗躍している。
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 2020年10月7日22:03 産経新聞尖閣 日本漁船の出漁情報、中国に漏洩か
 尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島沖縄県石垣市鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海内で中国海警局の船が日本漁船への接近を繰り返している問題で、中国側が、日本漁船の出漁予定を把握した上で活動しているとみられることが7日、政府関係者への取材で分かった。中国側は、日本漁船が予定を変更して出漁を見送った際も、当初予定に合わせて公船を現場海域に向かわせていた。日本政府は出漁情報が中国側に漏洩(ろうえい)しているとの見方を強めている。
 尖閣周辺で操業する日本漁船の状況は、地元漁業関係者らのほか、漁船を保護する立場の海上保安庁などが把握。尖閣の領有権を主張する中国は、領海内で操業する日本漁船を取り締まる動きを見せ、管轄権を行使していると強調する狙いがあるとみられる。
 このため、船舶動向については、衛星情報なども活用して把握を試みているとみられ、これまでも地元漁業者らの間では、「尖閣に出漁すると中国公船がすぐに現れる」との声が出ていた。日本漁船が出漁を取りやめたケースで中国公船が対応を取ろうとする動きが確認されるのは異例で、日本政府は何らかの形で中国側に情報が伝わっているとみている。
 政府関係者によると、与那国島(同県与那国町)の日本漁船は8月下旬、尖閣諸島東端の大正島周辺で操業する予定を組んだ。ただ、荒天によるしけが予想されたため出漁を見合わせたにもかかわらず、中国公船は、日本漁船の到着予定時刻に合わせて大正島周辺に向けて進路を変更し、現場海域で待ち構えるような動きを見せた。一連の動きは常態化している尖閣周辺での航行と、明らかに異なっていたという。
 数日後、この日本漁船が改めて大正島周辺で操業した際には、中国公船2隻が領海に侵入し、漁船に接近しようとした。日本漁船は5月と7月にも尖閣周辺での操業時に中国公船から追尾や接近を受け、いずれのケースでも警戒監視中の海保の巡視船が漁船と中国公船の間に入るなどして安全を確保している。海保は中国公船による日本漁船への操業妨害で、偶発的な衝突など不測の事態の発生を危惧している。
 ◇ 
 尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で7日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは31日連続。」
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 10月8日 産経新聞尖閣周辺に中国船 32日連続
 沖縄・尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島(鈴木健児撮影)
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で8日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは32日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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⛅4:─1─琉球王家の正史『中山世鑑』は1650年に成立した。~No.8No.9No.10  * 

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・  
 琉球王家は、正史『中山世鑑』で、父祖の地を父系社会の明国(中国)ではなく母系社会の日本と認めた。
 明国(中国)を父祖の地と記述した正史は存在しない。
 琉球は、日本に共通する面が多いが、明国(中国)に共通する面は少ない。
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 日本国語と琉球語
 日本神道琉球宗教。
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 琉球人の祖先は、日本民族日本人と同じ南方系海洋民の血をひく縄文人であり、北方系草原の民の子孫である漢族とは違う。
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 ウィキペディア
 『中山世鑑』は、薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史である。羽地朝秀が王命により編纂。1650年成立。全6巻。和文体で書かれている。
 正史としての性格上、神話的な琉球開闢説話など正確な歴史とは言い難い。羽地の信条は日琉同祖論で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的で、薩摩の支配圧力を如実に反映している。この信条は薩摩留学の頃に得たと見られ、『中山世鑑』に反映されている。和暦の採用や、源為朝(鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする(『琉球神道記』、『保元物語』、『平治物語』などを参考にしたと見られる)記述がある。為朝が琉球へ逃れ、その子が舜天になった事の真偽は不明だが、薩摩支配下での正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのための伝説とも考えられている。この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。
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 舜天(しゅんてん、1166年 - 1237年)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王。在位1187年 - 1237年。神号は尊敦。実在を証明する同時代史料は存在しないが、その名は16世紀頃から見られ、『中山世鑑』(1655年)や『中山世譜』(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
 概要
 舜天の名自体は、国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にすでに見られ、16世紀には実在の王と考えられていたことが分かるが、より詳しい経歴は、1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』に見ることができる。
 それによると、沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が25代続いた。この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添按司であった舜天とされている。
 王統は舜馬順煕・義本と3代にわたって続き、1259年に英祖に王位を譲ったとされている。舜天王統の支配力が沖縄諸島にわたることは疑問視されており、巨大な浦添城を中心に沖縄本島の多くの按司ら豪族を従える按司主だったのではないかとの推測もされている。
 『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、舜天は保元の乱で日本を追われた源為朝の子であるという。保元の乱で為朝は伊豆に流刑となったが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。尊敦は15歳で浦添按司となり、天孫氏25世の在位で謀反を起こし中山王に就いた利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。これが舜天と伝えられる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。これが真実であるとすれば、舜天と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟同士ということにもなる。
 『球陽』所載の伝説によれば、舜天は右鬢に角のような瘤があり、それを隠すために右側に髷を結い、人々もそれに倣ったという。これが琉球人の髪型、欹髻(かたかしら)のはじまりとされる。
 日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。


   ・   ・   ・   

⛅3:─1─島津の琉球侵攻。琉球王国と中華との冊封体制。イギリスの琉球及日本侵略意図。~No.5No.6No.7 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 琉球は、縄文時代から日本語を話し日本文化を共有する日本民族の一員であり、中国語を話す黄河文明を持った漢族ではなかった。
 琉球人は、漢族や朝鮮民族の北方系草原の民ではなく、日本民族や台湾人と同じ南方系海洋民であった。
 日本文化の原型は、琉球にあった。
 日本民族日本人にとって、琉球は原始の故郷の一つである。
 日本民族日本人が、琉球人を差別して軽蔑する事は、自分の祖先を侮辱する事である。
 琉球人は、日本国内の先住民族ではなく、日本民族日本人の原初の祖先である。
   ・   ・   ・   
 2018年6月24日 読売新聞「現在の琉球列島は約1200万年前まで、ユーラシア大陸の東岸部だった。約1200万年前〜約200万年前の地殻変動で大陸から徐々に離れていった。その後、氷期の海面低下と、温暖な間氷期の海面上昇に伴って、島同士がくっついたり離れたりを繰り返し、現在の姿になったと考えられている。
 屋久島や種子島などの『北琉球』は、九州とつながっていた期間が長く、九州と共通する生物が多い。一方、奄美大島や沖縄島などの『中琉球』と宮古島西表島などの『南琉球』は、沖縄トラフという深い海で分断された。生物は独自に進化し、そこにしか生息しない固有種が多く誕生した」
   ・   ・   ・    尚真王は、各地に居住する琉球士族が謀反や叛乱、内戦を起こさない様にする為に武器を取り上げた。
 武器を取り上げられた士族達は、鍛錬をする為に中国から伝来した武芸から空手を編み出した。
   ・   ・   ・    
 1466年 琉球王尚徳は、2,000人の軍勢を率いて奄美黄島や喜界島を侵略して奄美5島を支配した。
 琉球人は、好戦的な人間であった。
   ・   ・   ・   
 1590年 豊臣秀吉は、薩摩・島津氏を通じて琉球王国に対して朝鮮出兵を促した。
 日本の認識では、琉球は日本の一部と考えられていた。
 中国の認識では、琉球は中国の一部ではなく、中華秩序における朝鮮やチベット同様の忠誠を誓う従属国と見下していた。
 島津氏は、平和になれた琉球兵の戦闘力は低く役に立たないと判断し、琉球王府に対して兵を送り代わりに「7,000人分、10ヶ月の兵糧を送り、名古屋城築城にむけては金銀米穀で助力されたい」と伝えた。
 琉球王府は、日本が朝鮮を侵略する準備を進めていると明国に急報した。
 明国皇帝は、琉球国王の忠勤ぶりを褒め、朝鮮を侵略してくる倭族(日本人)を撃破する軍を編成する様に命じた。
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 1606年 明国皇帝は、琉球王尚寧に対し恩賞として冊封を授け、華夷序列を引き上げ朝鮮王国や日本国より高位に引き上げた。
 明国は、日本の再侵略を警戒して、琉球に対して日本の情報を送る様に命じた。
 琉球王国は、中華皇帝から日本国より上位国である事を正式に認められ、日本軍が明国軍によって撃破されたとの知らせを得て、日本は恐るるに足らぬと侮り慢心した。
 琉球には、昔からの琉球人と権謀術数に長けた出世意欲の強い中国渡来人子孫と南蛮・台湾・東南アジアとの交易の為に居住する日本人の三者が同居していた。
 同化性のある日本人は、琉球人と結婚し、琉球人と一緒に住んで農耕漁業を共に行った。
 同化しない中国人は、儒教価値観による特権意識が強く、琉球人を教養なき野蛮人・東夷と嫌悪し、一緒に住む事を拒絶して閉鎖的排他的なチャイナタウンを作り固まって生活していた。
 昔から住んでいる琉球人にとって、日本人とは同族意識が強く雑居し自由恋愛で結婚していたが、中国人とは馴染めず琉球人を見下す傲慢さには辟易としていた。
 中国人渡来人の子孫と親中派琉球人は、莫大な利益をもたらす中国利権を守るべく、中華皇帝への忠誠の証として琉球王府から親日派勢力を一掃した。
 琉球王府は、薩摩藩が立て替えた7,000人分の兵糧の半分を返済したが、残りは国交を断絶して踏み倒し、琉球に上陸した薩摩藩の使者を侮辱して追い返した。
 薩摩藩は、体面を潰す様な琉球王府の不義理に激怒したが、日本から遠く離れた地にあって情勢に暗いので仕方がないとして、事を荒立てる事なく情勢が理解できる間で様子を見る事とした。
 琉球の対応が中華皇帝の威を借りた子供であるなら、薩摩は冷静に大人の対応を取った。
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 幕府は、難破して奥州に漂着した琉球船の船員を薩摩を通じて琉球に送還した。
 琉球王府は、琉球人船員を助け保護し送還してくれた事に対して返礼をしず、完全無視した。
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 1609年 薩摩藩は、度重なる琉球王府の非礼に激怒して、琉球懲罰の為に約3,000人の兵士をもって琉球を侵略した。
 昔ら住んでいた琉球の士族や庶民は、薩摩軍の侵攻は中国人渡来人と親中派琉球人との私闘として傍観し中立を保ったが、内心は薩摩軍よりであった。
 中国人渡来人と親中派琉球人は、明国に救援を要請した。
 明国は、満州族の侵略で低一杯で余裕はなかったし、海禁政策を続け大型軍船を持っていなかった為に援軍を送る事ができなかった。
 さらに、明国軍は朝鮮の役で島津軍と戦い多くの犠牲者を出した経験から、薩摩軍の戦上手と薩摩武士の勇猛さに恐怖し「鬼石曼子(グイーシーマンズ、鬼島津)」と恐れていた。
 明国は、陸続きの朝鮮やベトナムとは違い、海の外にある琉球や台湾は「化外の地」と切り捨て軍を派遣してまで救う意思はなかった。
 琉球の中国人渡来人は、頼みとした中国から見捨てられ、戦意を喪った。
 薩摩軍は、抵抗らしい抵抗を受ける事なく王都・首里城を占領した。
 薩摩藩は、琉球に於ける中国人渡来人勢力の力を弱めるべく、最後まで敵対した中国人渡来人子孫で親中派の指導者である三司官(総理)の謝名利山(中国名、鄭迥・ていどう)を薩摩に連行して処刑した。
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 もし、永楽帝のような皇帝と宦官・鄭和のような大総督、そして大型軍船の大艦隊があったら、中国人渡来人子孫救援目的で大軍を派遣して島津軍は撃退し、琉球を中国領とした。
 歴史的事実として、中国領にならなかった事は、結果的に琉球にとって幸運であった。
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 薩摩藩島津家久は、尚寧王以下高官百余名を江戸の将軍・徳川秀忠駿府の大御所・徳川家康に謁見させ、3年ほど日本に抑留した。
 その間に、琉球王府中枢から中国派を一掃して親日派琉球人と中間派琉球人に代え、中国人渡来人子孫と親中国派琉球人は中国との関係事務を執り行う官吏に追いやった。
 江戸幕府は、島津氏を琉球太守に任じた。
 薩摩藩は、琉球保護国として那覇に在番所を開設し、奄美5島を不払いの兵糧の担保として割譲させて薩摩領とした。
 琉球王国は、名目上は中華皇帝から冊封として琉球王の位を授けられたが、実質的には薩摩在番奉行の監督下に置かれた。 
 しかし、薩摩は、中華皇帝の面子に配慮して、琉球王府は独立国との建前を維持して内政干渉方針を通した。
 琉球王府は、日本・島津と中華帝国との二股外交を行ったが、目の前にいる薩摩を重視し、心象をよくする為に薩摩藩士と琉球人女性との間に生まれた子供を士族に引き上げた。
 琉球王家や士族達は、薩摩の不利益な行動を取らない事を条件として、地位、格式、特権、生活が保障された。
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 琉球王国には、独自の中華思想が存在し、宮古諸島先島諸島八重山諸島など周辺諸島に対して朝貢を強いるとともに人頭税などの重税を課していた。
 周辺諸島は、人頭税は明治36年に明治天皇の命令で廃止された。
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 東アジアで中華思想による朝貢を実施していないのは朝鮮だけで、中国も日本も琉球朝貢を行っていた。 
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 17世紀後半 江戸幕府は、オランダに交付した申し渡し状「御条目」第五条「琉球は日本に属するので、オランダは海賊行為をしてはならない」と記した。
 オランダは、日本側の申し文を正式な外交文書として受け入れた。
 琉球及び先島諸島及び尖閣諸島などは、日本を管轄下にあると認めた。
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 1844年 薩摩藩は、アヘン戦争の余波としてイギリス軍が琉球を奪いに来る事を警戒して、琉球防衛の為に約200人の守備隊を派遣した。
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 1864年 イギリス人宣教師で医師のベッテルハイム博士は、琉球に上陸し、8年間那覇に居住した。
 イギリスは、琉球を侵略して植民地にしようとしたが、そこに日本の侍がいたので様子を見る事にした。
 だが、イギリスの最終目的は、東の最果て地の支配、つまり日本を侵略して植民地にする事であった。
 幕末期の日本人は、侵略され植民地となり奴隷にされるという危機感を抱き、日本を武力で守るべく皇室を押し当てて民族主義へと暴走した。
 日本民族日本人とは、死を覚悟して戦争を行う民族であった。
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 1854年7月 イギリス人ベッテルハイム博士は、アメリカ海軍軍艦に乗船して琉球を離れ、アメリカ国民となった。
 ペリー提督は、ベッテルハイム博士から琉球の話を聞いて琉球リポートをまとめた。
 ベッテルハイム博士「琉球国はある程度は独立しているが、支那皇帝に対する朝貢と引き替えに王という称号を許されているだけであり、結局のところ日本の一部である」
 琉球レポート「200〜300年前の明朝時代、日本と中国の間に戦争が起きた。このとき中国は琉球を日本に叛かせようと琉球を独立王国に昇格させたという歴史上の伝説である」
 琉球は、日本・薩摩とは頻繁に交易しているが、中国とは毎年1隻の交易船と1年おきの朝貢船のみであった。
 琉球人の宗教、習慣、言語は、清国(中国)と全く異なるが、日本とは似通った点が多い。
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 2017年3月号 正論「翁長知事が中国首相にした媚中発言  阿部南牛
 ……
 李克強首相の説く歴史認識
 ……
 冊封体制を理解しない翁長知事の姿勢
 翁長雄志知事は、李克強首相と会えたことに感激の『言葉』を口にして『沖縄はかつて琉球王国として中国をはじめ広くアジア諸国との交流の中で栄えてきた歴史がある。中国とは冊封制度をしてきた』と、冊封体制に言及した。
 ここで翁長雄志知事は、沖縄の歴史を正しく認識できていないことを露呈した。それは、琉球王国明王朝が何故に冊封体制を求めたのか、という史実である。
 黒色火薬は漢族の3大発明の一つに挙げられている。その黒色火薬の製造原料は、木炭、硝石、硫黄であった。混合比率は木炭10〜20%、硝石が60〜70%であり、硫黄の比率はおおよそ木炭と同じであった。漢族居住地域で黒色火薬が発明されたのは硝石を豊富に産出したからだ。しかし硫黄の産出は少なく、明は琉球王国の版図内から供給を受ける必要があった。
 豊臣秀吉の朝鮮への軍事進出(文禄・慶長の役)に対して、宗主国の明は軍事支援を行うが、その時の主要武器は大砲であった。秀吉軍の武器は火縄銃であり、火薬の使用量が異なった。秀吉軍の朝鮮半島支配が成就しなかったのは、明に対する火薬の使用量で劣ったからでもある。
 その明王朝の火薬製造が九州南端の火山島に依拠していることに気付いた薩摩の島津家久徳川家康の許可を得て、薩摩武士団を沖縄へ派遣する。その際に奄美5島を割譲させ、与論島以北を琉球王朝から引き離して島津氏の直接支配地域とした。硫黄の産地を琉球王朝から引き離したのであった。
 秀吉の野望を阻止できたのは琉球王朝から貢納される硫黄に負うところが大きかった明だが、その火薬の原料・硫黄の供給地である火山島が島津氏に領有されると、明の軍事力は低下していき、ついには明王朝は滅亡、漢族を支配下に置いた清王朝が成立する。
 硫黄を産出しない琉球など清はお呼びでなかったが、島津藩の命令で琉球は清の冊封体制に入る。唐物(絹・漢方薬材など)を島津藩が欲したのである。今度は島津藩が清を必要とする物産を仕立て、琉球経由で輸出入を行った。これがいわゆる『進貢貿易』であった。清の要望する物産は琉球に産出しなかったので、島津藩の指示下で琉球は貿易した。その結果、琉球に対する島津藩の影響するところが大きく響き、実質的に琉球は清の冊封体制から外れて日本化していく。それは幕末に琉球を訪れた外国人には、日本の一部だと認識されるに十分だった。本誌昨年11月号の惠隆之介氏『ペリ−文書発掘スクープ!』論文に示されている。
 実質的に冊封体制から外されたのは、琉球に清の欲する物がなかったからだ。だから、同じく『冊封体制』に入ったからといっても、明と清では大きく内容が異なる。明は琉球王朝冊封を求めたが、清の場合は島津藩の指示に従って入ったのであった。
 そこで次の翁長雄志知事の発言が気掛かりとなる。
 『福建から500名、600名が琉球に渡ってきて帰化し、たくさんの技術と文化を伝えた。福州市内には志半ばで亡くなった琉球人の墓がある。それを地元の人々が今日までずっと管理している。当時、琉球人が宿舎に使用していた建物も残っている』
 何で李克強首相の前で、日本人と言わずに琉球人と表現したのだろう。その発言からも翁長雄志知事の日本の近代を受け入れない認識がうかがえる。さらに、『科挙制度のために全国各地から集まって来た人のために〝国子監〟が北京にはある。琉球人の祖先もオブザーバーとして学んだ。彼らは帰国後、大臣になったり、大きな力を発揮して頑張った』と述べているが、それは何時の時代なのか?
 少なくとも清ではない。明の時代に琉球からの留学生を受け入れ厚遇したのは硫黄の産出地であったからだ。
 なにしろ翁長雄志知事は徳川幕藩体制下の『琉球』意識は全くなく、琉球は『小さな国であったが、アジアとの交流を通じて栄え、独自の文化を作り上げた。今日、アジア経済の著しい成長が沖縄を覆うようになった』と述べて『今では日本の辺境、アジアのはずれといわれていた沖縄が大きな活力を持つようになった』と、中共政権下の経済発展が沖縄を日本の辺境からアジアの中心にしているとする認識を披露する。
 沖縄独自の文化が薩摩・島津氏の影響の下で育まれた史実を消去している。明の時代には硫黄を運び、清の時代には銀を運ぶ『進貢貿易』としての大陸との交易であったが、その清の時代に運んだ銀の大半は薩摩・島津氏から下賜されたものだった」
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 伊波普猷(ふゆう)「島津氏に征服されてから4、50年後の沖縄の弱り方は非常なものであって、士族は自暴自棄になって酒食に耽り、農民は疲弊して、租税は納まらず、王府の財産は窮乏を告げ、社会の秩序は甚(はなは)だしく乱れて、当時の政治家には、この難局をどう切り抜けていいかわからなかったおうである。
 ……
 当時の沖縄人は、日本人であるのか、それとも支那人であるのか、自分でもよくわからなくなっていたのである。このいうように、彼等を曖昧な人民にして置くことが、その密貿易のためには、都合がよかったのである」(『沖縄歴史物語』)
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 2017年2月17日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第二話 大日本帝国の構築 Ⅰ
 琉球処分と初期日本外交 その3
 『琉球王国』カードを有効に使った薩摩藩の経済的センス
 『寛政異学の禁』つまり朱子学以外の学問は認めないというとんでもない法令を、田沼時代の後に出すことになる松平定信は、だからこそ意次を失脚させた。本人は幕府のためにやったつもりだろうが、じつは幕府はこれによって財政を立て直す大チャンスを失ったわけである。
 そして幕府は最後の大チャンス『ペリーの黒船』も朱子学の『商業(貿易)は悪』という信条が邪魔をして、せっかく有利な条件でアメリカと独占貿易ができるところを当初は拒否し散々引き延ばしをしたため、頭にきたアメリカがイギリスと手を組み不利な条件で条約を押し付けられる結果になってしまった。朱子学が自縄自縛(じじょうじばく)となり幕府を滅ぼしたのである。
 琉球問題でも、最初はほかならぬ徳川家康が明と朝貢『貿易』を行うために、薩摩藩島津家をして琉球王国を征服させ、征服したのちも王国としての体裁はそのまま維持させた。そうしなければ朝貢の意図を見抜いた明は、朝貢再開を求める琉球王国の使者に対し『お前のところもなかなか大変のようだ。それゆえこれまで2年に1回だった朝貢を、10年に1回に減らしてやる』といういかにも恩着せがましい回答をした。実際には明は琉球王国の上流階級と太いパイプがあり、琉球が独立を失ったことを知っていた。だが使者を『お前の国は日本国のダミーではないか』と追い返したりはしない。朝貢国が多いことはその時点での明国皇帝の徳の大きさを示す指標でもある。だから朝貢国の数は減らしたくない。だが朝貢自体は減らしたい。朝貢国が持ってきたものの何倍ものお返しをするというのがルールであり、経済的には明の一方的な損にもなるからだ。もっとも損得勘定というのは、これまた卑しい商人の行為であり、まねしてはいけない。『琉球よ。お前のところもなかなか大変であっただろうから数を減らしてやる』という言い方なら明のプライドを保ったうえに、経済的にも損失を防ぐことができる。だから明はそういう対応をしたのである。
 家康は大いに失望した。島津家が琉球王国征服に成功したのは家康67歳の1609年(慶長14)。家康は1616年(元和2)に74歳で死んだから、この頃は最晩年である。当時の67歳は今の80歳、90歳に匹敵する。しかも豊臣家はまだ滅んでいない。家康が豊臣家覆滅に成功するのは1615年(慶長20)つまり死の1年前である。豊臣家覆滅に晩年の全精力を注いでいた家康には、1609年の時点であと10年後に実現する『朝貢』などはもうどうでもよかっただろう。しかもその子孫たち、つまり徳川将軍家は家康の遺志を継いで朱子学を奨励したために、ますますこの『琉球貿易利権』に対する関心を失っていった。
 ここで鋭い読者の中には、その後も徳川家がなぜオランダとの貿易は続けたのか疑問に思うかもしれない。それは『孝』である。親や祖先が決めたことをみだりに変えてはいけないというルールが朱子学にはある。オランダとの貿易も商売だから『人間の屑(くず)の所業』であり、幕府は一刻も早くやめたかっただろうが、東照神君家康公の始めたことである。子孫が勝手に廃止してはならないと思ったのだ。しかし貿易が賤業であることは紛れもないこら、それに精を出したりしてはいけない。
 ここで常識で考えていただきたい。幕府は200年以上オランダとの貿易を独占してきたのである。今も昔も独占貿易というのは極めて儲かるものだ。それが経済の常識である。しかし、これまで江戸時代に徳川幕府がオランダとの貿易で儲けて財政を健全化させたという話は聞いたことが無いだろう。不思議だとは思わないか。つまり幕府はこれで儲けようという気がまったく無く(それをすれば『商人』になってしまう)、実務を長崎商人に丸投げしていたのだろう。だから長崎商人には大金持ちがいたが、その貿易収入は幕府には流れなかった。
 もったいない?そのとおりである。だから老中田沼意次は貿易を再開して幕府の財政を立て直そうとした。平賀源内を可愛がったのも源内が国内の物産に極めて詳しく、町民文化の産物である浮世絵などにも造詣が深かったからだろう。浮世絵や陶磁器は外貨を稼げる輸出商品になる。ところが商売で儲けるということも、そうした『卑しい町人』が作った『文化的な価値の無いもの』を幕府が扱うことも、ガチガチの朱子学信者松平定信にとっては『極悪人の所業』であった。
 だから田沼意次を権力の座から追放した定信は意次を徹底的に否定し、取り巻きの連中に『田沼は極悪人、賄賂の帝王』と散々宣伝させた。後世に対する。いわゆる情報操作である。情け無いのは、日本の歴史学界は未だにこの情報操作に乗せられていることだ。その証拠に今の教科書でも定信の政治は『寛政の改革』と呼ばれるのに、田沼の政治は『田沼政治』とされているだけ。幕府を財政的に立て直すために農業一辺倒の『朱子学社会』を、信長、秀吉、家康以来の重商主義に戻すことが必要だったのだが、朱子学が普及して以来そういう考が『悪』とされたことに気がつかないと、日本の歴史などわかりようもないのである。
 一方、これとはまったく逆の道を行ったのが薩摩藩島津家であった。薩摩国(鹿児島県)はそもそも火山灰台地で稲作を中心とした農業には適しておらず、逆に南シナ海に面しているなど貿易の拠点としては有利な条件を備えていたため、昔から交易が盛んであった。そして徳川家康が晩年の衰えもあって『琉球貿易利権』を手放し、子孫である徳川将軍家朱子学の影響によって『利権を返せ』と言わなくなったことは、薩摩藩にとっては大きな利益につながった。『琉球王国』という海外貿易が可能なカードを幕府以外では薩摩藩だけが持っていたということだ。しかも既に述べたように幕府はせっかく持っていた『オランダ』というカードをまったく有効活用しなかったのに対し、薩摩藩はこれを大いに活用した。いや、活用せざる得なかった。
 幕府は中央政府である。将軍家は全国に広大な領土を持っている(家来の分と合わせて800万石といわれる)、直轄の金山銀山もあり、通貨発行権も持っている。だから最後の最後まで『朱子学的やせ我慢』をして、貿易に財政再建の活路を見出すことはなかった。しかし薩摩藩はそういうものを持っていたので、財政が窮乏すると『琉球王国』カードを有効に使った。使わざるを得なかった。そのことは結局、薩摩藩は経済的センスを持ち続けたということであり、来たるべき開国時代、明治維新への絶妙なトレーニングとなったのである。
 もちろん幕府にも経済的センスを持つ武士はいた。勝海舟はその代表であろう。勝は弟子の坂本龍馬に『イギリスを見習え』と言った。ヨーロッパの島国に過ぎないイギリスはなぜ世界帝国になったのか。それは貿易船を世界に派遣し大いに富を増やし海軍を充実したからだ。なるほどと合点した龍馬は日本最初の貿易商社『亀山社中』を作り海援隊を作った。明治維新を成し遂げた勢力も結局この方針を採用した。しかし、正論を述べた勝海舟は同じ幕府の保守派に命を狙われた。なぜか?朱子学バカがいたからである。松平定信田沼意次を『極悪人』と考えたように、朱子学の信奉者によって勝海舟は『こともあろうに幕府に商売をさせようとしている極悪人』にしか見えないというわけだ。
 ……
 琉球はあくまでも『貿易の道具』
 さて、この時点で当時はこの世にはいない田沼意次松平定信が、島津斉彬の態度をどのように評価するか考えていただきたい。
 田沼意次ならこう言うだろう。『お見事。それこそ拙者が望んでいたものでござる。薩摩がうらやましい。ぜひとも、見習いたいものでござる』。これに対する松平定信は『いやしくも大大名である御方が、卑しき商人のまねごとでござるか』と軽蔑を露(あら)わに陰で唾を吐いたかもしれない。しかし、島津斉彬田沼意次の夢を実現したからこそ、薩摩藩は幕末の主役に躍り出ることができたのだ。
 問題は江戸時代朱子学を熱心に学んだのは徳川幕府だけではなく、地方の大名もそれに倣(なら)ったということだ。家康は商業潰しのために朱子学を採用したのではない。それは家康にとっても想定外のことで、家康の目的は主君に対する忠誠を第一とする朱子学を普及させることで、徳川の天下を盤石とするにあった。もっともこの目的も想定外の事態で果たせなかったことは既に述べたとおりだが、主君に対する忠誠を重んじるのは徳川家だけではない。そのために地方の大名でも朱子学は熱心に学ばれた。ということは藩内に朱子学派が生まれるということだ。薩摩藩も例外ではなく、藩内にも斉彬のやり方を『人間の屑の所業』と見る人々がいたということなのである。代表的なのは、皮肉にも斉彬の弟で、斉彬の死後その息子が藩を継いだ弟の久光であった。
 ……
 世界を見ていた斉彬は琉球人の優れた青年をイギリスに留学させようとしていた。将来的には琉球を解放し名実ともに日本国にするためであっる。朱子学派はそんなことは一切考えない。何事も御先祖様の決めたとおり、琉球とはあくまで『貿易の道具』であり、そのために『王国』に見せかけることが祖法(先祖の決めたルール)であった。琉球人にとっては政治的にはじつに不愉快な話だが、文化的にはそうでもなかった。独立王国に見せかける目的のために薩摩藩は日本文化、日本式風俗の押しつけはしなかったため、独自の文化を保つことができたから。
 この形のまま琉球明治維新を迎えた。そして再生した日本国、後の大日本帝国琉球をこれまでのような曖昧な形を許さなかった。そこで琉球処分が行われたのである」
・・・


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🌪13¦─1─中国共産党は領有権主張サイト開設「尖閣は日本が盗んだ」。~No.64No.65No.66No.67 ㉓ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年10月3日11:50 産経新聞尖閣周辺に中国船 27日連続
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で3日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは27日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
   ・   ・   ・   
 10月3日21:41 Microsoft News 読売新聞「尖閣は「日本が盗んだ」、中国が領有権主張するサイト開設…日英仏語でも宣伝へ
 【北京=比嘉清太】中国国家海洋局直属の「国家海洋情報センター」は3日、インターネット上に沖縄県尖閣諸島の領有権を主張するサイト「中国釣魚島デジタル博物館」を開設した。現在は中国語のみだが、今後、日本語や英仏語などで中国政府の主張を伝えるとしており、領有権をめぐる国際的な宣伝を強化する狙いとみられる。
 サイトでは、中国が領有権主張の根拠とする史料や地図などを紹介し、明治維新後に「日本が釣魚島(尖閣諸島の中国名)を盗んだ」と主張。3D映像で尖閣諸島の地形も立体的に見られるようになっている。」
   ・   ・   ・   
 日本の情報発信力は、中国共産党に比べて数段も遅れているしその内容も劣っている。
 中国のIT・AI・ロボットなど未来の次世代デジタル技術は、日本の遥か先を行っている。
 その落差の違いは人材を育てる教育の差である。
 日本の教育は、偏差値の高い学校の入試に合格する為だけの基礎・受験教育であって、国際市場に必要な即戦力人材を育てる応用・実戦教育ではない。
   ・   ・   ・   
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は中国との戦闘で勝っていたが、中国の情報発信で戦争に敗北し、大陸における全てを失った。
 満州事変・第1次上海事変時。日本政府は、アメリカの民間報道機関やユダヤ系の国際報道機関を利用して日本軍の軍事行動の正当性を、こじつけでも、ごり押しでも構わないから主張すれば、その後の悲劇は起きなかった。
 が、軍国日本は、外務省など官僚エリートらの「正し事は言わなくても誰もが理解してくれる」という日本的情緒で正当性を主張しなかった為に、国際社会で孤立化し戦争へと追い詰められ滅亡した。
 中国大陸に駐在していた欧米の外交官は、中国側の非をと日本軍の正当性を認めていた。
 情報発信能力が低いのは明治以降の日本人の特徴で、明治以前の武士・サムライ、百姓の時代はそうではなかった。
 現代日本は、日本民族の歴史において最も情報発信力が劣っている。
   ・   ・   ・   
 満州事変の遠因は、第1回南京事件の外交処理に失敗した幣原喜重郎外相にあった。
 戦争の責任は、現地保護主義の軍部ではなく情報発信を拒否した外務省と官僚エリート達であった。
 中国との戦争を止めようとしたのが、昭和天皇と対ソ・対共産主義派陸軍高級軍人であった。
   ・   ・   ・   
 日本軍には、満州事変・第一次上海事変を行う正当性があった。
 東京裁判は、日本軍の正当性を認め戦争犯罪とはせず起訴しなかった。
   ・   ・   ・   
 日本国内の、親中国派・媚中派中国共産党に忖度し、反米派・反安保派・反自衛隊・反天皇反日的日本人は中国共産党に協力している。
   ・   ・   ・   

🌪12¦─1─台湾活動家(世界華人保釣連盟・愛国同心会)が尖閣諸島を目指す。~No.60 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 9月30日18:48 産経新聞「台湾活動家が尖閣目指す 「領有権」主張も出航断念
 上自衛隊の哨戒機P-3Cから=沖縄・尖閣諸島、平成23年10月(鈴木健児撮影) 
 【基隆(台湾北部)=矢板明夫】台湾の親中派活動家らが30日、尖閣諸島沖縄県石垣市)への領有権を主張しようと、台湾北部の基隆から船で尖閣海域に向かおうとしたところ、海洋委員会海巡署(海上保安庁に相当)から船員証の不所持などを指摘され、出航を断念した。
 尖閣海域に向かおうとしたのは「世界華人保釣連盟」「愛国同心会」などの政治団体に所属する活動家ら約10人。石垣市が6月、尖閣諸島の住所地の地名を「登野城」から「登野城尖閣」に変更した効力が10月1日に生じることに抗議するためだという。
 世界華人保釣連盟の台湾地区責任者、張夢祥氏は産経新聞の取材に対し「日本は台湾をいじめており、蔡英文政権は何もしない。われわれが立ち上がるしかない」と語った。張氏の名刺には、●(=登におおざと)小平和平基金発起人、中華周恩来研究会監事など複数の中国系団体の肩書が印刷されており、中国と深い関係があることを示唆している。
 張氏は、尖閣諸島沖の日本の領海で27日、海上保安庁の巡視船と台湾の漁船が接触したことについて「台湾の漁師の生活に大きな影響を与える乱暴な行為だ」と日本の対応を批判し「私たちは命を懸けて主権を守る決心を示す」と語った。」
   ・   ・   ・  
 9月30日10:56 産経新聞尖閣周辺に中国船 24日連続
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で30日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは24日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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🎷17:─3─安倍晋三政権の功罪。友達政治家と側近官邸官僚らによる「やっている感」政治。~No.71 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の政治家は、政治理念や政治能力に関係なく好人物=人気だけで選挙に当選した。
 日本の大臣は、当選回数だけを判断基準として専門知識や行政能力がなくても就任した。
   ・   ・   ・   
 国民は、他に選ぶ相手がいない為に「嫌々ながらやむを得なく」保守派を支持し、リベラル派・革新派などの野党には期待できないとして選ばなかった。
 つまり、理想的正論だけで「決められない政治」より現実的俗論でも「やっている感の政治」を国民は選んだのである。
   ・   ・   ・   
 日本を支配しているのは、日本国民が無気力に安心できる雰囲気・空気、空気圧・同調圧力である。
   ・   ・   ・   
 2020年9月27日 読売新聞「地球を読む
 菅内閣発足
 自民政権の手法 明確化
 『やっている感』 若者の黙認
 安倍政権は終幕を迎え、菅政権が登場したが、既視感(きしかん)が迫ってくる。かつての首相交代にはなかった。
 新型コロナウイルスの感染は収束せず、東京五輪パラリンピックも開催できぬままの交代だったこともあるのだろう。
 ただ、これまで長期政権から交代した際は、若返りや政権奪還など、ガラリと変わる印象が強かった。
 吉田茂から鳩山一郎。これはまさに政敵による政権奪還だった。佐藤栄作から田中角栄。世代交代と政権奪還の典型例だ。そして中曽根康弘から竹下登。総主流体制の中での政権譲渡で、中曽根による指名もあったが、世代交代した竹下政権は独自色を出し、消費税導入を実現した。
 さらに小泉純一郎から安倍晋三。安倍は、衆目の一致する後継者、いわばクラウン・プリンセス(皇太子)だったが、小泉型劇場政治は継承しなかった。
 今回は2度の安倍から菅義偉官房長官からそのまま首相になるのは1度目の安倍と同様だが、本来、官房長は首相の女房役として幕引き役をつとめ、ともに政権を去った。
 菅の自民党総裁選立候補演説は、安倍継承を繰り返し、官房長官としての記者会見と二重写しに見えた。安倍政権の『ブラッシュ・アップ版』の登場が自民党の大勢の合意であり、国民の納得感もそこにある。
 実は政権運営のスタンダードが『構造化』されていた事実が、安倍退場で明確になった。菅政権の誕生は、その反映に他ならない。
 安倍政権は、賛否両論のある政策を拙速に進めようとした第一次時代や、民主党政権の『決められない政治』の失敗に学び、政治主導で経済や社会保障、安全保障などの政策を進展させることに尽力した。
 『アベノミクス』や『地方創生』、『働き方改革』など、次から次ぎにキャッチコピーをアピールし、『やっている感』を演出した。内政や外交も『官邸主導』で迅速に運営できるよう制度を改めた。国家安全保障会議内閣人事局の創設は、まさにそれにあたる。
 『官邸主導』は、行政のタテ割りにヨコ串を刺す。テーマごとに各府省相乗りの専門チームを編成し、政策を動かす。このため、官邸好みの課題はどんどん処理されるが、官邸の関心が低い政策は後回しになる。内閣人事局による人事制度の運用の妙も生かされなくなった。官邸の意向に沿うかどうかが官僚人事の評価軸となり、官邸に対する過剰な『忖度』を生んだ。
 かつて有力政治家と官僚には『暗黙知』があった。事を進める時、口に出さずにうまく処理する『あうんの呼吸』に他ならない。それも今は昔だ。
 菅政権は、安倍時代の官邸主導をベースに、3人のベテラン政治家を揃(そろ)い踏みした。小泉時代から活躍した麻生太郎、第一次安倍時代からの菅義偉、後に第二次政権の半ばから加わった二階俊博である。
 トライアングルをなす彼らは永遠の〝今〟を演出し続け、後継者育成に気を配らない。長老として大所高所から意見を述べる立場にはならず、永世現役を目指しているように思える。
 安倍を含めて彼らは機会主義と現実主義に徹する。安倍は『右』的なイデオロギーに富む政策課題を口にはしたが、遂に現実のものとはしなかった。憲法改正もその一例である。
 若手議員にはイデオロギーに深入りさせず、ひたすら選挙で勝ち抜くように求めた。それでもこの8年間で安倍のイデオロギー的基盤に、正面から反対する者はいなくなった。その意味で自民党の意識改革には成功したと言えるだろう。
 機会主義と現実主義のもう一つの表れは、『選挙至上主義』を政治の常識としたことだ。
 安倍は選挙に圧勝しさえすれば、政権運営が安定することを証明した。2012年の政権奪還以来、全国規模の国政選で無敗を続け、議員にとって〝恩人〟と化した安倍に、誰も反対できなくなった。
 スキャンダルや問題が生じても、野党やメディアに言わせるだけ言わせながら勝機をうかがう。選挙の勝利は国民の『お墨付き』と位置づけ、問題のすべてをご破算にする。
 一方、下野した民主党は『選挙至上主義』の余波をかぶり、動きがとれなくなった。そうこうするうちに、分裂と再結集を繰り返すパターンに陥った。かくて『平成の政治改革』は、昨日あるように今日がある8年近くの安倍政権の中に、完全に埋没した。政治改革では、小選挙区制を基盤にして2大政党制が確立し、オセロゲームのような政権交代が実現するはずだった。民主党政権時代に野党の悲哀を味わい尽くした自民党は与党の永続化を望み、勝ち続ける安倍政権は長期化した。
 安倍政権のレガシーは、安定した与党体制を確立したことにある。議論ばかりで決められなかった民主党を反面教師に、異論反論を口にしても党分裂を招かない範囲にとどめられて党内議論をまとめる。『決める自民党』に変わったのである。
 デジタル化の進展で、内外の社会は著しく様相が変わった。通信手段の革命的な進化によって、スピード感が最も重要なメルクマール(指標)になった。
 長期政権といっても、吉田の講和と復興、佐藤の沖縄返還、中曽根の戦後政治の総決算のごとき大テーマの追求は、だんだん難しくなった。だから小泉はテーマではなく、政治演出の方法──劇場型政治──で乗り切ったのである。
 安倍は著しく変容する国際社会に対し、常に首脳外交でくい打ちを怠らず、ある種の安全性を確保することに成功した。国内ではとにかく課題をモグラたたきのようにたたきまくった。スピード感のある解決を期したからである。
 若い人の安倍政権への支持率が比較的高い理由は、ここにある。彼らはもともと政治への期待度が低い。安倍政権が自分の進路を邪魔しないのであれば、たたきはしない。野党が政権についてほしいと願う熱意を持つ人も少ない。
 人生設計が明確だった高度成長の時代は終わり、安定した社会構造のない時代を若い人は生きている。〝やっている感〟の政治の中から自らを利するものが出てくれば御の字、さもなければ関わらないということだろう。こうした今の若い人の政治観は、まごうことなく安倍政権のあり方を反映している。
 ただ若い人が、政治によって何かを変えたいと思い始めたら、菅政権は〝やっている感〟の政治から、〝やっている〟政治への転換を迫られることになろう。」
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 日本を取り巻く反日敵日の周辺諸国とは、中国共産党習近平、ロシアのプーチン、韓国の文在寅北朝鮮金正恩らである。
 同盟国・アメリカの大統領はトランプである。
 アメリカ国内には、親中国反日派(キリスト教会、ユダヤ人ら)が根強く幅広い支持を得ている。
 中国共産党を育てたのはアメリカである。
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 日本には二者択一の選択が突きつけられている。
 一つは、核ミサイルを中国・北朝鮮・ロシアに向けているアメリカを選ぶ。
 もう一つは、核ミサイルや銃口を日本に向けて脅し、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を強奪しようとしている中国共産党政府を選ぶ。
 地理的条件として、日本はアメリカと中国共産党政府の中間にある為に中立はあり得ない選択である。
 戦争する国同士の中間で中立を宣言して滅亡したのが大韓帝国であった。
 世界史・大陸史において、中立宣言などは意味がなく、侵略軍を撃退し自国の安全を自国のみで維持する軍事力があるか、大国が中立国の立場を承認する時だけである。
 現実の東アジア軍事情勢において日本が中立を宣言した戦争を回避しようとする時、台湾侵略の中国軍には友好的中立となり、台湾防衛のアメリカ軍には敵対中立である。
 アメリカ軍は、日本が平和憲法を優先して集団自衛権を発動せず自衛隊が味方につかなければ、日本を切り捨てフィリピンを最前線基地として台湾から東南アジアを守り、非協力的な日本を反米国家と認定して切り離し見捨てるだけである。
 アメリカの本心からすれば、日本が中国共産党政府の従属国になっても、日本が戦前の様にアメリカの権益を脅かし戦争を仕掛けてこなければそれでいいのである。
 つまり、日本フタ理論において、日本封じのフタがアメリカから中国共産党政府に代わるだけの事である。
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 日本は、自主権を持った独立国ではない。
 その証拠が、アメリカが日本に押し付けた、対日占領方針の日本国憲法、一般法律の皇室典範皇室経済法・11宮家皇籍剥奪、日米安保条約日米地位協定、日本に対する極秘経済要望書簡、その他、と、連合国が国連に書き残した敵国条項である。
 日米経済交渉において、日本が多くを譲歩する事によって妥結していた。
 アメリカの意向に従わない政権は、全て潰された。
 潰された象徴が、田中角栄である。
 長期政権を維持できた中曽根康弘小泉純一郎らは、表面的にアメリカに言う事を言っても、最終的にはアメリカの意向に従ったからである。
 つまり、日本はアメリカが許す範囲でした行動できないのが現実である。
 歴史的事実として、護憲派日本共産党、旧日本社会党、左翼・左派はアメリカ軍占領下で、GHQ内の支援者のお陰で勢力を拡大した。
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 歴史力のない日本人には、「洞ヶ峠」や「宋襄の仁」が理解できず、よって歴史の教訓として学ぶ事もない。
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 アメリカは、自由・民主主義の大義を掲げ、西洋キリスト教文明価値観で作った国際法を曲がりにも守り国際裁判所の判決を尊重している。
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 中国共産党政府は、暴力と死の恐怖体制を正義とし、国際法を破り、国際裁判所の判決を完全無視し、重犯罪の人身売買や臓器狩りをし、人命・人権・人道を踏みにじる凶悪犯罪のジェノサイドを続けている。
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 日本の外交は、自由・民主主義の親米派アメリカ従属派と親中国派・媚中派、親韓国派・北朝鮮派、反米派・反安保派・反自衛隊派、反戦平和団体、反天皇反日的日本人達の二派が動かしている。
 メディア・報道機関においては、前者が少数派で後者は多数派である。
 その象徴が、靖国神社問題、歴史認識問題、中国国家主席国賓の日本訪問と天皇宮中晩餐会天皇の訪中、などなどである。
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 天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、皇族が訪問してはならない国々とは、中国共産党政府、韓国・北朝鮮、ロシアなどの近隣諸国である。
 特に、中国共産党政府は信用も信頼も持てない国である為に訪問すべきでない。
 何故なら、中国は、日中戦争時に昭和天皇や軍部・陸軍・A級戦犯達が行った幾つもの人道貢献に対して、恩義に対する感謝の言葉が一言もないばかりか、信義にもとる行為、恩を仇で返すように反日暴動を繰り返し、昭和天皇はおろか天皇家・皇室を侮辱し尊厳を傷付け名誉を踏み躙るからである。
 日本民族日本人は、中国の面子より日本の体面を守る為に命を捨てる。
 天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、皇族の中国訪問を推進する政治家・官僚・財界人・学者・その他は、中国共産党に忖度する親中国派媚中派日本人であっても縄文人の子孫である日本民族日本人ではない。
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 現代の日本人は昔の日本人とは違う。
 現代の日本人には、昔の日本人が縄文系日本民族として祖先から受け継いできたモノ(気質、素質、性質、体質などなど)が消えている。
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🎷02:─6─習近平氏「歴史問題の適切な処理を」。国賓来日。天皇の晩餐会。天皇の中国訪問。~No.15No.16 ① 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本軍は、中国人を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に中国人を助ける人道貢献も行っていた。
 戦前の日本人は、悪い事をしたが、良い事もした。
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 中国共産党政府は、国際法に従わず、自由・民主主義の原則を認めず、普遍的価値観である人命・人権・人道を拒絶するジェノサイド(虐待、虐殺、臓器狩り、人身売買、その他)を行っているが、世界が承認する国連の常任理事国である。
   ・   ・   ・   
 国連は、過去のナチス・ドイツが行ったホロコーストは人類に対する重犯罪とし歴史に刻んでいるが、常任理事国中国共産党が現在も行っているジェノサイドには言及せず被害者を助けず見捨てている。 
   ・   ・   ・   
 中国共産党・中国軍には、人権及ぶ平和に対する犯罪は星の数ほどあるが、人道貢献は一つもない。
 中国共産党員・中国軍人は、良い事をせず悪い事しかしてこなかった。
   ・   ・   ・   
 中国人は助けられても、恩義を感じないし、感謝しないし、お礼を言わないし、恩に対して仇を返しても恥とは思わない。
   ・   ・   ・   
 2020年9月24日10:59 産経新聞尖閣周辺に中国船 18日連続
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で24日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは18日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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 9月25日23:39 産経新聞「宙に浮く「国賓来日」、対中カードに 日中首脳会談
 菅義偉(すが・よしひで)首相は就任後10日で中国の習近平国家主席と電話会談を行った。就任のあいさつをかわす儀礼的なものだが、中国の国家主席が日本の首相に就任の祝意を伝えるのは初めてだ。
 安倍晋三前首相は平成24年12月に政権に返り咲いたものの、胡錦濤国家主席(当時)との会談は実現しなかった。翌年3月に習氏が国家主席に就いた際も同様で、安倍、習両氏の接触はこの年9月が初めてだった。
 安倍政権の7年9カ月で少なくとも首脳同士の交流が行える状態にはなった。一方で、安倍政権は日米豪印4カ国の安全保障協力を強化し、中国に対峙(たいじ)するネットワークも形成した。
 菅首相も習氏と会談する前に米国、オーストラリア、インドの3カ国首脳との電話会談を済ませた。25日の会談では習氏に対し、「東シナ海情勢」について懸念を表明。同席した坂井学官房副長官尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺での中国による挑発行為が念頭にあったと説明した。
 ただ、首相は安倍政権内で中国との経済関係を重視する立場をとってきた。12日の自民党総裁選候補者討論会では「反中包囲網」に反対する考えも示した。
 日中両国の当面の焦点は、延期となった習氏の国賓来日だ。尖閣諸島周辺での挑発行為や香港の人権問題を理由として、自民党外交部会は国賓来日の中止を要求している。首相は25日の会談後、記者団から聞かれていない国賓来日に言及して「やり取りはなかった」と説明した。
 首相は国賓来日について「具体的な日程調整を行う段階ではない」と繰り返してきた。安倍政権から続く姿勢だが、国賓来日を宙に浮いたままの状態に保つことが「対中カード」になるとの見方もある。
外務省幹部は「中国にとって国賓来日は習氏が正式に了承した行事だ。中止となれば習氏の判断が間違っていたということになる」と話す。来日の可否が明確になるまでは、日本が中国の軍事行動や人権問題などを批判しても過激に反発することもないと見る。
 だが、尖閣諸島周辺では中国公船の航行が連続100日を超えるなど中国の挑発はエスカレートしている。日本を射程に収める中距離ミサイルの配備も進む。儀礼的な「友好」の裏で菅政権には、中国の脅威を見据えた着実な防衛力強化が求められている。(杉本康士、石鍋圭)
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 9月25日23:26 産経新聞「日中首脳「ハイレベルの連携」一致 電話会談
 中国の習近平国家主席との電話会談を終え、記者団の取材に応じる菅義偉首相=25日午後、首相公邸(鴨川一也撮影)
 菅義偉(すが・よしひで)首相は25日夜、中国の習近平国家主席と初の電話会談を行った。両首脳は「首脳間を含むハイレベルの中で、2国間、地域、国際社会の諸課題について緊密に連携をしていこう」との認識で一致。菅首相尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺での中国公船による挑発行為などを念頭に東シナ海情勢について「懸念」を表明した。延期となっている習氏の国賓来日に関してはやり取りがなかった。これに先立ち、インドのモディ首相とも電話会談した。
 日中首脳会談は日本側の呼びかけで実現し、約30分間行われた。習氏は菅首相の就任に祝意を伝えた上で「日本との関係を引き続き発展させていきたい」と表明した。これに対し、菅首相は「日中関係の安定は2国間だけでなく、地域、国際社会にとって極めて大事であり、ともに責任を果たしたい」と呼びかけた。
 首相は北朝鮮による拉致問題の解決に向け、中国側の協力を要請。香港の人権問題を含む「地域、国際社会の関心が高い課題」について今後議論したい意向を伝えた。
 両首脳は新型コロナウイルス対策に関してさまざまなルートで連携することで一致するとともに、経済関係者の往来再開の早期実現に向けて引き続き協議を行うことを確認した。
 習氏の国賓来日について、加藤勝信官房長官は25日の記者会見で「まずはそれぞれ新型コロナの収束に専念している。具体的な日程調整を進める段階にはない」と従来の政府の説明を繰り返した。
 一方、日印首脳電話会談は約25分間行われ、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、両国に米国、オーストラリアを加えた4カ国の協力を強化する方針で一致。「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップ」について「さらなる高みに引き上げる」ことを確認した。安全保障、経済両面で協力を強化することでも一致した。
 菅首相はまた、北朝鮮による拉致問題に関しインドの協力を要請。両首脳はインドでの高速鉄道事業や人的交流を促進することでも合意した。
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 9月26日00:24 産経新聞習近平氏「歴史問題の適切な処理を」
 22日の国連総会一般討論で放映されたビデオで演説する中国の習近平国家主席新華社=共同)
 【北京=西見由章】中国国営新華社通信によると、習近平国家主席は25日、菅義偉首相との電話会談で、中国が日本の新政権とともに「歴史などの重大で敏感な問題を適切に処理」し、「新時代の要求に合致した中日関係の構築に努めていきたい」と述べた。
 また習氏は、来年予定されている東京五輪の開催を支持。自国第一主義を掲げるトランプ米政権を念頭に「中日双方が積極的に多国間主義を提唱・実践しなければならない」と主張した。
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 9月26日10:29 産経新聞習近平氏「日中関係発展へ、菅首相と指導的役割を発揮」 東京五輪への支持表明
 22日の国連総会一般討論で放映された中国の習近平国家主席のビデオ演説(国連提供、AP)
 【北京=西見由章】中国外務省によると、中国の習近平国家主席は25日夜、菅義偉(すが・よしひで)首相と電話会談し、習氏が菅首相とともに「戦略上の指導的役割を発揮」して、両国関係の新たな発展を得ていきたいと述べた。中国側が日本の新政権とともに「歴史などの重大で敏感な問題を適切に処理」し、「新時代の要求に合致した中日関係の構築」に努めていく意向も示した。
 習氏は、日中両国が「互いに重要な隣国であり協力パートナー」だとし、「広範な共同利益と広大な協力空間」があると指摘。来年予定されている東京五輪開催への支持を表明した。日本とともに「安定したサプライチェーンと公平で開放的な貿易・投資環境を守っていきたい」とも述べた。
 さらに、自国第一主義を掲げるトランプ米政権を念頭に「中日双方は積極的に多国間主義を提唱・実践しなければならない」と主張した。
 米中対立の激化を受けて、中国当局は日本に接近する姿勢を強めている。
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 9月27日05:00 産経新聞「【主張】菅外交スタート 「中国への遠慮」は禁物だ
 菅義偉首相が外交デビューを果たした。就任から10日間でトランプ米大統領習近平中国国家主席らおよそ10人の海外要人と電話会談した。26日には国連総会でビデオ収録での演説を行った。
 まだ「菅カラー」は見えないものの、一連の首脳外交で、日米同盟強化やインド太平洋構想を推進すると表明した点は妥当だ。一方で、中国にはっきりと物を言わなかったのは残念である。
 電話会談は就任挨拶(あいさつ)をする儀礼的な意味合いが濃いが、トランプ大統領や英独両国、インド、オーストラリアの各首相との間で、インド太平洋構想推進の協力を確認できた。
 国連演説では、新型コロナウイルス禍克服への貢献や北朝鮮による日本人拉致問題解決を訴えるとともに、「自由で開かれたインド太平洋」実現に意欲を示した。
 同構想には、南シナ海などで「力による現状変更」を図る中国を牽制(けんせい)する戦略的狙いがある。
 ところが習主席との電話会談では歯切れが悪かった。「首脳間を含むハイレベルで2国間、地域、国際社会の諸課題について緊密に連携」することになったというが、そうであるなら、中国の問題点をもっと指摘し、改めるよう求めたらよかった。
 習氏とは就任挨拶の約30分間の会談だったとはいえ、どのような初印象を与えるかは重要だ。笑顔で握手することを外交の目的としているとみなされれば侮られ、今後の建設的な話し合いは難しくなる。平和をもたらす国際秩序の確立と国益追求を主な目的としなければならない。
 菅首相は会談で「東シナ海情勢」に懸念を示し、「地域、国際社会の関心が高い課題」を議論しようと伝えた。だが、中国のようなしたたかな国の首脳を相手に遠回しな言い方をしても通用しない。「尖閣諸島」や「南シナ海」「香港」「ウイグル」の問題に明確に言及してもらいたかった。」
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 9月27日11:02 産経新聞尖閣周辺に中国船 21日連続
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で27日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは21日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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 日本の軍部・陸軍が激戦中に自己犠牲としておこなった人道貢献。
 日本の農業技術が中国の食糧不足を救った。
 2019-12-05
 💖16)17)─1─稲塚権次郎の小麦農林10号が、飢餓に苦しむ華北の中国人を救った。1935年。〜No.62No.63No.64No.65No.66No.67 
 日中戦争
 2019-05-13
 💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本陸軍は中国人数十万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71 
 2019-05-15
 💖18)─2─河南省大飢饉。日本陸軍は戦争をしながら飢餓民1,000万人以上を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75 
 2019-05-16
 💖18)─3─日本陸軍河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79 
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🎷22:─1─日英は安保強化で一致し軍事技術共同開発の加速に合意した。~No.90No.91No.92No.93 ㉑ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 島国日本が頼り誼(よしみ)を深めるべき相手は、隣国の大陸国中国や半島国韓国・朝鮮ではなく、遠く離れた島国イギリスとローマ・カトリック教会である。
 何故なら、歴史的事実として、古代から中国や朝鮮は何度も日本を侵略し虐殺・強奪・強制連行=拉致を繰り返していたからである。
   ・   ・   ・   
 日本の敵は、無防備に日本に背中を見せている同盟国アメリカではなく、核ミサイルの照準を日本に合わせ銃口を日本人に向けている中国共産党政府である。
 日本国内には、敵の中国共産党に忖度して媚び諂い、味方のアメリカを敵視して騒ぎ立て、神の裔・男系天皇を憎み伝統的民族文化の天皇制度を廃絶しようとしている日本人が少なからず存在している。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、日本から尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を強奪しようとしている。
   ・   ・   ・   
 問題は中国共産党員・中国軍人・武装警察・民兵・海民兵であって、一般中国人は関係ない。
   ・   ・   ・   
 2020年9月23日20:15 産経新聞「日英安保協力強化で一致 菅、ジョンソン両首相が電話会談
 ジョンソン英首相(AP)
 菅義偉首相は23日、ジョンソン英首相と初の電話会談を行った。両首相は「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、安全保障協力を強化する考えで一致した。また、新型コロナウイルス対策について、両国が先進7カ国首脳会議(G7サミット)などの場で主導的役割を果たすことに合意した。
 会談は約20分間で、菅首相は日英経済連携協定(EPA)の大筋合意、米国を除く11カ国による環太平洋戦略的経済連携協定(TPP11)加入に英国が関心を示していることを歓迎。世界貿易機関WTO)改革で連携を呼びかけた。
 菅首相はまた、北朝鮮による拉致問題で英政府の協力を要請。両首脳は来年の東京五輪パラリンピックに向けて協力することでも一致した。」
   ・   ・   ・   
 日本は、対中国戦略として、アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソン諸国との関係強化が急務で、日米安保条約=日米同盟に次いで新日英同盟が日本を救う。
 戦前の日本の失敗は、ワシントン体制に参加する為に日英同盟を破棄した事である。
 皇室外交の基本戦略は、近隣の中国と韓国・朝鮮との友好関係維持ではなく、イギリス王家とローマ・カトリック教会バチカン)との信頼関係を維持する事である。
 正しい皇室外交を堅持していたのが、親ユダヤ派の昭和天皇であった。
 明治天皇以来日本の皇室は、日本国の発展の為に、日米友好の為に、太平洋の平和の為に、歴代アメリカ大統領に皇室内事情や日本政府の意向を知らせる書簡を送り続けていた。 昔の日本国がアメリカに抱いた脅威とは、アメリカがハワイ王国を併吞しハワイ王家を消滅させたという歴史的事実である。
 親英派の東郷平八郎海軍元帥は、ハワイ王国滅亡を直に見立てただけに危機感を強く持ち、皇室と国と民族を守るのは平時の国際法ではなく、戦時の軍事力であるとして大艦巨砲主義による海軍力強化を推し進めた。
 超弩級戦艦の大和は、超リアリストである東郷平八郎の信念で建造された。
 が、アメリカは中国市場独占の為に中国共産党ファシスト中国を軍事支援して軍国日本を潰した。
   ・   ・   ・   
 9月23日 産経新聞「次期戦闘機開発へ日本と協力呼びかけ 英国防省が寄稿
 英国防省課長のリチャード・バーソン氏(英国防省提供)
 英国の戦闘機タイフーンの退役に伴う次期戦闘機の開発を担当する英国防省課長のリチャード・バーソン氏が23日までに産経新聞に寄稿し、航空自衛隊のF2戦闘機の後継となる次期戦闘機の開発に向けた日英協力を呼びかけ、その意義を強調した。
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 英国は100年以上にわたり世界の空軍を牽引(けんいん)してきた。1941年のターボジェットエンジンや世界初の垂直離着陸戦闘機ハリアーなど、発明と革新において優れた能力を常に発揮してきた。技術面および産業面の専門知識により、ハリアーやトルネード、タイフーン、F-35を含む国際共同開発の成功において、中心的役割を担ってきた。
 英国は次期戦闘機計画で現在、2040年に退役するタイフーンの後継機となる次期戦闘機システム「テンペスト」の決定および実戦配備に取り組んでいる。
 テンペストにおける日本との提携に向けたダイナミックかつ迅速な取り組みは既に好調な日英関係を強化し、全ての産業分野で生じている技術的変化の速度に対応するためのツールや取り組みを発展させる好機になると、英国は考える。日本のF2後継機に関する技術開発に英国が日本と協力的なビジョンを持って取り組めば、両国は戦闘機システム技術の最先端に留まることができるだろう。
 テンペスト開発計画に関する国際協力の一環として、英国は同じ考えを持つ国々を結集させようとしている。この協力関係はわが国の重要な戦闘機部門を持続させ、最高の軍事力を確保し、各提携国の行動の自由を保証するものである。
 英国はこれまでの航空分野への歴史的な投資により国際的に確固たる地位を築いており、世界有数の産業基盤を有している。国際協力の枠組みにおいても大きな成功を収めており、その力を信じている。英国は両国が重視する既に緊密な日英関係を強化し、将来の技術開発においても密接に連携する機会を拡大していきたいと考えている。
 このような協力関係は、両国に(戦闘機の)改修の自由を保証し、重要な技術開発の協働から相互利益をもたらし、最高の技術力を適切な価格で利用できるようにするだろう。英国はこの提携により、既に広範囲にわたり両国の発展に貢献する日英貿易関係の強化を目指している。
 日本は、航空宇宙分野の素材、エンジニアリング、試験、製造およびサプライチェーンにおいて卓越する能力を提供し、英国の産業を補完している。日本は英国と提携することで、産業面および運用面の経験において世界をリードし、高度な製造、材料科学およびシステム統合を手に入れることができる。日本との協力プログラムで開発される技術によって、日英の企業は航空宇宙分野で幅広く提携することができ、この重要分野におけるわれわれの傑出した能力が支えられ、維持されるだろう。
 日本との戦略的協力関係は長期にわたり両国間の関係を強化し、また技術協力を提供することで、非常に能力の高い企業を集結させると確信する。英国は、両国が必要とする改修の自由を互いに認めると同時に、将来のプラットフォームやシステムが米国などの重要な安全保障上のパートナーとの間で相互利用可能になることを保証する、対等な協力関係を構築する絶好の機会と考える。
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 ■F2後継機 航空自衛隊の戦闘機F2(約90機)の退役が令和17(2035)年ごろに始まるのを受けて調達を目指す戦闘機。現在は「次期戦闘機」と呼ばれる。6年度に試作機の製造を始め、17年度の配備開始を目指す。開発は国際協力を視野に日本主導で進め、今年度中に構想設計に着手する。主に空対空戦闘を想定し、高いステルス性や自衛隊内でのネットワーク戦闘能力、米軍との相互運用性が求められる。防衛省は国際協力の相手として、米国、英国と協議を進めており、年内に開発パートナーを選定する方針。」
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 日英関係は、徳川家康が外交顧問として武士に取り立てたイギリス人W・アダムズ(帰化名・三浦按針)から始まる。
 徳川家康の経教分離の経済・金融(銀)政策は、オランダを通じて世界の経済・金融(銀貨)とつながっていた。
 徳川家康は、戦国武将として日々合戦という地獄の中を生き残るだけあって、戦争・政治・土木・経済・外交・教養・学識・宗教など多方面において博学で思慮深く優れていた。
 徳川家は、財力があり身分が高い由緒正しい名門・名家ではなく身分低い地方の貧しい半武士半農の土豪からのし上がった「成り上がり者」である。
 土を耕して農作物を作る点から見れば、武士は兼業農家であり、百姓は専業農家である。
 武士・サムライとは、人を殺す事を生業とする、公に雇われた卑しい身分であった。
 「血と死に塗れる」という点から言えば、人を殺す「殺人専門職」の武士は家禽・獣を殺す事で生きていた賤民や部落民よりも「穢れ」ていた。
 現代日本のグローバル的高学歴出身知的エリートに、徳川家康に匹敵すつような能力・才能、胆力・精神、志・気概を持った日本人はいない。
 歴史力のない日本人には、74歳で死んだ徳川家康を正しく評価できない。
 徳川幕府がイギリスと断交した理由は、ピューリタン革命で臣下の議会が国王を処刑し、新たな国王を傀儡として擁立し国を奪ったからである。
 徳川幕府は戦乱の原因となる、才能ある者が武力で天下を取るという下剋上を嫌った。
 日本民族日本人は、主君や親を裏切って敵側に寝返って攻めてくるのには寛大であったが、主君や親を追放しても構わなかったが、如何なる理由があっても主君や親を殺す事、不忠や親不孝は許さなかった。
 故に、国王殺しを自由と民主主義の勝利とするイギリスと付き合いきれないとして断交し、鎖国を強化した。
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 天皇殺しの蘇我氏を神として祀る宗我坐宗我都比古神社。
 主君・織田信長を殺した明智光秀を神として祀った御霊神社。
 主君殺しや親殺しの日本人の霊魂は、穢れて霊力が強い為に祀らず放置すると怨霊として祟ると恐れ神社を建て神として祀った。
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🌪11¦─1─「日本の尖閣領有正当」「中国に立ち向かえ」米シンクタンク国際会議。─~No.56No.57No.58No.59 ㉑ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本は政治・経済・外交・軍事の面において半人前国家な為に、尖閣諸島・沖縄を中国共産党から守るにはアメリカとアメリカ軍に依存するしかない。
 現代日本人の多数は、中国軍と戦争してまで尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島を死守する覚悟はない。 
 つまり、人が住まない無人島など命を捨ててまで守る価値はない。
 昔の日本人と現代の日本人は別人の日本人であった。
 高杉晋作ら勤皇の志士らは、先祖伝来の土地・小島を外国に奪われる事を阻止した。
 徳川幕府は、蝦夷地・北方領土をロシアの侵略から守る為に東北諸藩に命じて軍隊を派遣した。
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 2020年9月22日10:52 産経新聞尖閣周辺に中国船 16日連続
 尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島沖縄県石垣市鈴木健児撮影)
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で22日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは16日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、領海に近づかないよう巡視船が警告した。
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 9月22日18:53 産経新聞「「日本の尖閣領有正当」「中国に立ち向かえ」米シンクタンク国際会議
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺で中国の公船などが活動を活発化している問題で、マイケル・デュカキス元米マサチューセッツ州知事が主宰するシンクタンク「ボストン・グローバル・フォーラム」は22日までに、オンラインで国際会議を開き、尖閣諸島に対する日本の領有権の正当性を支持した。
 会議には日米印の有識者約30人が参加した。衛藤晟一前領土問題担当相はビデオ演説で、「どこの国も尖閣諸島を支配していないことを確認し、明治28年の閣議決定で領土に組み入れた」と述べ、日本の領有権は国際法上も歴史上も明らかだと主張。中国や台湾が領有権を主張し始めたのは、昭和44年の周辺調査報告書で海底油田の可能性が判明して以降だとした。
 インド政策研究センターのブラーマ・チェラニー教授は「日本は長年、受け身の状態を続けた。中国の謀略に立ち向かい、形勢を逆転しなければならない」と指摘。東海大学山田吉彦教授はビデオ演説で、「日本の施政下にあることを示す環境保護の調査研究施設を作るべき」と提言した。
 藤崎一郎元駐米大使は、日米安全保障条約で米国が尖閣諸島の防衛義務を負うことをオバマ前大統領もトランプ大統領も確認したとしたうえで、「(民主党の)バイデン候補が大統領になっても不変だ」と強調。また、中山泰秀防衛副大臣菅義偉首相について、「保守政治家で、米国と緊密に連携するはずだ」と述べた。(岡部伸)
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 9月23日 産経新聞尖閣周辺に中国船 17日連続
 沖縄県尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島=2012年9月
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で23日、中国海警局の船2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは17日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、領海に近づかないよう巡視船が警告した。
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 9月25日 産経新聞尖閣周辺に中国船 19日連続
 東シナ海上空から見た尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島 =沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で25日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは19日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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🎵31:─4─日比谷焼打事件は日米戦争の遠因である。~No.80 ⑤ 

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 セオドア・ルーズベルト大統領は、日比谷焼討事件の情報を受けて反日派となり、海軍に対して対日戦の準備を急ぐよう命じた。
 アメリカ世論は、ポーツマス条約と日比谷焼討事件反日となり日本人移民排斥運動を始めた。
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 2020年10月2日 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 日露戦争への道
 激闘 日露戦争Ⅱ その⑥
 『日比谷焼打事件』が『大日本帝国破滅への分岐点』と言える理由
 日露講和条約反対を叫んだ近代日本の最大級の民衆暴動『日比谷焼打事件』。
 前回紹介した『世界大百科事典』(平凡社刊)では、この項目の最後に『これは国民とくに都市民衆による拝外主義・膨張主義的行動の全国的あらわれであったが、他面では藩閥専制に対する抵抗運動でもあり、大正デモクラシー運動の出発を意味するものであった』(項目執筆者橋本哲哉)と書いてある。
 じつは、これは日本歴史学界の定説でもあるようだ。その証拠にもう一つの日本を代表する百科事典『日本大百科事典〈ニッポニカ〉』(小学館刊)にも、この事件の評価については『参加者は職工、職人、人足など戦争のしわ寄せをもっとも受けた都市無産大衆で、日比谷焼打事件は一面で排外主義の要素をもつものの、藩閥専制政治に抗した運動であり、この後の大正デモクラシー運動の出発点に位置するといえる』(項目執筆者成田龍一)とある。
 だが、そんな見方に異を唱えるのが小説家にして歴史家でもある司馬遼太郎である。私は前章『激闘 日露戦争Ⅰ』において、司馬の小説『坂の上の雲』に描かれた乃木希典像が実際とは違うと手厳しく批判した。しかしそれはそれとして、司馬がきわめて優秀な歴史家であることは間違い無い。その司馬が、『日比谷焼打事件』こそ近代日本史の分岐点だ、と指摘している。ここは司馬がどうしてそう思ったのか、実際の言葉を引用したい。まず、司馬はこの日比谷焼打事件は江戸時代の一揆とは違い、『政府批判』という『観念』を掲げた『大群衆』によって起こされたものであり、そういう意味では『日本史上最初の現象』であると指摘する。その点は通説と同じだが、そのうえで司馬は次のように言う。

 調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。『国民新聞』をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽(あお)りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集するもの3万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、1時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布(し)かざるをえなくなったほどであった。
 私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に──たとえば参謀本部に──蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
 (『この国のかたち 1』文藝春秋刊)

 『むこう40年の魔の季節』とは、この年1905年(明治38)から1945年(昭和20)まで、まさに参謀本部(陸軍)が主導した満州事変、ノモンハン事件そして大東亜戦争(太平洋戦争)という『国家的妄動』により、この国が大破綻した時期を示している。通常、この事態を招いたのは陸軍(軍部)のまさに『妄動』である、というのが日本人の一般的歴史認識だろう。しかし、その原因がこの日比谷焼打事件であったとする論者は、私の知る限り司馬だけだ。
 かつて司馬は新聞記者だった。にもかかわず、その日本の新聞に対する評価はじつに辛辣(しんらつ)である。

 日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。(中略)日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静さを欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。
 (『坂の上の雲(7)』文藝春秋刊)

 また、こうも言っている。

 新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。
 (引用前掲書)

 言うまでも無く、『このときのこの気分』とは『日本が無敵であるという悲惨な錯覚』であり、これが日比谷焼打事件を起こした『大群衆の熱気』につながったということだが、この指摘がきわめて重要なことはおわかりだろう。司馬の言葉では無いが、俗な表現を使えば『日本を破滅に追い込んだ〝A級戦犯〟は新聞である』ということなのだ。
 たしかに、直接的に日本を破滅に追い込んだのは陸軍参謀本部に代表される軍部であることに間違い無い。司馬もその点を認めている。しかし、その参謀本部の行動の『エネルギー』は、日比谷焼打事件の『大群衆の熱気』によってもたらされた。だからこそ、最大の責任者はその『大群衆の熱気』を『つくりあげた』新聞である。というのである。
 耳を疑う人も多いだろう。だが、私は司馬のこの見解に全面的に同意する。それにしても日比谷焼打事件を『大正デモクラシーの出発点』と見るか、『大日本帝国破滅への分岐点』と見るかでは、天と地のようにまったく正反対な見解に見えるかもしれないが、そうでもない。
 そもそもデモクラシーつまり民主主義(大正時代の日本人はこれを民本主義と訳したが)とは、国家の意思を最終的に国民が決定する政治システムのことだ。そして大日本帝国憲法制定以来、昭和20年の敗戦まで大日本帝国は曲がりなりにも立憲民主制の国家であった。たしかに帝国の終焉を決めたポツダム宣言受諾は昭和天皇の『御聖断』によるものだが、これはきわめて異例の措置であったことは誰もが認めるところである。その大破綻を招いた満州事変から対米戦争へ向かっての一連の国策は、たしかに軍部の主導によって行われたが、軍部は初めから国全体を牛耳(ぎゅうじ)るほどの強い力を持っていたわけでは無い。それは、大正から昭和前期にかけての、まさに『国民が国家意思を決定できる』時代に成立したこと、いや国民が支持して成立させたこと、なのである。アドルフ・ヒトラーの率いるナチスは絶頂期には軍事独裁体制だったが、そもそもそれを許したのは民主的な選挙でナチスに投票し政権を担当させた国民である。それが同じ軍事独裁体制でも北朝鮮とまるで違うところだ。逆に相違点は数多くあるが、国民がその意思で成立させたという点では日本とドイツの事情は同じである、と私は思う。そして日本の場合、国民が軍部の意向を支持するようになったのは新聞の『煽り』が原因なのだから、新聞こそ最大の『戦犯』だということになるわけだ。
 歴史学者たちの根拠無き『錯覚』と『煽り』
 私が『正反対な見解に見るかもしれないが、そうでもない』と述べた理由はおわかりだろう。それにしても、歴史学者の分析のほうが正しいのではないか、と思われる方もいるかもしれない。たしかに、歴史学者というのは歴史の専門家である。それは否定しないが、そうであるがゆえに、残念なことではあるが自『』分たちは森羅万象すべての問題の専門家であると錯覚する人々がいる。素人には読めない『当時の史料』が読めるがゆえに、それが読めない人間を『専門外』だと無視し、そう錯覚するのである。
 ……」
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 日露戦争を日本の侵略戦争と否定する理想的平和主義の現代日本人には、歴史力がなく、歴史が理解できない。
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 戦時の中立宣言には2つの型があり、一つは両陣営に対して一切関わりを持たない協力しない完全型中立、二つ目は好意を向ける陣営に声援を送り敵意を持つ陣営が負ける事を望む不完全型中立である。
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 日本軍が戦うロシアの大軍は、大韓帝国の向こう清国領満州に数多くの大軍事要塞を築いて配備されていた。
 日本は全面戦争にしない為に、ウラジオストック軍港・樺太カムチャツカ半島などロシア本土への直接攻撃を避けた。
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 日露戦争時、反日派の大韓帝国朝鮮人と敵日派の清国・中国人は日英同盟の為に中立を宣言したが、内心は日本軍が完敗する事を願っていた。
 清国は、敗北した日清戦争の復讐としてロシアとの間で対日軍事秘密協定を結び、日本への報復としてロシアに味方して台湾を取り返し日本領琉球を割譲させ日本から賠償金を得ようとしていた。
 大韓帝国は、勝ち馬のロシアに乗って敗戦国日本に積年の恨みを晴らし、日本を朝鮮半島から追い出し、領土割譲と賠償金受領に参加しようとした。
 朝鮮の反日派や親露派は、ロシアの勝利の為に、日本軍の機密情報をロシア軍に知らせていた。
 朝鮮の親日知日の開化派・独立党や清国の革命派は、日本が勝利する為に日本軍に協力していた。
 もし、大韓帝国日英同盟を無視してロシアに味方して日本軍と戦えば、清国も対日戦に参戦した。
 イギリスは、日英同盟があっても、清国と大韓帝国がロシアと連合を組めな日本に味方をすれば、中国の利権を守る事を優先して日本側に立って参戦しなかった。
 フランスとドイツは、イギリスが日本を見捨てて中立を宣言すれば、迷う事なくロシアに味方した。
 アメリカは、世界を相手に戦う日本を見捨てた。
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 日本が連合軍に敗北すれば、戦勝国のロシア・大韓帝国・清国は敗戦国日本に対して賠償金と領土割譲を要求し、フランスやドイツも領土割譲に参加し、アメリカは日本消滅を食い止めに仲介しその見返りとして領土割譲を求め、イギリスも何らかの名目で領土割譲の分け前にありついたであろう。
 その結果、日本は東京・京都・大阪などの本州中央部のみを領有する弱小国に転落した。
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 日露戦争の勝敗を決定付けたのは、日本軍が開戦前に朝鮮を占領し、大韓帝国支配下に置き、親日派政権を樹立し敵対的中立を封じ込めた事である。
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 清国(中国)と大韓帝国は、日英同盟の為に対日戦に参戦しできなかった、ロシアの大勝利という世界の軍事常識を信じて高みの見物を決め込んだ、その愚かさ故に滅亡していった。
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 日本とロシアとの戦争は、江戸時代後期に起きた、ロシア軍艦が蝦夷地や北方領土での海賊行為(文化露寇事件)によって避けられい運命となっていた。
 徳川幕府は、ロシアとの武力衝突に備えて東北諸藩に出兵を命じた。
 ロシアは、日本との交易を求めて使者を派遣しただけであった。
 徳川幕府は、交易を求めてきたロシアに対し、オランダ以外とは交易しない、交易場所は長崎のみ、という「鎖国令の国法」をもって拒絶した。
 祖法である国法を守った日本が悪いのか。 
 軍事力で威嚇するように日本の国法を破ろうとしたロシアが悪いのか。
 現代日本は、当時の世界情勢から開国と交易を求めたロシアが正しいと認め、200年前の国法に固執して開国を拒否した徳川幕府を「世界情勢が理解できない愚か者」として否定している。
 下級武士・貧しい庶民・身分低い民の間で、ロシアの侵略から神国日本を守るべきだという攘夷運動が起き始めた。
 攘夷運動は、武力の過激派と非武力の穏健派に分かれた。
 徳川幕府は、後者の穏健策を採用し、専守防衛強化の為にロシア軍が上陸しそうな沿岸に海防要塞建設を諸藩に命じた。
 率先して戦争支度を始めたのが勤皇激派の水戸徳川藩であった。
 何故、水戸徳川藩が勤皇激派になったのか、それは日本人奴隷交易を容認した中世キリスト教に対する恐怖と激怒であった。
 水戸徳川藩の勤皇激派思想を受け継いだのが、「朝鮮や中国を撃ち取って日本領とせよ」と主張した吉田松陰長州藩尊皇攘夷派であった。
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🎹09:─2─統帥権干犯問題は政治家の劣化と政争の暴走であった。~No.35No.36No.37 ⑥ 

歴史の教訓―「失敗の本質」と国家戦略―(新潮新書)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本には、政治権力と宗教権威と天皇の御威光が三竦みとして存在していた。
 政治権力と宗教権威は、力=軍事と金=経済を源泉とした正当性で取り換え自由であった。
 天皇の御威光は、神聖不可侵の神話に基づいた正統性で一つしかなく消し去れば復活・再生はできなかった。
 ロウソクの昔ながらの灯を消して新しく火を付けても、同じ火に見えても前の灯火とは違うのである。
 つまり、神代の正統と人代の正当は違う。
 歴史力のない現代日本人にはその違いが理解できない。
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2020年7月23日号 週刊新潮「読書万巻
 『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』  兼原信克
 明治維新後の外交史を繙(ひもと)き
 今後の日本外交を展望する
 評者 飯田浩司
 平日毎朝6時からラジオニュース番組のキャスターをしている。様々なニュースを扱う中で特に難しいと思うのが安全保障の議論だ。右派・左派がそれぞれ批判のための批判に終始してしまう。これが戦前から変わらなかったのだと教えられたのが、この『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』だ。
 直近まで外政担当の内閣官房副長官だった筆者が、明治維新以後の外交史を繙き、そこから今後の日本外交を展望する。
 弱肉強食の帝国主義が覆う世界で生き抜くことが当初の目標だった維新後の日本。日清・日露戦争を戦い抜き、列強の一角を占め、アジアで唯一帝国主義列強の勢力争いに参入した。当時の苛烈な人種差別に抗い、肌の色に関係ない平等な国際社会を求めた。今日の国際社会の常識に通ずる先進的な価値観だ。
 ある時点まで人種差別撤廃、民族自決、普遍的な価値を追求していたはずが、どこで間違えたのか。
 著者は、1930年のロンドン海軍軍縮条約調印を巡る統帥権干犯問題こそ日本憲政史上、最大の失敗と言い切る。当時の野党政友会が、この条約の軍縮は陛下の権限である『統帥権を干犯している』として、時の浜口首相を突き上げたのだ。この一連の政局を著者は、《シビリアン・コントロールの一翼を担うべき帝国議会が、こともあろうに軍を野に放つような憲法論を提唱したのである。これほどの愚はない》と厳しく断じている。
 国民の生命を守るにはどうすべきかという安保の議論を政争の具にしたことがかくも禍根を残したとする筆致(ひっち)は鋭く、厳しい。当時の国内世論にも浸透していた軍縮という国際協調に基づく議論を国内の政争の具とした結果、国務(外交)と統帥(軍事)に断絶が起きた。大局的な国益を見据えた外交は望めなくなり、シビリアン・コントロールを失った軍は、次第に暴走していく。
 筆者は集団的自衛権の一部容認を含む平和安全法制にも深く関わっていた。統帥権干犯問題の当時と同じ印象論とレッテルを貼りの議論を前に嘆息(たんそく)していたに違いない。反権力か親権力か、右か左かではなく、何がこの国の生存にとって重要なのか?憲法、他国との同盟、外交、軍事、経済力・・・あらゆる要素を俎上に載せたリアリズムの議論が、今ほど求められる時期はない。
 アジアのパワーバランスが大きく変わる中で、何を柱に日本は生き抜けばいいのか。明治以来の来し方を見ることで行く末を展望する一冊。未来を担う若者にこそ読んでほしい。」
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 レポート ・日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女   
- 日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女 -
  長男家族、次男夫婦と共に3家族7人で2016年12月26日から同月31日まで過ごしたハワイの滞在先のホテルは、シェラトン・プリンセス・カイウラニでした。ワイキキの目抜き通りであるカラカウア大通りのほぼ中央にあります。
 カラカウア大通りを隔てワイキキビーチがすぐという立地の大型ホテルで、その名前は、ハワイ王朝最後の王位後継者となったカイウラニ王女が幼少期を過ごした領地の跡地に建設されたことに由来します。
 ハワイ王国・第7代国王カラカウアの妹・リケリケ王女を母に、スコットランド人を父として1875年に生まれます。生後すぐにカラカウア家へ養女に出され、早くから王家の次世代後継者と目されて、国民的人気も高かったですが、1899年、23歳で死去。
 アメリカと在ハワイ米国人による政経両面に渡る圧力に悩まされていたカラカウア国王は、1881年来日して明治天皇と会談した際、姪のカイウラニ山階宮定麿王との縁談を申し込みます。
 当時、山階宮定麿王13歳、カイウラニ5歳でした。この縁談によってハワイ王室と日本の皇室との結びつきを強くして、ハワイを併合しようとするアメリカの動きを抑え、ハワイ王国の存続を考えていたとされます。
 しかし、明治天皇は『国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない』として断りました。これは、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府の意図があったことによります。
 カイウラニ13歳の1889年、カラカウア王の指示でイギリスに留学しますが、1891年にカラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死。王の妹のリリウオカラニ(カイウラニの叔母)が女王として即位すると、子供に恵まれなかったリリウオカラニ女王はカイウラニを王位継承権第1位に指名しました。
 1893年、渡英4年が過ぎカイウラニが17歳になったとき、ハワイでは欧米系住民によるクーデターが起こりハワイ王国が滅亡します。カイウラニはすぐにアメリ東海岸に渡り、グロバー・クリーブランドアメリカ大統領との面談に成功し、クーデターの不当性とを徹底調査を訴えました。
 このとき、ニューヨーク港では、『野蛮なハワイ人の娘』が嘆願にやってくるらしいと新聞記者たちが待ち構えますが、カイウラニが現れるとそのたぐいまれな美貌とヨーロッパ仕込みの洗練された姿と感動的なスピーチに、記者たちは度肝を抜かれたといわれます。
 ハワイに対するイメージは一新し、ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になり、大統領も徹底調査する約束をしました。アメリカ調査団はクーデターを不当とし、リリウオカラニ女王に一度は政権が戻されますが、欧米系住民はそれをはねのけ、1893年ハワイ共和国を設立。鎮圧されたリリウオカラニは反逆罪で逮捕され、8ヶ月にわたってオラニ宮殿に幽閉されます。
 22歳になった1897年、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。ホノルル港は黒山の出迎えたそうです。しかし、1898年にアメリカは急遽ハワイを併合。そして、翌1899年、カイウラニは友人と乗馬を楽しんでいる途中嵐に遭い、風邪をこじらせ、23歳の若さでこの世を去りました。
 彼女が亡くなった時、彼女が飼っていたクジャクがいっせいに鳴き叫び、何羽かが鳴きやまず、あまりの騒音にやむを得ず、その何羽かを処分しなければならないほどだったそうです。
 【参考にしたサイト】
 (1)カイウラニ - Wikipedia
 (2)ハワイの神話と伝説 カイウラニ王女(1)
 (3)ハワイの神話と伝説 カイウラニ王女(2)
 (4)カイウラニ王女 美貌のハワイ王国最期の王位継承者 &映画
  「プリンセス・カイウラニ
 (5)シェラトン・プリンセス・カイウラニ - プリンセスカイウラニの歴史
 2017.01.27
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 明治14年、1881年。
 日清戦争、明治27(1894)年8月~明治28年4月。
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 ウィキペディア
 艦隊派とは、大日本帝国海軍内の派閥。
 第一は明治期の山本権兵衛を中心とする本省派に対抗するものであり、第二は昭和期の軍縮条約に賛成する条約派に対抗するものである。
 
 反条約派
 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。中心人物は、伏見宮博恭王加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎をシンボルとして擁立した。
 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。定義によっては日独伊三国同盟推進派や対米開戦強硬派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバー(石川信吾・神重徳など)を含めることもある。他に艦隊派とされる者に小林省三郎、真崎勝次、山下知彦、加来止男、小笠原長生、千坂智次郎、南郷次郎がおり、秦郁彦は有馬良橘、戸塚道太郎も艦隊派としている。
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 東郷 平八郎(弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位勲位大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。

 日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。
 山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している。

 ハワイでのクーデターに際して
 明治26年1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。 女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。

 晩年
 第一次世界大戦後の海軍軍縮において、末次信正や加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型である。その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。
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 統帥権とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことをいう。
 概要
 大日本帝国憲法第11条に定められていた、天皇大権のひとつで、陸軍や海軍への統帥の権能を指す。その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権能である。これらは陸軍では陸軍大臣参謀総長に、海軍では海軍大臣軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長軍令部総長は軍令権を担った。
 狭い意味では、天皇が軍事の専門家である参謀総長軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさす。
 明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていた。
 この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生する。
 なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(元勲・藩閥)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川の戦いで戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたことなどがあげられる。
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 世界史の窓
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 ロンドン会議/ロンドン軍縮会議/ロンドン海軍軍縮会議
 1930年、ワシントン会議に続く海軍軍縮のための国際会議。米英日三国間の補助艦の比率をほぼ10:10:7と定めた。1936年に期限切れとなった。
 1930年1月~4月、ワシントン海軍軍備制限条約の期限が切れたためその更新と、補助艦の制限問題について開催された会議。補助艦とは巡洋艦駆逐艦、潜水艦のこと。その制限については、1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議を開催したが、仏・伊は参加を拒否し、英・米の意見が対立したため、失敗していたので、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5ヶ国が参加した改めて話し合うこととなった。会議はイギリスのマクドナルドが提唱し、日本は若槻礼次郎首席全権、海軍大臣財部彪らが参加した。ロンドンのイギリス議会議事堂で開催された会議は難航したが、補助艦と主力艦を切り離した次の合意が成立した。
 ロンドン海軍軍縮条約
 補助艦制限について英と仏・伊が対立、仏・伊は途中で脱落したため、米・英・日の三国で協定が成立し、米・英10に対して日本は約7(6.97)の比率とすることが定められた。有効期限は1936年までとされた。
 主力艦については5ヵ国が建造停止を5年間(1936年まで)延長することで合意し、さらに米・英・日は主力艦を15隻・15隻・9隻に削減することで合意した。
 当時すでに前年に世界恐慌が始まり、三国とも軍事費削減が迫られていたので話し合いがまとまったのであるが、イギリスと日本では対アメリカの比率で不満が大きかった。
 日本の統帥権干犯問題
 ロンドン海軍軍縮条約が難航の末、合意されたことは、日本政府の良識ある妥協として国際社会では高く評価された。また、軍備拡張が財政を圧迫していた日本では、財界や国民一般にも支持する意見が多かった。しかし、軍部(特に海軍)・右翼は浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相の国際協調外交を「軟弱外交」であるとして強く非難した。彼らが持ちだしたのが、いわゆる統帥権干犯問題であった。統帥権とは天皇のもつ軍事統制権であり、それを執行するのが軍であるから、政府が軍備について外国と協定を結ぶことはそれを犯すものであるという主張である。文民統制シビリアンコントロールを全面否定するこの論理に、政府・国民も反撃できないでいるうちに、調印を強行した浜口首相が右翼によって狙撃される事件が起きた。
 このような情勢を背景に、日本軍は政府の統制を離れて独自の行動を強め、翌1931年9月の柳条湖事件を契機として満州事変をおこし、一気に日中戦争へと向かっていくこととなった。
 海軍休日の終わり
 1922年に成立したワシントン海軍軍備制限条約によって、第一次世界大戦前の建艦競争が終わり、軍縮の時代に向かったことは、「海軍休日(または建艦休日)」といわれ、国際協調の理念の証ともされた。1930年のロンドン海軍軍備制限条約は、世界恐慌で苦しむ各国の経済安定を回復するものとして評価された。
 しかし、1930年代にドイツにファシズム、日本にも国家主義軍国主義が急速に台頭した。日本は1935年にロンドン軍縮会議からの離脱を決定、1936年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり、軍縮時代は終わりを告げた。
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 外務省
 14.閣議決定「倫敦海軍会議帝国全権委員ニ対スル訓電案」(1930年4月1日)
 〔解説〕
 日米英3カ国はワシントン会議において、主力艦の保有量制限と10年間の主力艦製造休止を決定しましたが、その後、各国が補助艦の建設を増加させたことから、その制限を目的として1930年(昭和5年)1月21日に、ロンドン海軍軍縮会議が開催されました。
 日本側は当初、「攻撃には不十分、防御には十分」な数量を保持するためとして、対米7割の原則的要求(ただし比率数字は明示せず)を掲げていました。しかし、ロンドンでのアメリカとの協議の結果、日本が重視していた大型巡洋艦の対米比率は6割2厘に止まったものの、巡洋艦駆逐艦、潜水艦を合計した総トン数の総括的な対米比率を6割9分7厘5毛とするなどの日米妥協案が成立し、会議全権は4名連名で妥協案受入れを政府に請訓しました。この妥協案に海軍軍令部は軍事的見地から反対しましたが、浜口雄幸首相は大局的見地から受け入れを決意し、4月1日に日米妥協案を基礎とする訓電案を閣議決定しました。その結果、同月22日に「1930年ロンドン海軍条約」が成立しました。
 しかしその後、本条約の批准をめぐって日本国内では、軍令部の反対を無視して政府が兵力量を決定したのは天皇統帥権を干犯するものであるとの議論(いわゆる「統帥権干犯問題」)が高まりました。とりわけ、条約批准前の枢密院での審査では、伊東巳代治顧問官を筆頭に枢密院側が統帥権干犯を問題として政府を厳しく追及しました。浜口首相や幣原外相が妥協することなく正面からこれを論駁した結果、枢密院側は態度を軟化させ、10月2日に本条約は批准されましたが、この海軍軍縮問題は幣原外交に対する批判や不満を表出させることになりました。当時の新聞報道は、「国際協調といふも実体は追随外交」との見出しを付けたうえで、「幣原外交の無能さにはぼう然たらざるを得ない」とする枢密院顧問官の意見を紹介しています。また、11月14日には、海軍軍縮条約に不満を持つ青年に浜口首相が狙撃されるという事件が起き、幣原が臨時内閣総理大臣に就任しましたが、ロンドン海軍条約に関する幣原の議会発言が失言問題として議会の混乱を招くなど、幣原外交に対する風当たりはいっそう強まっていました。
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 統帥権とは、軍部・軍隊を私利私欲で権力闘争を繰り返す政治家の政争の道具にさせない為の大権であった。
 天皇主権の正当性は、伊藤博文が作成した欽定憲法明治憲法が認めている。
 伊藤博文は、徳川幕府を倒して明治新政府を樹立したという歴史を教訓として、天皇主権が暴走しないように明治憲法を足枷として歯止め、天皇の大権が悪用されないように法律で制約した。
 それが、「国務大臣天皇を補弼し其の責に任ず」である。
 伊藤博文ら元勲は、現実主義者として、旧佐幕派武士や庶民・国民を信用していなかった。
 統帥権は、大日本国憲法第11条に基ずく政府から切り離された天皇の大権=軍隊の最高指揮権で、陸軍参謀総長と海軍軍令部部長は政治家・官僚の命令ではなく大元帥天皇の命令のみに従った。
 統帥権とは、政治家のクロムウェルヒトラースターリン毛沢東そして軍人のナポレオン、ムッソリーニフランコのような国民に支持された独裁者が国家転覆と天皇位簒奪・天皇殺害をしないようにする為の法的拘束であった。
 統帥権干犯問題は、軍人ではなく政治家・学者・メディアが政権交替の政治闘争(政争)として悪用した。
 軍隊は政権を持った者の自由にできとなれば、右翼・右派が政権を取れば市民白色軍隊となりに、左翼・左派が政権を取れば人民赤色軍隊となる。
 保守的将校団が左右の何れかの政権の軍隊に成り下がる事に反対すれば、軍事クーデターが起きる。
 つまり、国家は、中南米諸国やアジア・アフリカ諸国の様に政府と反政府、権力・権威と反権力・反権威、主流と反主流、保守と革新、宗教と反宗教、正統と異端、政党と軍部と資本家などの諸勢力で四分五裂となってまとまりがなくなり騒乱が起きる。
 ロシア皇帝一家惨殺のロシア暴力的共産主義革命は、共産党が合法的暴力機関である軍隊・警察・情報機関を支配したから成功した。
 伊藤博文ら元勲の失敗とは、庶民=国民を軍隊、兵学校、海軍大学・陸軍大学でいたぶりながら厳しく軍事教育・軍事教練をしても江戸時代の武士のような教養ある職業軍人に成長しなかった事である。
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 明治維新の原因は、江戸時代末期に起きたロシアの日本侵略騒動=ロシア軍艦の海賊行為=文化露寇事件であった。
 近代天皇制度中央集権体制による軍国主義化は、ロシアの侵略から島国日本を軍事力で守る為であった。
 弱兵の小国日本にとって深刻な問題は、北の軍事大国ロシアとの防衛戦争時、西の老大国清国(中国)とその属国朝鮮が敵になるか味方になるかであった。
 歴史の教訓として、統一新羅による貞観の入寇と寛平の韓寇、大陸北方騎馬民族による刀伊の入寇、中国・高麗軍による元寇朝鮮軍による応永の外寇などから、中国・朝鮮はロシアに加勢し敵となって日本を襲ってくる恐れがあった。
 日本は、1000年以上昔から被害者であって加害者で、弱小者として復讐・報復を行わず泣き寝入りを続けていた。
 中国と朝鮮は、古代から反日・敵日であって、親日・知日であったことがない。
 朝鮮における、古朝鮮百済高句麗・古新羅渤海の諸王朝は親日・知日で、統一新羅・高麗・李氏朝鮮=朝鮮・大韓帝国の諸王朝は反日・敵日であった。
 日本は、天皇に忠誠を誓い日本国の為に武器を持って戦う有能な半島系大陸系の帰化人を受け入れていた。
 天皇に忠誠を誓わず自分の利益の為に行動する半島系渡来人達は、母国の内政に影響を受けながら日本国内で反乱・暴動を起こしていた。
 日本人が、朝鮮人を嫌い差別し遠ざけようとしたのには理由がある。
 日本人にとって朝鮮人とは、落ちぶれて貧乏になっても助けてくれる心許せる親友にはならず、一緒に死ぬ事を覚悟して武器を取って戦ってくれる心強い戦友にはならない、という事である。
 それは、中国人でも同様である。
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 日本海軍がアメリアを敵として艦隊の増強を進めた原因は、アメリカによるハワイ王国の滅亡とアメリカ人移民によるハワイの植民地化・保護領化・自国領化であった。
 そして、アメリカがフィリピンを植民地として、味方したフィリピン独立派数十万人を野蛮人として虐殺した事である。
 海軍力で日本の安全を脅かす存在はアメリカであった。
 当時、イギリスも旧植民地であったアメリカを仮想敵国の一つと見なしていた。
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 イギリスは、ハワイがインドや中国から遠く離れた太平洋の中央にあり、友好関係にあったハワイ王家から救援要請をアメリカとの戦争を避ける為に拒否し、アメリカによるハワイ王国への傍若無人の振る舞いに抗議せず黙認し、ハワイ王国の消滅を黙認した。
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 アメリカは専制君主制を否定する共和制原理主義から、軍事力を用いてハワイ王国を滅亡させ、ハワイ王家を廃止し、ハワイから非白人非キリスト教非西洋文明などを完全消去し、移民を増やしてアメリカ流に大改造した。
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 日本国は、ハワイ王国の深刻な状況を理解していたが、ロシアの侵略から日本を守る事が最優先課題であった為に、アメリカに対する太平洋諸国の共同防衛同盟を見送った。
 明治天皇は、アメリカとハワイ王国の紛争に日本が巻き込まれる事を避けるべく、ハワイ王家からの婚姻要請を丁重に断った。
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 東郷平八郎は、アメリカのハワイ王国侵略を現地で直に見てきただけに、領土拡大の為なら国際法を踏みにじって公然と暴力を行使するアメリカを信用していなかった。
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 理想的平和に生きる現代の日本人は、力(軍事力・暴力)だけが正義という超現実の中で生きていた昔の日本人とは違って、絶えず変化する国際情勢に基ずく地政学が理解できず、美辞麗句が並ぶ国際法の裏に潜むおぞましさい実態が見えない。
 つまり、現代日本人のグローバルは表面の薄皮に過ぎず、その内面のローカルは融解し消えかかっている。
 現代の日本人は、弱肉強食の非情で残酷な国際社会で生きる活力は弱い。
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 日本の庶民は、武士が嫌悪するほどにえげつく、あくどく、イジメ・意地悪・嫌がらせ、非情・非道・薄情・冷血・冷酷・冷淡、差別で性根が腐っていた。
 潔く、清く、正しく、素直、正直などは無縁であった。
 合戦があれば、山の上や河原の反対側の安全な場所で高みの見物として宴会しながら観戦した。
 合戦が終わった戦場に駆け出し、死んだ兵士の刀や鎧、衣服から褌にいたるまで全てを剥ぎ取って裸にして大きな穴に放り込み、奪った物を売って金に換えた。
 瀕死で助かりそうもない地位の低い武士は殺し、金になりそうな地位の高い武士は助けて家に帰した。
 負けて逃げた武士を落ち武者狩りで追い詰め嬲り殺し、切り取った首を勝った側に持ち込んで褒美を貰った。
 戦で荒廃し秩序をなくした村に乱取りをかけ、逃げ遅れた女や子供を捕まえて奴隷として売って金を稼いだ。
 奴隷に売られた日本人は、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に買われ海外に輸出された。
 おらが家とムラはあっても、共同体を形成するアイデンティティーは弱く、日本国も日本民族などはなかった。
 突き詰めれば、自分一人だけであった。
 あくどい手段で金を集めた者は、金に困っている武士に高利で貸して儲けていた。
 1つ施すと2つも3つも要求し、多くを与えると働かずに怠けてさらに多くを要求し、やらなくなると約束が違うと激怒して一揆を起こして奪っていく。
 日本の庶民は、世界の人民・大衆・民衆、市民・国民とは違っていた。
 それ故に、日本にはキリスト教共産主義も広まらず根付かなかった。
 徳川家康は武士の世を築き安泰にするべく儒教を利用して、生かさず殺さず、由(よ)らしむべし知らしむべからず、親しくならず突き放す、油断せず警戒を怠らない、で庶民から活力を奪い逆らう意欲を封じ込めた。
 日本の庶民は、徳川幕府人間性否定の儒教政策で改造され洗脳されてしまった。
 物事を忘れやすい日本人は、昔の庶民が行った人倫にももとるえげつない悪事の数々を綺麗サッパリ忘れ、自分には関係ない事で、自分は素直で真面目で働き者であると信じている。
 日本人が信じている事を裏返しにすれば、日本人の本性が見えてくる。
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 現代日本人は、武士・サムライ、庶民ではなく、武士・サムライ、庶民の子孫でもなく、単に外見上での日本国民日本人という人間に過ぎない。
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